魔法使いより愛をこめて
ハルは目覚めると、見知らぬ部屋に閉じ込められていた。
ひとりでベッドの上に寝かされている。手足がこわばって、なかなか思うように動かない。身体がずしりと重く、上体を起こすのもままならない。
いったい、どうなってるのだろう。
混乱して頭が真っ白になった。
「ねえ、だれか」。自分の声とは思えない、弱々しいうめき声が静かな部屋に吸い込まれていく。
父と母は、今頃どうしてるだろう。
ハルは思い浮かべた。短気な父さんが、馬鹿娘がどこ行った!と怒鳴り散らす姿を。心配性の母さんが、必死に近所を探し回る姿を。ああ困った。早く家に帰らないと。
でも、ここはどこだろう......?
外は明るいので、まだ朝か、昼間らしい。カーテンの隙間から強烈な陽光が差し込んでいる。
窓の外から、シャーシャーと虫の鳴き声が聞こえてきた。蝉の声だと思うけど、耳慣れない鳴きぶり。気ぜわしくて激しい。油蝉でも、ミンミン蝉でもない。
ここは生まれ育った土地とは違う、という思いがよぎる。それならば、誰もあたしを助けてくれない......。
戸惑いのなかで、感覚が薄れていく。体がだるい。まぶたの重さにさえ耐えられない。ハルはやがて、目を閉じた。
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再び意識を取り戻すと、ベッドのかたわらに女がいた。
青色のパジャマを着た、背の高い女。じっとハルの様子を見つめている。
ハルは、かぼそい声をあげた。
「ねえ、ここを出して。帰りたい」
女は小声でこたえる。
「大丈夫。ここにいれば、安心ですから」
大柄な体に似合わない、猫なで声。
すこしも安心じゃない、とハルは思った。とにかく両親に会いたい。我が家が恋しい。母のつくるご飯を食べたい。そんな思いばかりが胸を突く。
涙をうかべ、見知らぬ女に懇願した。
「おねがい。ここを出して。あたし、何も悪いことしてないでしょう?」
女は硬い笑みをつくった。
「......もう少ししたら、きっと帰れますよ。あとちょっとだけ、辛抱してくださいね」
ハルは直感した。この女は嘘をついている。
あたしを帰す気なんて無い。あたしを騙そうとしている。この女は信用できない。きっと“見張り”に違いない。
ふいに、部屋の外が騒々しくなった。
ドアのすぐ向こう側で、誰かが繰り返し叫び声を上げている。見張りの女の顔が引きつり、慌てて部屋の外へ出ていった。
響き渡る奇声はそのうち途切れ、そらぞらしい静けさだけが戻ってきた。
この先、自分はどうなるのだろう。ハルは恐怖に身がすくんだ。
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次に意識を取り戻したとき、窓の外は薄暗くなっていた。不安と孤独がいっそう募る。
ふいに、ベッドの隣に見知らぬ男が腰かけているのに気づいた。
しゃれた欧風の杖に両手をのせ、柔和な表情でハルを眺めている。もう何時間も、そこで待っていたかのように。
「お目覚めかな?」
男はハルの耳元で、つぶやいた。
優しい声だった。なぜだろう、この男は敵ではない気がする。
ハルはおずおずと問いかける。
「あなた、誰?」
男はやさしく微笑んだ。
「僕はね、魔法使いなんだ」
「まほう?」
「そう。君を助けるために来た。僕は、すぐれた魔法をもってるからね」
ハルは眉をひそめた。魔法なんて、さすがに人をばかにしている。
「嘘おっしゃい」
「本当だよ。僕は魔法使いだ。だから、僕は君のことは何でも分かる」
彼はいたずらっぽく目をつむり、ハルの肩に触れた。
「ほら、分かった。君の好きな色は、橙色。そうだね?」
たしかに、ハルは橙が好きだった。ミカンみたいな、やさしい色の橙が。お洋服も、鞄も、晴れのものは、みんな橙色を選んだ。でも、橙色が好きな女なんて、ありふれてる。
「あてずっぽうでしょ。からかっちゃ嫌」
魔法使いは「いかさま扱いとは、容赦ないな」と笑った。
「他にも分かる。君の好きな食べ物は、卵焼きだろう。とびきり甘くして、ふんわり仕立てたもの。朝ごはんには卵焼きがないと許せない」
すこし驚いた。そのとおりだった。恋しくてたまらない母の味。たまの御馳走も良いけれど、毎日食べるあまい卵焼きが一番。朝は、ごはん、みそ汁、卵焼きと決まってた。両親と囲む朝食の風景を、昨日の事のように思い出す。
