6.痾ジの森
翌日の夕方、警察署の入り口前で、一匹の狐がへばっていた。コンコである。常日頃、手入れを欠かさぬ優美な毛並みと出所不明な根拠不明な自信は哀れにも消え失せて、両耳は垂れ、尻尾はしなだれている。
「頼まれても抱いてやんねぇ、頼まれても抱いてやんねぇ……」
引きつった口の端から、こんな言葉を漏らし続けている。さながら呪詛である。
コンコが警察から受けた仕打ちは、いっそ清々しいほど、あらかじめコンコが予想していた通りだった。
ゲジゲジの足の数より多い前科のせいで、警察に信用なんてまるっきしないなんてことは解り切っていた。それが原因で、必要以上に長い取り調べを受ける羽目になるだろう、と覚悟もできていた。
しかしまさか、現在警察が取扱い中の全詐欺事件についての関与を、ご丁寧に一件一件追及されるとは思わなかった。幸福と不幸が同時にコンコに訪れた。その中に、コンコが関わっている事件は一つもなかったことが幸運であり、無関係だったために最後の一件までしつっこく、決してタイプでない男刑事と面を突きあわせる羽目になったことが不運であった。
ほぼ丸一日取調室に軟禁状態だったため、コンコの自慢の毛並みは、無残にもゴワゴワになってしまっていた。
「もうっ、世界が嫉妬する毛並み帰せっつーの。早く帰ってトリートメントしたいわぁ。……ねぇあんたたち、判るわよねぇ? 私が今心でどんなことを望んでるか」
前脚で痛んだ頭の毛並みをいじりつつ、コンコは目の前に立ち並んでいる文車妖妃と弥奈の二人に話しかけた。
「ごめんだけどシャンプーは後回しにして欲しいのよ」
あっけらかんと文車妖妃は言った。コンコは両前脚を口元にやり、「おっ、乙女の命を、何だと思ってっ……」と唸り声と一緒に言った。
「あんたの乙女の命は無駄にはしないわよ。実はね……」
「あによ」
「今のコンコにしかぁ、どーしても頼めない用事がぁ、出来ちゃってねぇ」
微妙に猫なで声な文車妖妃に、思わずわずかにコンコは後ずさる。この文車妖妃、一応常識人(妖怪)の範疇にいるのだが、時折とんでもないことを投げかけてくる。その兆候が、今まさにコンコの目の前で披露されている、上手いんだか下手なんだかよく判らない微妙なぶりっ子だ。
これまでの経験を踏まえて、確実に言えることはたった一つ。
承認したらロクな目に遭わない。
「こ、と、わ、――」
「<毛羽毛現>御用達の毛染め!」
る……の言葉は、口から出る寸前でコンコの中へ引っ込んだ。
「ふぐっち、それホント?」
「贈呈。……今んところ予定だけどね」
全身が毛で出来ている毛羽毛現の毛染めは、この街のいわゆるセレブの間で密かに流通していると言われているプレミアもので、妖怪にとっては、数年貯金してやっと手に入るといった具合の金額だ。が、目の前の文車妖妃は、暮らしこそ貧乏だが、その人脈の広さは折り紙付きである。知り合いに毛羽毛現がいても不思議ではない。
コンコは腹を決めた。
悲しいかなコンコの中の乙女は、どうしようもないほど乙女だった。
「予定を確定にしたろうじゃん。ふぐっち、何でも申し付けてくれてオーケーよ」
「じゃあ早速だけど――」
「助けてぇ! も、もう産まれそうなのよ! 早く開けて、開けてったらぁ!」
必死の形相で声を張り上げつつ、緊急搬入口の扉をバシバシ叩いているのはコンコだ。
その様子を、駐車場を取り囲むフェンスの向こう側の、茂みの中に隠れつつ見守るのは、文車妖妃と弥奈の二人だ。
「さすがオカマって感じね。そん所そこらの女よりよっぽど女らしいわ」
「女なのに女らしいって?」
小首をかしげる弥奈。
「そのうち判るようになるから。弥奈、ほら、もうちょっとかがんで」
「うん」
二人は息を殺して、コンコの“名演技”を見守る。背後には痾ジの森が、誘惑的な闇を作りだしている。
