8.フクロウが飛んでゆく
数日後、相変らずの淀んだ空と濁った空気に包まれた、薄暗い路地にある文妖堂の店内には、周囲の環境とは全く異なる明るさが充満していた。
「どうどう? ふぐっち見てよこれ。やっぱ付ける人が付けると輝きも一味違ったものになると思わなーい?」
明るさの中心にいるのはコンコだ。先の病院火災の日を最後に、一連の呪いの連鎖は終息し、コンコは、元の平穏な日々を取り戻した希少本のコレクターから、報酬のゴッホの手紙初版本を貰い受けることが出来た。予想より二割近く高値で売れたため、懐はホクホクだ。早速購入した趣味の悪いルビーのイヤリングを、頼んでもいないのに文車妖妃に見せびらかしに来ている。姿こそ人間だが、舞い上がり切っているせいか、尻尾がドレスからはみ出してしまっている。
「んーこの貧乏くさいえぐみ。たまらんのう」
きゃぴきゃぴはしゃぐコンコの頭上には、もう一人の明るさの源がいた。梁にしがみつきながら、天井の味を堪能しているなめさんだ。余程文妖堂の天井が気に入っているらしく、恍惚の表情で舌鼓を打っている。
二つの明るさが上から下から文妖堂を陽気にしている中、一人仏頂面で陰気になっているのは文車妖妃だ。報酬であるゴッホの手紙初版本の味は申し分ないものだった。そんじょそこらの本では絶対に味わえない血のしたたる汗臭い濃厚な文章は、怪我を負ったり焼かれそうになったり腐肉まみれになったり……と被った数々の災難を、一瞬で打ち消すほどの美味であった。
舌と目に残る味の余韻を楽しみつつ、のんびり昼寝でもしようかとまどろんでいたら、この二人の襲撃である。うっとおしいことこの上ない。文車妖妃の機嫌は急転直下で悪くなってしまった。
コンコは身を乗り出して、正直なところ全然似合っていないイヤリングを自慢げに見せびらかし続けているし、なめさんが動くたびに天井からはほこりが落ちてくるし、ぼたぼたと唾液まで滴り落ちてくるのだからたまったものではない。
今すぐにでも叩き出したいが、二人は――特になめさん――は、今回の依頼の功労者だ。ゴッホの手紙初版本の妙味にありつけたのは、この二人のおかげでもある。そんな二人を無下にはできない。それぐらいの礼節は、いくら半ば隠遁の身であれどわきまえているつもりだ。しかしだからこそ、怒るに怒れないこの状況は、文車妖妃には非常に歯がゆい。
濃厚だったゴッホの手紙初版本の口直しにと、あっさりとした星新一の文庫をつまんでいたというのに、苛立ちのせいですっかりえぐくなってしまった。
「ねえちゃーん」
とそこへ、弥奈が小走りで駈け込んで来た。
「はいはい」
渋い顔ながらも声色は優しく文車妖妃は返事をし、「どうだった?」と尋ねた。
すると弥奈は、顔を目いっぱい輝かせて言った。
「すっごく美味しかった!」
笑みで上がる口元には、甘そうな白いクリームが付いていた。
「そう。よかったわね」
文車妖妃はそっけなく言うと、文庫を懐にしまい込みながら店の外へ出た。
「あれ? ねえちゃんどこいくの?」
「店ん中うるさいから避難するの。弥奈、あんた店番頼むわ。もしそいつらが本汚したり破いたりしたら……遠慮はいらないからね」
弥奈は一瞬キョトンとした後、したり顔で敬礼のポーズをとった。
使い古したぞうりを履き、仄暗い路地を歩きながら文車妖妃は、狭い狭い異ヲの空を見上げた。そしてどこで本の続きを読もうかと色々考えを巡らせた。
その時。
ほう、ほう。
どこからともなく、フクロウの鳴き声がした――ような気がした。文車妖妃は一度立ち止まったが、すぐにまた歩き出した。そしてその音が聞こえてきた方角を見もせずに、一人、昏い路地の奥へと消えていった。
