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死神姫  作者: ふおん
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運命の日 ー初めての敗北ー

「じゃあ小菅さん。撮影しますんで準備をお願いします」

「はい」

 テレビ局のスタッフに40代の中年の女性が重々しい声で答える。

 彼女の名前は小菅リカ、今話題の霊能力者である。

 それは半年前のテレビ番組に初めて彼女が登場した時のことだ。

 リカは心霊スポットに現れ、数々の心霊現象に遭遇しながらもひるまずに勇敢に真摯な態度で地縛霊に接し、遂に人々を悩ませていた霊を成仏させたその姿は視聴者たちに大きな感動を与え、アッという間にリカはお茶の間の人気者になったのだ。

 元々単発の予定だったその番組はそれからすぐにシリーズ化され、深夜のレギュラー番組を獲得するに至ったのである。

 視聴者がリカを見てまず目を奪われるのは、リカのその風貌であろう。

 テレビに出てくる普通の霊能者というものは派手な衣装を身にまとい、数珠や神主が使う祈祷棒のようなものを振り回し、口からは般若心経や一般の人々にはよく分からないお経のようなものを唱える。そんなひと目見れば霊のお祓いが仕事であるのが分かる姿をしているのが一般的であった。

 そてに対してリカは普通のTシャツにスパッツ、まるで太った主婦がダイエットのためにジョキングをして痩せようというそんな普通の格好をしていて、リカが霊能力者であることは人から聞かなければ誰にも分からないだろう、そんな姿をしているのだった。

 そしてリカが風変わりなのはその風貌だけではなく、霊に対する手法も変わっていた。

 彼女は医師が精神に異常を被った患者に接するような、精神科医が心に傷を追った人間にカウンセリングするかのような対話を行い、霊たちに自分たちの置かれた状況を認めさせ、反省を促し、自ずから成仏してこの世を去るように説得するという見たこともない方法を取ることだった。

 リカが誰もいない空間に向かって真剣な顔で話しかけ、誰にも見えない霊を説得するその姿は、彼女の番組を見る視聴者たちに深い感動とリカに対する尊敬の念を抱かせて、リカを一躍人気芸能人の一人にしてしまったのだ。

 そしてリカは最近愛するカップルたちに危害を加える地縛霊がいるという視聴者からの通報を受けて、テレビ局のスタッフたちと一緒に、その悪霊と対決して成仏させるためにレナたちのいる丘の上にやってきたのだった。

「何なのこのオバサン」

 レナがリカのたるんだそのシャツの上からでも分かる胴体を眺める。

 テレビ局のカメラの前で照明を当てられ、夜明け前だというのに煌々と照らし出されたリカの姿をレナとサヤが呆然と見守る。

「あー、いるわね。あそこ」

「えっ!! いるんですか!? リカさん見えるんですか」

 リポーターの売れない三流のお笑い芸人のピーナッツ遠藤が、お笑い芸人がよくやる大げさな仕草で驚いてリカの方を振り返る。

「分かんないの。いるでしょ、あそこ」

 リカが丘の上にある杉の木を指差す。

 それは花粉症の時期になると丘の上から人々に花粉を振りまき人々を悩ませているので、遂に来年切り倒されることが市議会で決まったこの地で200年以上もそびえ立つ、日本ならどこにでもあるようなただの杉の木であった。

 リカは花粉症である。

 本来であれば杉の木からの花粉でリカの鼻や目の粘膜がダメージを受け追い払われることになるのだが、今は杉の花粉のシーズンオフの季節なので、杉の木の持つ凶暴な牙は表には現れず、ただ黙ってリカたちを杉の木は沈黙しながら見守っていた。

「こっ、この辺りですか!? ねえ、この辺りですか!?」 三流お笑い芸人特有のおもしろくもない人を不愉快にさせる大げさな言い方で杉の木の根本の近くに行って、まるで恐怖を感じているかのような表情を浮かべながらカメラとリカ、そして杉の木に矢継ぎ早に視線を送るピーナッツ遠藤であったが、彼が霊を本当に恐れていないのは小学生の子供でも分かるだろう。

 もし霊を恐れているのなら霊がいるという杉の木になど近づかないであろうし、痴呆患者のようなとぼけたピーナッツ遠藤の表情と言い方は実際の痴呆患者を観察して彼が真似てしているものだった。

 ピーナッツ遠藤はお笑い番組でよく痴呆患者のモノマネをして一部の低俗な視聴者たちを笑わせて得意になっているように人から思われていた。

 しかしそのせいで、その他大勢の国民たちから害虫のように嫌われることになっているのが彼には分かっていなかった。もしそれが分かっていたのなら、彼はもう少しテレビで売れているはずだったのだが。

「何やっているのこの二人」

「さあ」

 リカとピーナッツ遠藤たちの姿を後ろからレナとサヤが不審げ見守る。

 彼らが言うには杉の木の所に何かがいて、それは20年前にその場所で首吊り自殺をしてこの世に深い恨みを抱いて死んだ人間がリカたちを深い呪いの表情を浮かべながら見ているということだった。

「ちょっと離れて。遠藤さん、本当に危険だから」

「えっ、だって何もいないように見えますよ」

「今回のは本当にシャレにならないんだって、ほら小さい女の子の水死体もやってきた」

「うわあっ!! 今何か背中に冷たいものを感じた」

 エビ反りになり、フィギュアスケートの選手のように大げさなポーズでピーナッツ遠藤がジャンプをして杉の木の根本からリカの方に走って逃げる。

「杉の木の所に何かいるのかしら? 私には何も見えないけれども」

「さあ、カブトムシか何かがいるんじゃないの?」

 さっきから杉の木の辺りをサヤとレナは一生懸命探しまわっているのだが、そこにいるものと言えば近くの地面に生えているクローバーの葉っぱの上にいるてんとう虫くらいしか見当たらなかったのだ。

「あんたたちはもう死んだんだから、そんなことは止めなさい」

「いつもの小菅さんの説教が始まりました。さあ今回はどうなるんでしょうか」

「あんたたちはもう死んでるのよ。分からないの?」

 杉の木の方に向かって銀行強盗を説得しようとするネゴシエーターのように真剣な緊迫した表情で話しているリカにレナが近づいていく。

 そしてレナがリカの真正面に立ちリカの身体をしげしげと見つめる。

 その様子をサヤがポカンとして見つめる。レナが何をしようとしているのかサヤにはよく分からなかった。この場所で二人きりになってからかなりの時間を一緒に過ごしてきたのだが、未だにレナの考えがサヤにはよく分からない。それは二人の性格の違いからくる不理解であり、時間が解決出来る問題ではなかった。

 レナは何をしようとしているのだろうか? またいつものように彼女に取り憑こうとしているのだろうか?

 そんなサヤの思惑をよそに、いきなりレナがリカのたるんだお腹の肉を掴んでブルブル揺らし始めた。

「本当にみっともない身体をしているわね、このオバサン」

「ちょっと何やっているのよ」

「ちょっと肉質を確かめているのよ。ハムみたいでしょ、このオバサンの身体」

「やめさないって。失礼よ」

 中年のリカの厚い脂肪に覆われた身体は感覚機能というものが麻痺してしまっていて、レナに触られているということがリカにはまったく分からなかった。

 そしてリカの揺れたお腹の肉を見ていた周りのスタッフたちには、リカのお腹の揺れがただ風に揺られているだけのように見えた。リカは歩くだけで身体全体の肉をいつもゆさゆさ揺らして歩いているのだから、お腹の肉がすこし揺れてくらいでは周りの人間の心には何の感情も引き起こさず、その肉の運動は無視されてしまった。

 リカの霊に対する説得は続く。

「あなたたちはもうここにいてはいけないのよ。……ええ、あなたたちの言いたいことは分かっているわ、でも仕方がないことなのよ」

 それは理解の浅い子供にやさしく、そして時に厳しく、相手をバカにするような態度を取らず、一生懸命で相手に信頼の念を生じさせるような、そんな辛抱強く丁寧な口調で霊に長々話しかけるのだった。

 そんな何もない空間に向かって語り続けるリカの周りをレナがうろうろし始める。

 何をするつもりなのだろうか? やっぱり彼女に取り憑こうとしているのだろうか? 