痾ジの森を成しているのはほとんどトウヒの木々である。ここのトウヒは、倒木を苗床として育つ“倒木更新”を行っているため、数本がまとまった状態で生えている。その為、この痾ジの森は昼間でも夕方並に暗く、さらに地に繁茂する大量の苔によって、常に空気は湿り地面はぬかるみ、“根上がり”を起こした根だけが地面に無数に残っている。
外観、環境、雰囲気、どれをとっても、妖怪にとってはこの上なく快適に住まうことが出来る、理想郷と言っても決して過言ではない土地である、いや、だった。
理想郷を過去のものにしてしまった元凶こそ、今コンコが潜入しようとしている、『異ヲ第三総合病院』である。痾ジの森のおよそ三分の二もの敷地を拓いて建てられたその無機質な建造物は、痾ジの森から闇を無慈悲に追いやってしまっていた。
「急に産気づいちゃったのよ! お願い赤ちゃんを助けてぇ!」
泣き叫ぶコンコ。その姿は人間の女性で、腹部が極端に膨張している。
妊婦に化けて病院内に侵入し、地下があったら怪しい場所を徹底的に調べよ――これが、文車妖妃がコンコに与えた任務だった。美容院や映画館等で特別割引サービスを受けるために、これまで何度も妊婦に化けたことのあるコンコである。その完成度は折り紙付きだ。
わめきつつ、コンコは不思議に思っていた。警察署前で文車妖妃は、妊婦に化けろと言った。この病院に産婦人科があることを、あらかじめ文車妖妃は知っていたのだろうか。いや、それはありえない。他の異ヲの街の病院と同じく、ここも『Human Only』のプレートが、搬入口のガラスに描かれているし、そもそも文車妖妃の身体の傷は病院では治療できない。
文車妖妃は何かを隠している。それも、この事件の真相に関わる何かを、だ。まるで自分が、『シャーロック・ホームズ』のワトソンになったような気がしてきて、コンコはそこそこ不愉快になった。
そのまま三分ほど搬入口でわめき続けていると、ようやく数人の医者と看護師が駆け込んできた。コンコをストレッチャーに乗せると、医者は周りの看護師にあれやこれやと口やかましく指示を始めた。
ガラガラと車輪のやかましい音が耳へ、ストレッチャーの揺れが背中へと伝わってくる。コンコの視界には、下方に流れる天井と照明、そしてこちらをしきりに覗き込んでくる医者と看護師の顔しか見えない。時折感じるドンッという強い衝撃は、ストレッチャーがドアを押し開いた音だろう。
へぇーこうやって出産の準備をするのねぇ。仰向けのまま廊下を滑りつつコンコは、男である自分が、疑似的ではあるが、妊婦の体験ができていることに、少し感動していた。
いくつかのドンッという衝撃の後、コンコの視界は、明らかにそれまでとは異なる質の照明を捉えた。天井もデザインも全く違っており、金属製のものを動かしているガチャガチャという音がひっきりなしに聞こえている。
ここが分娩室に違いない。
そう判断した瞬間、コンコは懐から小型のきんちゃく袋を取り出すと、天井に向かって思いっきり投げ放った。
巾着袋は天井にぶつかって破れ、中身の粉末が辺り一面に散らばった。医師たちはほんの一瞬「何だっ」と慌てた様子を見せたものの、すぐに大人しくなった。
コンコが起き上がった。膨れた腹そのままで。コンコは茫然自失状態にある医師と看護師の目の前に、順番に顔を突き出し、聞き取れない言葉をささやいた。
コンコがストレッチャーから飛び降りるとほぼ同時に、医師たちは動き始めた。
「消毒の準備をして」
「血圧、上百七十、下百五」
「呼吸を合わせてください、ひっ、ひっ、ふー」
医師たちは誰もいないストレッチャーに向かって、ありもしない機械を操作しながら、分娩の準備をし始めた。
