女子高生の自殺を止めなかったら説教された話
マンション屋上のベンチに一人座り、図書館で借りた文庫本を読んでいると……小さな足音。人の気配があった。
顔をあげて目尻にぼんやりと映ったのは、白いセーラー服の後姿と高く纏めたポニーテール。俺とそんなに変わらない背丈からいくと女子高生だろう。
そんな女子高生のありきたりで、でも印象的な後姿が柵の方に向かって行く。夕焼けでも眺めるつもりだろうか。
ご近所づきあいは殆どしてないので知らないが、多分同じマンションの子なんだろう。
それにしても……
赤みが差して来た黄昏の空を背景に、アルミ柵にそっと手を置く一人の少女。
なかなかに絵になっている。
……おっと、あまり見つめては失礼だし、本でも読もう。
どこまで読んだか探っていると、また音がした。
軽い金属を叩いたような、少し耳障りな音。
反射的に顔を上げると、女子高生が柵に手をかけ、脚を上げている。
まさか……いやもしかして。
彼女は飛び降りようとしている?
何かの間違いだとも思ったが、たどたどしい動きのままに彼女は柵を乗り越えていく。
ついには柵の向こうに全身が入り込んでしまった。
これはもう、どこからどう見ても確定だ。
この子は自殺しようとしている。
……こういった場合俺が本来やるべきことは決まっている。
駆け寄って「馬鹿な事は止めろ」と優しく諭すのだ。その後の台詞はなんでもいい「生きてればいい事がある」とか「俺も昔は大変だった」とか「もう少しだけ死ぬのを待ってみないか」とか。
そうやって若い命を散らそうとする少女を必死に引き留めようとする事は、場に居合わせてしまった俺に課された義務といっても過言ではないだろう。
しかし、俺は金縛りになった様に動けなかった。
後ろ手に柵を掴んで、今にも落ちそうに震える少女の姿を見守る事しかできないでいた。
なぜなら……俺には分からないからだ。
彼女がどういった経緯で自ら死を選んだのかも、彼女がどれだけ思い悩んでいるのかも。
そうだ。彼女とは初対面だし、もっと言えば後姿しか見ていない。
そんな彼女の悩んだ末の結論を、何も知らない他人の俺が「馬鹿な事は止めろ」なんて知った風な口を利いてしまっていいのだろうか。
大した苦労もせず、平坦でろくでもない人生を親に依存しながら適当に送ってきた俺が、「人生なんて死ぬまでの暇つぶし」が座右の銘の俺が、「生きるの面倒くさいなチクショー」が口癖の俺が、偉そうに彼女の決断を止めてしまっていいんだろうか。
もちろん彼女の行いは一時の気の迷いかも知れないが、悩み抜いた末の答えなのかもしれない。
そりゃ俺にだって、社会的コンセンサスからいったら止めた方がいいというのは分かる。
だがそれでも俺は……
「――何で止めないの?」
呆れたような声に思考が途切れた。
遅れて、どうやら飛び降りようとする女子高生が俺に対して言葉を発したと理解が追い付いてくる。
何で止めないの。
つまり、あれか。狂言自殺という奴か。
肩の力が急に抜けて、椅子から転げ落ちそうになった。
「何で止めないのって聞いてるんだけど」
柵の向こうの細い横目に睨まれ、目が合った。
お世辞にも可愛いと思えないふてぶてしい顔立ちだったので、俺は勝手に虚無を憶えた。
「ねぇ。聞いてる?」
「……えっと」
答えあぐねていると、彼女は柵を乗り越えて俺へと近づいてくる。
腕組みを作って憮然と見下ろして来る。
人の心を勝手に揺さぶって弄んだ癖に偉そうな態度だ。
「答えてよ」
「……えっと……どのくらい悩んでるか分からなくて」
「は? 死ぬほど悩んでたら相談乗るでしょ。フツー」
いろいろ言いたいことはあるが、正論と言えば正論だ。
こういう直情的で当たり前の言葉を何の躊躇も無く発する事が出来る人は、たくましく人生を生きていけそうで羨ましい。
……いや、狂言自殺をするくらいだから、どのみち彼女も何らかの苦悩があるのだろう。
この際だから聞いてみるか。それくらいの権利は俺にもある筈だ。
「どうしてあんな事を?」
「構って欲しいから」
