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見慣れた通りを飛行し、月夜は自宅を見下ろせる位置に浮いていた。
家の明かりは、茶の間に面するガラス戸からのみ漏れており、どうやら母親と父親はそこへいるようだった。
月夜は玄関に着地し、扉をすり抜けて家の中へ入る。
(取りあえず、お邪魔するか……)
電気の付いていない廊下を通るのは、まるで入ることを拒まれているようで、寂しい気持ちがあった。
月夜は光の漏れている戸を見つけると、再びすり抜けて茶の間へ入る。
そこで月夜が見たのは、台所で食器を洗っている母親の姿と、テーブルに広げられた新聞へ視線を落としている父親の姿だった。
お互いに会話をする雰囲気は感じられず、テレビの音だけが空しく響いている。
まるで、大切な歯車が外れてしまったような、手探りでも進めない本当の暗闇が両親の心を、表情を支配していると思った。
だが、沈黙の真実が何なのか、月夜には確認する術が無かった。
(何だよ二人とも……どうしてそんな表情なんだよ)
月夜は急に息苦しさを覚え、この場に長くいられない辛さを感じ、逃げるように茶の間を後にした。
この不安が嘘であって欲しいと祈りながら、月夜は玄関から見て突き当たりにある部屋に向かった。
古ぼけた障子の戸を抜けて月夜が入ったのは、仏間だった。
室内は静寂に包まれており、天井付近の小さな窓から差し込んでいる外灯の光が、唯一の明かりだった。
床は畳張りなのだが、古いせいか、所々が茶色く煤けている。
(まさか、な)
月夜は体の震えを抑え、亡くなった祖父と祖母の遺影が飾られている仏壇を、そっと覗いてみた。
二つだったはずの遺影は、一つ増えている。
(……くそ、やっぱりかよ)
最も信じたくない現実が存在したせいで、月夜は心の中で悪態を付く。
二人の遺影の間には、履歴書の写真に使われるような、月夜の『遺影』があった。
その表情にはわずかな緊張が漂っており、あるいは本当に証明写真を使っているのかもしれない。
両親のいたずらであって欲しいと願わずにはいられない、希望を粉々に打ち砕く、残酷な現実がそこにはあった。
(そうか……俺はやっぱり、死んだんだ)
さすがに、いたずらで息子の遺影を飾るような真似はしないと分かった月夜は、自らの存在を静かに認めた。
絶望とも諦めとも付かない、不思議な心境だった。
月夜は背中の翼を大きく広げ、畳を蹴って飛び立つ。
まるで月夜の存在を肯定しているように、屋根や瓦などの障害物は、月夜の進行を少しも妨げなかった。
光が住んでいる部屋の玄関に降り立った月夜は、扉から首だけをすり抜けさせ、大きめの声で光の名前を呼んだ。
外でしばらく待っていると、光が扉を開けて出迎える。
夕食の支度をしていたのか、白地に水玉の模様がプリントされているエプロンを着けていた。
「触れないのも大変だね。入って」
光は、温かい笑顔を浮かべながら月夜に言う。
それを見た瞬間、さっきまでの言葉や表情が幻想にすら見えた。
同時に、こんなに優しい笑顔の持ち主が、人を殺せるはずが無いと感じた。
(何か、理由があるんだよな)
光が何を考え、何を思って一秋を殺そうとしているのか、月夜は確かめてみようと決意する。
そして、出来ることなら、月夜が光を助けてやりたかった。
邪な感情など無く、見返りも求めず、月夜は素直な気持ちに身を任せていた。
月夜が茶の間へ入ると、光が作ったのだろう晩御飯が、テーブルいっぱいに並べられていた。
オムライスやきんぴらごぼう、野菜のおひたしが二皿ずつ存在し、味噌汁は鍋のまま中心に置かれている。
明らかに一人では食べられないだろう分量を、月夜は唖然としながら眺めていた。
「もしかして……」
月夜は、隣へ立っている光へ目線を運ぶ。
光から返って来た視線は、ずっしりと重いものだった。
「せっかく作ったんだから、食べてね?」
「……はい」
「じゃあ、月夜はそこね」
「……了解です」
光の強い口調に逆らえず、月夜は大人しく指示された場所へ座った。
食器の陰になって分からなかったが、そこには緑色の箸が置かれている。
光は月夜の正面にある椅子へ座り、両手を合わせて、
「いただきます」
と言う。
月夜はとっさに、聞くタイミングを逃すかもしれないと思った。
「あのさ」
「なに?」
「食べる前に、一秋のこと、もっと詳しく聞いても良いか?」
光が箸へ手を伸ばす前に、月夜は話題を投じた。
光は少し背筋を伸ばし、やがて口を開く。
