4.気づけば sideデューク
デュークは楽しそうにヘンウッド伯爵令息と話している婚約者の姿を視界にとめ、つっと眉を寄せた。
あんなに声を上げて楽しそうに笑う姿をここ最近見ていない。
「あれはオルブライト嬢じゃないか。あんなふうに笑うこともあるんだな。最近、デュークの前にあまり顔を見せなくなったからどうしたのかと心配していたんだ。この前は珍しく頼んできたかと思えば、あれ以来デュークは何も言わないし。元気そうでよかったよ」
一緒に歩いていた第一王子のクリストファー殿下が足を止めたので、デュークも必然的に歩みを止めた。
王子に言われる前からフェリシアの存在に気づき、胸がざわざわしたがおくびにも出さずデュークは応じる。
「そうですか? 本来の彼女はよく笑いますよ。最近、顔を見せなかったのは忙しいのを知っているからだと思います」
「そうか。我々には見せないだけなんだな。いつもデュークを気遣った謙虚な行動、オルブライト嬢はよくできた婚約者だと思うよ。健気だよねぇ。隣国とのことが落ち着いたら、もう少しデュークも時間を作って気遣ってあげたらどうだろう」
「そうですね……」
そこで再びデュークはフェリシアを見た。
大事そうにハンカチをヘンウッドに渡し、彼は受け取ると鞄にしまい込む。
それから連れだって歩き出した。どうやらそのまま次の授業のため一緒に移動するようだ。
本来だったら、ここで自分の存在を見つけて頬を染めて恥ずかしそうに駆け寄ってくるかそっと会釈してくるかだが、今は話に夢中でデュークに気づく様子はない。
――本当に楽しそうだな……
殿下に話したように彼女はよく笑う。可愛らしく控えめな笑顔をたくさん見てきた。
だけど、ここ最近はそっと微笑む程度の微笑しか見ておらず、あんな笑顔を見るのは久しぶりでさっきから胸のあたりがずっと変だ。
もともとフェリシアの性格は活発ではないので、年齢とともに落ち着いたのかと考えていた。
だけど、今は出会った頃を思い出させるように楽しそうに話し、ふわっと自然な笑みを浮かべヘンウッドを見る目がきらきらしていた。
デュークは自惚れではなく、フェリシアに好かれていると知っていた。
恥ずかしがり屋なので口に出しては言われていないけれど、献身的な態度を含めまっすぐに自分を見る瞳が熱を持っていることに気づいていた。
デュークだけでなく、それは周囲も気づいていて、本人も知られていることは自覚しているようだった。
自分のことを好いてくれ、それを押し付けるわけでもなく控えめに好意を伝えてくるフェリシアのことをデュークは可愛いと思っていた。
だから、婚約の話が出た時に反対はしなかったし、フェリシアとならいい家庭を築いていける、男女としてもいい関係になると具体的に想像もした。
あまり話すほうではないので、積極性を求める女性は合わない。かといって、女性が積極的でよく話すタイプともきっとうまくいかない。
女性のドレスや流行の話ばかりされても、上手くそれらに相槌を打てる自信もない。
その点、フェリシアとの会話はとても自然で気負うことはない。
振られる話題はデュークでもわかる話ばかりで非常にありがたく、彼女と過ごす時間はとても居心地がよかった。
そして、婚約者になってからもそれは変わらず、デュークのしたいことに理解し寄り添ってくれた。
会話が得意ではない自分にも飽きることなく好意を寄せてくれるフェリシアは、自分にはもったいないくらいだ。デュークは婚約者に恵まれひっそりと喜びをかみしめていた。
クリストファー殿下にはああは言ったけれど、デュークも以前からフェリシアとあまり顔を合わせていないことは気になっていた。
気を使うにしても、ぱたりとやんでしまった顔見せに気づかないほど疎くはない。
フェリシアとの逢瀬の休日明け。いつもなら来ていた時間に来ないのは気になったが、そういう日もあるだろうと思った。
そもそも差し入れを貰っている身なので、どうしたのか気にはなっても行くのは催促するみたいになるのでできない。
逢瀬当日、気分が優れないと帰っていったのが気になって、あの後出会った母に伝えた。
すると、用事を済ませ帰ってきた時にはフェリシアの母親からすでに様子を確認しており、部屋にこもっているようだけどごそごそ動いているので心配ないとのことだった。
だから気にしながら次の日も今日はどうだろうと待ってみたが、フェリシアは一向に現れなかった。
やはり体調が悪い可能性もあるので時間の融通が利く友人に確認してもらったが、元気そうだと返ってきた。
