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砂の船  作者: 杜若
10/12

第十話 ごめんなさい

「木之口さん」

「……佐々木さん」

冷たい機械音が規則正しく音を刻み、

看護師や医者が無言でせわしなく動き回る

坪内総合病院ICU。木之口は全身に管を入れられた状態で

ペッドの横たわっていた。

「……なんで、どうしてこんなことにを」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

かすれた声で呟きながら、ただ彼女は涙を流し続ける。

佐々木もそれ以上何も言う事が出来ずに、ただ

点滴に繋がれた木之口の右腕を痛いほど握り締めた。

「10分たちました、出てください」

佐々木の肩を叩いて、看護師が丁寧だが事務的な口調で告げる。

ICUでの面会は患者一人に対して1日2人、

しかも時間は10分以内と厳格に決められている。

後ろ髪をひかれる思いでICUを出た佐々木を、

羽場医師が別室へと導いた。

「ショックだっただろう、大丈夫かい」

医師の言葉に反射的にうなずいたものの、起きている事全てが

透明な壁に隔てられているような、奇妙な非現実感があった。

「失礼するよ」

再び扉が開いて入ってきたのは小鉢医師と見知らぬ若い男性。

「あの、木之口さんの容体はどうなんですか」

「佐々木君、今から順を追って説明するから、あせらずに

落ち着いて聞いてほしい、こちら、ソーシャルワーカーの小田島さん」

小鉢医師の紹介に、若い男性が軽く会釈する。

そのまま二人の医師とソーシャルワーカーは、小さな机を挟んで

佐々木と向かい合った。

「今日の午前中の事だ、木之口さんが救急車で運ばれてきた。

ホームセンターのトイレの中で、除草剤を飲んだんだ」

佐々木は息をのむ。この街でホームセンターと言えば一つしかない。

「何時頃、だったんですか」

「10時頃だな」

佐々木が店に行ったのは、11時ごろ。僅か1時間の絶望的なすれ違い。

なんで今日に限ってのんびり朝食を食べて出かけたんだろう。

「幸い発見が早くて、即死にはならなかったんだが、

飲んだ薬が問題だったんだ」

「……なにを、木之口さんは何を飲んだんですか」

「パラコート。非常に毒性が強く厄介な代物だ。はっきり言おう

命が助かる確率は、3割以下だ」

苦い表情で小鉢医師は一言一言かみしめるように、佐々木に説明していく。

「でも、意識もはっきりしていて会話もできたんです」

「それがパラコート中毒の特徴なんだよ。急性期ではないかぎり

意識ははっきりしているし、痛みも少ない。ただ肺線維症と言う

やっかいな症状をひきおこして、徐々に呼吸が出来なくなっていく」

「……そんな」

「もちろんそうならないように全力は尽くす。だが

飲んだ量が多すぎるんだ。苦味剤や催吐剤が山ほど混入された除草剤を

殆ど一瓶飲み干すなんて、多分、よほどの覚悟があったんだろう」

「そこで、君に聞きたいことがあるんだ」

今度は小田島が口を開く。

「少しショッキングな内容があるかもしれないから、君の病歴を

考慮して主治医の羽場先生にも同席しもらった」

……ショッキング、ショッキングだって、これ以上どんな

ショックを受けろっていうんだ。

ふっと虚ろな笑いを浮かべた佐々木に、小田島と羽場は一瞬顔を見合わせる。

「大丈夫です、続けてください」

「そうか、佐々木君と木之口さんの関係は、恋人。でいいかな」

 佐々木は頷いた。

「実はね、彼女は搬送された時、身元を示すものを何も持っていなかったんだ。

携帯電話も、財布もね。そしてこの紙袋をしっかり握りしめていた」

と小田島が皺くちゃの紳士衣料店の名前が入った白い紙袋を取り出し、

中身をテーブルの上に並べる。

黒にも見えそうなほど深い赤色のネクタイと、ピンクのハート形のメモ用紙

「佐々木さん、少し早いけどクリスマスおめでとう。

喜ぶ顔が見たかったけれど、ごめんなさい。

最後までめいわくかけて、ごめんなさい」

罫腺からはみでるほどのみだれた文字が、そのまま木之口の心を

露わしているようで、佐々木は喉の奥でうめき声を上げた。

「この裏に佐々木君の携帯電話の番号が書かれていたんだ。

たまたま羽場先生が救命センターの方に用事に来ていなければ、

君が来るまで彼女の身元は分からないままだった」

「もっとも、木之口さんの家に電話をしても留守だったがね」

と羽場が続けた。

「佐々木君、君はその、木之口さんとどこまで深い関係だったんだい?」

尋ねたのは小鉢である。

「どういう、ことですか」

