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死神騎士団長に求婚されました ~私、死んでないんですけど~

 私が死にかけたのは、二十三歳の冬のことだった。


 名前はリーネ。王都の外れで小さな薬屋を営む、平民の薬師だ。

 両親はすでに亡く、天涯孤独の身。

 それでも、薬草を育て、薬を調合し、細々と暮らしていた。


 その日は、珍しい薬草を求めて森の奥に入った。

 冬の森は危険だと分かっていたが、病気の子供を助けるために必要な薬草だった。


 結果——


 私は崖から足を踏み外し、谷底へ落ちた。


 意識が戻った時、私は白い空間にいた。


 ここは——どこ?


 周囲には何もない。

 ただ、白い霧のようなものが漂っている。


「目覚めたか」


 低い声が、背後から聞こえた。


 振り返ると——


 黒い鎧を纏った、長身の男が立っていた。


 漆黒の髪に、金色の瞳。

 整った顔立ちだが、どこか人間離れした美しさがある。


 そして——彼の周りには、不思議なオーラが漂っていた。


「あなたは……?」

「死神騎士団の団長、ヴァルハルトだ」

「死神……騎士団?」

「死者の魂を導く者たちの組織だ。私はその長を務めている」


 死神。

 つまり——


「私、死んだんですか……?」

「完全には死んでいない。お前の体は、まだ生きている」

「じゃあ、なぜここに……」

「お前の魂が、一時的に体から離れた。いわゆる——臨死体験というものだ」


 臨死体験。

 つまり、死にかけているけど、まだ死んでいない状態。


「でも、どうして私の前に死神様が……」

「お前の魂が美しかったからだ」


 ヴァルハルトの金色の瞳が、私を真っ直ぐ見つめた。


「私は千年以上、死者の魂を見てきた。しかし——お前ほど美しい魂は、見たことがない」

「え……」

「透明で、純粋で、温かい。まるで——冬の朝日のようだ」


 彼は私に近づき、手を伸ばした。


「リーネ」

「な、なぜ私の名前を……」

「魂を見れば、分かる」


 ヴァルハルトの指が、私の頬に触れた。

 冷たい——けれど、不思議と怖くない。


「私の花嫁になれ」

「……は?」

「死後、私の妻として冥界で暮らせ。永遠に、私の傍にいろ」


 ——プロポーズ?


 死神様から?


 私が混乱していると——


 突然、体が引っ張られる感覚がした。


「な、何——」

「……魂が体に戻ろうとしている。お前は、まだ死ぬべきではないらしい」


 ヴァルハルトの表情が、わずかに翳った。


「待て、リーネ。私は——」


 彼の声は、途中で途切れた。


 そして——私は目を覚ました。


 目を開けると、見知らぬ天井があった。


「おお、目が覚めたか!」


 老人の声が聞こえた。


「ここは……?」

「森の近くの村じゃ。お前さん、崖から落ちて倒れておったぞ」

「私、助かったんですか……」

「奇跡じゃな。普通なら死んでおるところじゃ」


 私は体を起こした。

 全身が痛むが、致命傷はないようだ。


 あれは——夢だったのだろうか。


 死神騎士団長、ヴァルハルト。

 「私の花嫁になれ」という言葉。


 夢にしては、やけにリアルだった。


 数日後、私は王都の自宅に戻った。


 薬屋を再開し、いつもの日常に戻る。

 あの体験は、やはり夢だったのだろう。

 臨死体験で見た幻覚——そう思うことにした。


 しかし——


 ある夜のこと。


 私が薬草の調合をしていると——


「久しぶりだな、リーネ」


 低い声が、背後から聞こえた。


 振り返ると——


 あの男が、そこにいた。


 漆黒の髪、金色の瞳。

 黒い鎧を纏った、死神騎士団長。


「ヴァ、ヴァルハルト様……!?」

「覚えていたか。光栄だ」

「な、なぜここに!? あなたは死神では——」

「死神でも、現世に来ることはできる。少し面倒だがな」


 ヴァルハルトは、私に近づいてきた。


「あの時の返事を聞きに来た」

「返事……」

「私の花嫁になるかどうか、だ」


 私は混乱した。


「で、でも、私は死んでいません!」

「知っている」

「死神様の花嫁になるには、死ななければならないのでは……」

「そうだな。普通なら」


 ヴァルハルトの金色の瞳が、私を見つめた。


「だが、私は気にしない」

「……は?」

「お前が生きていようと死んでいようと、私はお前を妻にしたい」


 ——待って。

 それ、おかしくない?


