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 月夜は、神城が言っていた飲み屋である『杯』の前にいた。

 あまり大きな飲み屋ではなく、おせじにも人気店とは言いがたい。

 看板もネオンが切れ掛かっており、時折無意味な点滅を繰り返している。

 月夜は神城の言葉を信じ、扉をすり抜け、店内へお邪魔した。

(……ここはセルフサービスか?)

 思わず頭をよぎってしまうほど、店内はお客さんもまばらで、空席が目立っていた。

 不思議と店内はにぎやかで、騒ぎすぎを気にすることは無さそうである。

 一秋の顔は写真で覚えていたので、月夜は店内を見渡し、合致する人物を探す。

(ええと……違うな。こいつも違う。……ん、あいつか?)

 座敷の席へ座っている人物に、月夜は見覚えを感じた。

 男性二人と女性二人のグループで飲んでおり、その中の一人が、一秋にそっくりだったのである。

 青い長袖のシャツを肘までまくり上げ、あぐらをかいて酒の入ったグラスを傾けている。

 酔いが回っているのか、顔はわずかに赤らんでいた。

 だが、それでもだらしない印象は受けず、顔立ちも端正で、髪型も綺麗なアシンメトリーを保っている。

「よーし! じゃあ王様ゲーム行ってみよーか!」

 もう一人の男性は、泥酔した様子で叫んだ。

「えー、割り箸なんてないじゃん!」

「一秋、お前持って来い!」

 一人の女性がリアクションを取ると、男性は一秋の名前を呼ぶ。

「はいはい。少し待っててくれ」

 一秋は聞きなれたように返事をすると、側にあった靴を履き始めた。

 月夜は、ふと二人の女性に目を配る。

 どちらも明るそうな外見をしており、大人の魅力もあったので、月夜には新鮮な異性に見えた。

 一秋が光を振った理由は、新しい刺激に負けたせいかもしれないと思った。

 環境が変わって、魅力的な人に巡り会ったというのなら、光を振っても不思議はないように思える。

 月夜はふと、店員と話している一秋の方を眺めてみた。

 話していた店員がレジの奥に消えた瞬間、一秋は視線を落とし、とても悲しそうな表情を見せる。

 それは、今にも壊れてしまいそうなほど、辛そうな顔だった。

(どうしたんだ? あいつ……)

