第六話 あふれ出した心
「おや、えらいかわいいお嬢さんじゃないか
兵ちゃんも中々すみにおけないねえ」
ドアを開けるなりカウンターの中からかけられた言葉に、
佐々木は耳まで赤黒くなった。
「そんな関係じゃないって言っただろう。
それに俺の事いい加減兵ちゃんっていうのやめてくれない。
もう子供じゃないんだから」
「私から見ればまだまだ子供さ、さあ突っ立てないで座った座った」
精いっぱいの抗議は、久代に軽くいなされてしまう。
「……あの、ここは」
店内を見回した木之口が不安そうに呟く。
数席のカウンターと三つのボックス席。そしてカウンターの内側の棚に
ずらりと並んだ酒の瓶。まだ開店前のせいで客の姿はないが、
女の子、しかも高校生には無縁の店であることは一目瞭然だ。
「スナック『ククル』さ、表の看板見なかったのかい」
夜の化粧をした久代のずけずけとした言葉遣いに、
木之口が身体をこわばらせる。
「あの、心配しないで、この人は久代小母さん。その、親戚でもないのに
俺の面倒を色々見てくれているんだ。
この店も飲み屋だけど、いかがわしい店じゃないよ」
「そういうことさ、さ、座っとくれ」
久代に再度促されて二人はカウンターに並んで腰を下ろす。
その前に湯気の立つ土鍋が一個づつ置かれた。
「怪我したんだから、こういう物の方が身体にいいだろうと思ってね」
「久しぶりだな、小母さんの鍋焼きうどん」
蓋を取るとふわりと暖かい湯気がいい香りと一緒にたちのぼり、
エビのてんぷらやシイタケがのせられたうどんがあらわれる。
「いただきます」
佐々木は箸をとったが、木之口は両手を膝の上においたままだ。
「遠慮しないで食べな、毒は入っちゃいないから」
「美味しいよ、これ」
二人に促されてようやく彼女は箸をとった。
一口目はいかにも恐る恐るといった風だった箸の動きが
徐々に早くなるのを見て、久代が笑みを浮かべた。
「しかし名誉の負傷だねえ、兵ちゃん」
「いや、みっともないよ。威勢よく助けに入ったのに
結局は彼女が非常ボタンを押してくれなきゃ、やられていたんだから」
「身体をはって助けに入った。それで十分さ」
「……ごめんなさい」
木之口の手から箸が滑り落ちた。
「木之口さん? 」
「私なんかあんな目に会って当然なのに、
こんなに優しくしてもらう価値なんかないのに
それなのに、佐々木さんは怪我までして……」
言葉を詰まらせた木之口の瞳に涙がにじむ。
「え、えっとだから」
「ねえ、嬢ちゃんや」
慌てて何か言おうとした佐々木をさえぎり、
久代は厳しい表情を木之口にむけると、煙草に火をつけた。
「あんたに何があってそんなひねくれた考え方をするようになったかは
知らないよ、でもあんたはおぎゃーと生まれてから今まで、
一人で生きてきたわけじゃない。
制服を見ればどうやら有名な私立女子高の生徒さんらしいし、
ご両親はさぞかし悲しいだろうね。大事に慈しんでいる娘が
こんなに自分で自分をないがしろにしている事を知ったら」
「慈しんでなんかいない!! 」
唐突に木之口が声を荒げた。
「慈しんでいたら、あんな事なんかしない」
多分、押し殺していた感情が久代の一言で爆発したのだろう
悲鳴のような声は狭い店内一杯に響き渡った。
「き、木之口さん」
佐々木の面食らった表情に、木之口はすいません、と
慌てて頭を下げた。
「でも、それは仕方がないんです。私が、子供なのに
パパに色目を使って誘惑したから……だから」
「なんだよそれは」
今度は佐々木の怒鳴り声が店内に響き渡る。
「兵ちゃん、ちょっと落ち着きな」
叫ぶだけでは収まらずに、椅子から立ち上がった佐々木の肩を
久代がそっと叩いた。
「さて、お嬢さん名前を聞かせてくれるかい」
それからうつむいて身を縮ませている木之口にゆっくりと向き直る。
「木之口、繭です」
「じゃあ、繭ちゃんと呼んでいいかい」
小さくうなずいた彼女に、久代は続けた。
「今から小母さんが尋ねることに答えたくなかったら黙っていてもいいからね。
そんな酷い事を言った人は、ご両親かい?」
「……パパです」