「で、でも、私は人間で、あなたは死神で——」

「些細な問題だ」

「些細……?」

「お前が死ぬまで待てばいい。人間の寿命など、私にとっては一瞬だ」


 ヴァルハルトは、私の手を取った。


「だから——私と婚約しろ、リーネ」

「婚約って……現世で、ですか?」

「そうだ。お前が死ぬまでの間、私はお前の婚約者として傍にいる」


 何を言っているんだ、この死神様は。


「あの、仕事とかは……」

「死神騎士団の仕事は、部下に任せた」

「部下に……千年以上やってきた仕事を……?」

「お前の方が大事だ」


 ヴァルハルトは、真顔だった。


 冗談を言っているようには見えない。


「私は……」

「断ると言うなら、諦めない」


 彼の声は、穏やかだが——揺るぎない意志を感じた。


「千年でも万年でも、お前が『はい』と言うまで待つ」


 ——この人、本気だ。


 結局、私はヴァルハルトを追い返すことができなかった。


 彼は私の家に住み着き——いわゆる同居生活が始まった。


「ヴァルハルト様、それ何をしているんですか」

「お前の朝食を作っている」

「死神様が料理を……?」

「千年生きれば、大抵のことはできるようになる」


 彼が作った朝食は——驚くほど美味しかった。


「……美味しい」

「そうか。良かった」


 ヴァルハルトは、満足そうに頷いた。


 彼は——見た目は恐ろしいが——意外にも家庭的だった。


 料理ができる。

 掃除もできる。

 洗濯も、庭の手入れも。


「ヴァルハルト様、なぜそんなに家事ができるんですか」

「冥界で一人暮らしをしていたからな」

「一人暮らし……死神様が?」

「死神騎士団の団長は、孤独だ。妻も家族もいなかった」


 ヴァルハルトの表情が、少し翳った。


「だから——お前を見つけた時、嬉しかった」

「……」

「ようやく、私の伴侶になる者が現れたと思った」


 彼の金色の瞳が、私を見つめた。


「だから——絶対に、離さない」


 その言葉は——脅迫のはずなのに——なぜか、胸が熱くなった。


 同居生活は、思ったより穏やかだった。


 ヴァルハルトは、私に優しかった。

 料理を作り、家事を手伝い、薬草の採取にも付き合ってくれた。


「この薬草は珍しいな」

「はい、解熱作用があるんです」

「なるほど。お前は、人を救う仕事をしているのだな」

「小さな仕事ですけど……」

「小さくはない。命を救う仕事だ」


 ヴァルハルトは、私の仕事を尊重してくれた。


「私は死を司る者。お前は生を守る者。正反対だな」

「そうですね……」

「だが、それでいい。お前は、私にないものを持っている」


 彼の手が、私の頭を撫でた。


「お前の温かさが——私には眩しい」


 その言葉に——私の心は、少しずつ動いていった。


 ある日、薬屋に客が来た。


「リーネさん、風邪薬をいただけますか」


 近所に住む青年、クラウス。

 昔から私のことを「姉さん」のように慕ってくれていた。


「はい、これをどうぞ。お大事に」

「ありがとうございます。あの……リーネさん、最近誰かと暮らしてるんですか?」

「え……」

「黒い服の男の人を見かけたんですけど」


 クラウスの表情が、少し曇っていた。


「あ、あれは……その……」

「リーネ」


 低い声が、奥から聞こえた。


 ヴァルハルトが、台所から出てきた。


「昼食の準備ができた」

「あ、はい。すみません、少し待って——」

「この男は誰だ」


 ヴァルハルトの金色の瞳が、クラウスを見つめた。


「え、あの、僕は近所に住んでるクラウスで——」

「近所の人間か」

「は、はい……」


 ヴァルハルトの視線は、冷たかった。


「リーネに何か用か」

「風邪薬を買いに来ただけです……」

「なら、用は済んだな。早く帰れ」


 ——ヴァルハルト様、怖すぎる。


「あ、は、はい! お大事に——じゃなくて、失礼します!」


 クラウスは慌てて店を出ていった。


「……ヴァルハルト様、あれはちょっと……」

「何だ」

「お客さんですよ? もう少し優しくしてください」

「必要ない」


 彼は私の腕を取り、引き寄せた。