 レナの姿をサヤが不安そうに見守る。そしてサヤがレナに話しかけようとしたその時。

「うはっ、いいケツ」

 レナがリカのお尻をパシッと叩いた。それは会社の上司が女子社員に冗談を言っているフリをしながら、実はお尻を触ることだけが目的で行うセクハラのような微妙な力加減でレナはリカのお尻を触ったのだ。

 リカが一瞬身体をビクッとさせる。

 女性の敏感な部分を触られては、厚い肉に囲まれたリカの身体もレナのタッチに反応しないわけにはいかなかった。そんなリカの身体は中年になっても女であることをやめたわけではないことを物語っていた。

「ちょっと、何やっているのよ」

「このオバサンの長話を聞いていたら暇だったから、つい」

「本当に止めなさいよ」

「はいはい、分かったわよ」

 今触られたのではないのか? 一体誰に?

 リカが周りの人間に気づかれないようにチラリと辺りを見回す。

 そこではピーナッツ遠藤やプロデューサーの田淵、カメラマンにアシスタントのスタッフたちが、まるで何事もなかったかのようにリカの方を見ている。

 気のせいだろうか? いや確かに今誰かが自分のお尻を触った。それは間違いのないことだ。だとしたら、どうしてピーナッツ他、スタッフたちは何も言わないのだろうか?

 リカがピーナッツ遠藤の方をじろりと見つめる。

 一番怪しいのはこの男だ。

 お笑い芸人はよく笑いを取るためと称して、女性の身体を触ったりワイセツな言葉を浴びせたりする。

 遠藤も番組を盛り上げるためにリカのお尻を触ったのだろうか?

 しかし、遠藤は何の素振りも見せずただリカの地縛霊に対する説得を黙って見つめている。

 遠藤はカメラが自分を映している時にいつもの決まったリアクションを取ると、後はただの観客としてしか機能せず「おおー」とか「すごいですね」とか、テレビ番組を閲覧しに来た一般人の観客がするような反応しかしなくなるのだ。それが遠藤の底の浅さ、未だ三流お笑い芸人の立場を抜け出せない所であったのだが、遠藤がそれに気がつくことはなかった。

 遠藤の知性というものが感じられない、その鈍い目を見て笑いを取るために自分のお尻を触ったのではないと判断したリカは、遠藤が番組の途中でリカのお尻に欲情してつい触ってしまったのだろうという結論に達した。

 自分はセクハラをされてしまった。

 それも仕方のないことだ。こんなにもピッチリしたスパッツを履いているのだ。リカのお尻のラインは周りの人間には丸わかりなのだろう。

 リカの身体を見ていやらしい想像をして楽しんでいるような人間にとって、それは格好の餌食、相手の欲望を刺激してワイセツな行動にいざなったとしてもまったく不思議ではない。

 勝手なことを!!

 満員電車の中で女子高生やOLに痴漢を働く男たちが「そんな相手を欲情させるようなミニスカートなんか履いていたら、痴漢なんかされても文句は言えない」というのをリカはよくテレビのニュース番組などで、顔にモザイクを入れられた男たちが口にするのを目にした。

 彼らの主張によれば、痴漢やセクハラをされるような女性は本人に問題があり、彼女らがそうなるのを望んで男たちを誘っているのだと言っている。

 しかし、それは間違ったことだとリカは思う。

 世の中のすべての男たちが電車の中で痴漢を働いたり、職場でセクハラをするのではない。

 もし女性が露出の多い服装で男性を誘ったとしても、少数の恐らく0コンマ000……%の男たちのみがするのであるというのなら、それはほとんど起きない奇跡を期待するようなものであって、起こる見込みのないことを女性が望むわけがないのだ。

 リカがピーナッツの顔を見て、その表情の奥に秘められた感情を読み取ろうとする。

 リカには遠藤が番組の本番中にリカの豊満な身体に欲情して、その結果リカのたわわに実ったお尻を触ったとはどうしても考えることが出来ない。

 もしそうであれば、目や口、顔の筋肉や呼吸器の乱れなどが起こるはずだ。

 しかし遠藤はいつもの番組でやるように決まりきったセリフとリアクションを繰り返すのみで、まるでテレビ番組の再放送を見ているかのようでもあり、安物の人形がプログラムされた数少ない動作をひたすら繰り返しているだけのようにも見える、そんな印象しかリカに与えないのだ。

 リカのお尻を触ったのはまぎれもなく遠藤だ、それは間違いない。けれどもリカのお尻に欲情して破廉恥な凶行に及んだわけではなさそうだ。

 では、なぜ遠藤はリカのお尻を触ったのだろうか?

 きっと遠藤はリカに以前から恋心を抱いていたに違いない。

 テレビ番組の共演者という立場上遠藤はその恋心をリカや周りの人間たちに悟られないように感情を押し隠し、誰にも知られずに淡々と番組の仕事をこなしていたのだ。

 しかしリカと一緒に仕事を続けるうちに遠藤の心の中の恋心がどんどん大きくなり、その想いは隠しきれなくなり、遂に番組中に真剣に霊を成仏させようとするリカの姿に見ているうちに長い間隠してきた恋慕の情が津波のように押し寄せてきて、ピーナッツのわずかに残った理性ではそれを抑えることが出来ずに、恋人たちがするようにリカのお尻を触ってしまったのだ。

 果たしてそうだろうか?

 遠藤はよくお笑い芸人たちがするように、テレビ番組で自分はファンの女性たちと合コンをよくするだとか、芸能人の女性たちと付き合っているなどとあちこちで吹聴して回っている男なのだ。

 一般女性と飲み会をして出会ったその日にホテルに行くような男が女性に恋愛感情など抱くであろうか? そしてそれを10代の純真な若者のように人知れず隠してただ一人の人間を愛するなどということがあるだろうか?

 そんなことはありえない。

 だとしたら、遠藤はなぜリカのお尻を触ったのか?

 その答えは周りのスタッフたちの反応に鍵があると直感的にリカは感じた。

 テレビ番組の本番中に堂々と、いや隠れてリカの臀部に触ったのだ。周りで見ているプロデューサーやディレクター、その他スタッフたちが気が付かないわけがない。

 しかし彼らは何事も無かったかのように、それぞれに与えられた仕事をただ黙々とこなしている。

 遠藤が人知れずリカのお尻を触ることなど出来るわけがない。人にその姿を見られることがない地縛霊でもなければそんなことは不可能だ。

 だとしたら、まわりのスタッフたちもリカのお尻に遠藤のその節くれだった手が忍び寄り、獲物を狙う鷲のようにリカのお尻を襲う所をはっきりと見ていたに違いない。

 この状況は一体何を意味するのだろうか?

 リカはしばし目を閉じ思考を巡らす。その姿を周りの人間が見たとしても、それは霊を説得するために神経集中しているようにしか見えないだろう。そのように計算をしながらリカは今の自分の置かれた状況を客観的に、そして瞬時に解析して答えをはじき出した。

 ああ、そういうことだったのか。

 芸能界では売れない芸能人たちがテレビ番組に出演させてもらえるように、番組のプロデューサーや、その番組の司会者に身体を提供し、その見返りとして番組出演を勝ち取る、そんな都市伝説とでもいえるような話をリカは聞いたことがある。

 そんなことはドラマや小説の中だけの出来事だとリカは思っていた。しかしそうではなかったのだ。

 テレビ番組の出演者、特に女性たちは日常的にその身体を関係者たちに提供し、そして電波に乗せてその姿をテレビに映す権利を手に入れていたのだ。

 すべての芸能人がそんなことをしているわけではない。それはリカにも分かっている。

 しかし、リカの出演しているこの番組内、民間放送局の大企業から数多くのスポンサーを集めコマーシャルを流している誰もがしっている有名テレビ局ではそれが堂々と当たり前のように行われているのだ。

 テレビ局の力というものは絶大なもので、その影響力は計り知れない。

 テレビ番組の出演者の中にはそんなことを望まない人間もいるだろう。リカもそんな人間の一人ではあるが、そんな人間たちは無理矢理テレビ局の制作スタッフ、芸能事務所、スポンサーの東証一部上場の大企業の幹部たち、薄汚れた欲望にまみれた男たちの力によって無理矢理肉体関係を結ばされるのだ。

 彼らは狡猾で中々その持っているするどい爪を見せたりしない。

 リカの場合もそうだ。

 リカがテレビ番組に出演した最初の6ヶ月の間はただ心霊番組に普通の霊能力者として出演すればよい、そんな自分たちは普通にテレビ番組の制作を真面目にしているだけだと思わせておくのだ。

