第四話 ガラス瓶の中
「そうか、木之口さんが自分でタオルを返しに行ったのか」
「はい、でもあの、先生なら判ると思うんですけど、俺は口下手だし
気もきかないから、その、彼女を傷つけたり怒らせたりしまわなかったか
不安なんです……、あれから木之口さん、受診は……? 」
晩秋の短い日の最後の一かけらが燃えるような色をして窓から差し込んでくる、
坪内総合病院心療内科診察室。
壁紙から椅子まで淡いベージュで統一された室内で、
佐々木は主治医の羽場と向かい合っていた。
月に一回の定期受診日。木之口とファストフードの店で食事をしてから
1週間が過ぎていた。
「他の患者のプライバシーを喋ることはできないよ」
穏やかな口調ではあるが、きっぱりとした主治医の答えに
佐々木はすいません、と絨毯に視線を向けて口の中で謝った。
少し考えればすぐにわかることなのに、俺は本当にどうしようもない。
「佐々木君、ちょっと顔を上げてごらん」
その言葉に従えば、少し困った表情を浮かべた主治医の顔が目に映った。
「木之口さんは君と会っていた時はっきりと怒ったり、悲しんだりしていたの? 」
「い、いえそう言うわけじゃないんですけど」
「患者のプライバシーを漏らすわけにはいかないけど」
一つため息をついて、羽場医師は言葉を継いだ。
「私の目から見て、君と木之口さんはよく似ているね」
「え? 」
「人が怖くて怖くて仕方がない」
「人が、怖い? 」
繰り返した佐々木に医師は静かに頷く。
「相手が怒ったらどうしよう、悲しんだらどうしようと必要以上に思い悩むのは、
それを向けられたくないんだろう」
「……」
「そりゃあ怒られたり悲しまれたりするのは辛いけど、
まるで猛獣の檻に放り込まれたような怯え方をする必要もないよ」
「でも俺は、性格も暗いし、顔にこんな傷があって気味が悪いだろうし、それに
過呼吸発作なんて厄介な物もかかえているから…… 」
「だから存在するだけで人を不快にさせているかもしれない、かい」
言おうとしたことを先取されて、佐々木は黙り込む。
「あのね、佐々木君」
医師の表情がまじめさをました。
「私は何度も君に、傷は過去の不幸な事故で発作は
その事故が原因の心の病気だと説明したんだけどな」
「す、すいません」
「謝らなくてもいいから、覚えていてほしい。世の中いるだけで人を不快にさせる
人間なんていやしないんだよ。君がコンビニのバイトを続けていられるのがいい証拠だ」
「で、でも」
「明るく、社交的で口が上手い。世の中そんな人間ばかりじゃないさ。
私は佐々木君より性格も暗くて口下手な患者さんを沢山診てきた」
「……はい」
「君が経験したことは余りにも辛すぎて、残った傷痕も大きい。
世の中と人全てが怖くなって当然だと思うけど
もうあれから十年近くたった。そろそろビンの中から出ておいでよ」
黙りこんだ佐々木に穏やかに医師は語り続ける。
佐々木君は分厚いガラスでできたビンの中にいるみたいだね。
事あるごとに羽場医師は言う。
本当にそうだとしても、と佐々木は思う。
どうやって出ればいいのだろう。
「世の中は多分君が思うよりあったかい」
これも医師の口癖だ。佐々木はそう思ったことがないけれど。
「大丈夫、できるよ」
とさらに医師は続けて机の上にぽんとはさみを放り出した。
「……」
さっと手足が冷たくなり、鼓動が速くなる。
……怖い、怖い。でも……これは、まだ、あれじゃないから……
「ほら、はさみくらいは平気になっただろう」
「はい」
「じゃあ、いつもの薬を出しておくから。又来月、
そうそう、せっかく知りあったんだから、木之口さんと又デートでも
すればいいよ。リハビリがわりに」