「お前に近づく男は、全員敵だ」

「え……」

「特に——お前を『姉さん』のように見ている男は、信用できない」

「聞こえてたんですか……」

「当然だ。お前のことは、常に見ている」


 ヴァルハルトの独占欲は——想像以上に強かった。


「あの子は昔からの知り合いで、そういう関係じゃ——」

「分かっている」


 彼の声が、少し柔らかくなった。


「分かっているが——気に入らないものは気に入らない」

「……」

「お前は、私だけのものだ」


 ヴァルハルトの手が、私の頬を包んだ。


「誰にも渡さない」


 その言葉は——不思議と、嬉しかった。


 夜。

 私たちは、暖炉の前で過ごしていた。


「ヴァルハルト様」

「なんだ」

「冥界って、寒いんですか?」

「いや、温度という概念がほとんどない。死者に体温はないからな」


 彼は火を見つめながら答えた。


「だから——お前の温かさが、新鮮なんだ」

「私の……温かさ?」

「ああ」


 ヴァルハルトが、私の手を取った。


「こうして触れると——温かい」

「……」

「千年ぶりに、『生きている』と感じる」


 彼の金色の瞳が、私を見つめた。


「お前がいてくれて——良かった」


 私は——彼の手を握り返した。


「私も——ヴァルハルト様がいてくれて、良かったです」


 二人で過ごす夜は——とても、穏やかだった。


 ある日、病気の子供が薬屋を訪ねてきた。


「リーネさん、お母さんが具合悪いの……」

「分かったわ。すぐ行きましょう」


 私は薬箱を持って、子供の家に向かった。


 母親は——高熱で苦しんでいた。

 このままでは、命が危ない。


「ヴァルハルト様、この方は……」


 私は振り返ったが——ヴァルハルトは、静かに立っていた。


「あと三日だ」

「……え?」

「この女性の寿命は、あと三日」


 彼の声は、冷静だった。


「私は死神だ。人の寿命が見える」


 私は愕然とした。


「だ、だったら——助けてください!」

「無理だ。死神は、寿命を変えることはできない」

「でも——」

「それが、死神の掟だ」


 ヴァルハルトの表情は、苦しそうだった。


「私も——できることなら、助けたい」

「……」

「お前の悲しむ顔は、見たくない。だが——」


 彼は目を閉じた。


「死神には、死神のルールがある。それを破れば——私は消滅する」


 私は、彼の言葉を受け止めた。


 死神にも、限界がある。

 何でもできるわけではない。


「……分かりました」

「リーネ……」

「でも、私は薬師です。最後まで諦めません」


 私は、持っている全ての知識を使って薬を調合した。


 三日間、眠らずに看病した。

 ヴァルハルトは、黙って私を支えてくれた。


 そして——三日目の朝。


「熱が……下がった……」


 母親は、目を覚ました。


「お母さん!」

「……あれ、私……生きてる……?」


 私は信じられない思いで、彼女の脈を確認した。


 生きている。

 彼女は、生きている。


「ヴァルハルト様、寿命が——」

「……変わった」


 彼も、驚いた表情をしていた。


「あと六十年に伸びている。なぜだ……」

「分かりません。でも——」


 私は涙を流した。


「良かった……本当に、良かった……」


 ヴァルハルトは、静かに私を抱きしめた。


「お前が——寿命を変えたのか」

「私が……?」

「お前の想いが、この女性の運命を動かした。そうとしか考えられない」


 彼の声は、震えていた。


「お前は——本当に、特別な魂だ」


 あの出来事から、私とヴァルハルトの関係は——少しだけ変わった。


 彼は、以前より優しくなった。

 そして——以前より、近づいてくるようになった。


「リーネ」

「はい?」

「寒くないか」


 彼のマントが、私の肩にかけられた。


「あ、ありがとうございます……」

「風邪を引かれては困る」


 ヴァルハルトの手が、私の髪を撫でた。


「お前の健康が、私の幸せだ」


 彼の金色の瞳が、優しく細められた。


「だから——無理をするな」


 私の心臓が、大きく跳ねた。


