不都合な客 -1-
図書室はがらんとしていて、本を借りに来る生徒もいなければ勉強に勤しむ生徒の姿も見えない。いくらか盛況な昼休みと違って放課後はいつもこうだ。理由ははっきりしている。近所に市立図書館があったり、校内に自習室があるせいだ。
加えて言うなら、図書室に置いてある本のラインナップにも問題がある気がする。大体が小難しい本ばかりで、マンガやライトノベルのコーナーは全体の五%もない。しかもその五%のうち、ほとんどの作品はいつ出版されたのかもわからないビンテージ作品ときている。
そりゃ余所に行くよ。僕だってそうする。
ただ、誰も来ないのは図書委員の当番としては張り合いがないけれど、悪いことばかりでもない。図書室は日向に面しているので年中カーテンが掛かっていて外からの視線が遮られている。おかげでどこか秘密基地のような感じがして僕はこの時間が気に入っているのだ。
そしてなにより……というか、これが一番大事なことなんだけど、隣の席には同じ図書委員の小野寺結衣が座っている。
小野寺は控えめに言って可愛い。背中にまで伸びている長い黒髪は艶があって綺麗だし、瞳は透明な水晶のようだ。全体的に線の細い輪郭で、華奢な体格のせいか触れたらそのまま倒れてしまうんじゃないかと心配になる。喜怒哀楽をほとんど示さない彼女は、色で例えるなら薄い水色のような、希薄で儚げな印象だ。
僕は彼女に、あの光景を見て以来好意を向けている。
これ以上、この図書室になにが必要だろう?
断言しよう。なにもいらない。むしろ図書室が盛況になってしまってはいけないとすら思う。
「……」
小野寺は図書室にやって来てからずっと本を読んでいた。
今日は水曜日なので返却本もほとんどなかった。図書委員としての今日の仕事はほぼ終わっていると言っていい。あとはただ閉室時間まで時間を潰すだけ。手持ち無沙汰な僕は、小野寺に合わせるように読書に勤しんでいる。読んでいるのは図書室に置いてあるラノベの中でも、わりかし読みやすそうなミステリー風味のラブコメものだ。
小野寺と図書委員会で一緒になってニ週間。ついにシリーズの最終巻にまで手が届いてしまった。狐っ子と高校生がドタバタと推理するミステリーもいよいよ大詰めを迎えている。内容に没入してけっこう真面目に楽しんでいるけれど、さすがに小野寺と会話らしい会話もせずにニ週間ラノベを読み続けていると、脳みそがゲシュタルト崩壊しそうになる。
今日こそはなにか話をしたい。けど、イマイチ取っ掛かりが掴めない。
家に居るときや授業中に色々と会話のパターンは考えてきた。しかし、どうにも小野寺を目の前にすると言葉が出てこないのだ。別に自分が重度のコミュ障とは思わない。クラスによくいるような普通に愛想が良くて普通に地味なやつだと自認している。まあ多少口下手な自覚はあるが……にしたって好きな相手にここまで言葉が出てこないものだろうか。
そんな風に会話の糸口を探して悶々としていたとき、
「バースデーブルーって知ってる?」
と、藪から棒に小野寺はそんなことを訊いてきた。
静かな図書室に彼女の声は染み入るように広がる。わずかに沈黙が流れ、僕は鳩が豆鉄砲を食ったように声を上擦らせた。
「ば、バースデーブルー?」
小野寺は落ち着いた声で続ける。
「そう。聞いたことないかな?」
「知らないな……それって、本に書いてあった何か?」
「ううん。ただ篠崎くんは知ってるかなって、なんとなく訊いてみただけ」
小野寺はこちらに視線を向けることもなく独り言のように言った。
……もしかして試されている? 例えば江戸時代の弾圧下でキリシタンが仲間を探すように、小野寺はなんらかの符牒としてバースデーブルーなる単語を確認したのか?