魔法使いは愉快そうに話をつづける。
「君は読書も好きだ。好きな本はバァネットの『秘密の花園』。洋書嫌いのはずのお父さんが、なぜか気まぐれで買ってきた。ずっと大切にして、大きくなってからも繰り返し読んでる」
ハルは思わず、声を上げて笑った。すごい。なんで知ってるの。
愉快だった。心の霧が晴れていく。魔法使いは、あたしのこと、何でもわかる。この人は、何だってわかってくれる。それが嬉しかった。
「ねえ、ほかには?」
ハルはせがむように尋ねた。
「そうだな――君の好きな季節は、秋だね。名前がハル、愛読書が『秘密の花園』なら、きっと春が好きになるはずなのに。でも、君は秋のほうが好きなんだ。ひねくれものだね」
彼はおどけたように言った。
そうだった。あたしは秋が一番好き。あの高い空。ひんやりした空気も。色味を帯びる木の葉も。ちょっぴりの憂いも。大好きな季節。自分ですら忘れかけていた感情が、胸のうちに帰ってくる。
「――さ、これで分かったろう。僕の魔法は本物だ」
ハルはもう言い返さなかった。ただ、この人を信じたいと思った。
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そのあとハルは、とりとめのない話をした。奇妙に鳴く蝉や、青いパジャマの見張りの女、廊下から聞こえた叫び声について、感じたままに不安を吐露した。
魔法使いは、心配ないよ、と請け合った。「ここは不思議の国だから、ついつい不思議なことが起きてしまう。そういう場所なんだ」
ささやかだけれど、大切なおしゃべりだった。ふいに、魔法使いは思い出したように時計を見る。
「今日はもうおそい。明日、また君を迎えに来るから。それまで、じっくりおやすみ」
「...ひとりにしないで」
ハルが不安な顔で言うと、男は杖を得意げに杖を揺らした。
「大丈夫。僕の魔法が、君をしっかり守ってる。誰も君をおびやかさない。だから安心して眠るといい」
男はそう言うと、ハルの手を握った。魔法使いの手から、懐かしい温もりが伝わる。
あたし、以前にもこの魔法使いと会った気がする。何度も何度も、この人に助けられたことがあった気がする――。
ハルはそんなふうに思いながら、安らいだ気持ちで目を閉じた。やさしい眠りが、からだを包み込んでいく。
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魔法使いの男は、ハルがすっかり眠りにつくのを待った。寝息を立てる彼女の肩にやさしく触れると、そっと立ち上がる。
部屋から出たところで、魔法使いの男は、背の高い女に出くわした。男が会釈すると、彼女はにこやかに話しかける。
「あら後藤さん、こんばんは。
奥さま、ご機嫌いかがでした?」
男は柔らかく微笑む。いかにも人の好さそうな、しわくちゃの顔の爺である。
「ああ、おかげさまで。前よりは調子がよさそうだ。まあ、六十年つれそった旦那の顔は、あいかわらず忘れてるようだけども」
男は、さらりと答えた。寂しさよりも、愛おしさがにじむ口調だった。
「奥様、旦那さんがいないときは、やっぱり不安で仕方ないみたい。毎日のように『ここから出して』っておっしゃって。私は、じきに出られますよ、としか言えないんですけれど」
「ご迷惑かけます。本当に、はやく出られたらいいんだけども。秋口には、なんとか体調が戻ればね......」
表通りの銀杏並木が色づく頃には、妻を連れて散歩がしたいと思っていた。
「きっと良くなりますよ。すてきな旦那さんがついてるんだから。ほんと仲が良くって羨ましい」
男はふと、彼女の着ている医療者用の青いシャツに目をとめた。
青いパジャマの見張りの女――彼は思わず苦笑する。最近は、ナースさんが白衣を着てないことが多いから。
「それじゃあ、後藤さんも、お体に気をつけてくださいね」
「ああ、どうも。そのうち僕のほうが先に逝くかもしらんですけど。ふふ。なるたけ長く会いに来られるよう、せいぜい気張ります」
男は律儀にお辞儀をすると、ゆっくり杖を突きながら病棟を歩いていく。
病院から外に出て、薄暮の空を見上げた。
ふわりとした風が、皺だらけの彼の頬をなでる。まだ夏の暑さが残っているけれど、ここ数日、夕方には涼しい風が吹くようになってきた。
妻の大好きな季節が、今年も近づいてくる――。