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目を開いた月夜の前に広がったのは、今度こそ何も見えない、本当の暗闇だった。
きょろきょろと辺りを見回してみるのだが、壁があるのか物があるのか、目を開いているのかも判別出来ない。
体感温度は生暖かく、決して居心地の良い場所では無かった。
「あ、あ……声も出るな」
体と声は、ようやく月夜が自由に操れるようになっていた。
本来はこうあるべきなのだが、今ほど声や体が自由になれて嬉しいと思う瞬間は無いだろう。
ここがどこなのかは分からないが、ひとまず胸を撫で下ろす。
すると、漆黒だった空間が、夜明けのようにゆっくりと明るくなり始める。
驚いている月夜を置き去りに、空間は徐々に灰色を宿し始め、暗闇は消滅した。
だが、月夜の視界には、やはり何も映らなかった。
いよいよ不思議だと思い始めた矢先、透き通った声が聞こえる。
「気が付いたんだね」
「うお! 何だよお前、いつの間に!」
月夜が驚いた理由は、声の主がすぐ後ろに立っていたからだった。
月夜は慌てふためき、よろめきながら前進し、素早く振り返る。
「良いリアクションだね。驚かせたかいがあるよ」
頷きながら月夜を眺めているのは、背の高い一人の青年だった。
青縁の眼鏡を着用し、短めの黒い髪は上げられている。
すらっとした印象を与える黒のスーツ姿は、顔立ちが整っている青年に良く似合っていた。
これでネクタイさえしていれば、言うことは無さそうである。
手にはボールペンと、無地の黒いメモ帳を持っていた。
「光さんにハンカチは渡せたかい? 月夜君」
「……何で知ってんだ?」
月夜は疑問を抱くと同時、この口調に聞き覚えがあることを思い出した。
自分の口が勝手に動き、言葉が紡がれた時の物言いと、青年の喋り方は寸分違わないのである。
「まさか、お前が俺を操ったのか?」
馬鹿らしいと思いながらも、月夜には質問を投げかける訳があった。
一つは、自分が間違いなく驚愕の場面にいるのに、不思議と冷静でいられる余裕があったから。
そして、青年から人間らしくない雰囲気を感じ取ったからだった。
「そうだよ。凄いだろ? 崇めても良いんだよ」
青年は堂々と声を張り、軽い口調で答えた。
月夜が期待していた否定の言葉は、欠片も飛び出さない。
「何せ僕は閻魔だからね。それくらい造作もないんだ」
「……閻魔?」
そして、青年は更に懐疑を生ませる発言をするのだった。
神様や天使ならいざ知らず、『閻魔』という単語には馴染みが薄い。
確かに異様な雰囲気を発しているのだが、月夜にはどうしても、この青年が閻魔なる存在には見えなかった。
「嘘くせえ……」
月夜は、青年に聞こえないはずの声で、ぼそりと呟く。
「む、君も同じことを言うのかい」
それを聞き取ったのか、青年は、月夜の額へボールペンの反対側を向けた。
微弱な電気が走った感覚と同時、月夜の体は、またしても勝手に行動を始める。
その両腕は何のつもりか、着ているローブをゆっくりとまくり上げた。
「言っておくけど、ローブの下は何も着てないからね?」
青年の余計な親切とは関係なく、するすると脛から上が見え始め、膝の辺りまで月夜の体は顕になっていた。
「ほらほら、信じないと僕に全裸を見られることになるよ?」
「変態かよお前!」
月夜は渾身の力で突っ込むが、青年は、
「少しね」
と、不敵な笑みを浮かべながら言うのだった。
月夜は内心、相手が女性でもこうしてるのかと疑問に思ったのだが、取りあえず青年の言葉を信じておくことにした。
もちろん、信じた理由は、今の状況をどうにか回避するためである。
「分かった! 信じる! さすが、閻魔様は凄いです!」
「うんうん、君は素直で良い人だね。女の子にモテるでしょ?」
月夜の口から出たでまかせを聞くと、青年は満足げな表情に戻り、今度はボールペンの先を月夜の額に向けた。
今度は電気の感覚も無く、月夜が右手を握ってみると、何の障害もなく動かせる。
「さて、本題だね。月夜君には水無光さんの手助けをしてもらうよ」