さすがにそんな深読みはいらないだろうけど、確かなことが一つある。それはこうして小野寺から話題が提供されるのはレアであるということ。裏を返せば小野寺に喋り掛けられることがまったくないわけではなかったってことだけど、その内容も図書委員としての事務的なものばかりだった。
「ちなみにどういう意味の言葉?」
小野寺は辞書を読むように淀み無く答えた。
「誕生日の前後には自殺率が増えるの。記念日には気持ちが盛り上がったり、落ち込んだりしやすいでしょ。バースデーブルーはそういう傾向を表した言葉なんだって」
「……へ、へぇ、誕生日にはポジティブなイメージしかないけど。自殺を考える人もいるんだね」
こんなに饒舌な小野寺を見るのは初めてだ。いつも物静かで、ちらっと教室を覗いたときも小野寺は他のクラスメートと話すこともなく窓際の席で一人本を読んでいたのに。
小野寺は情報を付け足すように呟く。
「通常の一・五倍なの」
「そんなに?」
僕は自殺なんて考えたこともない。
でも、その数字が事実なら本来祝うべき誕生日もなんだか呪われているように思える。よくよく考えてみると、誕生日を素直に喜べたのって中学生あたりまでだった気がする。それと他にも連想できるブルーな日は多い。
「バースデーブルーって言葉で思いついたんだけど、クリスマスブルーとか、バレンタインブルーのほうがもっと憂鬱になるんじゃないかな。特にバレンタインデーなんて、誰にもチョコを貰えないと凄い落ち込めるよ。特に男子は」
小野寺は少しだけはっとした表情をして、「たしかに、そういう見方もあるね」と、僕のほうを見た。ようやくこちらを意識した返答が聞けたせいか、嬉しさで自然と声が弾んだ。
「小野寺さんは記念日にはブルーになったりするの?」
「……どうかな。気持ちの浮き沈みは少ないほうだと思うけど」
小野寺はそれに、と続けて言った。
「落ち込む時は甘いものを食べることにしてるから」
「甘いもの好きなの?」
「うん。ほら」
小野寺はポケットから飴を取り出して見せた。なるほど、落ち込んだら飴を舐めると。
言われてみると、たしかに小野寺からはほんのり柑橘系の甘い匂いがする。
「篠崎くんは?」
「とりあえず寝るね。寝れば嫌なことも忘れるって言うし」
小野寺は即座に首を振る。
「そうじゃなくて、篠崎くんも甘いもの好き?」
「ああそっちの話……好きだよ。嫌いな人のほうが少ないんじゃない?」
「……ふうん、甘いもの好きなんだ」
小野寺は意味深に頷く。そして、思い出したように言った。
「で、とりあえず寝るんだね」
「まあね。姉貴には単純な奴だってよく言われる」
「お姉さんいるの?」
「年はだいぶ離れてるけどね。とにかく破天荒で怒ると手が付けられないよ」
姉貴は大学に進学していて、年末や長期休暇のときにたまに家に顔を出す。性格は小野寺とは正反対だ。かなり活動的で、時折僕をサバゲーに連れ出したり、いきなり北海道旅行を計画する。
姉を語る僕の微妙な顔を見て、小野寺は面白そうに口元を押さえた。
「姉弟で仲が良いんだね」
「全然! 仲良くなんてないよ。それより小野寺さんの姉弟は?」
「私は一人っ子だから。姉弟って良いなと思う」
「良いことばかりじゃないよ……」
むしろ悪いことのほうが多い。
特に年の差がある姉弟は、立場に差がある分、下の者は余計に割を食う傾向があると思う。
一例で言えば、冷蔵庫に入れておいたとっておきのプリンを食べられるのは日常茶飯事で、友達に貰ったお土産物なんかも勝手に食べられる。あれ、食べ物ネタばっかりだな。
頭を振り、話題を転換する。
「ところで、小野寺さんは普段何を読んでるの?」
そうだなぁと、小野寺は読んでいた本を閉じ、両手で持ちながらタイトルに視線を走らせる。
「なんでも。最近はカフカを読むことが多いかな。これもカフカ」
「カフカ? 名前だけは聞いたことあるけど、よく知らないな」