コンコはしてやったりとニヤリと笑うと、悠々と分娩室を出て行った。やはり人間を化かすのは気持ちいい。
出っ張った腹をポンと叩く。すると風船の空気が抜けるように、見る見るうちにしぼんで元の大きさに戻った。コンコはお得意の忍び足で、音もなく廊下を素早く移動する。時間帯が功を奏して、見かける人間は看護師数人だけで、見つからないようやり過ごすのは、造作もないことだった。
コンコは更衣室を見つけると、すかさず忍び込んだ。ドアに鍵がかかっていたが、社会的によろしくない技術は山ほど持っているコンコである。髪の毛を留めていたヘアピンを折り曲げて、鍵穴にちょこちょこするだけで事は足りた。
しばらくして更衣室から出てきたコンコは、ナース服に身を包んでいた。心なしか顔がほころんでいるように見える。
医師たちにかけた幻術はそう長くは持たない。せいぜい十分が限界だ。解ければ当然騒ぎになって、面白くない事態になる。人間たちが騒いでくれる分には面白いのだが、その後に待っている文車妖妃のお叱りの方が面白くないのだ。
地下に向かう扉は、コンコ持ち前の嗅覚と勘で、かなり簡単に見つけることが出来た。案の定『関係者以外立ち入り禁止』という赤いプレートが付けられているが、そんなものは無視である。
早速“よろしくない技術”でもって扉の鍵を開けると、コンコは変化を解いて、わずかに開いた隙間からするりと中に潜り込んだ。
「ふふふっ、久しぶりだわね、こんなスリル」
呟くと、前脚で空に円を描いた。すると空中に、青白い火の玉が出現した。“狐火”である。
真っ暗な階段を、狐火の明かりを頼りにコンコは下って行った。
「ふわぁぁ、ぁ」
豪快なあくびをかましたのは弥奈である。
「あんた妖怪なのに夜眠くなってどうすんの」
太い木の根元に腰かけて本を読んでいる文車妖妃が言った。その頭上には、<提灯火>が弱めの火で燃えており、彼女の手元の本を照らしている。
「しょうがないじゃんか、おいらけんこーゆーりょーじだもん」
「妖怪に健康もなにもないでしょうに。全くどこで覚えたんだか」
「ねぇねぇねえちゃん」
弥奈がすり寄ってきた。
「なによ」と、煩わしげに文車妖妃は答えたが、突き放すことはしない。
「あの病院に何があるの?」
弥奈の問いかけに、文車妖妃は渋い顔をすることしかできなかった。確信があるわけではない。証拠、らしきものは見つけることはできている。しかしあくまでも“らしきもの”だ。確固たる証拠は未だ見つけることが出来ずにいる。
しかし、一連の奇妙な出来事の発端が、この病院であることは間違いない。例の溶解人間から受けた傷から見えたイメージは、ここ痾ジの森と全く同じだし、始まりの“呪われた物件”に、この森の木が使われていたとなれば、ほぼ確定だ。
おびただしい数の恐怖と寂しさを生み出した源泉は間違いなくここにある。それが何であるかはまだ判らない。だが、絶対に愉快な代物ではないことだけは確かだ。妖怪である自分にとっても。
「分かんない」
弥奈にはそう言うしかなかった。言われた当人は頬を膨らませて不服の意を表したが、文車妖妃は意に介すことなく読書を続けた。
突如、本の紙面が赤く染め上がった。やや遅れて、轟音。
文車妖妃は慌てて顔を上げた。
病院の一階の奥まった箇所から、もうもうと炎が上がっていた。
「ねえちゃん!」
弥奈が叫んだ。文車妖妃が、病院の方へと猛然と駆け出したからだ。
「一体何なのよ、これ」
コンコは、病院の地下にあったボイラー室の片隅で、全身を震わせていた。突然聞こえた轟音とそれに続く非常ベルの音に驚いたのもあるが、原因はそれだけではなかった。
コンコの目の前には壁がある。何の変哲もないコンクリートの壁だ。だが、コンコは気絶しそうなほど強く感じ取っていた。壁の向こう側からにじみ出している、マグマにも似た猛烈な瘴気を。
