侯爵令嬢は婚約破棄を受け入れます。……ですがその前に、少し話をしましょうか?
エリザベート・シュトラール侯爵令嬢は王太子から一方的に「婚約破棄」を告げられる。その理由は「平民出身の“真の聖女”セリアに惚れたから、お前は悪役だ」と。公の場で断罪イベントを仕掛けられるが……
煌びやかなシャンデリアが、城の舞踏会場を暖かく照らしている。
甘い音楽と高級ワインの香り、貴族たちの談笑が飛び交うその中で──事件は起きた。
「エリザベート・シュトラール侯爵令嬢。貴様との婚約は、本日をもって破棄する」
唐突に放たれたその言葉は、まるで凍てつく刃のように空気を切り裂いた。
広間は一瞬にして静まり返る。
そして、誰かが息を呑んだ。
「殿下……それは、どういうご意志ですか?」
私、エリザベート・シュトラールは、微笑を崩さぬまま問い返す。
けれど王太子レオポルトは、まるで“勝者”のような笑みを浮かべた。
「貴様のような冷酷で高慢な女ではなく、民を愛し、神に選ばれた“真の聖女”セリアこそ、私の婚約者にふさわしい」
そしてその隣には、柔らかな金髪をなびかせた少女──セリア=ホワイトローズが、純白のドレスに身を包み、物憂げに視線を伏せていた。
周囲の貴族たちが、ざわめき始める。
「まぁ……聖女様と王太子殿下が……」
「ということは……あのエリザベート令嬢、“悪役令嬢”だったという噂は真実だったのか……?」
それらの視線が、まるで剣のように私へ突き刺さる。
しかし、私はただ静かに、礼儀正しく頭を下げた。
「なるほど。では一つだけ、お願いがございます」
「……お願い?」
「この場を借りて、皆様の前で“私の弁明”を許可していただけますか?」
「弁明? ふん、好きにするといい。貴様の足掻きなど、誰も耳を貸さぬがな」
──その瞬間、彼が“勝利”を確信したことを、私は見逃さなかった。
だが、終わるのは私ではない。
そう──ここからが、始まりだ。
私はゆっくりと視線を上げ、王太子と、その隣で神妙な面持ちを浮かべる“聖女”セリアを見つめた。
「まず一点。私が“冷酷で高慢な悪役”であるとされる証拠を、お示しいただけますか?」
「……証拠など不要だ。事実、お前はセリアに対し、繰り返し侮辱を……!」
「言葉遊びはおやめください。事実とは、検証可能な根拠と共に示されて初めて“真実”になります」
レオポルトは、わずかに眉をひそめた。
セリアの表情も、わずかに揺れる。
「殿下。よろしければ、私が彼女にどのような“侮辱”を行ったのか、具体的な日時・場所・証人を交えてご説明いただけますか?」
「そ、それは……!」
「……やはり、何一つ記録されていないのですね」
私は片手を挙げると、侍女が封筒を差し出した。それを開くと、複数の文書が現れた。
「こちらは、王城内で働く女官二十四名、騎士団五名の署名が入った“セリア嬢の素行に関する報告書”です」
「……報告書?」
「内容はこうです。──“聖女セリアは、度重なる命令違反を繰り返し、神託の名のもとに王命を逸脱した判断を下し、その背後に不審な出資者との金銭のやり取りがある”」
会場がざわつく。
「バカな! それは……ねつ造だ!」
セリアが声を上げたが、私は構わず続けた。
「さらに。こちらが神殿に提出された“神託の記録文”と、あなたが“神から授かった”と主張したお言葉の筆跡です。──同一人物による模倣であることが、筆跡鑑定の結果より判明しました」
「っ……!」
「おや? “神の声”を文字に起こせるなんて、便利な奇跡ですね」
皮肉たっぷりに言うと、ついにセリアの顔が青ざめた。
「ま、待って……それは……私じゃない! わたしは……神に選ばれただけ……!」
「ええ。選ばれたのかもしれません。──“詐欺師として、あなた自身の野望に”」
私は最後の書類を高々と掲げた。
「これは、東部商会の者から買収を持ちかけられた際の“録音魔石”の書き起こしです。“王太子が馬鹿だから楽だった”と、あなたは確かに言いましたよ、セリア嬢」
「っっっっっ!!」
彼女はその場に崩れ落ち、顔を覆った。
王太子の顔色は蒼白を通り越して灰色だった。
「お、おのれ……っ! なぜ貴様がそこまでの証拠を……っ!?」
「なぜ、ですって?」
私はゆっくりと微笑んだ。
「なぜなら私は、“王国諜報騎士団”の内偵協力者です。2年前から、神殿に潜り込んであなた方の動きを監視しておりました」
どよめきが、地鳴りのように響いた。
「……侯爵令嬢が、スパイ……?」
「いえ、私は“祖国の敵を討つ者”であると自負しております。……あなたたちのような、無知と虚栄心に満ちた、国家の恥部に対して」
「な、なんだと……?」
王太子レオポルトの声はかすれ、立っているのもやっとといった様子だった。