とっぷりと日が暮れた夜半の異ヲの街。その中を疾駆する一台の黒い高級車があった。たっぷりと排気ガスをまき散らして進むその車のボディは、この街のビル街よろしく黒光りしている。
この街の住民の裕福度合いを示す指標の一つに、車の汚れ具合がある。もし車を外に駐車させた場合、一時間足らずで、車は煤煙や埃などによって物の見事に汚れてしまう。つまり、いつもピカピカの綺麗な車に乗っている者は、屋根のある駐車場を持ち、外出のたびに清掃してくれる者がおり、且つ自分より貧しい者たちを見下したいという欲求を持つ者、ということになる。これら全ての条件に当てはまる者は数少ない。
車内の様子は黒張りのドアガラスによって確認することはできないが、断続的にぽうっとオレンジ色の光が現れている。しばらくしてその光が現れなくなった頃、ドアガラスがわずかに下にスライドし、上の隙間から吸い終わったタバコが投げ捨てられた。その隙間から、一見穏やかそうで、しかし冷たく鋭い眼光を放つ目が、一瞬だけ覗いた。
車内のオーディオからは、往年の洋学のヒット曲が陽気に流れている。白い手袋をはめ、制帽を被り、きっちりとした黒いスーツを着込んだ運転手の後ろ、後部座席に腰かけているのは市長だった。
カシャ、シュボ。
と、いつものようにジッポライターを弄る。先ほど吸った高価な煙草は、普段吸えば絶品のはずなのだが、今日に限っては安物以下の代物に成り下がっていた。
市長は脳裏で悪態をついた。あの癪にさわる古本女についてだ。この数年隠ぺいしてきた真実を、下等な妖怪女に知られてしまうとは。
確かに、あの古本女本人が言ったように、この街においては人間の地位は絶対的に妖怪より上だ。市の議会を糾弾するつもりはないと本人は言っていたが、相手は妖怪だ。何百余年以上に渡って、人間をかどわかし脅かし、時には食糧にまでしてきた奴らだ。信用なんてできるわけがない。あの時はたわいない要求だったが、今後それがエスカレートしないという保証はどこにもない。証拠は隠滅したが、あの古本女は“知って”いる。カードはあちらが握っているのだ。カード自体は弱い。しかし、時と場合によっては、非常に厄介なものへと変貌するだろう。
「君、便所掃除ってしたことあるかい?」
唐突に市長が運転手に問うた。等の運転手はかなり困惑した様子で「はい」と答えた。
「なら解るね。使用してるうちに次第に厭な臭いがトイレ中に広まってくる。消臭剤とか芳香剤とかを使って、一応臭いは薄まるが、消えることはない。臭いを消すには、排水管の奥にこびり付いたクソを取り除かないといけないんだよ」
「はあ……」
「厄介な臭みは、元から絶たなけりゃ、意味がないよね」
そう言って市長はにたりと笑った。
その時だった。オーディオから流れていた音楽が、突如やかましいノイズへと変わった。聞いていた曲がお気に入りだったこともあり、市長は舌打ちをした。
「すいません」
運転手は謝って、ラジオの周波数を調節するが、一考にノイズは消える気配がない。それどころか、徐々に音量を増してきている。
「なんだよこれっ……」
運転手が焦りの声を上げる。すると、
「うおっ」
運転手共々、後部座席の市長が前方へつんのめった。突然車が急停車したからだ。
「君、なにやっとるんだ!」
罵声を浴びせかける市長。しかし運転手は、
「何もやっておりませんっ。勝手に停まったんですっ。くそっ……どうして……っ」
運転手は必死に車のエンジンをかけ直そうとするが、うんともすんとも動かない。
