テントの環境
とりあえずマダムがどういう存在なのかを理解した様子のセルビアに、マダムが話しかけた。
「セルビアちゃんは、ここにサーカスがいる間だけのお手伝いで仕事に来てたんだろう?」
「はい」
どうやらマダムの方はセルビアの事を知っているらしい。
どこかから見られていたのか、情報だけを知っていたのか分からないが、その言葉に間違いはないのでセルビアがそれを肯定すると、ニコルがマダムに言う。
「そうだよ。だからここには案内しなかったんだ。でもこれから一緒に旅回りすることになったから……」
さっきニコルがこれからは名前で呼んでほしいと言ったが、どんなに親切にしてくれていても、やはり他所者として扱われていたということらしい。
マダムの言葉を聞いたニコルが、慌ててセルビアたちを連れてきた理由を述べていることからも容易に想像できる。
そこはニコルも他の人たちもきっとシビアなのだろうし、同じことをこれからはセルビアも意識しなければならないということだろう。
例えここに戻ってきて両親と会うにしても、この場所に気楽に呼ぶことはできない。
つまりこれまでの宿の時みたいにはいかないということだ。
「安心しな。団長から聞いてるし、ニコルが勝手をしたんじゃないって知ってるさ。そんなわけで、ここはみんなの居住空間なんだ。これからセルビアちゃんもここで生活することになる。特殊な環境だけど、早く慣れてもらえたら助かるよ。他にも皆のご飯の支度をしたりとかしているから、大体この中のどこかにいるし、私がいなくても他の誰かが留守番してるから、何かあったらここにきて人を呼びなね」
「わかりました。ありがとうございます」
マダムはここの番人で、何かと世話を焼いてくれる人らしい。
家にいる時や宿の時みたいに食事の支度なんかを手伝った方がいいのだろうかと思ったけれど、これからのセルビアは販売の仕事がある。
それに勝手が違う可能性もあるので、あまり手を出さない方がいいのかもしれない。
とりあえずその事については自分が休みの時にマダムに聞くのがいいだろう。
とりあえず新しい生活において必要な事を覚えるのが先だ。
セルビアは懸命に頭を働かせるのだった。
「そんな、入口に突っ立ってないで、中に入って荷物を置いてきたらどうだい?ニコルも、そのために来たんだろう?」
背中に荷物を背負って引っ張られてきたセルビアもニコルも動く様子がないため、マダムがそう言うと、ニコルが慌てて言った。
「そうだ、ごめんね。入って」
「はい、失礼します……」
さっきまでのテンションが嘘のように落ち着いたニコルがそう言うので、セルビアは一言断りを入れて奥に進んだ。
グレイは吠えも鳴きもせず、やはり黙ってついてくる。
そんな二人と一匹の様子を、椅子から動くことなくマダムは見送ったのだった。
奥に進みながらニコルはセルビアにこの場所の説明を始めた。
さっきマダムが言っていた通り、ここは団員の居住空間で、入口から入ってすぐの広い空間は皆が集まる場所、その隅っこにはキッチンのようなものが見える。
その奥に布で仕切られた空間があって、その先が皆の部屋のようになっているという。
そして仕切りの数や場所や幅を変えることでプライベート空間を維持しているけれど、家や宿のように壁があるわけではないし、音などは筒抜けになってしまうので、騒いだりはしないようにということだ。
とりあえずニコルに言われた仕切りの部屋の一角に荷物を置いたセルビアたちは、マダムのいる皆が集まる場所と言われたところまで戻ることになった。
そんなに広いわけではないし、仕切りは全て布なので、この場所の声も全て中に聞こえているだろうが、一応これがルールと言うかマナーということになっているそうだ。
ニコルからそんな最小限の説明を受けながら、話をしても大丈夫な空間に戻ってきたセルビアは、深呼吸してから言った。
「テントにあんな空間があるなんて思わなかった。みんな宿に泊まらないで、このテントに泊まってるの?」
自分が仕事を終えて帰った後の事は何も考えていなかったけれど、終演しても皆は街に滞在している。