彼の周囲にはすでに、護衛騎士ではなく、王国治安局の役人たちが待機していた。
「殿下、これ以上の発言は……すべて記録されております。ご自身の名誉のためにも、黙していただいた方が賢明かと」
その声に応じて現れたのは、灰色の軍服に身を包んだ男性──王国情報局 局長アラン・グレイだった。
「すでに王より直々に命を受け、神託偽装事件ならびに軍資金流用の嫌疑に関し、正式な調査が始まっております。殿下、ご同行願います」
「……ば、馬鹿な……私は……王太子なのに……っ!」
「いえ、殿下。あなたは“もうすぐ元王太子”になりますわ」
私の言葉に、彼は激しく身を震わせたが、それ以上、反論の声はなかった。
護送されていく彼と、錯乱して泣き叫ぶセリア。
その光景を、私はまっすぐに見つめた。
──ようやく、終わった。
「……エリザベート様」
誰かが、私の名を呼んだ。
振り返ると、貴族たちが次々と頭を下げている。
つい先ほどまで、私を“悪役令嬢”と囁いていた者たちが──だ。
「先ほどは、大変失礼な態度を……この通りでございます」
「あなたこそ、真に王国を守るべき方だ……!」
「我が家の息子にも、ぜひ教育を……!」
まるで風向きが一変したかのような反応に、私は内心で苦笑する。
やはり、民衆の目は移ろいやすい。
けれど私は、こうなることもすべて“予定通り”だった。
かつて私は、「婚約者の座」に固執していた時期があった。
だが、その愚かさに気づいたとき──私は決めたのだ。
恋や地位ではなく、己の知性と力で国を守る道を選ぼうと。
そして、神殿に潜入し、セリアの異常な動向を探り続け、証拠を集めた。
その間、私は貴族たちに冷たい女、高慢な悪役令嬢と呼ばれ続けた。
だがそれで構わなかった。
信頼とは、言葉でなく、積み上げた事実によって証明されるものだから。
その日の夜、私は王城の奥、王妃陛下の私室へ招かれた。
「エリザベート。あなたの働きは、もはや一人の侯爵令嬢の領域を超えているわ」
年老いた王妃は、静かに言った。
「……王国はあなたのような者を必要としている。──どうか、情報局直属の“諜報騎士団”初代長官として、国のために生きてはくれないかしら?」
私は一瞬、目を閉じて考えた。
誰かに愛されるためではなく、
誰かの庇護に入るためではなく、
自分自身の意志で、国に必要とされる人間として
「……喜んで、お受けいたします」
私の人生は、これから始まる。
“悪役令嬢”という仮面を脱ぎ捨て、
“国を守る女”として──
それから半年後。
私は首都の東に建設された、王国諜報局の本拠地──蒼鋼の塔にいた。
その最上階。
私は、“諜報騎士団 初代長官 エリザベート・シュトラール”として、直属の隊員たちに指示を下していた。
「西部国境沿いで動きのあった密輸団の件は、“灰鷹班”が監視を。神殿関係者には、必ず正規証明の提示を求めること。次──」
情報は常に流れ、敵は常に動いている。
だが、それを抑える手が、今はこの国にある。
“私”という、かつて悪役令嬢と蔑まれた女の存在が、少しでも抑止力となるならば。
それでいい。
「……まるで別人ですね」
ふと背後から声がした。
振り返ると、灰色の軍服に身を包んだ男──アラン・グレイ局長が立っていた。
「諜報員時代の冷静さも立派でしたが、今のあなたはそれ以上だ。……一つ、尋ねても?」
「どうぞ」
「後悔していませんか? 婚約破棄の件。もしあのまま王太子の婚約者でいれば、いずれ王妃に──」
私は笑って首を振った。
「“誰かの隣に立つために自分を偽る”ことほど、不自由なことはありません」
そして窓の外、王都の街並みを見下ろしながら、こう続けた。
「私はもう、“誰かの妃”にならなくても、この国のために戦えます」
アランは目を細めて頷いた。
「──それでも、あなたの隣に並ぶに足る者が現れたなら?」
「その時は、きっと私から婚約を申し込みましょう」
私は少しだけ冗談めかしてそう言った。
けれど、それが全くの嘘ではないと、私自身も知っている。
それから、さらに季節が一つ巡ったある日。
中央軍より、新たな指揮官候補が私の元へ派遣された。
「初めまして、シュトラール長官。騎士団第二師団より参りました、ユーリ・グレーフと申します」
整った顔立ちに、鋭くも誠実な瞳。
まるで風のように清廉なその男は、私の前に跪き、右手を差し出した。
「あなたと共に、国を護らせていただければ光栄です」
私は──ほんの少しだけ迷ったふりをしてから、
その手を、取った。
「では、あなたの任務は一つ。“私の隣に立つ資格”があることを証明してください」
彼は微笑み、立ち上がった。
風が吹き抜ける。
“悪役令嬢”だった私の物語は、ここで幕を閉じる。
そして、“自由に戦う女”としての物語が──今、始まるのだ。