 しかし、ある時期がくると彼らの態度は豹変し、その本性を表す。

 彼らの手口はこうだ。テレビ番組の本番中にいきなりリカのその未だ汚れというものを知らないウブな少女のような身体をいきなり襲わせるのだ。それはテレビカメラの死角をついてテレビの視聴者には分からないように行われる。

 きっと番組前にこんなやりとりが交わされていたのだろう。

「そろそろいいんじゃないか」

「ええ、そうですね」

「じゃあ、いつものように頼むよ」

「分かりました」

 プロデューサーの田淵、髭面でサングラスをかけ人々に虚仮威こけおどしの印象を与えるあの男が思慮の足りない、短絡的な犯行を簡単に起こすピーナッツ遠藤に実行命令を下したのだ。

 そしてリカは他のテレビに出演した女性たちが受けるのと同じように、彼らの餌食になったのだ。

 番組の本番中にお尻を触られたリカは最初何が起こったのか分からない。そして戸惑い周りの人間の無関心な態度から、もしかしたら自分の勘違いではないのかと思う。

 しかし、それは勘違いではない。

 次の撮影現場でも同じようにリカのお尻は触られ、今度はリカが抗議をする。そうすると実行犯の遠藤はたまたま手がお尻に触れただけだワザとではないと言い、番組のプロデューサーの田淵もテレビ番組では男女が至近距離で会話を交わしあちこち動き回るのだから、偶然相手の身体に触ることはよくあることで、それは本人の注意では避けられないことだという説明をするのだ。

 その説明に対してあまり納得がいかないとしても、自分以外のすべての人間がリカと違う意見を主張するなら、立場の弱い女性のリカはその主張を受け入れざるを得ない。

 そして彼らの行動はエスカレートして、最初はお尻だけを触っていたのが、腰を撫で回したり、胸にタッチしたり、リカの敏感な身体に突然抱きついたりするのだ。

 もはやリカがセクハラされているのが誰の目にもあきらかな状況になり、リカが激しく抗議をしたとしても遠藤や番組スタッフたちは口を揃えて、それはリカが大げさに騒いでいるだけで、遠藤の行動はテレビ番組の出演者としてまったく問題のないもので、自意識過剰なリカの思い込みであると主張するのだ。

 リカが警察に行って起こったことをすべて話すと言っても、彼らはそんなことをしても無駄だというのだ。

 実際にリカが警察に言ってもそれは無駄に終わる。警察が番組の出演者やスタッフたちを警察署に呼び尋問しても彼らは口を揃えてセクハラなどは行われていないと主張するのだ。警察は番組の録画テープを押収して証拠を探そうとするが遠藤がリカの身体に触れているシーンはカメラの映像に映っていない所で行われているか、または既に削除されているので、警察が証拠を見つけることはない。

 そして警察はセクハラなどはなかったという結論に達して、遠藤たちは無罪になるばかりか、逆に彼らから訴えられて、裁判に負けたリカが損害賠償を支払わなければならなくなるのだ。

 リカにはテレビ局の獣のような男たちに好き放題にされるしか方法はないのだ。

 日常的にセクハラを受け、精神的に疲れ果て抵抗力の弱ったリカをある日遠藤が部屋に連れ込むのだ。

 そこには布団が敷いてあり、その枕元にはティッシュ箱が置いてある。

「何をするんですか」

「分かっているだろう」

 驚くリカに肉体関係を強要する遠藤のその姿はいつものテレビ番組で見せているおどけた表情とはまったく違い、無表情でやさしさのかけらもない言葉と動作でリカに激しく迫ってくるのだ。

 いつもとかろうじて同じ所と言えば、その腐った目つき、少年がもっているだろうキラキラした輝きを失い、ただ自堕落に欲望のみを求めて生きているだけの人間だけが見せる光を失った汚れた目つきでリカの目をじっと見つめてくるのだ。

 リカの心を絶望が襲い、その身体が恐怖に硬直しまるで肉食動物に突然襲われた草食動物のようにプルプル身体を震わせることしか出来ないのだ。そんなリカの揺れた全身の肉を見て遠藤は欲情しリカは遠藤に抱かれてしまうのだ。

 リカが遠藤に抱かれたことはすぐに他の番組スタッフたちにも知られてしまう。それは遠藤が彼らにすぐに言いふらしてしまうからだ。

 遠藤はテレビでも自分が過去に付き合った女性のことをお笑い芸人特有の軽薄さで何でもしゃべってしまう男なのだ。彼は一般女性とのことはもちろん、普通であれば言わないであろう芸能人との交際もイニシャルを使って吹聴して回るのだ。

「一緒にテレビ番組に出ているK.Rと自分は寝た」

 そんな遠藤の話は、聞く人にすぐリカと寝たということがバレてしまう、そんな話を遠藤は得意げにするのだ。普通の芸能人であれば誰と寝たか分かるような話し方をしないが、週刊誌やスポーツ新聞にまったく見向きもされない三流芸人――素人とほとんど変わらない遠藤だからしゃべってしまうのだ。

 テレビの視聴者たちはそんな遠藤の話を信じないだろう。痴呆患者のモノマネをして笑いを取るような男が真実を言うとは一般の人は信じないからだ。

 しかし業界の関係者たちは違う。

 すぐにリカは簡単に誰とでも寝る女だという噂がテレビ業界で広まり、それをきいた業界人たちがハゲタカのように群がり、リカに肉体関係を強要するようになるのだ。

「今度始まる番組に出てほしいんですよ」

「コマーシャルが決まりました」

「今度始まるドラマの主役として出演して欲しいんですよ」

 業界人たちはそんな仕事の話を持ってきてリカを喜ばせる。

「ただしそれには条件があります、分かるでしょ――」

 そう言ってプロデューサーやスポンサー、果てはADにまでリカは抱かれてしまうのだ。 

 仕事と引き換えに身体を売る女。

 テレビ業界にいる女性ならみんなやっていることだ。しかし、そんな彼女たちの仲間にリカも加わってよいものだろうか? もしそうなったらどうなるだろうか?

 リカの頭の中で高性能のコンピューターがやるような複雑なシュミレーション、自分の未来に起きる出来事をさまざまな要因から計算し正確な答えを導き出す、それが一瞬の内に行われリカはその答えを出した。

 それはこういうことだ。

 リカは番組の共演者やスタッフたちと寝る、そして番組に出る。

「あっ、あそこにいるでしょ。あなたには分からないの」

「えっ、あそこに霊がいるんですか?」

 リカと一緒に番組に出演している男、ピーナッツ遠藤はリカを抱いていることなどおくびにも出さずに、まるで女性の身体など味わったこともない、そんな顔をしながらいつも通り番組に出演し、いつも通りに大げさなリアクションを取る、前の日にリカを抱いた時にはそんな態度はまったく取らなかったのに。

 その二人の姿を周りで見守るプロデューサーやスタッフたちもリカの身体を知っている男たちだ。リカの身体のどこにホクロがあり、またシャツの下に隠されたそのお腹の脂肪が三段に分かれているのか、それとも四段に分かれているのか知っている男たち。なぜ彼らがそれを知っているかと言えば、以前にリカを抱いた時にリカの身体を文字通り頭のてっぺんからつま先まで撫で回すようにじっくりと眺めて楽しんでいたからに違いない。

 そしてなぜかその場には番組のスポンサーを務める東証一部上場の食品企業の宣伝部の部長もテレビ局のスタッフたちと混じっている。

 彼は企業が今度発売するハムのCMにリカが出演することが決定したと言ってリカを部屋に連れ込み、そこで今度のCMのリハーサルだと言ってリカの衣服を剥ぎ取り、そのよく脂の乗った身体をタコ糸で縛り付けようと企んでいるのだ。

 そして当のリカも共演者やスタッフたちとのことは何もなかったかのようなそぶりを見せて、いつものようにカメラの前で除霊をするのだ。

 果たしてそんなことが出来るのだろうか?

 一緒にカメラに映っている男と男女の仲になっていながら、それをおくびにも出さずに視聴者たちを騙していつも通りに演技をこなすことが出来るだろうか?

