第十二話 最高のプレゼント
「もうすぐ、クリスマスだね」
「本当だ。この部屋はテレビもないから判らなくなっちゃうね。
街はきれいでしょう」
ベッドに横たわり、真っ白な顔で荒い息をつきながら
喋る木之口に、佐々木は頷いた。
街中に満ちる浮ついた空気も、
ICUの中の、さらに隔離された個室であるここまでは
入ってこれない。
壁にかかっているカレンダーの絵がらだけが、僅かに
一年で最も華やかな行事の雰囲気を微かに伝えていた。
医療機器の電子音も、慌ただしくかけ回る医師や看護師の足音も
扉を閉めてしまえば殆ど聞こえなくなる。
深い海の底のような静寂に満ちたこの部屋が、
「ヘブンズルーム」と呼ばれている事を佐々木は先日知った。
もう、助かる見込みのない患者が
最後に家族と水入らずの時を過ごせるように作られた、特別室。
昨日から木之口の口には酸素マスクがあてられるようになった。
それでも呼吸が苦しそうなままなのは、肺が酸素を取り込むことが
出来なくなっているからだ。
残された時間は、あとわずか。
お互いに判っていながら、それを口に出す事は決してない。
佐々木は妻の枕元に座って木片を削り、木之口はそれを黙って見つめて
時を過ごす。酷い傷痕が残る手の中で、木片は徐々に鳥へと姿を変えていく。
「さっきね、お義母さんがきてくれたの」
「そう」
木之口が言うお義母さんとは、久代の事だ。
彼女の実の両親は、あの日以来姿を見せない。
「あの手の人間はね、自分の罪を突き付けられると弱いんだ。
木之口さんのお父さんは自分の罪を妻に押しつけようとして
逆に妻から長年のDVを訴えられて、ついに逮捕されたよ」
羽場医師がそっと佐々木に耳打ちしてくれたが、
そんな事はもうどうでもよかった。
全ては遅すぎたのだから。
「クリスマスプレゼントは何がいいって聞かれたから
……わがまま言っちゃった」
「何て言ったの?」
笑顔で交わされる、穏やかな会話。
流れていく暖かい時間だけが、親の資格のない親の元から
命をかけて足掻らい、逃げ出した末に与えられた
ささやか過ぎる報酬だった。
「結婚式」
「え?」
聞き返した佐々木に、木之口は恥ずかしそうに笑う。
「ウエディングドレスを着るの、夢だったんです。
子供っぽいでしょ」
佐々木は首を振った。
「そんなことない。わかった、繭が退院したら
そのまま結婚式場に行こうよ。準備はしておくから」
「本当に?」
「ああ、絶対に。約束しよう」
「うん、指きりゲンマン」
絡み合う小指と小指。佐々木は胸が潰れそうな想いで
お約束の歌を口ずさむ。
「指きりゲンマン嘘ついたらハリセンボンの―ます」
同じ言葉を唄いながら、木之口の目から涙がこぼれおちる。
この約束は決してかなう事がない。
神様、神様。
ミル君が印刷されたハンドタオルでそれをぬぐってやりながら
佐々木は唇をかみしめて、心の中で絶叫する。
本当にあんたがいるのなら、こんないい子をあんな親の元に
うまれさせた償いをしてくれたっていいじゃないか。
願い事の一つくらい、叶えてくれたっていいじゃないか。
「おや、兵ちゃんもいたね。丁度いいや」
勢いよく開けられた戸に驚いて二人が振り返ると、
そこには大きな箱を二つもった久代が立っていた。
「じゃあ早速始めようか」
「お、小母さん始めるって何を」
戸惑う佐々木に
「結婚式さ。これを見て御覧」
そう言って久代は箱の一つをベッドの上に乗せる。
蓋をあけるとその中から、純白のドレスが現れた。
「……お義母さん。これ」
「知り合いからね借りてきたんだよ。
デザインはちょいと古いけど我慢しておくれ」
「お、小母さん。病院でこんなことしていいの」
「普通なら許さないんだけどね」
と苦笑しながら入ってきたのは小鉢医師だ。
「クリスマスを病院で過ごさなきゃいけない
新婚さんのささやかな願いくらい叶えてあげないと
可哀想だ。さ、佐々木君は職員のロッカールームで
着替えて。久代さん、手伝いの看護師は何人いるかな」
「そうだね、三人ほどよこしてくれないか。
さ、兵ちゃん。さっさと着替えておいで」
久代の言葉に押し出されるように、佐々木は
もう一つの箱を持って、病室を出た。
※
「うーん、もうちょっとお前に上背があればなあ」
「どうせ七五三ですよ。放っておいてください」
着なれないスーツの着替えを手伝ってくれた研修医、片の
苦笑交じりの言葉に、佐々木はぼそりと反論する。
久代の借りてきてくれたスーツは、小柄な佐々木には大きすぎて