青年はボールペンを胸ポケットへしまうと、途端に真剣な口調で言った。
先程までのふざけた仕草が嘘にすら見え、月夜の目には滑稽に映る。
「光さんから聞いたみたいだけど、君は半霊だ。人と幽霊、半分ずつの存在だね」
「ああ……それ、流行ってんのか?」
青年の言葉を聞いても、月夜には到底信じられなかった。
確かに二度も体を動かされはしたが、冷静になって考えてみると、手品のトリックで出来ることかもしれない。
その疑惑を見透かしていたのか、青年は更に言葉を続けた。
「一度しか言わないからね? 月夜君は天国行きか地獄行きか判断する『天地』という裁判にかけられているんだ」
「天地ねえ……」
月夜は一応、分かりやすく説明する青年の話を、きちんと聞いているふりをしていた。
逆らえば話が長くなりそうだったし、何より、早くこの空間から帰りたかった。
「光さんの手助けが完了すれば、天国行き。手助けが出来なければ、地獄行き」
青年は、地獄行きの部分を強調させ、怖い口調で言う。
その目には、悪く言えば狂喜、良く言えばドSの気すら伺えた。
「ここまで言えば、君の生死の状態が分かるよね?」
「……俺は死んだ、ってことか?」
「そ。名推理」
砕け始めた口調で、当てたことを褒め称えるように青年は言う。
月夜は言葉にこそ出さないが、青年の話を全く信じていなかった。
光に指摘された通り、過去の記憶は思い出せないが、自分が死んでいるなんてありえるはずが無い。
手に持っているメモ帳に、走り書きで何かを書き込んでいる様子を、月夜は黙って眺めていた。
「僕は神代。何かあったら、呼ぶと出てくるかもしれないよ」
「ああ、分かった」
月夜はもはや質問も投じず、早くこの場から離れるために、素直に返事をした。
神城は記帳を終えたのか、ぱたんとメモ帳を閉じ、胸ポケットへしまう。
「とにかく、手助けが完了すれば天国行き、出来なかったら地獄行きだからね」
「……同じこと二回言ったな」
月夜の言葉は、少しの間を生み出し、神城は、
「……さあ、光さんが待ってるから早く行って来る!」
と、指摘されたことを誤魔化すように、やたら激しい口調で喋るのだった。
その言葉を聞き終えた直後、月夜の意識と視界は、瞬間的に途切れた。
ふと気が付くと、月夜は見知らぬアパートの玄関に立っていた。
左右には、別室の扉が規則正しく続いているが、住人の姿はない。
後ろを振り返ると、見覚えのある夜の町並みが見下ろせ、月夜はあの妙な空間から戻れたのだと分かった。
どうやってここまで来たのかは、もはやどうでも良かった。
月夜はさっさと帰ろうとするのだが、同時に別の考えも浮かんだ。
(……呼び鈴を押す?)
理由などあるはずもなく、神城の言うことを実行しなければならない感覚に襲われる。
いくら振り払おうとしても、その気持ちは隙間を縫うように、月夜の心を侵食した。
目の前には呼び鈴のボタンがあるのだが、神城の話を真面目に聞いていなかったため、行動に移すのは躊躇えた。
その矢先、どこからか小石が飛んで来て、呼び鈴のボタンに当たる。
すぐに呼び鈴が鳴り、そっとドアを開けて出迎えたのは、オレンジ色のタートルネック姿になった光だった。
下は、程よく色の剥げた紺のジーパンを穿いている。
「おかえり、半霊さん。入って」
光は警戒した表情を緩め、扉を大きく開けて月夜を招き入れた。
案内も兼ねてか、光は先に奥へ行ったので、扉は月夜が閉めることになった。
何気なくドアノブへ手を触れようとしたのだが、月夜の手はそれをすり抜け、ふわりと空を切る。
(……え、嘘、だろ?)
月夜は手元が狂ったのかと思い、再度手を触れようとしたのだが、どうしてもドアノブを握ることは出来なかった。
信じられない現実に、心臓が大きく鼓動を刻む。
それにも関わらず、不思議と取り乱すまでは至らないまま、触れないのは自然なことだと割り切れた。
神城から聞いていなければ、もっと慌てていたに違いない。
密かに神城へ感謝しつつ、開いている扉を閉じるため、月夜は恥を殺して光を呼んだ。