 いや出来はしないだろう。

 番組中で遠藤と話をしたりするその声の中には、前の晩に抱かれた時の記憶が残っていてそれを表現するような微妙な声の抑揚の違いというものが含まれるに違いない。

 顔の表情にしてもそうだ。番組出演のために厚化粧を余儀なくされて運動会で小麦粉の中から飴玉を手を使わずに探して顔が真っ白な粉だらけになったかのようなその顔にも、私は目の前の男に抱かれたとはっきり文字で書かれているような顔をするに違いない。

 そんなリカの表情を舞台女優のシワを隠すことが出来るドーランでさえも隠すことなど出来ない。

 それでも他の女性芸能人、女優や女子アナウンサー、モデルやアイドルのように何事もなかったという演技をしながらテレビに出続けることが果たしてリカに出来るだろうか?

 どうして彼女たちは何事も無かったかのようなフリをしてテレビに出続けることが出来るのだろう?

 テレビの視聴者の内、勘の鋭い何人かは言うだろう「あの女は共演者やプロデューサーと寝ている」と。他の大多数の勘の鈍い視聴者たちは「そんなことはない、君の考えすぎだよ」と笑いながら言うだろう。

 リカも大多数の勘の鈍い視聴者たちに混じって真実を見抜いた少数の人間たちを笑ってやりすごすことが出来るだろうか?

 最初の内なら出来るかもしれない。

 しかしそれが何度となく繰り返し、いつ終わるともしれない永遠にも等しい偽りの演技をし続けなくてはならないことに対して、リカの精神は蝕まれ、そんな生活にきっと耐えられなくなるだろう。

 どうしてそんなことになるのだろうか?

 人は身体は正直だと言う。

 リカの身体を抱いた遠藤やプロデューサーたちも「ほらね。嫌がったフリをしていても身体は正直だ」と言うだろう。

 確かにそうだ、身体は正直だ。しかしそれは彼らがいう意味でのことではない。

 リカは遠藤やスタッフ、スポンサーに表面的には抱かれて喜んでいるように見せることが出来るかもしれない。リカは女だ、生まれつき女優としての素質があるのだろう。しかし身体は決して喜んだりはしない。リカのその未だ汚れを知らないその身体が喜ぶことなどありえないのだ。

 そうだ、リカは男を知らない。その身体は赤ん坊として生まれた時から成長したが、その大事な部分は何も変わってはいないのだ。

 もちろんリカには男を知る機会はあった。

 あれはリカが大学生の時のことだ。

 同じ授業を受けていたあまりリカと口を聞いたことがない女学生が「今度飲み会をやるからリカも来ない」と誘ってきた。

 リカにはあまり友達というものがいない。リカはいつも教室の隅でおとなしくポツンと座っている、そんな地縛霊が部屋の隅に潜んでいるような佇まいで学生生活を過ごしていたのだ。

 リカを誘ってきた彼女は男たちとよく飲み会をしてお持ち帰りされるので有名な軽い、ふしだらな女だった。

 彼女が言うには「リカみたいな女性を飲み会につれて行きたくはないが、どうしても他の女の子の都合がつかないので人数合わせのために仕方なく飲み会に連れて行ってやる」そんな尊大な態度でリカに接してきたのだった。

 しかしリカには分かっていた。

 大学では男たちが構内にいるかわいい女子たちを物色し、マーキングを施し、何とか飲み会に連れて行ってお持ち帰りをしようと狙っている、そんな勉強なんか放り出し大学生活を楽しもうとしている大多数の男たちがいるのをリカは知っていたのだ。

 リカもそんな男たちに狙われている女性の一人だった。

 普段は屋外に出ず部屋の中にいるか、たまに心霊スポットに出かけるくらいのリカは日光にほとんど当たらず――心霊スポットは薄暗い場所か深夜に訪れる場所なので――色白でまるで透き通った絹のような肌をしており、男たちの欲情を掻き立てるそんな容姿をしていた。

 リカを飲み会にさそってきた女、彼女の名前はマキと言った。彼女の容姿はあまり優れてはいなかった。普通であれば男性に相手にされないマキは男たちに大学のかわいい女性を紹介する見返りとして一緒に飲み会に参加し、そして男たちに酒を飲ませて、酔わせて判断力を奪いホテルに連れ込むというのがマキの手口であったのだ。

 マキは自分より外見の優れた女性たちを大勢利用してきた、そして今回リカの出番がやってきたというわけである。

 マキはリカが男に相手にされない、つまらない魅力のない女性であるかのように言う。

 しかし、それは事実ではない。

 詐欺師が年代物の骨董品を手に入れようとしている時に「これはガラクタで誰も欲しがらないようなただのゴミだ」と言って持ち主にその本来の価値を誤って判断させ、時価数億円というような高価な美術品を二束三文、あるいは逆に相手からゴミの廃棄料として金を請求するそんな卑劣な手口の一つであったのだ。

 彼女が嘘を言っているのはリカには分かっていた。リカはマキよりも賢く、マキには見えないものまで見通す彗眼の持ち主であったからだ。

 当時のリカはマキの誘いを断ったのだろうか?

 断らなかったのだ。

 リカは大人しく控えめな女性であった。男性に興味があっても自分から話しかけることも出来ず、かといって男性から見て高嶺の花であったリカには「どうせ交際を申し込んでも断られるに違いない」そんな想いを相手に抱かせてしまっていたので、男の方から近づいてくることもなかった。

 リカも年頃の女の子である。

 思春期特有の軽薄さと男性に対するこの時期特有の異常な好奇心からマキの誘いに乗り、飲み会に行くことにしたのである。

 男性に抱かれるかもしれない。

 もし飲み会に行けば、必然的にお酒を飲まなくてはならない。「アルコールは飲まないので」そう言ってリカが断っても「少しだけならいいでしょ」と男性たちが無理矢理ジュースのような酒、サワー類を勧めてきてリカはなし崩し的に飲んでしまう。

 一口飲んだが最後、男たちはリカが酔っ払って意識を失うか、理性を失うまでリカがアルコールを飲むことをやめることを許さない。

 そして他の女性たちがするように、リカもホテルに持ち帰りされるのだ。

 アルコールで鈍った頭で何が起こったのかよく分からないまま男にその身を委ねたリカは次の日ホテルのベッドの上で目を覚まし、前夜とはまったく違う冷たい態度の男の姿を目にして「ああ、私は身体だけが目当ての男に抱かれたんだ」そんな自戒の念に襲われ後悔することになる。

 そんな破滅への道が明らかであるのにリカは飲み会に参加することを選んだのだ。

 リカは男性のおもちゃになってもよいと思っていた。このまま男性も知らずにただ学生生活を送り、そのまま就職活動をするよりも、性欲を制御することも出来ない男たちにその身を委ねた方がよいのではないか? そうすれば他の女性たちがするように自分の男性経験を他の彼女たちに自慢をすることが出来る。そんな電車で痴漢を働いている犯罪者がその卑劣な犯行を良いことをしているかの様に他人に自慢する、一種の精神異常者のみが行うようなおろかな思考にこの時のリカの頭の中は囚われていたのだった。

 しかしリカは結局男たちにその身を与えることはなかった。

 合コン会場のチェーン店の居酒屋を前にして、その店の中から聞こえてくる人々の異様に甲高い笑い声、これから恥知らずな行為、彼らが小学生の時にはまったく考えなかった良識ある人たちの前では決して口に出せないような行為を楽しもうというおぞましい精神を表すようなだらしない笑い声、それを聞いたリカの良心がその声に含まれる邪悪な思念を感じ取り、リカをあと一歩という所で正気に戻した。

「やっぱり私帰るわ」

「えっ、何言っているの」

 居酒屋の入り口で帰ろうとすると、マキが逃げようとするリカを引き止め、異変に気づいた合コン相手の男たちも店の中から出てきた。

 もう少しで獲物を捕まえることが出来るのに彼らハンターたちは簡単にはリカを逃走させようとはしなかった。

 リカの腕を無理矢理引張り、処刑場に死刑囚を連れて行く首刈り執行人のようにリカを強引に飲み会の最終地点である座敷まで連れて行こうとした。

 もしもリカがそこまで連れて行かれてしまったなら、断頭台に頭をのせられた囚人のように逃れようのない破滅をその身に受けていただろうが、そうはならなかった。

「あそこに霊が見える」

「えっ、何」

「あそこに頭に斧が突き刺さった血まみれの男が立っていて、こっちをじっと睨んでいる」

 マキや男たち、更には近くにいた店員もリカの顔を怪訝そうに見た。

 リカは今は居酒屋になっているこの場所は昔は死刑場があり、そこでは罪のある人達だけではなく罪なき人たちも大勢殺されたと言った。

 そこで処刑人をしていた30代半ば、身長185cmで体重73kg、実家は水呑百姓でIQは83、首の根本にホクロが3つならんでいる昔この場所で処刑人をしていた男、その男が仕事で大勢の人々の首を斧で刎ね殺していった結果、精神に異常をきたし、自らの頭に斧を叩き込んで自殺した。その男が座敷の前でリカたちをじっと睨んでいると事細かにリカは説明した。