普段ミステリー小説しか読まない僕には、純文学作品の話題は少しハードルが高い。
「内容が取っつきにくいから勧めづらいけど、そのうち読んでみると良いと思うよ」
小野寺は本の表紙を見せながら言った。本の表には『カフカ短編集』と書かれている。
うーん、やはり難しそう。
僕は図書委員だけどあまり幅広いジャンルの本を読まない。唯一ミステリー小説だけは大好きで色々な作品を読んでいるけど、ミステリージャンル以外はさっぱりだ。それに、小野寺の抱えていた本は殺傷力の高い鈍器にしか見えない。でも、小野寺が勧めるなら読んでみたい。最後まで読めるかは微妙だけど……。
なんて難しい顔で考えていると、小野寺は少し困ったように訊く。
「……あのね、間違ってたらごめんだけど篠崎くん、さっきまで怒ってた?」
「え、どうして?」
「違うなら良いんだけどね。さっきまでは不思議な匂いがしたから」
「不思議な匂い?」
軽く自分の身体をくんくんと嗅ぐ。もしかして僕ってめちゃくちゃ臭いんだろうか。緊張でちょっとだけ汗を掻いているのは確かだけど、まさかワキ……いや、親父だってワキガってほど臭くはない。そもそもワキガが遺伝するのかも知らないが。
小野寺は慌てたように手を振る。
「ああっ、篠崎くんが臭いってことじゃないの」
「あ、そうなの?」
「実は私、人の気持ちが匂いでなんとなくわかるから」
「……マジで?」
「うん」
「もしかして超能力とかそういう類の能力!?」
「そこまで凄いものじゃないよ。ただ、なんとなく喜怒哀楽がわかるってだけ。それって顔を見るだけでもなんとなくわかるものでしょ。だからそこまで特別ってわけじゃない」
「でも、匂いで気持ちが伝わるんだよね?」
「……うん。ただ、篠崎くんの匂いは他の人とは違くて、だからどういう気持ちなんだろうって思ったの。綿あめみたいに甘ったるいような……スパイスのように香ばしいような」
「出来たての綿あめに胡椒……?」
「うん、そう。ごめんね変な喩えで」
「別にいいよ。しかし……そういうこと……それは困ったな」
これって何らかのカマかけなのか?
小野寺の言う話が本当なら、不思議な匂いというのはたぶん僕から小野寺へ向けた好意の匂いだろう。それがバレるのは良くない。だって僕と小野寺はあまりにもお互いを知らない。こんな状況では告白もなにもないじゃないか。
小野寺は首を傾げた。
「困ったなって、なにが困ったの?」
「へっ? あー……えっと、違うよ。小野寺さんは人の気持ちがわかっちゃうなんて大変だなと思ってさ」
咄嗟の言い訳だったが、小野寺は狐につままれたような顔をした。
「そういう風に言われたのは初めてかも……うん、そうだね。実際ちょっと大変かも。大体の人って顔と匂いで発してる感情がズレてるから、それに気づいちゃうとどう接したらいいかわからなくなるし」
「でもモノは考えようだよね。相手が感情とは違う顔をしているなら、相手に振る話題を変えたりできるじゃないか」
「そうだね……そうかもしれない」
小野寺は微笑む。
それから、そうだ、とやや声音を高くして言った。
「ねえ、篠崎くん。この後って暇かな?」
小野寺は身を乗り出して、僕を見た。
彼女の吐息が目前に迫り、背筋がピンと張り詰める。
「暇だけど……」
息も絶え絶えに言葉を絞り出す。
「じゃあちょっとお願いがあるんだけど……この後、一緒に駅前のカフェに付き合ってくれないかな?」
「えっ!?」
今、なんとおっしゃいました?
突然の申し出に、頭が一瞬真っ白になった。
「えっと、どうかな?」
「もちろん大丈夫だけど、なんで、どうして?」
「実は今、駅前の『バッハ』ってカフェがカップル限定の半額セールをやっててね。それで、篠崎くんが甘いもの好きならどうかなって。ここのお菓子、けっこう高いから」
小野寺は恥ずかしげに前髪を掻いて、半額セールの告知メールを見せてきた。
「……なるほど」
事情を理解して、少しのガッカリと、大きな期待が同時に胸に押し寄せた。