 ある日、ヴァルハルトが珍しく提案してきた。


「リーネ、今日は薬屋を休め」

「え? 急に何ですか?」

「お前と——出かけたい」

「出かける……?」

「人間の言葉で言うなら——デート、というやつだ」


 死神様がデートという言葉を使うなんて。

 私は思わず笑ってしまった。


「何がおかしい」

「いえ、ヴァルハルト様がデートって言うのが可愛くて……」

「可愛い……」


 彼の表情が、少し拗ねたものになった。


「私は千年生きている。可愛いという言葉は似合わない」

「でも、可愛いです」

「……お前は、私をからかうのが好きだな」

「少しだけ」


 結局、私たちは王都の市場へ出かけた。


 ヴァルハルトは黒い鎧を脱ぎ、普通の黒い服を着ていた。

 それでも長身で美しい彼は、とても目立った。


「あのお兄さん、素敵……」

「どこの貴族様かしら」

「でも、隣の女性——薬屋のリーネさんじゃない?」


 周囲の視線が、私たちに集まる。


「……目立ちすぎです、ヴァルハルト様」

「仕方がないだろう。私の姿は、変えられない」

「もう少し地味な格好とか——」

「これでも地味にしたつもりだ」


 死神様の「地味」は、人間の感覚とは違うらしい。


 市場を歩きながら、私たちは色々なものを見て回った。


「これは何だ」

「焼き菓子ですよ」

「食べたいか」

「え、別に——」

「買おう」


 ヴァルハルトは、店主に金貨を渡した。


「こ、金貨!? お客様、これでは多すぎますよ!」

「釣りはいらない」

「でも——」

「彼女が欲しいものだ。値段など関係ない」


 店主は困惑しながらも、焼き菓子を包んでくれた。


「……ヴァルハルト様、お金の感覚がおかしいです」

「千年生きていると、金の価値が分からなくなる」

「分かってください」

「お前が喜ぶなら、問題ないだろう」

「問題はあります……」


 しかし——彼の気持ちは、嬉しかった。


 市場の外れで、アクセサリーの露店を見つけた。


「これは……」

「どうした」

「いえ、この指輪——綺麗だなと思って」


 銀の指輪だった。

 小さな青い石がはめ込まれている。


「これをくれ」

「え、いいですよ! 高いかもしれませんし——」

「いくらだ」

「銀貨三枚でございます」


 ヴァルハルトは、無言で銀貨を取り出した。


「……あれ、今日はちゃんと払うんですね」

「お前がうるさいからな」

「うるさいって……」

「『お金の感覚がおかしい』と何度も言われた」

「だって本当のことですし……」

「だから直した」


 彼は淡々と銀貨三枚を置いた。


 ——学習能力があるんだ、この死神様。


「でも」

「でも?」

「この露店を丸ごと買い取ろうかと思った」

「やめてください!」


 結局、指輪だけが買われた。

 ……危なかった。


「リーネ」

「はい……」

「手を出せ」


 ヴァルハルトが、私の左手の薬指に——指輪をはめた。


「っ——」

「これで——お前は私のものだと、誰にでも分かる」

「こ、これ……婚約指輪みたいです……」

「婚約指輪だ」

「え」

「お前は、私の婚約者だろう。ならば、指輪があって当然だ」


 彼の金色の瞳が、真剣に私を見つめていた。


「嫌か」

「……いいえ」


 私は——指輪を見つめた。


 銀の輝きが、太陽の光を反射している。


「嬉しいです」


 ヴァルハルトの表情が——わずかに、柔らかくなった。


「そうか。——良かった」


 その夜、私たちは暖炉の前で過ごした。


「ヴァルハルト様」

「なんだ」

「昔の話を——聞いてもいいですか」

「……何が知りたい」

「どうして死神騎士団の団長になったんですか」


 ヴァルハルトは、しばらく黙っていた。


「……私は、元々人間だった」

「え……」

「千年以上前——戦場で死んだ」


 彼の声は、静かだった。


「死後、私の魂は冥界に導かれた。そこで——死神としての資質を見出された」

「資質……」

「魂を見る力。死者を導く力。——そして、何よりも——」


 彼の金色の瞳が、私を見つめた。


「孤独に耐える力」

「……」

