プロローグ 死に役だった
「フェリシアの敵……」
「ひっ」
暗い瞳でデュークは剣先を男の首に当てた。
ずるずると崩れ落ち戦意喪失した男を騎士たちが取り立て引っ張っていくのを、鈍く光る濃紺の瞳でじっと見つめた。
いつも寄り添ってくれた婚約者に、常に自分のことばかりだったデュークは何も返せていなかった。
返せないまま彼女は逝ってしまった。
王太子殿下を支え、少しでも国の助けになれる者にと行動してきたが、最も近くにいた女性を守れなかったとデュークはずっと後悔に苛まれていた。
婚約者を死に追いやった者をようやく見つけ出し、敵を討つことでわずかに終わりが見えた。
「ああ、これで少しはフェリシアに報えただろうか」
「ええ。フェリシアさんもきっと喜んでくれていると思います」
「ベリンダ……。ここまで付き合ってくれてありがとう。やっと少し前を向けるような気がする」
デュークはベリンダの肩を抱きしめて…………
◇ ◇ ◇
「フェリシア……、フェリシア」
「……ん、えっ」
「大丈夫か?」
「……すみません。ぼんやりしておりました」
鼻先に掠める爽やかで深みのある香りを嗅いだ瞬間、私、フェリシア・オルブライトは怒涛のように流れる記憶に溺れそうになった。
――今のは……
混乱するなか、こちらをじっと見つめる幼馴染で婚約者であるデュークになんでもないと笑顔を浮かべる。
すると、そうかとほっと息を吐き小さく口端を緩めるとデュークはカップに口をつけた。
それきり、また静寂が戻る。
ぴちちちっと小鳥が鳴き、さわさわと梢がこすれる音が耳をかすめた。
ふわりと風が吹き、腰まで伸びた金の髪が揺れ私はそっと耳にかけた。
視線を婚約者から外し周囲を見渡すと、自身のエメラルドの瞳と同じ緑が生い茂り、白や黄色と可愛い花が太陽の光を浴びてのびのびしていた。
生命力溢れる景色を前に現状を思うと息苦しくなって、ふっと息をつく。
私から話しかけないと自分たちに会話はない。
幼馴染なので最低でも三か月に一度は会っていたけれど、婚約者となった今は一か月に一度、ただ静かな空間を二人で共有する。
私にとってこの時間はとても大事なものだった。
ただし、それもさっきまでのこと。
先ほどの記憶と今もなお溢れてくる情報に酔いそうになり、ゆっくりと目を閉じた。
いつもならここで私からデュークが興味を示しそうな話題を提供するのだけど、今はそれどころではない。
どうせ相手は話さないのだから話しかける必要はないと、再び瞼を上げデュークを眺めながら思考を整理する。
彼は私と視線が合うと、どうしたと軽く首を傾げた。
――全く心配していないわけではないと思うのだけど……
私の向かいに座るのは、デューク・ウォルフォード。
デュークは公爵家の長男でさらさらの濃紺の髪を右耳にかけたクール系の美形。同系色の瞳は思慮深く落ち着きのある色味で、性格もどんな時にも冷静で口数が少ない。
頭脳派な見た目に反して武道派で、学園でも生徒の中ではデュークに剣の技で勝てる者はいない。
誰に対しても態度は一定で、唯一変わるとしたら殿下とその側近と一緒にいる時くらい。
普段から笑うこともあまりせず、自ら積極的に話しかけることもしない。
そんなデュークと婚約者である私は、婚約者として気にかけてもらってはいる。
誕生日は必ず贈り物を届けられ、定期的に二人の時間を作り義理は通されている。
それが特別といえば特別なのかもしれないけれど、でもそれだけだ。
デュークに対して、自分の顔立ちもそう悪くないと転生前の人格が判断する。
太陽に反射して輝く金の髪に、ぱっちり二重でエメラルドのような美しい緑の瞳を持つ。性格は控え目でデュークのことが好きで、ずっと影ながらそばにいて尽くしてきた。
とにかく健気で、そして先ほどの記憶を思い出し可哀想すぎないかと悲しくなった。
記憶とともに前世の人格が今までのフェリシアと融合する。
目の前の美貌の主は目が合うと、じっと私を見つめていたがそっと目元を細めた。
――そういうところが虜にさせるのよ。
なんて罪深い青年なのか。
私にさして興味はないのに優しさを覗かせて、婚約者ゆえの特権だとわかっていても特別なそれは私には宝物だった。
溢れる恋心はデュークを美化し、何をしていても格好よく見えて『好き』となるのだから困る。
私は再びゆっくりと目を閉じて、意識して五秒数えて瞼を上げた。
もうすぐ約束の二時間が終わる。
「本日もお時間を作っていただきありがとうございました」
「ああ。また」
「…………」
いつもなら私はここで嬉しそうに「はい」と答えていたけれど、その代わりに無言で笑みを浮かべた。
『また』の言葉だけでもとても喜んで健気すぎた私。報われない。本当に報われない。
そして、前世の記憶と人格が混ざってもこの心はデュークを見てときめいていて、それが余計に苦しかった。
私はデュークがとても好きだ。
忙しいデュークの負担になってはならないと、いつも私からデュークが空いている時間に出向いていた。
剣の訓練の際には始める前に差し入れとして蜂蜜レモンジュースを持参し、邪魔にならないよう特に話すわけでもなくそっと渡すだけでその場を離れる。
デュークのスケジュール優先で邪魔をしないことを徹底してきた私は、尽くし系女子だ。
エスコート後は忙しいなら仕方がないと、社交界で壁の花も何度かあった。
寂しいけれど、ほかの女性を相手しているわけでもなく殿下の護衛として重要な役割を担っているのだからと、婚約者を誇らしく思っていた。
目の前でさらさらと濃紺の髪が揺れ、一定の温度を保つ髪と同色の瞳がひたと私を見つめる。
もしかしていつもと違うことに気づいてくれた? ちゃんと見てくれている?