ほう、ほう。
どこからか声が聞こえる。フクロウの鳴き声だ。
ほう、ほう。
ほう、ほう。ほう、ほう。
ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。
ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。
一羽二羽どころではない数のフクロウの鳴き声が、コンコの両耳をつんざいた。思わず両耳を塞いで呻きながら地に伏せる。
「あんたたち……まさか……」
コンコは気が狂いそうなほどの狂騒のるつぼに居ながらも、無数のフクロウの声が、その壁の向こう側から聞こえてくることを知った。
その時、コンクリートでできているはずの壁が、まるで風に揺れるカーテンのように波打ちだした。
こんなこと起こりうる訳がない。コンコは自覚していた。決して自分の気が触れたわけではなく、実際に壁が波打っているわけでもない。見えているのは幻覚だ。しかも、人間には見えない、“人間ではなく妖怪である”自分だからこそ見える幻覚だ。
「あんたたち、だったのね。かわいそうに……」
壁の波は激しさを増してゆく。波が激しく移動していく中、波の谷間から何かが浮かび上がりつつあるのが見えた。丸っこい何かが。しかも一つではなく、無数に。
人間の顔だった。まだ十分に成長し切っていない子供、いや、子供ですらない、赤ん坊の顔だった。
コンクリートの壁はもはや完全に原形を失っていた。壁面に生じていた波も、次々に浮かび上がってくる赤ん坊の顔によって、すっかり消されてしまった。
ほう、ほう、ほぉうぉう、ほあぁあ゛う。
フクロウの鳴き声に変化が生じた。これまで無数に響いていた鳴き声が一つに収束しつつあった。そして徐々に聞こえてきたのは、
あぁぁあんあん。
赤ん坊の泣き声だった。
「かわいそうに……」
コンコが呟いた。虚ろになりつつある心で。赤ん坊の顔を通して、激しい感情が流入してくる。恐怖と、寂しさ――あの時文車妖妃が感じたのと同じであろう、想像を絶する寂しさを。
コンコはその顔を痛ましそうに歪め、虚ろな瞳に涙さえ浮かべながら、フラフラと何かに魅入られたかのように壁に向かって歩き出した。
あぁあぁん、あぁあぁん。
一斉に泣きじゃくる何百という赤ん坊の顔。それら顔と顔の隙間から、何かが伸びてくる。おびただしい数の、人間の腕だ。
指も腕の太さもなにもかも未成熟な――即ち赤ん坊の――腕は、何かを全力で求めるようにもがいている。まるで、溺れた者が必死で空気を求めるように。
そして、コンコの身体にその手の内の一本が絡みつこうとした、その時――
「コンコォ!」
と、コンコの名を叫んだ者が、いきなり横から体当たりをかましてきた。突然のことにコンコは、身体を地面にしたたかに打ち付ける羽目になった。
「いったいわね何すんのよっ」
自分にぶつかってきた者に向かって怒鳴るコンコ。
すると「あんたの命を救ったのよ」と文車妖妃が言った。その顔からは、いつもの飄々とした雰囲気はなく、この上ないほど引きつって強張っていた。
「ほら見なさい」と、文車妖妃は彼女の首根っこを引っつかんで、件の壁の方に強引に振り向かせた。
そこには、つい先ほどコンコが立っていた場所をさまよっている手の群れがあった。あとわずかでも文車妖妃の行動が遅かったら、最悪取り込まれて、どこか二度と戻ってこられない場所へと連れ去られていただろう。
コンコの顔から、恐怖によって血の気が完全に失せた。助かったことへの安堵と、あの壁の赤ん坊たちから感じ取った途方もない寂しさによって。下手をすれば以前の文車妖妃のように号泣してしまうだろう。だがコンコは必死でこらえた。どうしても文車妖妃に伝えなければいけないことがあるからだ。