せめて自分で様子だけでも見たいと思うのに、クラスも離れていてタイムスケジュールも違うし今は隣国のことですることも多く叶わなかった。
さすがにそれが続いて一週間すると心配で、クリストファー殿下たちに頼み移動の際に遠回りをしてもらいフェリシアの様子を確認しに行った。
そして、背筋を伸ばし本に集中する姿にほっとした。
やっと会えたという気持ちが湧き出たのか知らずに顔が笑っていたらしく、殿下たちに突っ込まれてしまった。
すぐに移動しなければならなかったから話しかける時間もなかったが、体調を崩していないならよかったとひとまず安心した。
それからいつかは現れるのではないかと、その次の日も、そのまた次の日も、フェリシアのことをずっと気にしながら過ごしていたが来ない日が続いた。
何日も続くとさすがに自分から会いに行くべきだとわかっていたが、ここ最近本当に忙しく時間の合間に捕まえるとなると移動も含めかなりぎりぎりだ。
運良く捕まえられても流暢に話すほうではないので、まさに用件だけを言うことになって差し入れ目的だと誤解される可能性もある。手紙もまた同様だった。
会いに来てくれるのも、差し入れもあくまでフェリシアの善意だ。強要するような形で負担にさせることはしたくない。
ならば偶然会う時に話しかけようとは思った。
だけど、いざ目の前にするといつもフェリシアから話しかけてくれていたので、会話の流れではなく挨拶のあと自分から最近どうしたのかと聞くのは躊躇われた。
今まで自らあまり話さなかった男が、こういう時だけ急に話すとやっぱり強要に感じるのではないか。
何を話せば自然に捉えてもらえるか考えている間に、「では、失礼します」とフェリシアは去っていき最初は失敗に終わった。
次会う時こそはと考えていた言葉を告げようとしたら、待たずして「お忙しいようなので」とフェリシアは行ってしまった。
そんなことをしているうちに気づけば一か月経とうとしていて、いつもなら顔を出すタイミングにフェリシアは現れることはなかった。
急激に顔を会わせるのも減ってしまって、デュークは姿を見るだけでほっとしながらも寂しい気持ちを抱え過ごしてきた。
デュークは名残惜しむようにフェリシアの後ろ姿を見つめた。
ヘンウッド伯爵令息に話しかけるたびに見えるその横顔が、自分と話す時よりも楽しそうなのが見てとれ、無意識に目を眇める。
「デューク。どうした?」
「いえ。我々も次の移動があります。行きましょう」
背を向けたが、ヘンウッドに向けたフェリシアの笑顔がこびりついて離れない。
自分以外に向けた笑顔。ただでさえもここ最近会えずあまり声も聞けていないのに、ほかの男にフェリシアが笑いかけている。
そう考えるだけで、ずんと胃が重くなるようだった。
小さく首を振り、その笑顔や思考を振り払った。
胃が重いのはきっと朝食がいつもより甘いものが多かったからに違いないと言い聞かせ、デュークはぐっと拳を握りしめた。
デュークはクリストファー殿下の側近として仕えている。
来週、隣国キプボワーナの王子たちが交流を目的として三か月ほど来訪し学園に通うことになっており、その日程の調整をこの数か月ほど慌ただしく行っていた。
フェリシアが姿を見せなくなったことに気づいていても最初そこまで気にしなかったのは、いつも気遣ってくれるフェリシアが遠慮してだと思っていたのもあった。
優しいフェリシアのことだから、デュークの負担にならないように会いにくるのも手紙も控えているのだろうくらいに捉えていた。
――今さらだが、フェリシアの好意ありきの考え方だな……
クリストファー殿下が言うように、今の状況が落ち着いたら自らフェリシアに予定を訊ね、どこかに行こうかと誘ってみよう。
よくよく考えれば、デートらしいこともせずデュークのスケジュールの合間に来てもらって婚約者の逢瀬としていた。
自分とは違う男に向ける笑顔を見て、ここにきて初めてデュークは焦燥感を覚えた。
会えるだけで嬉しそうだったから、その顔を見るだけでデュークも満たされていた。
その満たしに浸かって、婚約者の好意に応じるだけでろくに自発的に動いてこなかった。
そんな中、今まで婚約者として成り立っていたのはすべてフェリシアが動いてくれていたから。
そう言えば、前回の逢瀬に『また』の言葉に返答はなく、返ってきたのは控えめな微笑だけ……
そこでようやく『いつも』とは違うのではないかとデュークは気づく。
――これはつまり、……どういうことだ?