 最初はリカの身体のことしか考えておらず、無理矢理酒を飲ませてリカをホテルに連れ込もうとしていた男たちも、リカのその真に迫る話を聞く内に神妙な気持ちになり、欲望に乗っ取られたその精神が正常な状態に引き戻されていった。

 そしてその場から逃げるように飛び出したリカの後を追うものはいなかった。

 本当にそこには霊がいたのであろうか? いやいなかった、リカは嘘をついたのだ。

 土壇場になり正気に戻ったリカは、男をまだ知らない清い女性たちがするように男を前にして怖くなり逃走したのだった。

 あの時、怖気づかずに勇気を奮っていればリカも男の身体を知ることが出来たであろう。そして他の大多数の女性と同じように身体目当てで近づいてきた男たちの中でたまたま運悪く子供が出来た不幸な男と結婚をして家庭を持っていたことだろう。

 リカの身体を求めるもう一つの命がリカから誕生し、それはリカのたわわに実った胸から命の糧を得ようとリカの身体を激しく求めてきたことであろう。

 そうやって色々な人間たちから身体を求められ続け、それに馴れて何も感じなくなった時にリカの身体を老いが襲い、その蝋燭の炎にも似たか細い生命を終わりへと導くのだ。

 むしろそうなっていた方が良かったのかもしれない。

 清く正しく生きるよりも、他の汚れた人間たちと交わって生きていた方が、汚水の中で生きている都会の川を泳ぐドブ臭い魚のように悠々と汚れたこの世の中を泳いで行くことが出来ただろうし、男たちに心身を汚されたとしても自分の汚さに気が付かずに生きていけたことだろう。

 しかしそんなことはリカには無理だったのだ。

 リカの身体は男を知らない。それは神殿で神の言葉を民に伝える神聖なる巫女のように、外界の汚れた男を知らないリカのその身体は人間離れをした清らかさを保っていた。だからその肌は汚れを知らない絹のようにさらっとしており、それが男たちの欲情を未だに駆り立て続けていた。

 そんな清純なリカにとって、この世でもっとも汚れた人間たちの集まりである芸能界で男たちをその身体を使って操り、芸能界のトップを目指してのし上がっていくことなど出来ないのだ。

 他の野望に溢れた若い女性たちであれば、己のその身に過ぎた目標に向かって自分の天から授かった大事な身体を犠牲にしてテレビドラマの主役やニュースキャスター、コマーシャルの出演権の獲得のため男たちにその身を委ねることが出来るのだろう。

 彼女らは愚かで何が大切で、何がつまらないなくてもよいものかをまだ知らないのだ。

 だから、女性としてもっとも大切なものを男という名の商人に軽々と売渡し、つまらない一時的なその身分を手に入れて悦に入っているのだ。

 リカがそんな女性たちの仲間に入るには彼女は賢すぎたし、また年を取りすぎてもいた。

 この辺りが限界なのだろう。

 リカがテレビ業界で活躍するのもどうやらこの辺が潮時なのだろう。リカには視聴者を楽しませる、そんなスター性は他の女性たちよりも優れていたに違いないが、その目的のためには何でも――それが自分の大切な身体であっても――捨てる覚悟と実行する気概、勇気というものが欠けていたのだ。

 生きていくためには身体が必要だ。もし身体がないのに生きていくとしたらそれはすでに人間ではなく幽霊、亡霊と呼ばれるものに違いない。

 リカには人間をやめてまで芸能界でのし上がって頂点を目指す、そんな貪欲さが欠けていたのだ。

 他のテレビ番組に出演する女性たちはその大切な身体を捨てて、蜃気楼のようなありもしない栄光というものを求めて仕事を手に入れるのだ。

 番組に出演するために男に身体を差し出しても人は死んだりしない。その肉体はいぜんとして生き続けているじゃないかという人もいるだろう。

 しかし愛してもいない男に抱かれるその体はまるで人形のようで、男たちはその外見のみに興味を示し、彼らに抱かれる女性たちは命を失った人形のように無表情な姿で抱かれているのだろう。

 そんなことで生きていると言えるだろうか?

 芸能界でのし上がる。言葉の響きだけはすばらしいが一体何を彼女らはよじ登っているのだろうか? 薄汚れた男の身体の上にまたがってそれがよじ登っているとでも言うのだろうか?

 そんなことを考えると、もうリカには芸能界というものがくだらない人間たちの見せかけだけの儚い夢物語のように思えてしまい、そんな世界で生きていくことに興味というものがどんどん失せていくのだった。

 芸能界を引退しよう。

 この汚れた世界の中にいたら排気ガスで汚染された空を飛んでいる鷹のようなもので、空の王者と呼ばれる鷹もしだいにその力を失い殺虫剤をかけられたハエのようにパタリと地面に落ちて死んでしまうに違いないのだ。

 それがいい。

 破滅すると分かっているのにその身を汚れた世界に置くのは愚かなことだ。それが毒だと分かっているのに毒を飲む人間のように愚かな真似はやめよう。それが賢い人間のすることだ。

 リカが辺りを見回す。

 そこは恋人たちが恋を誓い合うために訪れるデートスポットであるのもうなずける綺麗な見晴らしの良い丘の上で、今その場所にカップルたちにいたずらをしているという卑劣な地縛霊を除霊するという名目でリカはこの地に来ている。

 リカが霊がいるといった杉の木はこの地に何百年も存在し続けたその堂々たる佇まいを感じさせ、リカの周りでは地縛霊との対決の時を一時とも見逃さないように大勢のスタッフたちが取り囲み、リカの一挙一動を固唾を呑んで見守っている。

 いい気分だ。

 綺麗な風景に囲まれ、リカを物語の主人公のように、この世の中でもっとも価値のある人間のように扱ってくれる大勢のスタッフたちに見守られている。そんな地位を投げ出してよいものだろうか? そんな突然不安とも欲とも言えないような気持ちがリカの中に湧き上がってきた。

 リカが今の地位を手に入れたのは決して運だけではなかった。

 リカは小さい頃から努力を重ねて、その結果深夜番組のレギュラーという一般人が望んでも手に入れることが出来ない立場にその身を置くことが出来たのだ。

 それを本当に捨ててよいのだろうか?

 リカはじっと目をつぶった。

 その姿はこの世に未練を残してこの地にとどまり続ける悪霊との真剣勝負の最中に相手に最後の一撃を加えようと力を蓄えている、そんな風に周りの人間たちには映った。

 しかし、そうではなかった。

 リカは自分の過去にその心を向かわせていたのだ。リカが霊能力者になるきっかけの出来事をリカの幾多の積み重なった記憶の中から手探りで取り出そうとしていたのだった。

 それはリカが5歳の時のことだった。

 当時のリカは普通の子供がするように、幼稚園に預けられ、他の園児たちと遊んで生活をしていた。

 リカがいた幼稚園にはマサトという男の子がいた。

 マサトは神経質な子供で人とは打ち解けず、常に辺りを不安げにキョロキョロ見回しながら教室の隅でおとなしくじっとしていた。

 そんなマサトの姿を見て、まるで亡霊に怯えているようだなとリカは思った。

 だからリカは嘘をつくことにしたのだ。

「あなたの後ろに、水に濡れた女の人が恐ろしい目で睨んで立っているよ」

 それはほんの軽い冗談、出来心のようなもので悪意のあるものではなかった。子供がよく言うような他愛のない嘘だったのである。

 しかし、マサトはその言葉を聞くとビクッと身体を大きく震わせ、ガタガタ震えながら後ろを振り返り「えっ!? 本当、嫌だ、来るな!!」と叫んで両手で耳を塞ぎ、まるで自閉症の子供のように部屋の反対側の隅に行き両目をつぶり「こっちに来るな!! あっちにいけ!!」と呪文のように何回も繰り返し始めたのだ。