「死神は、孤独な存在だ。生者とも死者とも、真に繋がることはできない」


 ヴァルハルトの声は、少し寂しげだった。


「だから——千年間、一人だった」

「ヴァルハルト様……」

「だが——お前に出会って、変わった」


 彼の手が、私の手を握った。


「お前は——私の孤独を、終わらせてくれた」


 その言葉に——私の心は、大きく震えた。


 ある夜、私は彼に聞いた。


「ヴァルハルト様は——なぜ、私なんですか」

「なぜとは?」

「死神様なら、もっと綺麗な人とか、身分の高い人とか——選び放題でしょう」

「選ばない」


 彼は即答した。


「私が欲しいのは、お前だけだ」

「でも——」

「リーネ」


 ヴァルハルトが、私の前に跪いた。


「私は千年以上生きてきた。その間、誰かを欲しいと思ったことは一度もなかった」

「……」

「冥界で一人、死者の魂を導く日々。それは——孤独だった」


 彼の金色の瞳が、揺れていた。


「だが、お前に出会って——初めて、『誰かの傍にいたい』と思った」

「ヴァルハルト様……」

「お前の魂が美しかったから、惹かれた——そう言った。それは本当だ」


 彼の手が、私の頬に触れた。


「だが、今は違う」

「違う……?」

「今は——お前自身を、愛している」


 その言葉に——私の目から、涙が溢れた。


「魂だけではない。お前の優しさ、強さ、温かさ——全部を愛している」

「……っ」

「だから——私の花嫁になってくれ。生きている間も、死んだ後も——ずっと、私の傍にいてくれ」


 私は——涙を拭いながら——彼を見つめた。


「私でいいんですか……」

「お前がいい」

「死神様の花嫁なんて、務まるか分かりません」

「構わない。お前がいてくれれば、それでいい」


 ヴァルハルトは、私の手を取った。


「返事を——聞かせてくれ」


 私は——深く息を吸った。


 そして——


「はい」


 そう、答えた。


「私——ヴァルハルト様の花嫁になります」


 彼の表情が——初めて見るほど——柔らかくなった。


「……ありがとう、リーネ」


 ヴァルハルトは、私を抱きしめた。


 冷たいはずの体が——今は、温かく感じた。


 婚約から数週間後、私は冥界を訪れることになった。


「冥界に行くんですか……?」

「ああ。お前を、死神騎士団に紹介したい」

「紹介……」

「私の花嫁だと、正式に認めてもらう必要がある」


 私は緊張しながら、ヴァルハルトと共に冥界へ向かった。


 冥界は——思っていたより、静かで美しい場所だった。


 灰色の空、銀色の花、黒い城。

 不思議と、怖さは感じなかった。


「ヴァルハルト様、お帰りなさいませ」


 黒い鎧を着た騎士たちが、整列していた。


 死神騎士団——ヴァルハルトの部下たちだ。


「久しぶりだな。紹介する。私の婚約者、リーネだ」


 騎士たちが、一斉に私を見た。


「人間……ですか?」

「生きている人間が、団長の婚約者?」

「前代未聞ですね……」


 ざわめきが広がる。


 私は不安になったが——ヴァルハルトが、私の手を握った。


「リーネは、私が選んだ女性だ。文句のある者はいるか」


 彼の声は、冷たく鋭かった。


 騎士たちは、一斉に跪いた。


「ありません、団長」

「リーネ様を、歓迎いたします」

「団長が選ばれた方なら、我々に異論はございません」


 私は、ほっと胸を撫で下ろした。


「ありがとうございます……」

「礼を言う必要はない。お前は、私の花嫁だ。誰にも文句は言わせない」


 ヴァルハルトは、私の手を離さなかった。


 冥界での挨拶を終え、私たちは現世に戻った。


「疲れたか」

「少しだけ……」

「無理をさせたな。すまない」

「いえ、大丈夫です」


 私は微笑んだ。


「ヴァルハルト様の世界を見ることができて、嬉しかったです」

「……そうか」


 彼の表情が、少し緩んだ。


「なら——良かった」


 ヴァルハルトは、私を自宅まで送ってくれた。


「リーネ」

「はい?」

「今日——お前を、もっと好きになった」

「え……」

「私の世界を受け入れてくれた。それが——嬉しかった」