 月夜は心配に思うが、店員が戻って来ると、一秋の異常は掻き消える。

 ほんの少しの間だが、明らかに不自然だった一秋の様子を、月夜はしっかりと記憶した。


 飲み会が終わるまでの一時間、月夜はずっと一秋を観察していた。

 表向きは楽しそうに振舞ってはいたが、何か隠していることがある、月夜にはそう感じた。

 仮にだが、その隠していることは、光に関係することなのかもしれない。

 その疑問を訪ねるために、月夜は、自宅へ帰ろうとする一秋の後を尾行していた。

 一秋が住んでいるアパートなのだろう、一秋は鉄製の階段を上がっていった。

 鍵がかかっている扉を開け、一秋は室内へ入った。

 もちろん、月夜はすり抜けて入れるため、ノブに触れる必要すら無かった。


 リビングへ腰を落ち着かせた一秋は、ガラス製のテーブルに突っ伏した。

 室内は割と綺麗に片付いていたが、側の棚には、光の家にあったものと同じ『写真』が飾られていた。

 面倒だから放置しているとは、考えにくかった。

 月夜は疑問を確信に移し、それを確かめるため、一秋に『心を許そう』と決めた。

「何か悩みがあるみたいだな」

 月夜は試しに喋ってみると、一秋は瞬間的に顔を起こし、月夜のほうを見る。

「だ、誰だ! どうやってここに?」

「焦るなよ。ほら、光から渡されたものだ」

 月夜は落ち着いた口調で、神城から渡された写真を一秋に見せた。

 一秋は恐る恐るそれを受け取り、眺めた後、静かに口を開く。

「光から聞いたことがあるけど、君……もしかして半霊なのかい?」

「それだ。あんまり乗り気じゃねえけどさ」

 月夜は一秋が冷静でいたことに対し、秘かに光へ感謝するのだった。

「まあ、座って」

 一秋は膝を付き、月夜を正面に座らせた。

「それで……光は、まだ気にしてたかい?」

 やはり気になるらしく、一秋は、単刀直入に訪ねる。

「悪い。居酒屋から見てたけどさ、光のことは嫌いなのか?」

「……」

 月夜が言うと、一秋は下を向き、答えに困っている様子だった。

 かちかちと、時計の音だけが部屋を支配する。

「……そうだね、光から聞いている通り、好きな人が出来たんだ」

「それで、光を捨てたのか」

 月夜の揺るがない視線に、一秋はただ、頷いた。

「どうしてだよ、光はあんなにお前を好きなんだぞ?」

「さあ……でも、もう飽きたんだ」

 一秋は、鬱陶しそうに溜め息を吐く。

 あまりに冷たい態度に、月夜の心には怒りが込み上げた。

「……おい、もういっぺん言ってみろよ」

「暗い性格の光より、明るい性格の人を好きになったんだ。悪いかい?」

 平然と言う一秋に、月夜は思わず胸倉を掴む。

 だが、それが意味のない行動だと悟ると、すぐに腕を解放するのだった。

「最悪だ。てめえは人間の風上にも置けねえ」

「何とでも……もう、決めたからね。あの人しかいないって」

 一秋が言い終わるより早く、月夜は翼を広げ、大空へ飛び立った。

 一人になった一秋は、ポケットから携帯電話を取り出す。

 アドレス帳のボタンを押し、ま行に入っている光の名前を呼び出す。

 メニューを起動し、消去アイコンを選ぶと、一秋は目をぐっと閉じて『はい』のボタンを押すのだった。

 画面には、一件消去しましたという文字が、機械的に表示されていた。


 月夜は一人、ベンチに座りながら、夜の公園で考えを巡らせていた。

 飲み屋で見た一秋の表情は、気のせいだったのかもしれないと月夜は感じた。

 むしろ、光が殺意を抱くのも仕方ないとすら思う。

 だが、月夜は一秋の態度に、どこか釈然としない気持ちがあった。

 このやるせなさを解消する方法を、月夜は知らない。

(どうすりゃ良いんだよ……)

 月夜は溜め息を吐き、下を向く。

 すると、いつの間にかベンチを家代わりにしていた、一匹の猫が目に入った。

 月夜が手を差し出すと、猫は慣れた様子で月夜に擦り寄る。

 猫の様子は、さながら久しぶりに心を許せる相手を見つけたかのようだった。

(こいつも、一人で生きてるのか……?)

 月夜は、猫の姿と、自分を重ね合わせて見ていた。

 猫は一人で生きていても、こうして俺を幸せな気分にしてくれてると、月夜は思わずにはいられなかった。

 それに比べて、自分は何をしているのだろうかと、月夜は疑問を感じた。

 光を助けるわけでもなく、一秋を助けるわけでもなく、ただ途方に暮れているだけ。

 月夜は猫の頭を優しく撫でると、しっかりとした目つきで立ち上がった。

 その目には、何らかの決意を決めた輝きがあった。

 月夜は翼を広げ、すぐに空へ飛び立つ。

 その様子を、背後の草むらからじっと見ている人物がいた。

「ふむ、もう少し難易度を上げても良さそうだね」

 キザな口調で話すのは、メモ帳を広げている、人の姿をした神城だった。

 神城は静かに呟くと、遥か彼方に見える月夜に向けてペンをかざし、小さく何かを呟いたのだった。


 月夜は光の家の玄関に来ると、再び声を上げて光を呼ぼうとした。

 だが、月夜の声帯は振動せず、声は発されなかった。

(あれ……声が、出ねえ)

 単なる風邪という感覚とは違い、喋ろうとするときだけ、息が吐けなくなっていた。

 神城の名前を呼ぼうにも、今回はそれすら禁じられる。

 仕方なく、月夜は玄関の扉をすり抜け、無断で家へお邪魔した。


 首だけをすり抜けさせ、そっと茶の間を覗き込んでみると、光は背を向けた姿勢で、パソコンに向かっていた。

 完全にリビングへ入った月夜は、声を出せないので、取りあえず拍手の要領で手を叩いてみた。

 ぱちんと滑稽な音が、リビングに木霊した。

 その音に気付き、光は慌てて後ろを振り返る。

「つ、月夜? どうしたの、無言で入って来たりして」

 光は月夜を見た瞬間、表情を崩して訪ねた。

 月夜は喋れない分、必死にジャスチャーと口パクを合わせ、自分が喋れないことを光へ伝えようとする。

「……喋れなくなったの?」

 光は、何とか状況を飲み込んでくれたらしかった。

「じゃあ、一秋のことも聞けないね……」

 光は寂しそうに呟くと、視線を落とした。

 月夜は直感的に、声を封じたのは神城ではないかと思う。

 理由は分からないが、光が落ち込む姿を、月夜は見たくなかった。

 月夜はふと、神城に教えられた言葉を思い出していた。

 一度きりだが、相手に触れられる方法を、月夜は試してみようと考える。

 それで左腕が失われても、構わなかった。

 音にこそならないが、はっきりと口を開き、月夜は『左腕を行使する』と宣言する。

 左腕そのものには、何も変化が無い。

(……これで良いのか?)

 月夜は、どうせ触れないだろうと思い、パソコンの隣に置かれていたコーヒーの缶を握ってみる。

 すると、まるで人間と変わらない動きで、缶を持ち上げることが出来た。

 その様子を見ていた光は、驚きの表情を月夜に向けた。

「触れるの……?」

 月夜は頷き、光が起動していたパソコンのマウスに手を伸ばす。

 ワードの機能を起動し、文章を打てる画面にする。

 月夜は左腕だけを使い、慣れない手つきでキーを打ち始めた。

 ゆっくりと紡がれた文字は、月夜の思いを代弁していた。

 一秋が嘘を付いているように見えたこと、自宅にいる一秋に、本当のことを聞いてみて欲しいことを、ひらがなだけで打つ。

 打ち終えると、月夜は急いで窓から飛び立つのだった。

 姿を光に見られないための、月夜なりの精一杯の気遣いだった。

 光は、慌てて飛び出した月夜を目で追うが、何も訪ねようとはしなかった。


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