 そんなマサトの姿は本当に悪霊に取り憑かれて、必死に助けを求める子供のようでリカにとってはとても愉快なものだった。

「ほらっ、あなたの方に向かって女が地面を這いずりながら”お前を殺してやる”って言いながら近づいて来ているわよ」

「やめてよ!! 来るな――!!」

 マサトは最後には部屋の隅で身体の震えが止まらなくなったらしく、その日は一日中病人のようにガタガタ震え続けていた。

 それからリカは毎日マサトに霊がマサトを襲おうとしていると嘘をつき続けた。それに対するマサトの反応がリカにとっては新しい新型のおもちゃを買ってもらった子供のように愉快にさせ、飽きさせず、常にお気に入りのおもちゃを手に持っていじくりまわしている子供のような執着さで、リカはマサトに付きまとった。

「あんたのお父さんとお母さんを殺してやるって言っているわよ」

「嘘だ!! 誰も僕の父さんや母さんを殺しに来たりはしない」

「自分の子供が昔、川で溺れて死んだから、あんたの弟も水に沈めて殺してやるって言っているわよ」

「嘘だ!! 嘘だ!! 弟は死んだりなんかしないんだ!!」

 リカの嘘は次第にエスカレートしていって、悪霊がマサトの家族を殺すと言ったり、彼の家のあちらこちらに霊が仲間を集めて靴箱の下やクローゼットの中、トイレの排水管の中など、あらゆる狭くて暗い所に身を隠して潜み、マサトたち家族をいびり殺そうと4ヶ月前に新築したばかりのマサトの家に悪霊の大群が押し寄せてきていると嘘を言ったのだ。

 マサトはリカが何かを言うたびに大声を上げ、パニックになったネズミのように部屋の中を走り回り、最後には部屋の隅で倒れて動かなくなるまで身体をガクガク震わせながら独り言をぶつぶつ言うのだった。

 リカは愉快だった、今まで感じたことがないほど愉快な日々が続いた。

 しかし、そんな楽しい日々も終わりを告げる時がきた。

 リカがいつものように幼稚園に行くとマサトがいなかった。マサトを脅かそうと前の日に必死に霊の話を考えていたリカは肩透かしを食らい、その心は大きな落胆したが、その後で教室にやってきた先生の話はリカの心中に衝撃を与えるものだった。

 マサトはもう幼稚園に来ないと先生は言った。

 その言葉は大切にしていたオモチャがどこか遠くへ行ってしまったかのようにリカの心を悲しみで満たした。

 先生はその理由の説明を始めた。

 マサトは精神に異常がある子どもだった。

 生まれつき脳に障害があったらしく、マサトの精神は非常に不安定で、ありもしない幻覚を見たり、人に言われたことは何でも素直に信じてそれが現実の出来事だと思いこむ、そんな病気の持ち主であったのだ。

 マサトの親は最初、障害があるマサトを幼稚園に通わせるのをためらった。

 不特定多数の幼児が集まる幼稚園で生活するにはマサトの精神は不安定過ぎたし、心無い園児にいじめられでもしたら心に深い傷を負うのではないかと心配したからである。

 しかし、もし他の人間に接しないままマサトが成長した場合、大人になった時に困るだろう。人と接する機会を得られなかった子供が大人になってから社会生活を営むのは困難なことであり、それはマサトの人生の破滅を意味するとマサトの両親と精神科医が深く話し合った結果、マサトを人に馴れさせるために幼稚園に通わせるという決定がなされたのだった。

 学校に通う弱い生徒はいじめられる、そんな事件をマサトの両親がテレビのニュースや過去の学生生活でたびたび見にしてきたが、幸い幼稚園の中ではイジメというものがほとんど起きていなかったということと、まだ物心がついたばかりの幼児には他人が苦しむ姿を見て喜ぶような異常者がごく稀にしかいないという事実から、マサトを幼稚園に通わせるという決心をしたのだった。

 マサトの両親は最初不安だったのだろう。

 心の病気を生まれながらにして持っている不幸な息子をもつマサトの両親は「行きたくなければ行かなくてもいいんだよ」と言ったが、「大丈夫だよ。僕頑張るよ」とマサトは健気に答えた。

 マサトは精神に異常があったが、多感な子でもあった。だから親の気持ちを察して、親の不安を取り除くためにあえて虚勢を張り、親を安心させようとしてそう言ったのだった。

 そんなマサトの気持ちを両親はよく理解し、家族はマサトが幼稚園に行く前に深く抱き合った。

 最初マサトに異常はなかった。

 まだ新しい環境に馴れていないマサトは不安そうではあったが、それは初めて幼稚園に行く子供であれば誰でも感じることでもあったし、マサトの様子も普通の園児と変わりはなかった。

 しかしそれからしばらくして、マサトの両親は異変に気がついた。マサトが誰もいない部屋の片隅をじっと見つめてそわそわしだしたのだ。

 何をしているのだろう?

 不安に思った両親が近くに行くとマサトがポツリと言った。

「女の人が部屋の隅から僕を怖い顔で睨んでいる」

 両親は初めマサトが冗談でも言っているのだろうかと思ったがそうではなかった。それは次第にエスカレートしていったのだ。

 マサトが部屋の中を大声を上げながら走り回り

「こっちに来るな!! あっちにいけ」

 まるで恐ろしい怪物にでも追いかけられているかのように部屋の中を逃げ惑い始めたのだ。

 そんなマサトを両親が不安げに見守る最中、マサトの症状はどんどん悪化していった。

 ある日マサトの両親が夜中に目を覚ますと、そのベッドの脇には肉きり包丁を持ったマサトが立っていた。驚く両親に対してマサトは「僕が父さんと母さんを守るんだ」と言って部屋の入り口を震える手で肉きり包丁を握りしめながらずっと睨んでいるのだった。

 それだけではない。

 マサトには今年生まれたばかりの弟がいた。

 まだこの世に誕生して7ヶ月のその弟の揺りかごのまわりを棒の先に果物ナイフをくくりつけ、自分でつくった槍を持ってまるで王様を守る衛兵のようにうろつき始めたのだ。そんなマサトをまだ自分で立って歩くことすら出来ない弟が物珍しそうにじっと見つめるのだった。  

 この頃になると両親はマサトを心配するよりも家族、特に生まれたばかりの弟の身の安全を考えるようになった。そしてマサトから弟を遠ざけるため、しばらく弟を親戚の家に預けることにした。

 幼稚園から帰ってきて弟がいなくなったことを知ったマサトは半狂乱になり自作の槍を持って家の中を走り回った。

「あいつらが弟を殺してどこかに埋めに行ったんだ」

 もう手に負えないと思った両親が医者に相談をしに行くと「マサト君はしばらく病院に入院した方がいいかもしれない」と言われた。

 そしてマサトが3日後に入院することが決まった次の日、マサトの母が朝、マサトの部屋をノックすると返事がない。不審に思った母がドアを開けるとそこには白目を向き、口からは白い泡を吹き、痙攣をしているマサトの姿があった。

 その姿はまるで悪霊に取り憑かれてその魂をあの世に持っていかれ、魂が抜けた肉体だけになったゾンビになったかのような恐ろしい光景であった。

 そんなわけでマサトは病院に入院することになった。

 そんな詳しい事情は幼いリカたちには知らされることはなく、幼稚園の先生は「マサト君の病気が悪くなったので、恐らくもう幼稚園には来れなくなるだろう」とのみ幼児たちに伝えた。

 それを聞いたリカは罪悪感を感じ後悔しただろうか?

 否、リカは今日も使おうと思っていたお気に入りのオモチャが壊れてしまい、夜中に親に勝手に捨てられた子供のようにほぞを噛んで悔しがった。

 それは仕方がないことだった。

 まだ幼く知能があまり回らないリカにとっては他人のことを考える知性というものがまだ備わっていなかったのだ。

 もしマサトの精神に異常があると分かっていたならばリカはマサトを脅かすような真似はしなかった。マサトが普通の幼児だと思ったからこそ、ありふれた友達に言うような冗談をリカは言ったに過ぎなかったのだ。

 確かにリカはマサトにしつこくつきまとい過ぎたのかもしれない。リカの嘘に怯えるマサトの姿からマサトが脳に生まれつき障害があることを悟るべきだったのかもしれない。

 しかしそんなことはリカには不可能だったのだ。

 リカの嘘に怯えるマサトの様子があまりに面白すぎ、リカに生まれてから一度も感じたことがないような興奮を味あわせてしまったために、他のことを考える余裕がまったくなくなり、ただマサトをどうすれば怖がらせることが出来るかのみを追求してしまったのだ。

 その後のリカは反省をして嘘をつくのをやめたのだろうか?

