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腕の痛みは無いのだが、指先から徐々に消えていく様は、異様に気持ち悪かった。
月夜は民家の塀に背を預け、自身の左腕が消える様子を見つめていく。
苦痛があれば耐えられるのだが、痛みも無く感覚が消えていくというのは、何にも変えがたい苦痛だった。
まるで霧が晴れるように、月夜の左腕は、肩口から消える。
支えを失ったローブだけが、力なく垂れ下がった。
同時に、例えがたい苦しみも去り、月夜は大きく息を吐いた。
「痛みは無かったでしょ?」
無邪気にそんなことを言うのは、いつの間にか月夜の隣に立っている、人間の姿をした神城だった。
月夜は神城の顔を見るなり、勢いに任せて神城へ突撃する。
「うわあっ!」
神城の悲鳴も聞かず、月夜は神城の後頭部を押さえながら倒れ、そのまま神城へ馬乗りになった。
「わ、分かった! 声は出せるようにするから!」
神城は月夜の言いたいことが分かったのか、ポケットからペンを取り出し、月夜の額へ向けた。
月夜は、喉の奥に息が通る感覚を味わう。
喋れるようになったのだと、すぐに分かった。
「てっめえ、よくも急に声が出ねえようにしたな!」
「だ、だって簡単に終わりそうだったから……何かごめんなさい!」
今までの揺るがない態度はどこへ行ったのか、神城は怯えながら話す。
やっぱり犯人は神城だったかと、月夜は思った。
「ふう……まあ良いや、悪かったな」
月夜は冷静になると、素直に謝り、神城の上半身から降りた。
月夜の重みが消えた神城も、遅れて立ち上がる。
「神城、ちょっと聞いても良いか?」
「内容によるね、何だい?」
月夜は改まり、神城へこんな質問をぶつけた。
「光が一秋を殺したら、俺が天国に行けるって、変じゃないか?」
月夜自身も、どこが具体的に変なのかは分からなかった。
光は、一秋を殺すことを望んでいる。
光を身勝手に捨てた一秋は、恨まれて殺されても仕方ない性格だと感じた。
それでも、どこか引っかかるものがあり、その理由を神城に聞きたいと思った。
「別に変じゃないよ。月夜君のしたいようにすれば良い」
一秋はいつもの口調で、そう言った。
「でもさ……光が一秋を殺したら、どっちも一人になるんだろ?」
神城は、月夜の言葉を聞いて、どういうことかと訪ねる。
「光は憎い相手がいなくなって、一人になる。一秋は死んで一人になる。こんなに悲しいことってあるか?」
「……あるのかもね。それが人間の望んだことなら」
神城は口元を上げて言うが、その表情は笑っていなかった。
「それに、俺には光が、一秋を恨んでないような気がするんだ」
月夜は、一秋の所へ行こうとしたときの、光の表情を思い出していた。
まるで、殺すことを止めるきっかけを求めているような表情だった。
「逆も同じ。一秋が光を振る奴には、どうしても見えねえ」
一秋も、飲み屋で見た辛そうな表情は、何かを思い悩んでいるようだった。
「……地獄ってさ、楽しいとこなのか?」
ぽつりと、月夜はそんな言葉を呟いた。
「まあ、向こうの方針によるけどね。極楽ではないと思うよ」
「そっか」
それを聞いて、わずかな希望が芽生えた月夜は、小さく笑う。
抱き始めていた決意が、行動に変わった瞬間だった。
月夜は翼を大きく広げ、神城に、
「声は出るようにしといてくれるよな?」
と訪ねた。
神城は、月夜に突進されたことが怖かったのか、何度も頷きながら、
「も、もちろんだよ!」
と答える。
安心した月夜は、翼を羽ばたかせ、夜空へ飛び立った。
神城は、地上からその様子を見上げていたが、
「暴力反対だよ……」
と、すっかり憔悴した様子で言うのだった。
同時刻、光はパソコンの画面を見ながら、考えを巡らせていた。
今更会いに行って、一秋はどんな反応をするのだろうかと、余計な思いが行動を躊躇わせる。
だが、月夜の姿を思い浮かべた瞬間に、その迷いは薄くなった。
頑張っている月夜の思いを、無駄にしてあげたくない。