「ふぐっち、私判った。判ったのよ。あんたが感じたって言ってた、いっぱいの寂しさが一体誰のものなのか」
「えぇ、あたしも検討がついてるわ」
そう言って文車妖妃は、懐から一枚の紙切れを取り出した。縁の一部が黒く焦げている。
「逃げるわよコンコ。さっきここの一階で爆発が起こったの」
その言葉にコンコは顔面を引きつらせた。
「あんたまさか、その後にここに来たんじゃないでしょうね」
「そうに決まってんじゃない」
文車妖妃は書物の妖怪。当然その身体は非常に燃えやすくできているため、火は彼女にとってまさに天敵だ。なのにこの目の前のバカは、自分が消し炭になるかもしれないというのに、わざわざここまですっ飛んできたという。暗いので見えずらいが、よく見れば体のあちこちに焦げ穴が空いてしまっている。
「おバカッ!」
思わずコンコはその無謀さに怒り、怒鳴った。
「あんたっ……。このおバカ! あんたは燃えちゃったらそれで最期なのよ」
「説教なら後でたんまり聞くわ。今は早く外に――」
文車妖妃の言葉は、そこで遮られた。ボイラーが突如、大量の蒸気を吹き出し始めたからだ。二人の姿は、瞬く間に蒸気の中へと消えた。
そして、爆発。
炎が部屋全体を包む瞬間、件のコンクリートの壁が爆風で崩れ落ちた。
そこには――
「ねえちゃーん! コンコちゃーん!」
空が白みだした頃、黒く焼け焦げ鉄骨がむき出しになった病院の前で叫ぶ、一人の子鬼の姿があった。
弥奈は文車妖妃が藪から飛び出し病院に向かった時、一緒についていかなかった自分を激しく責めていた。
突然の爆発。やや遅れて弥奈の肌に届いた熱い風。文車妖妃が病院へと駆けだした後、訪れたのは混乱と喧噪だった。まずけたたましい非常ベルが鳴り響き、炎の音に混じっていくつかの人間の悲鳴が聞こえた。出入り口から火だるまになって飛び出してくる人間もいた。その人間は、十数秒ほどのたうち回ったあげく動かなくなった。二階より上の階からは、避難用の緊急はしごが下ろされ、患者たちが大量の煙に巻かれながらも、必死に下へと降りていた。
やがて病院の裏口から、ストレッチャーに乗せられ、点滴をされたままの患者が次から次へと運び出されてきた。中には心臓マッサージを受けている患者もいた。火の手の勢いは一向に収まる気配がなく、あちこちで人間の悲鳴と罵声と怒鳴り声が響き渡っていた。病院の駐車場は、黒く煤けた身体の医者と看護師、そして患者たちで瞬く間に埋め尽くされた。
しばらくすると、消防車と救急車が合わせて十台以上到着した。消防士や救急隊員が、焼け出された医師たちから事情を聞きつつ消火活動の準備をしていると、またしても大きな轟音が響き渡った。人々の悲鳴が上がる。弥奈はその瞬間ぞくりとした。その轟音は地面の下の方から響いてきた気がしたからだ。
もし今地下に二人がいたら――その想像は弥奈の恐怖心を容赦なく喚起した。全身が震える。頭の中で声がする。何やってんだよ早く助けに行けよ。だが、身体が動かない。声も出すことが出来ない。人間に助けを求めるのが嫌などというちんけな理由ではなく、本当に声が出ない。弥奈の脳裏に、文車妖妃の身体が焼き尽くされ、コンコの全身が炎に呑まれる映像が浮かび上がった。
火が完全に消し止められたのは、空が白み出した頃だった。徐々に明るくなってゆく世界の中で、何百人という人間が苦しみ、泣き、怒り、呆然としていた。昏い痾ジの森を除くあらゆるものが色を取り戻してゆく中で、弥奈だけが灰色の心のままで立ちすくんでいた。