 リカは止めなかった、むしろ逆に嘘のみを言うようになったのだ。

 マサトの不幸な体験を見てリカは自分には大きな力があると思いこむようになった。正常な精神を持った人間を異常な状態にいざなう、まるで呪術師が呪いをかけて相手を狂わせ、発狂死させるような、そんな特別な力が備わっていると感じるようになったのだ。

 リカは他の園児たちにも幽霊がいると嘘をつくようになった。しかし誰もリカの嘘を信じなかった。

 まだ幼いリカの嘘は稚拙で、それを信じた相手が恐怖に青ざめる姿を思い浮かべると笑いがこみ上げてきたので、笑顔を見せながら嘘をつくリカの姿を見て相手は瞬時にそれが嘘だと見抜いたのだった。

 リカがマサトを騙すことが出来たのは相手が病気で特別な相手だったからにすぎない。そんな普通では起きない偶然、奇跡のような出来事がその後のリカの人生をすっかり変えてしまった。

 リカは誰も信じないのに嘘を付き続けた。

 それはリカが成長し小学校、中学校、そして高校、大学、社会に出てからもリカは嘘をつくことをやめなかった。

 以前に一度だけ他人に嘘を信じさせ、相手を破滅させた体験、それはリカにとっては衝撃的であり、まるで神の啓示を受けたキリスト信者のようにその再来を追い求め、他のすべてを犠牲にしてまでも嘘をつくことを止めさせなかったのである。

 リカは小学4年生の時にある男子生徒に恋をした。

 時はバレンタインデー、普通の女子がするようにリカもその好きになった男子に2時間かけて作った。まだ料理技術が未熟でリカが一生懸命作ったそれは不格好であったがリカの真心がこもったものであった。

 それを受け取った男子、名前をタケシというその生徒はリカがタケシにのみ分かるように教室の机の中に入れておいたチョコを見つけ、誰からもらったかを知ると、皆にリカからチョコをもらったことを告げ、そして大勢の見ている前でトイレに流したのだった。

「お前は汚物のような女だ。だからお前のつくったチョコをトイレに流すのだ」

 タケシは当時60年代のアメリカ映画にハマっていた。

 他の児童がするようにタケシも映画のモノマネをし、そのセリフを真似た喋り方をよくしていた。

 そんなタケシは映画に出てくる西部劇の保安官が縛り首になる悪者に罪を言い渡すような言い方をリカにしたのだった。

 タケシがトイレにチョコを流す前にリカにそう言ったのには理由がある。

 リカについてある噂がクラスの中で流れていた。

 それはリカが幼稚園の時にある幼児、精神に異常があった可哀想な子供につきまとい「幽霊がその子や家族を殺そうとしている」としつこく脅かして精神病院送りにしたという噂がクラスの中で流れていたからである。

 その噂を流したのはリカと同じ幼稚園に通っていたアヤという女の子であった。

 アヤは人の犯した恥ずかしい出来事や過ちを本人が忘れた頃、休み時間など相手がリラックスをして油断をしている時に突然言い出す癖というか、嫌がらせをして相手の反応を見て楽しむという性格の持ち主だったのだ。

「そういえばリカ、昔マサトを脅かして精神病院に送ったわよね」

「マサトって?」

 休み時間、リカが同じクラスのフトシの身体が太ってみっともない身体をしていることを指摘して、フトシを皆の笑いものにしてリカが愉快な気分になっている時にそれは突然起こった。

 それはあまりに唐突な出来事だったので、リカの頭はパニックになり文字通り頭が真っ白になってしまった。そしてつい「マサトって?」と、とぼけてしまったのである。

 しかしそれがいけなかった。

 アヤは事情を知らない他の生徒たちに事情を事細かに説明しだしたのだ。

 アヤの話は当人のリカも知らない事実も含まれていて、アヤのマサトの家族やその関係者たちに対する入念な聞き込みによって、事件の全容がほぼすべて暴露されてしまったのだ。

 それも無理のないことだ。

 アヤは現在週刊誌の編集者をしており、芸能人、特に好感度の高い最近話題の人物の隠された私生活を事細かに調べ、それを紙面を使い世間の人々に暴露し、相手の人生を破滅させているほどの人物だったからである。アヤの記事はテレビのニュースでも流されるほどであった。

 そんなアヤの話であるから、初めは半信半疑で聞いていた同級生たちであったが、事件の詳細を知るにつれ、その表情は険しくなり、リカを犯罪者でも見るかのような目つきでにらみ始めたのである。

 マサトの事件が知られるまでのリカはクラスで人気者だったと思う。軽快でユーモアがあり、周りの子供たちを笑わせ、そして幽霊がいると冗談半分で言うリカの姿を他の生徒たちは笑顔で見守っていたからだ。

 それが今ではどうだろう。

「それで怨霊が付け狙っているとか言っていたのか!?」

 彼らはもうリカの霊が見えるという嘘を笑っては聞いてくれなくなった。

 まるで過去に犯罪を犯した人間が反省もせずに同じ犯行を繰り返す、そんな更生不可能な生まれつきの極悪人でも見るような鋭い視線をリカに送るようになったのだ。

 他の生徒たちは集まり、リカの方を見てヒソヒソ悪口をいうようになった。

 彼らが言うところによると、過去に人の人生をメチャクチャにしておいたくせに、何の反省もなく平然と水死体や血まみれの男があちらこちらを徘徊してクラスメートを殺そうと狙っていると平然と言い張るリカはこの世でもっともキタナイ汚れた心の持ち主であるということだった。

 そしてバレンタインデーのあの出来事だ。

 クラス中の皆が見つめる中、リカのチョコレートは男子トイレの便器の中に消えた。それは地獄に向かって吸い込まれるようにゴポポポポという音を立て、渦を巻きながら消えていった。

 きっとタケシや皆はリカに罰を与えて、その心に反省を促し、もう二度とリカが霊が人を呪い殺すなどと言わないように、リカの心を傷つけ、それによって人の痛みというものを知るように仕向けていたのだろう。彼らにとってはリカは人の心を持たない怪物のように映ったのだから。

 しかし同級生たちのそんな考えとは裏腹にリカの心は傷つかなかった。

 トイレの排水溝の中に吸い込まれる、前の日に徹夜で作った、溶かす時に温度計を使い何度もテンパリングの温度を確認して念入りにつくったにも関わらず不格好に出来上がったそのチョコレートを見て、本当に汚物みたいだなと思ったのだった。それは初めて男に抱かれた女性が男と交わることをただ無表情にロボットのように、ただその五感、目や耳や肌から感じる触覚からの情報のみがその脳の中を通過し、まるで自分の身体が自分のものではないように感じる、飛行機の墜落事故や銀行強盗の人質になった被害者が感じる感覚に似たものをリカは感じたのだった。

 周りの人間たちはそんなリカの唖然とし、固まった姿を見て、リカは反省して、もう二度と霊がいるなどと嘘をつかないだろうと思った。

 しかしクラスメートたちの思いとは裏腹にリカは嘘をつくことを止めないどころか、前よりも一層熱を入れて嘘をつくようになったのだった。

 それは刑務所に入れられた犯罪者が刑期を終え出所し、なんら反省の色もなく、以前よりもさらに凶悪な犯罪をヤスヤスとやってのけるかのようだった。

「交通事故にあってダンプカーに轢き殺された小学生の女の子があなたのスカートの裾を掴んで学校までついてきている」

「昔、町内会の大食い大会で食べ過ぎで死んだ太った男が、あなたの弁当を盗もうとロッカーの中にその巨体を押し込んで隠れてじっと後ろから見張っている」

 リカが生徒の一人ひとりに対して、その目を見据えながら相手が恐怖を感じるように低い呪われたような声で恐怖の物語をその口から伝えるその姿は、吟遊詩人が伝説の神々の物語を竪琴の音に合わせて歌うかのようであった。

 しかしリカの持っている竪琴は人々の心に美しさを生じさせるような神聖なものではなく、地の底の深い腐った泥の中から生まれた、見るものに嫌悪感をもよおさせる邪悪なものと子供たちの目に映った。

 リカを傷つけたタケシに対しても当然リカは呪いの言葉を吐くことになる。

 それはタケシが学校の部活動の練習が終わり日が暮れ、辺りが薄暗くなった道路を一人で歩いている時のことだった。

 サッカー部員であったタケシはリフティングが得意であった。今度の小学生リフティング大会に向けて遅くまでグラウンドで練習をして帰りが遅くなったタケシは、疲れた身体を引きずりながら家への帰路を歩いていたのである。

 タケシが住んでいる所は山の中にあり、道路の両脇には木々が立ち並び茂みが辺りを覆っていた。 

 突然タケシの目の前の茂みがガサガサ揺れた。

 野生のイノシシだろうか?