袖や裾をだいぶ折り返して見たのだが、鏡の中に映った自分は
父親の服をいたずらで着た子供のようで、滑稽なことこの上ない。
「まあ、結婚式では新郎など刺身のつまだ。誰も見ない。
新婦が綺麗ならば万事OKなんだからな」
さらに酷い言葉で畳みかけられて、佐々木はぶぜんとした顔で
病室に戻って……息を飲んだ。
「似会うかな?」
はにかんだ笑みを浮かべて、少しおぼつかない足取りで立ち上がった
木之口は、童話の中のお姫様そのものだった。
ふわりと広がったスカートも、丸く膨らんだ袖も、透き通ったベールも
この上なく可愛らしく、美しく、彼女を飾っている。
看護師がどこかから買ってきてくれたのか、赤いポインセチアのブーケが
白一色の中で、絶妙なアクセントになっていた。
「……綺麗だ。すっごく綺麗だよ」
それ以外の言葉を忘れ果てたように、佐々木は同じ言葉を繰り返した。
「さ、ここに座ってくれ。本当の牧師じゃなくて申し訳ないが
一応洗礼を受けたクリスチャンだ」
二つ並んだパイプいすの前に、小鉢が黒表紙の聖書を抱えて立つ。
久代と研修医の片と羽場医師と、そして数人の看護師が見守る中
ささやかな結婚式がはじまった。
「佐々木兵衛。貴方は木之口繭を妻とし、
その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、
富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、
これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい」
佐々木が頷くのを見て、小鉢は木之口の方に身体を向ける
「木之口繭、貴方は佐々木兵衛を夫とし、同じことを
誓いますか」
「……は、……はい」
酸素マスクを外した苦しい息の下、
それでも木之口はしっかりとした口調で答えた。
「よろしい。神の御名の元に二人を夫婦と認めます」
控えめながら温かい拍手が一斉に沸き起こる。
戸惑ったように、しかし幸せそうに笑いながら
二人は何度も拍手をしてくれた人々に、頭を下げた。
「……指輪、なくてごめん」
キスコールに押されるように、新婦の唇にぎこちなくキスをしながら
佐々木がささやく。
「ううん。……さ、最高の……最高の……プレゼン……ありが……」
ふうわりと夫に微笑みかけ、途切れ途切れにそこまで言うと
木之口は床の上に花が落ちるように崩れ落ちた。
※
もう意識を取り戻さないかもしれないと言われた木之口が
目を開けたのは、丸一日をすぎた夜。クリスマスイブの日だった。
「……気がついた?」
両手で木之口の手を握りながら、泣き笑いの表情を浮かべる佐々木に
彼女は微かに笑い返す。その目から涙が一粒転がり落ちた。
「……うん……でも、まだ……眠いの。可笑しいね、いっぱいねむった
……はずなのに……まだ眠い」
「いいんだよ、繭が気がすむまで、たっぷり眠ったらいいんだよ」
佐々木の言葉に、木之口は小さくうなずいた。
「……ごめんね、兵衛さん……空の上で……まってる……」
「待たなくていいよ。俺、すごい爺さんになっていくから
きっと繭には判らない。だから、空の上でたっぷり休んで
また、生まれたくなったら降りてきなよ、今度はちゃんとした両親の元に」
「ううん」
木之口は微かに首を振った。
「判るよ、どんな姿になっても……私は兵衛さんが……わかる
……だって、私は……兵衛さんの、妻だから……」
ふっと木之口の瞼がおちた。
微かな力で握り返されていた手からも力が抜け、
規則正しいリズムを刻んでいた電子音が単調な一本の音になる。
「繭?」
問いかけにもう答えはない。
傍らに立っていた小鉢医師が、ペンライトで両目をてらす。
「一時三十七分、ご臨終です」
「……おやすみ、そしてクリスマスおめでとう」
片方の手で急速に冷たくなっていく妻の手を握りながら
佐々木はもう片方の手に彫り上がったばかりの水鳥の彫刻を握らせる。
今にも飛び立ちそうなそれは、まるで全ての苦しみから解き放たれた
少女の魂そのものに見えた。
第一部 終わり
もともとはとある作品の二次創作で書き上げた
作品をオリジナルに仕立て直しました。
命をかけて愛する人を守った佐々木君
彼の10年後から 第二部が始まります
引き続き御拝読をよろしくお願いいたします
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