病院の一階部分はほぼ全焼してしまい、ススと灰だらけになった鉄骨がむき出しになっている。二階部分は半焼状態で、内部には煙や炎に巻かれて死んだ人間の死体が、いくつか転がっているに違いない。その証拠に、早くも<蝶化身>や<人魂>が生まれ、上空には<ふらり火>が舞い、<首かじり>が死体を求めてやって来ては、警官や消防隊に追っ払われている。
どれだけの間じっとしていただろうか。弥奈の身体からほとんど唐突にこわばりが取れた。
藪の中から弥奈が飛び出した。突然現れた子鬼に、周囲の人間がざわつく。警官たちの静止の声をことごとく無視し、立ち入り禁止のテープをくぐった。
続いて数人の警官が引っつかまえようと駆け出したが、弥奈はその小柄な体格を活かして警官たちの手をかいくぐり、全焼した一階部分へと入っていった。
ぽたぽたと消火剤が滴り落ち、水蒸気と噴煙が所々立ち昇る中を、足の裏を真っ黒にしながら弥奈は駆けてゆく。文車妖妃とコンコの名前を叫びながら。しかしその声は、炎によって焼き尽くされた空間に、虚しく響き渡るのみだ。
やがて弥奈は立ち止まった。
「おいお前、妖怪が人間の許可なく勝手に入ってるんじゃない!」
そんな暴言を背後から浴びせられたが、弥奈は反論一つしなかった。ただただ無言で、どこか遠くを見つめるだけだ。
そして、伸ばされた警官の手が弥奈の肩に触れた瞬間だった。弥奈の足下のがれきが突如、盛り上がった。
「うわっ」と声を上げ、警官たちが後ずさる。
ガラガラと崩れてゆくがれき。その下から現れたのは、二つの肉塊だった。青みがかった白い肉の塊が、下手な人型の粘土細工のような造形で、ぶちゅぶちゅ音を立てながら動いている。その頭部には目も鼻も口も耳もなく、全身からは腐敗臭を発している。
「死ぬかと思ったわ、妖怪の自分が言うのもなんだけど」
肉塊の一つが喋った。文車妖妃の声で。
「シャンプーどころの騒ぎじゃないわ。エステ行くわよエステ!」
もう一つも喋った。コンコの声で。
「もう最っ悪。エステ代全部出しなさいよふぐっち」
「何でよ、嫌よ」
「あんたの命令に従った結果がこの有様なんだから責任取るのが筋っちゅーもんでしょっ」
コンコの声の肉塊が、隣の肉塊をぶちゅっと叩いた。
「あーあ、命の恩人にそんなこと言っちゃうんだ。髪や肌どころか命を救ったのよこっちわ」
ぐちゅぐちゅと地団駄を踏み、文車妖妃の声の肉塊が言った。
「オ、ト、メにとっては美貌は命より重要なの……あ、そっかぁ。年がら年中店に引きこもってらっしゃる文車妖妃、いえ“地味車ボンビー”さんには縁の無いお話でしたわねぇご免あそばせ」
「その毛皮引っぺがして闇市で売ってやるわ、さぞ高く売れるでしょーよ」
「PETA送りこむぞコラ」
「やってみなさいよペッタンコ野郎。あ、股間を除いて」
「よっしゃ、ちょっと歯食いしばってみようか?」
ぐっちゃぐっちゃとケンカを始めた肉塊二つ。奇怪極まりない光景に、弥奈も警官たちも唖然とするしかない。
「き、貴様ら何なんだ! 動くな!」
我に返ったらしい警官の一人が銃を構えた。
二つの肉塊は警官の方を向き――顔がないので憶測だが――、一瞬動きを止めた。そして慌ただしく、「ちょっと撃たないで、化け物じゃ、いや化け物だけど、ちょっと待って、待っててね」などと言いながら、自らの身体の肉を引きちぎり始めた。
肉片がぼたぼたと地面に滴り落ちてゆく。その光景に一人の警官はたまらず口を押さえた。
やがて、肉塊の中から、
「ねえちゃん! コンコちゃん!」
粘液にまみれた本人たちが現れた。放たれている悪臭をものともせず、弥奈は二人のもとへ駆け寄り、文車妖妃に抱きついた。
べちょっという音がした。
「よかったぁ……、ねえちゃんたち、燃えちゃったのかと思って……」
泣きじゃくりながら弥奈が言った。
「弥奈ちゃん弥奈ちゃーん」
弥奈が振り向くと、そこには両手を広げて待ち受けるコンコの姿。
