ありがとうの町
引っ越した後で『あれ?』と思ったり不満な点が見つかるのはよくあること。それは仕方がないと割り切れる。……だが、この町は異常すぎると彼は思っていた。
「ありがとう」
「おお、ありがとう!」
「ありがとぉ」
「ありがとー!」
「ありがとねぇ」
この町には『ありがとう』が溢れている。それは良いことのように聞こえるが実際は少し、いや、かなり違った。
「あら、ありがとぉ。お兄さん。はい、手伝ってちょうだいねぇ」
「あ、いや、いいんですよ……」
この町は『ありがとう』で善行を強要してくるのだ。
スーパーの前を通り過ぎようとした彼。ちょうどその時、目と鼻の先で中年の女性が停めてあった自転車をドミノ倒しにしてしまった。
あーあと思う彼。瞬間、その女性と目と目が合った。すると女性はニコッと笑い、彼に向かって「ありがとぉ」と言ったのだ。
それはもちろん、『元に戻すの手伝ってくれるのね。ありがとう』の意味。彼もそれが分かっていた。が、別に『手伝いますよ』と声をかけなければ、駆け寄ろうとも手を伸ばすことすらしていない。
なのに目が合っただけで、だ。彼は自分のことを善人だと思っていないが悪人だとも思ってない。なので無視するのはばつが悪い。駆け寄り、『手伝ってほしいと言われれば手伝ったのになぁ』と彼は釈然としない気持ちのまま自転車を元に戻すのを手伝った。
と、実はこういったことはこの町に引っ越してきてから度々あった。重そうな荷物を持ったお婆さん。目と目が合うと「ありがとねぇ」と言い、買い物袋を差し出してきた。店内で商品を探している様子のお爺さん「おい、ありがとな」と。困り、人の手を借りたい者は誰も彼も皆、『ありがとう』で助けを求めてきた。
なんで自分が……と思い、時に無視しようとしたこともあった。しかし、腕を掴まれ浴びせられる「ありがとう」そして、『どうしてありがとうって言っているのに無視するの』と信じられないものを見たかのように目を丸くし、執拗に迫ってくるのだ。
寒気を感じつつ、頭に浮かんだのはいつかどこかで耳にしたトイレの話。【いつも綺麗に使ってくださってありがとうございます】トイレ内にそう書かれた紙を掲示した結果、実際に綺麗に使われるようになったという。【トイレは綺麗に使おう】【汚すな】などではなく、ありがとうの前払い。それには魔力のようなものが込められているのだろうか。
と、このように『ありがとう』が溢れる町に、どこか息苦しさを覚えていたそんな彼であったが、ある日、転機が訪れる。
「はぁ……おっと、あ」
「ありがとう!」
「え? いや、あの、どうも」
「ありがとう」
「え、あの、ありがとう、ございます……じゃ」
「ありがとぉ!」
「え、あの」
通勤途中、うっかり財布を落とした彼。と、いっても落としたことにはすぐ気づき、拾おうとしたのだが後ろを歩いていた中年女性に素早い動きで先に拾われ、手渡された。
お礼を言ったが、その女性は財布を彼に渡した後もなぜか手を差し出したまま立ち去ろうとしない。そして、お決まりの『ありがとう』
困惑する彼。これはまさか……と背中に嫌な汗をかいた。
「えっと、まさか、拾ったら一割的なやつですか……?」
「ありがとぉ」
「え、いやいやいやいやでもだってあなたが拾おうとしなくても」
「ありがとぉぉ!」
「……はい、どうぞ」
圧に押された。それはこの女性によるものだけではない。他の通行人の目、この町全体がそういった圧をかけてくるのだ。
駅前商店街。その、のぼり。書かれているのは当然【ありがとう】そして、掲示板のポスター。看板。どこもかしこも【ありがとう】人に親切をされたらありがとう。ありがとうを大切に。ありがとうは人と人を繋ぐ魔法の言葉。ありがとうが循環する町。小学生も老人も店員もみんながありがとうありがとうありがとう。どこかで『おはよう』を強要する電車があるそうだが、それは今関係のない話。
