第1章3 【 静かに壊れる安全圏 】
白い部屋。
広く、無機質。
病院と研究所の悪いところを足して、感情を引いたような空間。
「ここが”安全圏”です」
一ノ瀬はそう言って、部屋の中央を指した。
床には円形のライン。
壁にはガラス越しの別室。
天井には……見なかったことにしよう。
「……実験室、ですよね」
「安全な場所です」
そんなこと言ったところで、安心感は増えない。むしろ心配が増えた。
「まず確認します」
一ノ瀬は、淡々と説明を始める。
「この部屋では、外部からの能力干渉は完全に遮断されています。
あなたが何をしても、何も起きません」
「……それ、普通じゃないですか?」
「能力者の場合は違います」
俺は円の中に立たされる。
「心拍、正常。
脳波、安定。
異常反応なし」
ガラス越しに誰かが読み上げている。
……ほら見ろ。
やっぱり俺は普通だ。能力者じゃない。
「次、簡易刺激を与えます」
「簡易って、どのくらいですか?」
「日常生活で起きうる範囲です」
「……日常生活の範囲、ね」
嫌な言い方だ。
照明が少し暗くなる。
スピーカーから、低い音が流れ始める。
地鳴りみたいな振動。
どこかで聞いたことがある。
「……あー、はいはい」
交差点のときの音だ。
これを日常生活の範囲と言い張るのもどうかと思うが。
まあ、今は何も怖くないし、足も動く。
心臓もうるさいままだ。
「……何も起きませんね」
「ええ」
一ノ瀬は頷く。
「想定通りです」
次は映像。
壁一面に、街の映像が映し出される。
逃げ惑う人。
歪む空間。
悲鳴。
――再現映像らしい。
「……趣味悪い映像ですね」
「記憶刺激用ですので」
「そういえば許されると思ってません?」
軽口を叩ける余裕はある。
「心拍、上昇。
反応は……無しです」
「そうですか」
ほらな。
「つまり」
俺は、少しだけ肩の力を抜いた。
「勘違いだったってことで」
「いいえ」
一ノ瀬は即答した。
「刺激が”足りません”」
足りない?まだこれ以上の刺激を与えると?
「あなた、まだ余裕そうですからね」
そう言って、にやりと笑う。
……この女、サディストだろ。
「安全だと理解している。逃げられるのも分かっている。失うものが、何もない」
淡々と、でも確実に。
「だから、発動しない」
ガラス越しのスタッフが、何か確認する。
「……次の階段へ移行します」
一ノ瀬は、俺を見る。
「え、ちょっと待って」
「大丈夫です。安全性は確認済みです」
「その言葉、昨日も聞いた気がするんですけど」
返事は無し。
――カチリ。
小さな音がした。
それと同時に、円の外側がゆっくりと沈んだ。
「……あれ?」
床が下がっている。
段差ができる。
円の内側だけが、取り残される。
「隔離解除」
スピーカーから、無機質な声。
「ちょっ、一ノ瀬さん?」
彼女はこちらを見ている。
「安全圏は、あなたが立っている”そこ”だけです」
嫌な予感が、急に現実味を帯びる。
「周囲は?」
「非安全圏です」
……冗談だろ?
「……何をするんですか?」
「何も」
何もないわけないだろ。俺は心の中でそう叫んだ。
その瞬間。
円の外側で、空気が揺れた。
交差点で見たのと、同じ歪み。
いや――少しだけ小さい。
不完全。
でも、確実に。
「これは確認ですので」
一ノ瀬の声色は変わらない。
「あなたが”逃げられる”と思っている間は、何も起きません」
歪みが少しずつ、確実に近づいてくる。
距離は数メートル。
足は動く。
円の中なら逃げられる。
――まだ、大丈夫。
でも。
もしこれが近づいたら?
もし、逃げ場がなくなったら?
もし――
一ノ瀬が微笑む。
「さあ、どうします?」
心臓が強く脈打つ。
ああ、そうか。
「能力を発動しないと、あなたは」
俺は――
「「確実に死ぬ」」