「は、はあ」
曖昧にうなずいて佐々木は立ち上がる。
この医師のお陰で過呼吸発作ははさみくらいでは起こることはないくらい軽くなって
何度も背骨が折れそうなほど重く沈んだ気持ちもすくい上げてもらった。
でも今日は、簡単にリハビリがわりのデートなどと口にした彼に無性に腹立たしさを覚えた。
そんな事がホイホイ出来るなら、こんな所の世話になんかなってない。
だがその腹立たしさは表情にも言葉にも出ることはなく、
佐々木は黙って医師に頭を下げると診察室を出た。
※
「おや、兵ちゃんじゃないか。そうか、今日は定期受診の日だったね」
「久代小母さんどうしたの?どこか悪いの?」
会計待ちで座っていたソファから慌てて佐々木が立ち上がると、
「こっちも定期健診さ。なにせこの年になるとあちこちがたがきてねえ」
そう言って久代はわざとらしくそらせた腰を拳で叩いた。
19才の佐々木の母親ほどの年齢でありながら、表情やちょっとしたしぐさに
匂うような色気がある彼女は、病院とバイト先のコンビニの中間にある
小さなスナックのママだ。
「で、どうだったの? 」
心配そうに問いかける佐々木に久代はふふと笑った。
「今のところ少し血圧が高いくらいだよ。ありがとね、心配してくれて」
「ホテルのオーナーだけで十分に食べていけるんだから、いい加減に店を閉めればいいのに」
「やなこった、そんなことすればボケちまうよ。まあ力仕事をしてくれる男手が時々
欲しくはなるけれど、どこかのだれかさんはとっとと家をでていっちまったしねえ」
「……ごめん」
小母さん、と佐々木は呼んだが久代と彼の間に血縁関係はない。
だが世の中にたった一人ぼっちで放り出されたばかりの頃、
唯一佐々木に暖かい手を差し伸べてくれた人だった。
「でも俺、いつまでも世話になってるのが心苦しくて、だから」
「あー判っているよ、何度も聞いたしね。今更また一緒に暮らしてくれなんて言わないよ」
指輪のはまった右手を顔の前で振って、久代は佐々木の言葉をさえぎる。
「だけどたまには夕飯を食べにくるくらいの孝行をしてもいいだろう?」
「う、うん」
「じゃあきまりだ。スーパーによって店に行こう」
そう言って久代はさっさと受付によってさりげなく佐々木の分まで会計を済ませる。
「もう、そんな事をしてくれなくてもいいのに」
先を歩く小さな背中を見つめながら佐々木は呟いた。
両親の遺産の利息とコンビニのバイト代で、慎ましくしていれば十分に暮らしていけるだけの
収入はあるのに、この人は事あるごとに援助をしてくれる。
俺は、そんな価値のある人間じゃないのに。
「そうそう、兵ちゃんこの間駅前のハンバーガー屋でデートしてたんだって? 」
「ど、どうしてそれを」
戸惑う佐々木に久代は振り返ってにんまりとした笑みを浮かべた。
「久代さんの千里眼と地獄耳をなめるんじゃないよ、よかったねえやっと春が来て」
「そ、そんなんじゃない。た、ただ貸した物を返してもらっただけだよ」
「そこから始まる恋があるかもしれないじゃないか」
「やめてくれよ」
ついに佐々木はめったにないことだが、声を荒げた。
「恋だのデートだの……俺には一生関係ない、無縁の事なんだよ」
「そんな風に決めつけることもないだろう」
しばしの沈黙の後、ぽつりと久代がどこか悲しそうに言った。
「……ごめん、怒鳴っちゃって」
うつむいて謝る佐々木に久代は肩をすくめる。
「……怒りん坊をなだめるには、美味しいご飯が一番だね。
なにがいいだろう、寒いから鍋だね、すきやき、たらちり、キムチ鍋」
謳うように言いながら再び歩き出した久代の後を、
佐々木はいつものように地面だけを見つめてついていった。
続く