「高校三年生の頃かな。私と一秋が付き合い始めたのって」
光は過去を思い出すように視線を上げ、言葉を紡ぎ始めた。
口から言葉が零れている、そんな喋り方だった。
「最初は一秋から告白したんだけど、振ったのも一秋から」
月夜は、今までよりもずっと真剣な表情で、光の声に耳を傾ける。
光から放たれた言葉は、月夜の脳へ染み渡る。
「それで、振られたのは先月だから、二年より少し短い恋だったの」
光は指でピースサインをし、二年間の部分を強調させた。
「理由は、一秋に好きな人が出来たから。なんかみじめで、笑えるでしょ?」
「そんなこと……」
そんなことはない、と月夜は励まそうとするが、光の不自然な笑顔を見て、言葉を飲み込んだ。
まだ現実を受け入れていない、どれだけ一秋のことを思っていたのか分かる、辛そうな笑顔だった。
そんな光を見た月夜は、ある決断を下す。
すっと椅子から立ち上がり、おもむろに背中の羽を広げる。
始めは不思議そうに見ていた光だったが、広げられた白と黒の翼を見て、目を見開きながら驚いていた。
「こいつで、一秋の所に行って来る」
月夜は、初めて羽が役に立つ時が来たと思った。
だが、急に放たれた月夜の言葉を聞き、光は視線を床に落とす。
「でも……やっぱり、一秋は私が嫌いになったんだよ」
光の声は弱々しく、今にも消え入りそうだった。
月夜は、広げた翼を急激にはばたかせ、強い風を巻き起こす。
まるで春風のような突風を受け、光は顔を上げた。
「だから、それを確かめて来るんだよ」
「月夜……」
小さく呟く光の表情は、とても儚いものだった。
決意に満ちた月夜の顔を見て、光も心を動かされたのか、一秋の住所を口頭で伝える。
聞き覚えのある地区だったため、月夜はそれを完璧に暗記した。
「行って来る」
「待って」
飛び立とうとする月夜を、光は引き止めた。
「もし良い結果だったら……私には知らせないって約束して」
「ん、良いけど……何でだ?」
月夜には、光が考えていることが分からなかったが、それは詮索してはいけないことだと直感的に思った。
「なるべく早く戻る」
慣れた様子で軽く床を蹴り、月夜は窓をすり抜けて夜空へ飛び立った。
月夜の後ろ姿を追うように、光は窓を開ける。
星の輝いていない漆黒の夜空に、月夜の後ろ姿は見えなかった。
「待ってるのは、どっちの現実なんだろう……」
夜の冷たい風が肌を撫でる中、光はそっと呟いた。
月夜は、人間が起こす光のみが彩る町の上を、穏やかに飛行していた。
今度は寄り道をしようという考えは浮かばず、光のために行動してやりたい、ただそれだけの思いだった。
その時、月夜の背後からは、一羽のカラスが追いつこうとしていた。
月夜は気が付かないまま、そのカラスはすぐ隣まで近付くと、尖ったくちばしで月夜の頭を軽く突いた。
月夜は痛みを感じ、急ブレーキをかけて静止する。
「ってえ……何だよ、いきなり」
突かれた箇所をさすりながら、月夜は呑気に左を向いた。
そこには、鳥目なはずのカラスが、羽ばたきもせずに停止していた。
「別に呼んでねえぞ」
「心外だなあ。せっかく情報をあげようと思ったのに」
すぐに神城だと気が付いた月夜は、慣れた口調で話しかける。
「そんなにいじわるすると、教えてあげないからね?」
さすがに滞空しにくいのか、言葉を返しながら、神城は『例の流れ』で姿を人間に戻す。
人間の姿に戻った神城は、ポケットからメモ帳を取り出し、ぱらぱらと捲った。
「一秋君は、黒雨町の『杯』という飲み屋にいるよ」
「え?」
月夜は、神城の口から出た言葉に、驚きを隠せなかった。
「教えちまって良いのか?」
「これは独り言だよ。教えてるわけじゃないから、セーフさ」
「……そっか。なら、ありがとう」
月夜は神城へお礼を言い、教えられた場所へ行ってみようと思った。
頭の中で、飛び始める姿をイメージする。
「待って。これが必要になると思うよ」
「っと! 何だよ」
その矢先、神城は右手を差し出して、月夜の視界を遮った。
左のポケットへ手を突っ込み、神城は一枚の写真を取り出す。
観覧車をバックに、一秋と光が並んで写っている、光の家にあったものと同じ写真だった。
月夜は計らいを察知し、その写真を受け取る。
「それじゃ。僕は忙しいから、これで失敬するよ」
手短に伝えると、神城は月夜の目的地と反対側へ飛び去るのだった。
月夜は、閻魔も忙しいのだとぼんやり思いながら、ふと、
(カラスの姿で来た意味があったのか?)
と考えるのだった。