 彼の手が、私の頬を包んだ。


「ありがとう」


 ヴァルハルトは——私の額に、キスをした。


「っ——!」

「……休め。また明日、会いに来る」


 彼は静かに去っていった。


 私は——心臓を押さえながら——その背中を見送った。


 死神騎士団長、ヴァルハルト。

 怖い見た目だけど、本当は優しい人。


 私は——彼を、心から愛していると気づいた。


 あれから一年が経った。


 私は相変わらず薬屋を営み、ヴァルハルトは相変わらず私の傍にいた。


「リーネ、今日の夕食は何がいい」

「何でも大丈夫ですよ」

「ならば、お前の好きな煮込み料理にしよう」

「ありがとうございます」


 死神様が作る煮込み料理は、相変わらず絶品だった。


 私たちの生活は、穏やかで幸せだった。


 ある日、ヴァルハルトが改まった表情で言った。


「リーネ、話がある」

「はい?」

「正式に——結婚式を挙げたい」


 私は驚いた。


「結婚式……ですか?」

「ああ。冥界と現世、両方で」

「両方で?」

「現世では人間として、冥界では死神の妻として——二回、式を挙げたい」


 彼の金色の瞳が、真剣に私を見つめていた。


「お前との絆を、誰にでも分かる形で示したい」

「……」

「嫌か?」

「いいえ」


 私は微笑んだ。


「嬉しいです。ぜひ」


 ヴァルハルトの表情が、ぱっと明るくなった。


「……ありがとう」


 彼は私を抱きしめた。


「お前と出会えて——本当に良かった」

「私もです」

「死にかけてくれて、ありがとう」

「それは複雑な気持ちですけど……」


 私たちは、笑い合った。


 結婚式は——盛大に行われた。


 まず、現世での結婚式。


 王都の小さな教会で、ささやかな式を挙げた。

 参列者は、近所の人々と、薬屋の常連客たち。


 その中に——クラウスの姿もあった。


「リーネさん、ご結婚おめでとうございます」

「クラウス、来てくれたの」

「もちろんです。昔から姉さんみたいに思ってましたから」


 ヴァルハルトが、じろりとクラウスを見た。


「……『姉さん』、か」

「あ、いえ、本当に姉みたいな存在で——」

「分かっている」


 彼の声は、以前より穏やかだった。


「お前が来てくれて、リーネは喜んでいる。——礼を言う」

「え……」


 クラウスは驚いた顔をした。


「あの怖かった人が、普通に喋ってる……」

「うるさい」

「すみません!」


 私は思わず笑った。


 ——ヴァルハルト様も、少しは人間に慣れたらしい。


 私は白いドレスを着た。

 ヴァルハルトは——珍しく、黒い鎧ではなく、白い礼服を着ていた。


「……似合うな」

「ヴァルハルト様も、白い服が似合いますね」

「普段は着ない」

「今日は特別ですから」

「ああ。今日は——特別だ」


 彼の金色の瞳が、優しく細められた。


 神父の前で、私たちは誓いを交わした。


「汝、リーネは、ヴァルハルトを夫として、生涯愛することを誓いますか」

「誓います」

「汝、ヴァルハルトは、リーネを妻として、生涯愛することを誓いますか」

「誓う。——いや、生涯どころか、永遠に」


 神父は困惑した顔をしたが——私は笑った。


「彼らしいです」

「……では、誓いの口づけを」


 ヴァルハルトが、私の顔を両手で包んだ。


 そして——唇が、触れ合った。


 冷たいはずなのに——温かい。


 拍手が鳴り響く中、私たちは——正式に、夫婦になった。


 次に、冥界での結婚式。


 死神騎士団の城で、盛大な儀式が行われた。


 参列者は、死神騎士団の全員と、冥界の貴族たち。

 私は黒いドレスを着た。冥界の花嫁衣装らしい。


「リーネ様、とてもお美しいです」

「団長が羨ましい限りです」

「どうか、団長を幸せにしてあげてください」


 騎士たちが、口々に祝福してくれた。


 ヴァルハルトは——正装の黒い鎧を身にまとい——私を待っていた。


「来たか」

「はい」

「……美しい」


 彼の声は、震えていた。


「お前が——私の妻になる」

「はい」

「夢のようだ」


 冥界の神官が、儀式を執り行った。