一つ疑問に思うと、それらは胸中に波紋を呼び起こす。
少し早く切り上げられた逢瀬時間。
声をかけた時にしっかり受け答えしていたし、母親同士非常に仲が良いため、もしフェリシアに何かあれば彼女から直接聞くよりそちらから情報が入ってくることも多いので気を抜いていた。
だが、フェリシアが家族に隠していたらわからない。
そこまで考えて、デュークは眉尻を下げた。
別れ際、いつもの笑顔ではなく視線を伏せたことが今になって気になってくる。
「もしかして、俺は最低なのか……」
「今頃気づいたのか?」
ぽろりと漏れた考えに、クリストファー殿下にぴしゃりと返された。
なかば独り言であったけれど、こんなにも明確な反応をされるとは思わず目を見張ると、クリストファー殿下は、はん、と鼻で笑った。
「何を驚く? お前たちには特に今回のことで時間と苦労をかけさせているが、それにしても以前からデュークは婚約者に何もしなさすぎだろう?」
「何もしていないわけでは……。誕生日は必ず贈り物をしていますし、婚約者として二人の時間は欠かしたことはありません」
フェリシアのことは自分にはできた婚約者だと、可愛いとデュークだって思っている。
年頃になって体つきが変わってきたフェリシアを女性として意識だってしている。
意識しすぎないようにして、逆にぎこちなく応対してしまうこともあるくらいだ。
ほかの女性のことを考えたことはないし、自分の相手に彼女以外は想像もつかない。
デュークなりに関係を続けていきたいと、婚約者として誕生日も定例の茶会も忘れたことはない。
「それは当然だ。ルールとして設けられているものに準じているだけのことだろう?」
「…………」
痛いところを突かれ、デュークは押し黙った。
「貴族の婚約なんて政略結婚が多いのだから大半はそれでいいのだろうが、相手によってはそれだけの対応は義務のようでもの寂しく感じることもあるだろうな。その辺は当事者でないとわからないことだが、デュークの場合は、彼女の寛大さがあるからこそ良好な関係が築けているのを自覚したほうがいい」
「自覚……」
「もちろん、オルブライト嬢がデュークを好きだとわかりやすい事実があり、彼女も満足し幸せそうに見えていたので、私を含め誰も口を挟まなかっただけのこと」
頭を殴られたような衝撃を受けた。
じわじわと言葉に重みが増していくようで、デュークは肩を落とした。
「そうですか」
「浮気や遊びと問題行動が多く迷惑をかけるレベルならさすがに苦言を呈していたが、な。朴念仁だが真面目だし、それを彼女が良しとしていたなら他人がとやかく言うようなことではなかったからな」
「……」
言外に、お前が気づくべきことだと言われ言葉をなくす。
「お前たちの良好な関係は全部オルブライト嬢のおかげだ。この際だから言うが、やっぱりお前はもっと感謝してそれを行動で表すべきだ。愛想を尽かされて捨てられるかもしれないぞ」
「捨てられる!?」
ぎりりと心臓が引き絞られるかと思った。
全く考えたこともなかったことだが、現状を思うと軽視できない。先ほどの伯爵令息に笑いかけていたフェリシアの笑顔を思い、デュークはぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「あるいは、ほかの男に取られるぞ」
「取られる……」
さらなるクリストファー殿下の追撃に、自分の顔から血の気がなくなっていくのがわかった。
先ほどの衝撃で心臓が痛いし、胃の下までもがぎゅっと掴まれたように苦しくなった。手が震えそうになるのを、背後に隠すようにしてぐっと堪える。
フェリシアが自分以外の男のものになると?