「そうかい」
苦いモノを食べたような表情で久代は頷いた。
「繭ちゃんのお父さんは、貴方にとてもひどい事をしたんだね」
蛇口から零れる水滴の音すら大きく聞こえるほどの張りつめた沈黙が落ちた。
二対の視線が見つめる中、木之口は小さくだがはっきりと頷いた。
「お母さんは?そのことをご存知なのかい? 」
「……ケーキと紅茶」
「はい?」
「お父さんが私の部屋から出て行った後に、必ずもってきてくれるんです。
お勉強大変ねって……」
「知って、いるんだね」
「でも、私の部屋にパパが来るようになるまえは、パパはよくママを殴ってたんです」
「どういう理由で、だい? 」
「料理の味付けがしょっぱかった、一緒にテレビを見ていて同じ所で笑わなかった、
お出かけをするときに、支度がおくれた……。でも、部屋に来るようになってから
それがなくなって、嬉しくて、だから、私がちょっとがまんすればから」
「そんな馬鹿な話があるか!! 」
再び佐々木の怒鳴り声が響く。
「親だぞ、一番子供を守らなきゃいけない人たちが……」
「ちょっと黙りな、兵ちゃん」
久代がたばこを挟んだ左手を佐々木の前に突き出す。
「まだ話の途中なんだよ。繭ちゃん、今もお父さんは
貴方の部屋に来るのかい?」
木之口が今度は首を横に振った。
「私が……過呼吸発作を起こすようになって……ご飯もあまり食べられなくなって
中学……2年の頃です。パパはぽっちゃりした子が好きみたいで……
だから、もう全て終わったことなんです。それなのに、
まだ私はいじいじとそれにこだわって、ちっとも病気も治らなくて
ママを悲しませて……あれ、私、何を言っているんだろう」
いつのまにか木之口はぼろぼろと涙をこぼしていた。
時折しゃくりあげながら
「終わったことなんです、終わったことなんです」
と同じ言葉を繰り返し続ける彼女の肩を、久代が壊れモノを触るように
そっと優しく撫でる。
「繭ちゃん、これだけは嘘をつかないでおくれ。本当に今は何もないんだね」
「はい」
「辛かったね、本当に辛かったね」
言いながらまるで幼い子供にするように、久代は木之口の肩をなでていた手を
背中にまわし、とんとんと優しくたたいた。
「そんな、私、私が悪いのに」
「そんなことあるわけないじゃないか」
激しい音を立てて佐々木が両手をカウンターに叩きつける。
酷い傷痕が残る頬に、木之口と同じように涙が伝っていた。
「木之口さんの父親は最低最悪の下種野郎だ。
自分の娘だぞ、悪い虫から守るのが役目のはずだろう。
母親だって同罪だ、自分が殴られたくないばっかりに
娘を生贄に差し出して。なんだよケーキと紅茶って……
見て見ぬふりをするよりよっぽど、よっぽどたちが悪いじゃないか!!」
「……佐々木さん、どうして、……泣いて」
「繭ちゃんの気持ちがよくわかるからだろうね」
真新しい布巾を差し出しながら、久代は言った。
「よく似た境遇だよ、あんた達二人は」
「……え?」
「兵ちゃんの顔に酷い傷をつけたのはね、実の両親なんだよ」
「そんな……ひどい」
ああそうだよ、と木之口の言葉に久代は大きくうなずいた
「この子は少しも悪くなかった。そしてそれは繭ちゃんも
同じ事さ」
「……でも私は」
「あのね、まっとうな親ってのは、たとえ年頃になった娘が
目の前で裸で寝っ転がっていたとしても、注意しこそすれ
欲望を抱くなんてことは絶対にないんだよ。ましてや
それを娘のせいにすることなんか天地がひっくりかえっても
ありゃしない。そんな事をするのは親の皮をかぶった獣さ
気付かないふりをしている母親だって同じだよ。
繭ちゃんは悪くない。このおばさんが胸を張って保障するさ」
「私……私……」
それ以上は言葉にならなかった。
カウンターの上に突っ伏して大声を上げて木之口は泣き出す。
「気のすむまで泣いて御覧。少しは楽になるからね」
まるで母親のような口調で久代は木之口に話しかける。
「えっと、あの」
「そっとしときな、今はね」
おろおろとする佐々木をたしなめて、久代は店のドアに
「臨時休業」の札をぶら下げた
続く