「死神騎士団長ヴァルハルトは、リーネを永遠の伴侶として迎え入れますか」

「迎え入れる」

「リーネは、ヴァルハルトの永遠の伴侶となることを受け入れますか」

「受け入れます」


 私たちは、冥界の伝統に従い——魂の誓いを交わした。


 これで——生きている間も、死んだ後も——私たちは、永遠に夫婦だ。


 結婚初夜。


 私たちは、薬屋の二階——私の寝室にいた。


 月明かりが、窓から差し込んでいる。

 ヴァルハルトの銀色の髪が、淡く光っていた。


「緊張しているか」

「少しだけ……」

「無理はしなくていい」


 ヴァルハルトの手が、私の頬を撫でた。


「お前のペースでいい。千年でも待つ」

「千年は待たせません……」


 私は——彼の胸に手を置いた。


「今夜——ちゃんと、妻になりたいです」


 ヴァルハルトの瞳が、熱を帯びた。


「……いいのか」

「はい」

「後悔するなよ」

「しません」


 彼の腕が、私を抱き寄せた。


 唇が重なった。

 深く、熱い口づけ。


 彼の舌が、私の唇をなぞる。

 息が乱れる。

 心臓が、激しく鳴っている。


「ん……っ」

「……可愛い声だな」

「か、可愛くないです……」

「可愛い」


 彼の手が、私の背中を撫でる。

 ドレスの紐が、するりと解かれる。


 肩から生地が滑り落ちた。


「……綺麗だ」

「見ないで……」

「見る。お前は、私の妻だ」


 ヴァルハルトの指が、私の鎖骨をなぞった。


 くすぐったい——けれど、嫌じゃない。


「リーネ」

「はい……」

「お前の体は——温かいな」


 彼の唇が、私の首筋に触れた。


「あ……っ」

「人間の体温は、こんなに温かいのか」

「ヴァルハルト様……」

「……もっと、触れていいか」


 私は——小さく頷いた。


 彼の手が、私の体を優しく撫でる。

 まるで宝物を扱うかのように、丁寧に。


「壊れそうで——怖い」

「壊れません……」

「だが、傷つけたくない」

「大丈夫です……信じてください」


 私は、彼の頬に手を当てた。


 冷たい——けれど、今夜は少しだけ温かい気がした。


「私は——ヴァルハルト様の妻ですから」


 彼の表情が——崩れた。


「……リーネ」

「はい」

「愛している」


 その言葉と共に——彼の体が、私に重なった。


 月明かりの下、私たちは——一つになった。


 冷たいはずの死神の体が——今夜は、どこよりも温かかった。


「これで——お前は永遠に、私のものだ」


 ヴァルハルトは、私の手に口づけした。


「生きている間も、死んだ後も——ずっと、一緒だ」

「はい」


 私は、彼の手を握り返した。


「ずっと、一緒です」


 死神騎士団長に求婚されてから、二年が経った。


 私は今も、薬屋を営んでいる。

 ヴァルハルトは、相変わらず私の傍にいる。


 時々、冥界で死神騎士団の仕事を手伝う。

 時々、現世で病人の看病をする。


 二つの世界を行き来する生活は——不思議だけど、幸せだ。


「リーネ」

「はい?」

「愛している」


 ヴァルハルトは、何度も何度も、その言葉を口にする。


 最初は恥ずかしかったけれど——今は、素直に受け止められる。


「私も、愛しています」


 死神様の花嫁になるなんて、考えたこともなかった。

 でも——今は、これで良かったと思っている。


 彼と出会えて、本当に良かった。


「ヴァルハルト様」

「なんだ」

「私が死んだら——ちゃんと迎えに来てくださいね」

「当然だ」


 彼は、私を抱きしめた。


「お前の魂は、私だけのものだ。誰にも渡さない」

「ふふ、独占欲、強いですね」

「お前相手だけだ」

「嬉しいです」


 私は、彼の胸に顔を埋めた。


 冷たいはずの体は——今は、とても温かい。


 これが——永遠の愛というものなのかもしれない。


 死神騎士団長に求婚されて——


 私は、世界で一番幸せな花嫁になった。


【完】


【作者からのお願い】

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