「搬送された時に、彼女の体をくまなく診察したんだが。その、膣上部に

まあたらしい裂症があるんだ。言いにくいが、君は彼女に性行為を

強要しなかったか」

見えない手で胃を思い切りねじあげられたような感覚に、佐々木は

両手で口を押さえる。これ以上ショックなど受けようがないと思っていたのに

神様はどこまでも残酷だ。

「佐々木君、大丈夫か」

「終わったって言ったじゃないか。もう何もないと言っていたじゃないか」

独り言のように呟き続ける佐々木。

「佐々木君、申し訳ないが知っている事を全て話してくれないか」

それを痛ましげに見つめて、羽場医師は言った。


                 ※

「そうだったのか」

「親からの長期間にわたる性的虐待。これが木之口さんの病の原因だったのか

男性の私には、話しづらいな」

短くない時間をかけて佐々木が木之口から語られたことを全て話し終わると

部屋の中は重苦しい空気に包まれた。

「木之口さんの父親は、罪には問えるんですか」

「難しいな」

小田島が小さく首を振った。

「実の父親だ。本人の証言だけでは中々……。

せめて精液などの物証がとれていたら警察に連絡できるんだが」

「そうなん、ですか」

鉛のような絶望が、佐々木の背中にのしかかってくる。

ただ親と言う理由だけで、一人の女性の心と体に癒せない傷を刻んでも

罪に問われることはない。

「ただ、この話を聞いた以上、すんなりと木之口さんとご両親を

会わせるわけにはいかないな。ありがとう、よく話してくれた。

小田島君、至急児童相談所に連絡して」

「わかりました」

「俺はもう一度患者の様子を見てくる」

医師達の言葉が徐々に遠ざかっていく。

まるで下降するエレベーターに乗った瞬間のような奇妙な浮遊感があった。

「佐々木君、佐々木君、大丈夫か。佐々木君」

まるで水の中から喋っているような羽場医師の言葉を聞いたのを最後に

佐々木の意識は途切れた。


                  ※


 目を開けるとくすんだ白い天井が飛び込んできた

「気がついたのかい、兵ちゃん」

「おばさん……どうして」

「羽場先生が電話をくれたんだよ。話は大体聞いたよ。

酷い事だ。なんてひどい事なんだろうね」

声を震わせる久代に、佐々木は小さく頷く。

「おれ、気絶したの? 」

「あれだけ酷い話を聞いたんだ、当たり前だよ。

気分はどうだい?」

「大丈夫」

そう答えてゆっくりと起き上がると、看護師が慌ててやってきて

体温や血圧を一通りはかられた。

「何もないみたいだね。じゃあ帰ろうか。ゆっくりとやすまないと」

「いやだ、帰らない」

まるで小さな子供のように佐々木は首を振った。

「俺は木之口さんのそばにいる」

「兵ちゃん」

その背をなだめるように、久代は優しくなぜた。

「そうするためにはまず支度を整えないとね。

大丈夫、一度帰って色々準備をして戻ってくるくらいの時間はあるよ」

「で、でも」

「そのまま居座るなら、きっと小鉢先生に叩きだされるよ

これ以上患者を増やすなって」

その言葉に佐々木はやっとうなずいて、のろのろとダウンコートを羽織った。

寝かされていた病室はどうやら救命センターの一室だったらしい。

ドアを開けるとすぐに、なにやら言い争う声が聞こえた。

「連れて帰るなんて、無理です」

「どうして、助からないんでしょう、ならばせめて

せめて最後はうちで過ごさせてあげたいんです」

「まだ助からないと決まったわけではありません」

「でも、主人もそう強く望んでいます」

「無理です」

「私は親ですよ、子供の事を決める権利があります」

困惑顔の看護師の肩に綺麗な紫色にそめられた

爪をたてて、見覚えのある中年女性がわめいている

「落ち着いてください、木之口さん」

「弁護士を、弁護士を連れてきます」

「……木之口さん」

慌てて分厚いガラスで仕切られたICUの中を見ると

木之口が体中の管を引きちぎる勢いで、首を振っていた。

「小母さん」

「何て親だい」

忌々しげに久代は舌打ちする。

「俺、抗議してくる」

「まちな」

二人の間に割って入ろうとする佐々木を久代は押しとどめた。

「子供が一人食い下がった所で、親という絶対者には

かなわないんだよ」

「でも、でものままじゃ」

命を手放してでも逃れたいと思った親の元に、木之口は

再び連れ戻されてしまう。

「久代さんに考えがあるよ。ただし、それには繭ちゃんの

協力が必要だけどね」

わめき続ける木之口と母親と、ICUの中を交互に見つめて

久代は言った。


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