「コンコちゃんもよかったぁ」
また、べちょっという音がした。
「あぁもう、ほんっとに可愛らしいんだから」と、コンコは弥奈の頭を撫でた。
「でも、どうやって?」
弥奈が文車妖妃に問うた。すると、それに応えるかのように、三人の足下に散らばる肉片がビクンと震え、一か所に集まり始めた。
警官たちはざわついた。
「ボォ」
再び元通りの形になった肉塊が、間延びした声でそう呻いた、いや言った。右手を挙げて「やぁ」と言っているようなポーズをとって。
文車妖妃は片手を挙げそれに応えると、言った。
「正直、駆けの連続だったわ。幸運にもあってくれてね。地下に“死体安置室”が。で、死体の肉があるならもしかしたらと思って呼びかけたら、そちらさんがいてくれたの」
「ボッ」
えっへんと胸(らしき部位)を張る<ぬっぺふほふ>。
死人の腐肉で出来ているぬっぺふほふにとって、病院の死体安置室は、火葬が主な異ヲの街では数少ない住まいとも呼べる場所だ。文車妖妃は完全に駄目もとで呼びかけた。もしいても無視される恐れは十分にあった。しかし幸運にも、いたぬっぺふほふはいわゆる、“いい人”だった。
「普段なら反対したわよあたしは。うじゅうじゅのきちゃない肉に包まれるなんて……い、痛っ、痛いわねっ」
ぼこぼことぬっぺふほふがコンコを殴る。
「分かった分かったわよっ。感謝してるってちゃんとっ」
「ボ」
ぬっぺふほふは殴るのをやめた。「分かればよろしい」といったところか。
「あんがとね。この恩は後日返すわ。いい死肉が見つかったら知らせるから」
「ボゥ」
それを聞いたぬっぺふほふはコクリと頷くと、のっそのっそと歩き始めた。警官や消防隊はその外見に及び腰になりつつも、相手は無害な妖怪なので攻撃を加えるような真似はせず、ぬっぺふほふの通り道を作った。やがてぬっぺふほふは、痾ジの森の中へと消えていった。
「そこの妖怪三名、不法侵入と放火の疑いにより、直ちにその身柄を拘束する」
その張りつめた声はだしぬけに病院の外から聞こえてきた。警官たちがざわつく。どうやら彼らにとっても予定外のことらしい。
慌てた様子のコンコと弥奈の隣で、文車妖妃だけが動じずにいた。彼女の目線は一直線に、こちらへ突入してきつつある、武装した一団を射抜いている。
異ヲの警察のSATI(Special Assault Team of Iwo)だ。この状況から察するに、どうやら文車妖妃たちを、非常に危険な妖怪と見なしているらしい。
「あぁ……とうとうシャバと永遠にバイバイの時が来たのね」
無意味にはんなりとその場に座り込むコンコ。だが、
「ん? いや違うわよ。あたしたちじゃないわよ火ぃつけたのは!」
すぐに立ち上がり仁王立ちでSATIに向かって抗議を始めた。
「相変わらず忙しい奴だこと」
あきれた様子で文車妖妃は呟いた。
「ねえちゃん……」
弥奈が不安げに文車妖妃の着物の袖をぎゅっと握ってきた。文車妖妃はしゃがみ込み、弥奈と目線を合わせた。
「大丈夫よ。あたしが何とかしてあげるから」
その言葉は決して虚勢でも、弥奈を安心させるための嘘でもなかった。文車妖妃はこの展開を、爆発が起こった直後から、ある程度予想していた。“知られたくない秘密”を探っている自分たちを、放っておくはずはない。何かしらの手は打ってくるだろうとは思っていたが、まさか病院ごと焼き払おうとするとは驚かされた。不都合なモノや臭いモノがあれば即蓋をしてどこかに隠す。無駄に悪知恵の働く人間の常とう手段だ。
文車妖妃はSATIに捕縛されながら不敵に笑った。そっちがその気なら、こちらもそれなりの手段を取らせてもらうことにしよう。妖怪が本当の恐ろしさを発揮する時とは、バカにされたり、ナメられたりした時なのだから。