こりもせず、期待で気持ちが舞い上がる。
「大丈夫か?」
「ええ。……いえ、やはり気分は優れないようです。せっかくお時間を作っていただいたのですが、本日はこれで失礼いたします」
「……ああ」
それだけ?
正確にはまだ時間はある。
予定の時間を超えて迷惑をかけたくはないけれどぎりぎりまで一緒にいたくて、早く切り上げたことは今まで一度もなかった。
ちくっとする胸の痛みを抱え、やはり期待しすぎかと落胆する。
冷たくなっていく心を見ない振りして精一杯の笑顔を貼り付け、婚約者であるデューク・ウォルフォードに心の中で別れを告げた。
互いに十六歳で同じ学園に通い婚約者なのでこれからも顔を合わせることはあるけれど、心の距離としてのお別れだ。
ちょっといじけていると自分でもわかっているけれど、気持ち的にここで気合いを入れたいところ。
「気をつけて帰るように」
「はい。それでは失礼いたします」
デュークは私がいつもと違う反応をしても全く気づくこともなく、すたすたと馬車までエスコートするといつものセリフを告げた。
どうしようもなく切なくなって涙がにじんできたので、視線をそれとなく逸らし頭を下げる。
馬車が走り出すと、デュークはすぐに背中を向けて歩き出す。
その後ろ姿を、吸い寄せられるようにじっと見つめた。
今日はいつもと違ったでしょ?
いつもの笑顔や返答と少し違ったでしょ?
長年過ごしてきたのに、私の混乱にも気づかない。あなたにとって私はそれだけの存在なんだね……
性懲りもなく、少しでも変化に気づいてほしいと長年見つめ育ったデュークへの恋心が疼く。
デュークにとって、私は幼馴染で婚約者だから時間を一緒に過ごすだけ。それだけなのだと突きつけられてじくじく痛む。
今まではそれでよかった。
誰にでも平等に接する人で、それでも婚約者という特別枠だったから。
でも、先ほどの記憶を思い出したら何もかも虚しくなって、デュークに向かっている糸がぷつりと何本か切れた。
それでも望んでしまった。
気づいてほしいと、ただの婚約者ではない特別が向けられていないかと。
恋心はこっちを見てとずっと叫んでいて、記憶と現実は違うのではと探り試すように小さな反応を見逃さないように観察していた。
けれど、ただ現実を突きつけられただけだった。
殿下の側近だから、忙しい人だから、婚約者ばかりにかまけている立場ではないから、性格的にも自ら動くタイプではないから。
それでも忘れることなく時間をとってくれる、優しくて律儀な婚約者が好きだった。
好きだから、相手に望むことなどせずにデュークに合わせるのだと健気に動いてきた。
そんな私の行動をデュークは嫌がることはしないが、ただ受け止めるだけだった。
婚約者としての気遣いはされるけれど、フェリシアという人格を見ての気遣いはない。
デュークが好きなのも、彼のために動くのも、私が勝手にしていることだ。
けれど、どれだけ私が気持ちと時間を割いているのか少しも気づいた様子もない。それらは記憶を思い出した今、私を虚しくさせる。
デュークにとって婚約者に気遣われるのは当たり前。
なぜなら、婚約する前から私がデュークを好きなのは本人も周囲も知っているから。
――それってどうなの?
もともと感情の起伏があまりないデュークだからと気にしていなかったけれど、死に役の盛り上げ役だということに気づいた今は、さすがにないわぁと悔しくて泣きたくなった。
さっきの今でこの育った恋心を簡単にぽいっと捨てられないけれど、死ぬことと天秤にかけたらデュークを諦める一択だ。
どうせ望みはないし、デュークはヒロインのものになるのだったら、死ぬのを回避して婚約も破棄してデュークに縛られない人生を歩む。これに尽きる。
私は揺れる馬車の中で、これからの人生設計を練りだした。