光はバッグだけを持ち、黒のコートを羽織ると、迷いを振り切るように部屋を飛び出すのだった。
月夜は光の家に向かっている途中、光の姿を偶然にも見つけた。
光はタクシーを捕まえ、どこかへ行こうとしている。
月夜には、その行き先がすぐに分かった。
走り始めるタクシーに近付き、光とは反対側の席に、ドアをすり抜けて乗り込む。
車内に座っていた光は、声を出さずに驚いていた。
すぐに鞄からメモ帳を取り出し、シャープペンで何やら文字を書いていく。
走り書きされたそれを、月夜に見せた。
本当のこと
一秋に聞いてみる
光が差し出したメモ帳には、崩れた筆跡でそう書かれていた。
月夜は頷き、すぐに車内から飛び立つ。
ふうと息を吐き出した光は、ふと、タクシーの料金メーターが表示されていないことに気が付いた。
不審に思った光は、運転手に尋ねてみようとするのだが、それよりも早く運転手は口を開く。
「只今、サービス運転中ですので、料金はいただけません」
キザな口調で話す運転手に、光は疑問の視線を向けたが、月夜だったら正体にすぐ気付いただろう。
「今は、月夜君と光さんの応援サービス中ですよ」
運転手は小声で言うと、前をしっかりと眺め、アクセルを踏むのだった。
月夜は、光が来ることを伝えるために、一秋の自宅へ向かっていた。
呼び鈴は押せないので、仕方なく玄関の扉をすり抜けて室内へお邪魔する。
廊下を抜けて茶の間に行ってみると、そこには胸を押さえてうずくまりながら、床に倒れている一秋の姿があった。
月夜は驚き、一秋に素早く駆け寄る。
「おい! 一秋!」
月夜は我を忘れ、一秋の体を揺さぶる。
「う……やあ、月夜君。いらっしゃい」
「お前……何やってんだよ」
どうやら意識はあるらしく、月夜はほっと胸を撫で下ろす。
こんな状況にも関わらず、一秋は月夜の来客を歓迎していた。
だが、その表情は苦痛に歪み、単なる体調不良とは程遠かった。
「一秋、お前やっぱり何かを隠して……」
月夜は、浮かびかけていた疑問をぶつけた。
何かを隠すために、わざと光を振ったのではないかという疑問を。
「ふふ……嘘を付いて、光を振ったバチが当たったのかも、ね」
それだけ言うと、一秋は月夜に向けていた視線を、床に落とした。
一秋の体が力を失い、ぐったりとする。
「一秋……」
月夜は、一秋を少しでも疑った自分を責めた。
目先の言葉ばかりに惑わされて、一秋の真意を見抜けなかった自分を呪った。
同時に、今まで殺意を消してやれなかった光に対して、申し訳なさが込み上げた。
「くそっ……どうして、何もしてやれねえ」
その言葉は、一秋にではなく、自分自身に向けられたものだった。
もっと早く気付いてやれば、光と一秋が笑って会話の出来る『幸せ』を運べたかもしれないのに。
そして、二人が元の関係に戻るという、最上級の『幸せ』を届けられたのに。
その芽が摘み取られようしている瞬間を、目の前で見過ごしたくはなかった。
「耐えてくれよ……一秋」
月夜は小さな声で呟くと、『右腕を、行使する』と宣言し、一秋の携帯電話に手を伸ばすのだった。
一秋は、光とベンチに隣り合いながら座っている夢を見ていた。
場所は公園だったのだが、天気はあいにくのどしゃぶりで、光は一秋の広げている傘の隣に入っていた。
ざあざあと激しさを増す雨に、お互いの距離も近くなる。
「滝修行みたいだね」
「え?」
一秋は光の発言に驚き、光を見る。
雰囲気を少しでも盛り上げるために、光は精一杯の冗談を言ったのだと、一秋はすぐに分かった。
「盛り上げるために、冗談を言ってくれたんだね。ありがとう」
「やっぱり見抜かれてる……」
光は恥ずかしそうに顔を染めると、ぷいっと一秋から目を逸らした。
「でも、一秋と一緒なら、どんな……」
雨音は瞬間的に強くなり、光の声を掻き消した。
「ごめん。聞こえなかったよ」
「ふん、もう言わないだからっ!」
一秋は何を言ったのか訪ねてみたが、光はすねるばかりで、言葉の続きを教えてくれなかった。