つまりどこかに宿泊しているはずなのだが、それがどこか、セルビアは聞いたことがなかったなと、尋ねると、ニコルが答えた。
「その時によるけど、団員の半分が宿で半分がテントか、全員がテントかのどちらかだね。テントに動物たちがいるから、あの子たちの世話のためにテントに誰かは残らないとダメなんだ。動物を含めた皆が泊まれる大所帯を受け入れてくれる所って、滅多にないからね。どちらにしてもテントの部屋での生活は必須になっちゃうんだ。だからテント生活に早く慣れた方が楽だよ」
「そうなんだね。わかった」
グレイは一匹だったから一緒に泊まることを許されたけど、これだけの動物がいたら宿も受け入れられないだろう。
貸し切りにしたとしても、動物たちが窮屈になってしまいそうだから、それなら空き地のテントに残った方がよさそうだ。
セルビアとしてもグレイを置いて一人で宿に行くより、グレイと一緒にテントにいた方が安心できる。
そう考えて足元にくっついているグレイを見下ろすと、その視線に気づいたのかグレイは顔を上げて首を傾げた。
「くぅ~ん?」
どうしたのといった感じだろう。
セルビアはグレイの背中をなでると言った。
「私はグレイと同じ部屋の方が安心かな。テントの部屋のことはよく分からないけど、その方がいつも通りな気がするんだ。一緒にいて問題ないかな?」
セルビアがニコルに尋ねると、ニコルがグレイを見下ろした。
「そっか。セルビアちゃんは宿よりグレイと一緒の方がいいんだ。確かにそうだよね」
「うん」
これまでもずっと一緒にいたのだ。
そう聞かれたら肯定の一択になる。
「えっと、とりあえず慣れるまで私と一緒にって思ったんだけど、グレイは大丈夫?」
「ニコルちゃんと一緒?」
セルビアが質問するとニコルはうなずいた。
「うん。次からはちゃんと仕切るけど、もう明日出発だから今から仕切りを変えるのはちょっと手間なのもあって……」
明朝には片付けをしてこの街を出る。
当然テントは畳んでの大移動になるため、どちらかといえばもう片付けの体勢に入っているのだ。
準備できないわけではないが、仕切りを変えるために必要なものを取り出すのは手間だし、撤去の労力も増えてしまう。
何より初日の夜ということもあって、ニコルがセルビアと一緒に過ごしたかったのだ。
それもあってニコルはセルビアと一緒にと考えたのだが、言われるまでニコルはグレイの存在を失念していたのだ。
「よくわからないけど、ニコルちゃんと同じ部屋ってことでいいのかな?」
これまで家があり、宿に泊まっていたセルビアとニコル達との感覚は違うだろうが、とりあえずその感覚で間違ってはいないだろう。
けれど変な期待を持たせるわけにはいかないので、ニコルはどうなるのか伝えることにした。
「そんな感じかな。とりあえず今日はさっき荷物置いてもらったとこで一緒に寝ることになるんだけど……」
特殊な環境だとか、早く慣れてほしいと言われたが、これもその一環だろう。
テント生活というものの想像がつかないけれど、仮にそれが大変なものであっても、セルビアはそれに慣れるしかない。
ここを出ても行くところがないし、今のところ不満はないのだ。
少なくとも人間関係は良好だし、グレイといることだって了承してもらっているのだから、これ以上を望むのは贅沢だろう。
「大丈夫だと思う。ニコルちゃんはグレイがいても大丈夫?」
グレイと離れないことを前提に確認するセルビアに、ニコルはうなずいた。
「私は平気だよ。ずっと動物たちと一緒にいるからね。むしろ動物の方がそういうのに敏感かなって思ってさ」
売店にいるグレイを見る限り、特に寝床で騒ぐようなことはしなそうだ。
ニコルとしてはグレイがいい子なのを知っているので、周囲に迷惑をかけなければ問題ない。
けれど動物は環境の変化に敏感だ。
それを知っているので、ニコルはむしろグレイの方を心配した。
「グレイは大丈夫だよね」
「わぅわぅ!」
気を使ってか少し控えた返事だが、いつもの肯定の返事なので、セルビアはそれを了承したものと判断してニコルに言った。
「大丈夫みたい」
「そっか。じゃあ今日はよろしくね」
ニコルがグレイの頭に手を伸ばすと、グレイは大人しく頭を撫でられるのだった。




