夫の妻が死んだそうです。だけど私は生きています。
忘れもしない。
静かな雪が、音もなく積もる。
そんな真っ白な夜のことだった。
「雪の降る音って悲しいわね」
窓の外を見ながら、琥珀色のグラスを傾ける母。
涙を飲んでいるのか、酒を飲んでいるのか……
もう分からないくらい、ぐしゃぐしゃな顔でそう呟いていた。
「愛を失うと悲しいの? こんなに綺麗な雪も?」
「ええ、そうよ。全部、この世の全てが悲しいわ」
「……私がいるのに悲しいの? ずっとずっと、母さんの傍にいるのに」
「……ごめんね。ごめんねロザリー。あなたも大人になって、誰かを愛すれば分かるわ」
それが母との最後の会話だった。
翌朝、傷だらけの手で掴んだのは、テーブルに残るグラス。縁をペロリと舐めれば、甘くてぬるい『母』の味ではなく、冷たく苦い『女』の味がした。
十三歳から、私は一人で生きた。
頼れる親戚など、いなくて良かったと思う。
悲しみに呑まれた女の娘など、どうせ誰も引き取りたがらないだろうから。
いつか誰かを愛して、母の遺したあの苦い味の意味を知るまで。悲しみに呑まれまいと、一人で踏ん張った。
母が居た頃と同じように、朝早く起きてパンを焼く。生きていく為に、ひたすら焼いては明日へ繋いでいく。それを繰り返している内、いつしか、母とは違うパンを焼き、母とは異なる方法で売り始めていた。
明日は明後日へ、明後日は一週間……一ヶ月後へ。
少しずつ生活にゆとりが出来た十八歳の頃、店に一人の客が訪れた。
開店早々に訪れては、一番安いパンを買っていく。
閉店ギリギリに訪れては、売れ残りのパンを買っていく。
そんな男性だった。
それだけの男性だった。
だけどある夜、大粒の雪から逃げるようにしてやって来た彼に、私はパンだけでなく、熱い湯を差し出してしまった。……ふわふわのタオルと、ふかふかのベッドも。
母が居なくなってから五年。悲しくはないけど、寂しかったのかもしれない。
自然と人肌を求め、人肌を受け入れ、一つになってしまった。
裸になって初めて、互いの話をした。
孤独な自分の境遇と、不幸な彼の境遇。
雪が止んでもまだ、何度も重ね合わせている内に、気付けば共に暮らしていた。
愛を確かめる間もなく、夫婦になっていた。
私はパン屋を。彼は大工として。
結婚しても、私達の生活は変わらない。
一人、二人と子供が生まれ、もう寂しくはなくなっても。男女の愛が何かは、未だに分からぬままだった。
結婚して十年が経ったある日、一通の手紙を開いた彼は、真っ白な顔で呟いた。
『彼女が死んだ』と────
それから夫は変わってしまった。
会話がなくなり、食事の量も減り、とうとう仕事にも行けなくなった。
朝から晩まで、母が最後にグラスを傾けていたあの部屋に閉じこもっては、悲しみに暮れている。
子供が高熱を出して苦しんでいる時も、子供がこの世に生を受けた記念日も。
どんなに語りかけても、訴えかけても出て来ない。
その姿は、かつての母によく似ていた。
夫と初めて結ばれたあの雪の夜。
身分差が障害となり、愛を引き裂かれた恋人がいると教えてくれた。
夫にとっては、その女性こそが本当の妻で。
法律上の妻である私も、血の繋がった子供も、彼女以上にはなり得ないのだ。
彼女が死してなお、永遠に────
あの日の母と同じように、氷を浮かべたグラスに、ウイスキーを乱暴に注いでみる。ガラガラとかき混ぜ、一口喉に流し込んだけれど、辛くも悲しくもない。それどころか、やたらと甘くてぬるい……ずっと追い求めていた『母』の味がした。
窓辺に近寄り、開け放つ硝子。
静寂の音と共に舞い込む雪は、どこまでも美しく希望に満ちている。
……母さん。
私、やっぱり愛が分からないわ。
明日夫を失うのに、少しも悲しくないの。
雪もこんなに綺麗なのよ。
こんな、こんなに綺麗なのよ…………
翌朝、昔夫がよく買ってくれた、一番安いパンを焼く。
子供達とは、一番新しい売れ筋のパンを焼く。
閉じこもっている扉の前に、焼き立てを置いて別れの言葉を告げたけれど、最後まで返事はなかった。
荷物はほとんど新居へ送ってあるから。小さな鞄を肩に掛け、古い家を簡単に後にする。
右手には長女、左手には長男。確かな温もりと愛を感じながら。
冷たい雪を、ざくざくと踏みしめる。
夫が母と同じ魔物に取り込まれるのは、もう時間の問題だった。
人の負の感情を養分にする、恐ろしい魔物。
特に悲しみは大好物で、どこからか嗅ぎつけてはその機会を窺っている。
狙いを定め、地上から茨に似た触手を伸ばしては、あっという間に取り込んでしまう。
一度取り込まれたら最後、心も身体も全て喰らい尽くすまで離してくれないのだ。
子供達には、父親のそんな悲惨な最期を見せたくなかった。
あの朝、棘だらけの触手を掴み、母を救いだそうとした私みたいに。無意味な傷を負って欲しくなかったから。
こうして遠くへ離れる決意をしたのだ。
「お母さん、新しいお家はどんな所?」
「首都のお城の近くにあるのよ。ここよりもずっと広くて暖かいの」
「お母さんとずっと一緒にいられる?」
「ええ、もちろん。ずっとずっと一緒よ」
右手をギュッと握り締め、左手にすり寄る頬を優しく撫でる。
どちらも愛しい、かけがえのない私の希望。
夫の妻が死んだそうです。
夫も死ぬかもしれません。
だけど私は、まだ生きています。
貴女とは違う、愛を抱いて生きていく。
ありがとうございました。