「でも、危ないじゃないか」
「危ないと思うなら助けてよ」
なんだろう。
滅茶苦茶な事を言われている筈なのに、こっちの方が間違っているような気がしてきて調子が狂ってしまう。
何か言い返したかったが、言葉が出てこない。
なにせ母親以外の女性とまともに話すのは久しぶりの事だ。
女子高生の方を伺い見てみると、呆れ顔になっている。
「おじさん。言わせて貰うけどさ……」
「はあ」
「女子高生が自殺しそうになってたら、普通まず止めるでしょ? 今まで4回やったけどみんな助けてくれたよ?」
「4回も……」
「ホントびっくりしちゃった。全く助ける気配が無いんだから。この遊びも最後にしようと思ってたのに、最後の最後でハズレ引いちゃったね」
流石にムッと来たので、軽く眉根を寄せて睨み返してやった。
「そうやって人を馬鹿にするのは止めた方がいいよ」
「だからもうしないって。人の話聞いてる?」
俺は溜息を思い切り吐き出した。
自分は常に被害者で正しいとナチュラルに信じていて、少しの反省もしない。
こういう人はたまにいる。
前の仕事の専務がそんな人だったな。
もう一度溜息を吐き直すと、
「とにかく、自殺しそうになってる人がいたらちゃんと助けなよ。あなたもういい年した大人でしょ? 苦しんでいる人がいたら助けになってあげないと」
「じゃあ俺が自殺しそうになってたら、君は助けてくれるの?」
「助けるわけないじゃん。何でおっさんなんか助けないといけないの?」
「おっさん差別だ」
「差別じゃなくて区別だから」
「どっちも似たようなもんじゃないか」
「全然違うから」
鼻で笑ったら、鼻で笑い返された。
俺は彼女の事が心底嫌いになりつつあったし、彼女も俺の事を嫌っているのだろう。
でも変な話、彼女との会話には奇妙な心地よさがあった。
既に嫌われ切っているのだったら、これ以上嫌われてもいい気がした。
嫌われていいなら、変に気を使う必要はないのだ。
いつも人の顔色ばかり窺って嫌われないようにしてきた俺にとって、いつぶりか以来に味わう新鮮な無敵感であった。
そんな無敵感に一助を借りたお陰か、
「何か悩みがあるなら聞くけど?」
普段だったらとても言えない様なちょっとキザな台詞が口をついて出た。
「別に。ただ遊びでやってただけだから」
「危ないし迷惑だから、二度とやらないように」
「はいはい」
ふと彼女の白いセーラー服が、薄オレンジ色になっている事に気付いて顔を上げた。
いよいよ落日が近いようだ。
「……それにしても、随分と綺麗な夕焼けだね」
「そうね」
本当にきれいな夕焼けだった。
燃えるようなオレンジの日輪が雲に燃え移り、色彩と立体感を、命までをも与えているようだ。
冷たいベッドタウンの街並みも紅をさしたようで、有機的な温かさがしみ込んでいる。
生まれて来なければ良かったと思う事もある俺だけど、この景色を眺めている今この瞬間だけは生きてて良かったと、ほんの少しだけ思える気がした。
そういう想いを口に出してみようかなとも考えたが、流石に恥ずかしいので止めておいた。
「おじさん」
「なに」
「何度も言うけど自殺しそうになってる人がいたらちゃんと止めないと駄目だよ。人として当然の事でしょ?」
「はいはい」
「はいは一回」
「うん」
適当にはぐらかすと、少女は唐突にセーラー服を翻して、さよならも言わずに階段を降って行った。
俺はそんな後姿に見惚れるでもなく、今更に本にしおりを挟んで閉じ、また息を吹き上げる。
そして自問する。
もし俺がまた……自殺しようとする人に出会ったとしたら、彼女の言う通り助けた方がいいんだろうか。
社会的なコンセンサスでいったら助けた方がいいというのは分かるが……俺はやはり、人の自殺を止められる程度のポジティブさは持ち合わせていない。
しかし、そうやって何もせず人を見殺しにする態度も間違っているような気がしてくる。
いくら考えて見ても答えは出なかったし、出そうにも無かった。
それでも顔を上げてみたら相変わらず夕焼けは綺麗なままで、俺はその事が堪らなく悔しくなった。




