トラさんの脱走
グレイに引っ張られるようにして通りに出ると、近くから悲鳴が聞こえてきた。
「なんだか騒がしいわ。早く宿に戻りましょう」
母親はそう言って近づかない方がいいと言うが、それでもグレイは騒ぎの方にセルビアを引っ張っていこうとする。
セルビアも母親の言う通りそうしたいと思っているが、グレイの引きが強いので、セルビアはよろける形でグレイの方に誘導されてしまうのだ。
両親は引きずられていくセルビアの後を追うことしかできない。
そうして曲がり角から大きな通りに出ると、悲鳴はもっと大きなものになる。
悲鳴と共に人垣の割れた先を見ると、先ほどサーカスにいたトラの姿がそこにあるのだった。
騒ぎの声は聞こえるものの、その原因が分かっていなかったこともあり、大きな問題ではないと油断していた部分も大きかった。
セルビアに続いて通りに出て、目の前にいるものを見た母親は、悲鳴とも息をのむとも、何とも言えない声を上げた。
「ひゃぁ!」
そして足がすくんだのかその場から動けなくなっている。
「セルビア!」
父親も慌ててセルビアを追おうとするが、妻が自分の服をつかんでいることで足止めされることになった。
急いで引き離そうと試してみたものの、想像以上の力でつかまれている上、離す様子はない。
勢いでつかんだまま、動けなくなってしまったのだろう。
そのため父親も足を止めるしかない。
その間も父親は何度もセルビアに呼びかける。
けれどグレイに引っ張られていくセルビアとは距離ができる一方だ。
途中、セルビアは父親の呼びかけに気づいてそちらを向いたものの、グレイの力が強いのか、足を止めることはない。
そしてセルビアはどんどん目の前にいるドラの方に近づいていく。
父親の呼びかけがきっかけで周囲も遅れて異変に気付くが、助けるにしても獰猛な動物を目の前に誰もが動くことはできずにいた。
そんな状況が続いて、ついにグレイはセルビアがトラに触れる距離まで来ると、ようやく一鳴きしして、咥えた服を離す。
セルビアがグレイに気を取られている間に、サルはどこかへ行ってしまったようだ。
トラが怖いから逃げたのか、グレイに任せればいいと考えたのかはわからない。
でも、グレイの意思は変わらないようだ。
「サーカスのトラさんがなんでこんなところにいるの?」
グレイによってトラの前に付きだされる形となったセルビアは呆然と立ち尽くしたままそうつぶやいた。
「セルビア、危ないわ。戻っていらっしゃい!」
「でもグレイが」
離れた場所から母親が叫ぶが、そうしようとすればまたグレイがセルビアの服を引っ張る。
そしてセルビアが仕方なく動かずにいると、グレイがトラと何か話し始めた。
「わうわう」
「がうぅ」
「ちょっとグレイ、待ってよ、どうしたの?」
セルビアがグレイに声をかけると、グレイはその場に座って大人しくしているトラに近付いて首元を鼻先でつついた。
「くう~ん」
「がうぅ」
模様のせいもあるが、トラは顔をしかめてているように見せる。
「くぅーん」
グレイはそんなトラの首輪に噛みつこうとしているが、うまくいかないのか、悲しそうな声で鳴く。
トラに動く様子がないので、セルビアがグレイの方に寄ると、グレイはまた、鼻先で首輪のところをつっついて、そこを見てほしいと訴えた。
さすがのセルビアもグレイの様子からそれを察して、首輪のところを覗きこむ。
すると、トラの首に食い込んでいて、擦れたところから血がにじんでいた。
「もしかして、苦しいの?」
セルビアがそう言うとトラはセルビアの方を見て一声鳴いた。
「がうっ」
「緩めればいい?」
「わうわう」
セルビアがトラに一応声をかけてみると、代わりにグレイがそれを肯定するように吠えた。
「わかった、やってみるよ」
「わうわう」
セルビアがそう言うと、グレイは嬉しそうに吠える。
グレイとトラの意思を何となく確認できたセルビアは、傷の付いているところからぐるっと首輪を見て留め具を探した。
確認したら留め具はトラの首元にあり、穴でサイズを調整するベルトになっていることが分かった。
これならば自分でも何とかできそうだと、セルビアは首輪に手を掛けた。
「えっと、動かないでね」
「ぐぅ~」
ベルトのようになっているので金具を外す際、一度ベルトをきつくする必要がある。
けれどベルトに触っただけで苦しさが増すのか、トラは唸り声を上げた。
そして体を捻ろうとする。
「ちょっとだけ我慢して。すぐ終わるから」
セルビアはそう言い聞かせると、短時間で終わらせようとベルトを一気に引っ張って、金具を外すと、苦しくなさそうな穴に金具を通して締め直した。
ちょうどいいところではなく、セルビアの指が数本通るくらいの隙間ができるくらいのゆるさにした。
これなら首輪が抜ける事もないし、きつくもないはずだ。
「これで大丈夫?」
セルビアが確認すると、トラは首を大きく振ってから、一鳴きした。
「ぐるぅ~」
「どうしたの?」
セルビアが何を言いたいのかよくわからないと首を傾げると、グレイが足元にすり寄ってきた。
そしてさっきも鼻先で突っついていた場所をまた突っつく。
「わうわう」
グレイが元気に鳴くので、セルビアはさっきの声がトラの猫なで声なのだと気がついた。
「ありがとうってことかな。あー、さっきのところ痛そうだね。さっき血がにじんでたとこ、深い傷になっちゃってる」
セルビアがそう言うと、そうなんだと言いたげにトラが唸った。
「がうう~」
「ずっと痛いの我慢してたんだね」
ここまで近付いて首輪まで緩めたことで、恐怖心を感じなくなったセルビアは、傷に触らないようトラの頭を撫でた。
傷がつく状態で首を絞められ続けていたから、ずっと苦しくて、耐えきれなくなって助けを求めたか、身体のやり場がなくなって、外に出てしまったのかもしれない。
セルビアが首輪でついた痛々しい傷を見ながらそんなことを思っていると、トラは嬉しそうな声で鳴いた。
「ぐるぅ~」
トラは感謝の仕方を変えることを思いついたのか、撫でられたのが嬉しかったのか分からないが、首を動かして、セルビアの体に自分の頬をこすりつける。
離れた場所から多くの人が囲むようにその様子を見ていたが、女の子がトラに危害を加えられることはなさそうだと安堵したのか、少し警戒を解いていた。
けれど大きな動物の扱いに慣れているわけではないだろう彼女が、未だ危険なことは変わらない。
とはいえ自分が近付くのはやはり怖いし、大きな声を出して彼女にはなれるように言ったら逆に刺激してしまう可能性がある。
多くの人たちが対処のしようがないと、不安そうにその様子を黙って見守ることしかできないでいたのだった。