そんなこと考えたくない。
――ああ、俺は今まで何をしていたのだろうか……
考えていることを表に出すのが苦手で、特に女性だとどんな顔をしていいのか、下には弟、周囲も男が多く女性と何を話せばいいかわからなくて、全部フェリシアに任せていた。
今までフェリシアの好意にあぐらをかいて自ら変わろうと、相手に合わせようなどと考えたこともなかった。
いずれこの国の王となるクリストファー殿下を支える一人として、精進することが一番。
それが国のため家族のため、婚約者のため、誇らしい自分であることが最善だと考えて動いてきた。
ずっと永遠にフェリシアは自分を好きなのだと思い込み、彼女が自分に合わせて当たり前だといつの間にか考え驕っていたようだ。
何より自分に見せられなかった笑顔に、会わなかった間に親しげな第三者の存在にデュークは焦った。
「オルブライト嬢の容姿は美しく、性格も謙虚で可愛らしくああいうタイプを好む男は多いぞ。彼女がお前を好きだと全身で告げているから今まで話題に上がらなかっただけで、本来なら引く手あまたな女性だ。しかも財力のある侯爵家の一人娘。デュークは恵まれていることをもっと自覚したほうがいい」
「はい」
追い打ちをかけられ、デュークは小さく唇を噛んだ。
ずっと胃の下がしくしくちくちく痛い。
自分ではどうすることもできなくて、こんなことは初めてでデュークは大きく息を吐き出した。
今まで気づけばすぐそばにフェリシアがいた。
休み時間の合間、鍛錬の前、忙しい間のつかの間にひょこっとその可愛い顔を見せ、気持ちのこもった言葉と物を置いてそっと去っていった。
――ほんと、彼女の好意に甘えすぎた。
それがなくなった今、その行為にどれだけ支えられていたのかわかる。
いつもの鍛錬も彼女が当たり前のように寄り添ってくれていたから、何も考えず安心して集中できていたのだ。
彼女の無償の愛をただ受け取っていただけの自分。
考えれば考えるほど、時間が経てば経つほど苦くなる思い。
クリストファー殿下の言う通り、自分たちの関係はフェリシアありきだ。
現にフェリシアが会いにこなくなったら、自分たちは顔を合わせる機会も話す機会もほとんどなくなった。
この一か月、何より熱のこもった視線も向けられることがなくなって心はすぅすぅとして、初めてデュークは危機感を覚えた。
もし、このままずっとフェリシアが自分を訪ねてこなくなったら?
当たり前の日常はフェリシアが無理していただけだとしたら?
好きだから合わせてくれていたけれど、それがなくなったら?
それを考えるとぞっとした。
もうすぐ定例茶会の婚約者との逢瀬がある。
口下手だ、忙しいと言っている場合ではない。自から積極的に話しかけ、できればフェリシアが笑ってくれるように寄り添いたい。
そして何より、あの美しいエメラルドの瞳に自分を映し出してほしい。もう一度、熱のあるあの眼差しを向けてほしい。
デュークはそっと振り返り、フェリシアが廊下の角を曲がって見えなくなるまでずっとその後ろ姿を見つめた。