R.I.P.lease
捨猫の餌付けは簡単だ。
初めは興味の無いフリを。
ぼんやり夢の残り香は、延髄を温めながら渇いた胸に下降し、呼気と共に吐き出された。エラ呼吸しか出来ないみたく目覚めたての体を持て余したまま、アルカイックな歯車の音を聞いている。
口が開く。
あー、あー。
親のない獣じみた声。水を失った枯葉の舌。
四度のカラスの木霊の間に、体を起こす。重力の掛け違いが、目と肩から髪の毛をそぎ落とす。
掛時計を見る。
あのひとはまだ来ない。
毛布は被ったまま部屋の隅へ。オレンジの光と白い壁は病院に似てる、そう思いつつ、冷蔵庫から麦茶の紙パックを取り出す。
棚から適当に掴んだはずの湯呑。けれどあのひとがこれに口付けていた時の映像が瞬きと同じ速度で、両の目を塞ぐ。
こくり、
こく。
褐色の水気が滑り落ちる喉より先に、陶器に触れた唇から透き通ってゆく。
空になった湯呑を置いて向き直る。私を起こした西日はカーテンの足元に、真白い雫を落としている。ふと、考える。
最後にそれを浴びてからどれだけ経ったか。
はじめの「なんとなく」から。
次第にひとがこわくなり。
仕舞にそとがこわくなって。
壁に囲まれて居たくなった。
気付けば毛布にくるまっていた。叩かれる扉の音と嘆きをアラビアの、千夜一夜のおとぎ話よりも遠くに聞きながら。
変わったのは、扉の向こうからの声が、あのひとになってから。
「学校は楽しいぞ」
そんなことはひとつも言わなかった。
ボタンの目がとれた人形でも相手にするような口調で、生徒指導部に指図され仕方なくとか、どうして俺がこんなことを、とか。珍しくカチンときて、だったら帰れと私は言った。
それが久しぶりの、初めての返事。
翌日もその次もあのひとは来た。ドア越しに溜息の大判振る舞い。ヒキコモリに効く話なんか知らないし無責任な希望も言いたくないから適当に時間を潰して帰る――そんなことを言っていた。お話の内容は本当にバラバラ。こっちの興味なんか無視。タバコ一本で寿命が何分縮むか、アフリカ人の一攫千金、最近のジャンプのつまらなさ。
間を繋ぐへたくそな鼻歌。
ああ全部憶えてる。
面倒だと毎回言いながら、お母さんが促したって中々帰ろうとしなかったことも。
「それ、もっかい説明して」
私が初めて尋ねたのは、不思議な猫の話。その名すら聞き返すことが要った、万華鏡の様に朧な猫の話。
シュレーディンガーの猫。
箱の中に猫を入れて蓋をする。その後、中を確認する人がいなければ世界は猫の生きている道と死んでしまう道の二つに分かれる――確かこんな感じだったと思うけれどイマイチよく解らなかったし、唐突であったろう私の声を何の淀みも無く受け止め、「そーゆーもんだ」と笑んだ声で言ってくれたことの方が、私にとっては大きかった。
しばらくして私はドアを開けた。
ふたりとも子どもっぽい抱擁しか出来なくて、無様だと笑い合った。
額から落ちる汗を目に受けながら暗い天井を見上げて、
同じ絶望を抱えていたのかな、そう思った。
カーテンを開ける。
熱光が部屋を「陰」と決め付ける。吐き気を堪えて外を見る。瀬戸際の吸血鬼が、太陽とはこうも尊大だったかしらと生命の故郷に抗うみたい。電柱の傍を通る女の子たちが見える。それと同じ制服は押入れの奥。落日は彼女たちの髪を金色に濡らすけど、陰に棲む私を貶める。
もう一度カーテンがなき、蓋は閉じられた。
じきにあのひとが来る。箱の猫は死んじゃってるけど、あのひとが開ければ生き返る。
でも生き死になんて多分重要じゃない。
あのひとがいれば。そしてあのひとが、いなければ。
ああ、歌が聞こえてくる。
調子っぱずれのマイ・フェイバリット・シングスが。