ここはありがとうの町。ここで暮らすのなら郷には郷。ありがとうに従うしかないのだ。ありがとうありがとうありがとうありがとう……。
転機。嫌気が差した彼はついに引っ越しを決断……しなかった。そして、ある日のこと……。
「あら、ありがとぉ」
「いいんですよ。重そうですね。お運びしますよっとははは、本当に重いですねぇ」
「うふふ、お仕事帰り? 悪いわねぇ、うふふ。あっ、そこのスーパーでまだ買い物があるからここでいいわよ。ありがとね」
「いえいえ……ありがとう」
「え?」
「ありがとう」
「えっと」
「ありがとう、ありがとう」
「あっと……じゃ、このバナナを一本、お礼に」
「どうも」
そう、彼は適応することを選んだのだ。会社員を舐めるなといったところ。郷には郷。いや、業には業だ。そっちがその気でくるならこっちも対価を要求してやればいい。そしてそれがうまく行くことを知った彼は『ありがとう』を多用していった。
自販機で飲み物を買おうとした人に『ありがとう』
ケーキ屋から出てきた人に『ありがとう』
銀行から出てきた人に『ありがとう』
無論、狙い通りに行かないこともあった。『ありがとう』の応酬、睨み合いになることもしばしば。それでも続けた。楽しんでいたのもそうだがこの暗黙の制度を使わない手はない。でないと、自分ばかりが損をすることになるのだから。
ありがとう。ありがとう。ありがとうは幸福を呼び込む魔法の言葉。人と人とを繋ぐ、そして逃がさない。
しかし、そんな生活に染まり切った頃であった。
「……ありがとう」
「え?」
休日の昼下がりの町中。彼は老婆にそう声をかけられた。自分も相手も手ぶら。困った様子もないので少々面食らった。
「ありがとう」
「え、なに、ああ、道に迷ったんですか? おうちが分からなくなったとか。交番は遠いな……じゃあ、その辺の家に助けを」
「ありがとうなぁ」
「え?」
また声をかけられた。後ろから。振り向くと今度は男性で、また老人。なんの『ありがとう』なのか、彼が訊ねようとするとまた……。
「ありがとう」
「ありがとうねぇ」
「ありがとーおにいちゃん」
「ありがとう」
「ありがたやありがたや」
「ありがとうなぁ、お陰で助かるよ」
続々と、彼に群がる『ありがとう』彼の腕を、おなかを顔をまるで愛でるように撫でつけるが、その真意が分からず彼は振り解こうとしながら叫んだ。
「な、なんなんだよ! さ、触るなって! おい! だからなにを――」
「心臓が悪くてねぇ……」
「膵臓」
「肝臓」
「肺」
「腎臓」
「眼球」
そう、ボソッと口にした彼ら。臓器移植――そんなの適合するかどうか。などと言っても狂気に満ちた笑みを浮かべる彼らが聞き入れるとは思えなかった。後ずさりする彼。そして走り出した。
「ああっ! ありがとう!」「ありがとぉぉ!」「ありがとう!」「ありが!」「ありがとう!」
ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうが追って来る。
彼は伸びてくる手を払い除け、突き飛ばし、必死に走った。ありがとうに人生を奪われる。こんなことあっていいはずがない。彼は誰か、誰かと助けを目で探し、そして見つけた。青い制服を。
「ああ! ありがとう! じゃない、お巡りさん! 助けてください! あの人たちが――」
「……ありがとう」
「はい?」
「暴行の現行犯……」
「そ、そうです! あの連中が……」
「自ら来てくれて……」
「え、は? え? おれ? いや、突き飛ばしたけど、でもそれはあいつらが――」
「ありがとう」
「え、いや、なんの――」
「凶悪犯……前からぁ撃ってみたかったぁぁ銃をぉ撃たぁせてぇくれてぇありぃがぁとおぅぅぅ」
ありがとうが巡り巡り溢れる町。適応したつもりが自分は異物だったのか。それともみんな、強要され無理をしていたのだろうか。憎しみに満ちた警官、それに取り囲む人々を前に彼は考えたがわからなかった。
ありがとう。ありがとう。巡り巡る、循環する血液が今、止まった。