その時市長は、事の異常さを理解した。ヘッドライトが消えている。車内のありとあらゆる明かりも消えている。今や光源は、車外の外灯だけだ。自分たちがどこに停車しているのか、全く見当がつかない。そして何より、最も異常なことは、ラジオだけが今だにノイズを発しているということだ。
市長は自身の身体が怖気立つのを感じた。久しく感じていなかった恐怖だ。
「さては、あいつらの復讐だな」
こんな奇怪な芸当は、十中八九妖怪の仕業だ。どうせあの古本女と、それと一緒につるんでいた狐が、仕返しとこんなナメた真似を仕掛けてきたに違いない。丁度いい。これでこちらに、処分する大義名分が出来上がった。今に見ていろ。
息巻く市長であったが、その心の昂りは、長くは続かなかった。ラジオからのノイズが段々と消えてゆき、代わりに一つの音が、次第に明瞭になりつつ市長の耳に飛び込んできたからだ。
あぁぁあんあん。
赤ん坊の泣き声だ。
近くを通る車は一台もいない。人の話し声も聞こえない。街中どこにいても聞こえるはずの工場の音さえも聞こえない。完全な沈黙の中、赤ん坊の泣き声だけが、昏い車内を埋め尽くしてゆく。
いつしか市長の体は、小刻みに震えていた。
徐々に赤ん坊の泣き声が大きくなってゆく。まるでこちらに近づいてくるかのように。
市長は弾かれるようにドアのハンドルに手をやった。しかし、
「おい! いい加減にしろ」
一向にドアは開かない。ロックは解除されているにもかかわらず。
「君、早く何とかしたまえ!」
半ば金切り声で運転手に怒鳴る市長。だが、
「おい君! 君!」
手を伸ばし肩を掴んで揺さぶっても、運転手は何も言わない。振り返りもしない。
ほう。
「ひぃっ!」
降ってわいた鳴き声に、市長は悲鳴を上げ、身体をひっこめた。その衝撃で車全体が揺れ、運転手の制帽が落ちた。
またしても、市長は悲鳴を上げた。しかし今度は、声帯を潰さんばかりの、ほとんど絶叫に近いものだった。
運転手の頭部の、上半分が無かった。かつて脳があった場所に、それはいた――まるでそこを棲みかにしているかのように、一羽のフクロウが。
フクロウはその大きく深遠な瞳で市長を睨みつけると、翼を大きく広げ、凄まじい勢いで市長の顔面に襲い掛かった。必死に抵抗する市長だったが、呆気なくフクロウの鋭いくちばしは、市長の左目をついばんでしまった。
絶叫を上げる市長。
そして、その絶叫が合図であったかのように、車内の隙間という隙間から、腐った肉と骨をまとった赤ん坊が、続々と這い出してきた。市長は残った右目でその光景を見るや否や、完全に狂乱状態に陥り手足をばたつかせたが、赤ん坊たちはそんな抵抗などどこ吹く風。瞬く間に市長の全身にまとわりつき始めた。
何かが引きちぎられる音と、何かがへし折られる音、そして何かを咀嚼する音が生まれた。
ぎしぎしと激しく車が揺れる。だが、次第にその揺れは小さくなってゆき、遂に止まった。
それから数分後。車のヘッドライトが再び点灯した。エンジンがかかり、車内のライトも復活し、オーディオからは陽気な音楽が流れ始めた。だが、出発しない。
黒塗りのドアガラスの内側には、滴り落ちる液体にまみれた小さい何かが無数にへばりついている。そのドアガラスが、モーター音と共に徐々に下へと降りてゆく。そして、全てが降り切った時、車内から何かがにゅっと外へ突き出てきた。
それは、血にまみれた人間の骨だった。外に出た反動で頸椎が外れ、頭蓋骨が地面に落ち、ころころと転がった。
頭蓋骨は、仰向けの状態で止まった。
暗い暗い異ヲの空。その暗闇に紛れて、一羽のフクロウが、どこか遠くへと飛び去ってゆく。
頭蓋骨の眼窩に残った右目が、その様子をいつまでも見つめていた。
了