 暗闇の中から現れたその丸いシルエットの生き物は下を向きながらゆっくりとタケシの方に歩いてくる。それは幼稚園の時、園児を精神病院送りにしたあの女リカであった。

 リカは物言わずゆっくりとタケシに向かって近づいてくる。

 なぜこんな所にリカが?

 リカの家は確か山の麓の街の方にあり、タケシの家とは逆方向にあるはずだったのだが、なぜかそのリカが暗闇の漆黒の中から亡霊が浮かび上がるかのように足音もなく近づいてくる。

 タケシは後ずさりをした。

 運動部で力にも自信があったタケシであったが、そのあまりに異様なリカの姿に度肝を抜かれてつい後ろに下がってしまったのだった。

 そんなタケシの姿を見てリカは心中ひそかにほくそ笑んだ。それはリカが勝利を確信したからだ。なぜなら一度怯えて後ろに下がったものは二度と前に出ることはないということを本能でリカは知っていたからであった。

 リカは低い唸り声のようなものを口から漏らしながらタケシに近づいていく、それはタケシの心に深い恐怖をもたらした。なぜならリカの行動が昨日の夜テレビで放映されたホラー映画のワンシーンをタケシの脳裏に思い出させたからだ。

 そのホラー映画とは悪魔に取り憑かれたいじめられっ子の少女がいじめっ子たちに復讐していくというもので、リカの姿は映画の後半に森の中でいじめっ子のリーダーを待ち伏せし相手を森の奥まで追い込み、相手が最後には熊に食われて死んでしまう、そんなシーンを思い出させたからだ。

 当然リカもその映画を見ていた。

 リカはタケシに復讐する機会を窺っていたのだ。皆の前で愛のこもったチョコレートをトイレに流す男には特別な方法で仕返しをしてやろうとリカは決めていた。そして昨夜の映画の放送を見てタケシが同級生たちと「昨日の映画怖かったな」というのを聞いて、遂にその機会がきたと思ったのだ。

「ううぅぅぅっっ、ううぅぅぅっっ、あなたが憎いという霊の声が聞こえる」

「なっ、何を言っているんだ」

「昔誘拐されて、この森の中で絞め殺された子供の霊があなたにも同じ目にあって欲しいと、地面の中から手を伸ばして落ち葉の中に引きずり込もうとしている」

「やっ、やめろ!!」

 白目を向き、野太い声でゲラゲラ笑うリカのその姿は映画のシーンを完全に再現するものだった。

 もしもこれが明るい昼間、他の生徒と一緒であったならタケシも取り乱しはしなかったであろうが、日も暮れ薄暗い森の中で幼稚園の時に園児を病院送りにした異常者と二人きりという異様な状況であったがために、タケシは昨日の映画に出てきたいじめっ子のリーダーのように悲鳴を上げ、後ろを向いて一目散に逃げていってしまったのだ。

 その姿は敗者そのものであり、リカは復讐が果たされたことを知った。

 次の日リカは襲撃された。

 学校の授業を終え、家に帰ろうとするリカの帰路をタケシ、ツヨシ、ケンタ、ヨウジのクラスの強面4人組が待ち伏せをしており、歩行中のリカを取り囲んだのだ。

 今日一日、タケシが他の3人とヒソヒソ話しながらリカの方を見ていたのは彼女も知っていた。

 しかし、それは「リカが恐ろしい女だからもうリカに逆らうのはやめよう」そんな負け犬たちが集まって強者に服従を誓うそんな密談をしていると思ったのだ。そんなタケシたちを見てリカはすっかり油断していたのだ。

 リカが人通りの少ない閑静な住宅街、そこは少子化が進み寂れて道を歩いているものと言えば杖をついた老人が1時間に一人通りかかるかどうかという空き家バンクにも登録されている住宅も多い場所だったのだ。

 リカが道を歩いているといきなり電柱の陰からタケシがふらりと現れた。

 その姿は昨日の逃げ惑った惨めな姿とは違い、薄ら笑いを浮かべ余裕たっぷりの姿であったので、リカはこれはマズイと直感した。

 リカが逃げようとして後ろを振り返ると、そこにはタケシの舎弟分のツヨシとケンタ、そしてクラスの厄介者のヨウジがいたのだった。

「昨日は世話になったな」

 まるでお礼参りにきたかのようにタケシがリカの前に立つ。

「何なの。また昨日みたいにお漏らしでもしながら逃げ出すつもり」

 リカは負けずにタケシの目を見ながら言った。

 それがまずかったらしい。

 リカの言葉に顔色を変えたタケシがアゴをシャクって合図をするとツヨシとケンタが後ろからリカの両腕を掴んだ。

「離しなさいよ」

「お前をこれからドブ川の汚水の中に放り込む。以前警告をしたのにお前が止めなかったからお前を汚水の中に流すのだ」

 そんなKKKの黒人差別主義者が罪もない黒人にありもしない犯罪の判決を言い渡す自警団の裁判官のようにタケシが言い放つと、タケシたち4人はリカを近くにあった通称”汚染されたドブ川”、そこは近くの工場からの産業廃棄物や家庭からの汚物が垂れ流され川の水は黒く濁って底が見えず、その川に降り立った白鳥が水の中のヘドロに足を取られ苦しみながら沈んでいく、そんな恐ろしい場所にリカをタケシたちは連れてきたのだ。

 川の周りにはクラスの皆が待機していた。

 タケシが今日の放課後リカに制裁を加えると、リカに知られないようにメモに書いてクラスの皆に知らせておいたからだった。

「言うことはあるか」

「今度から道を歩く時にはオムツでもして歩きなさい。あんたはよくお漏らしをするからね」

 リカはタケシたちにドブ川に放り込まれた。

 それはお祭りの神輿が祭りの最後に川に投げ込まれる時のように何の躊躇もなく、歓声をあげながら非情な残酷さをもって行われた。

 リカは川の汚水の中に頭から突っ込んだ。それは水泳選手が大会で新記録を出そうと必死になってプールに飛び込むようでもあり、空を飛んだ弾道ミサイルが目的地をそれ、海に落下するようでもあった。

 リカはヘドロの中に突っ込んだ頭を必死に引き抜き、もがきながら川から這い出ようとした。もしもリカの身長が87cm以下であったなら川のヘドロに足を取られ水の中に沈んでいった鳥たちと同じ運命をたどったであろう。

 しかし川は浅かった。

 リカの身長は小学4年生の平均である140cmを少し超えるくらいであったので川の底に足をつけることが出来、数多の生き物の生命を奪ってきた呪われた川から生きて生還することが出来たのだ。

 とは言っても、リカはその頭がヘドロにまみれたためパニックに陥り暴れてしまったために、汚水の中でバタバタともがき、溺れそうになっている人間がするように、何度も水の中に頭が沈み両手をバタバタ動かしながら死の運命を逃れようと必死にあがいていた。

 その姿を見守るタケシ他、クラスの生徒たちは汚物にまみれ悲鳴を上げながら川から這い上がろうとするリカの姿を見て、地獄の底なし沼から這い出てくる魔界の生き物を見ているかのような深い恐怖の感情に襲われ、その心の中には勝利の感情というものがなく、一人、また一人とその場を恐ろしさのあまりに逃げ出していった。

 どれぐらいの時間が経っただろうか。

 リカは川からなんとか脱出し、土手を上がった道路の上で息を切らせながら生きているという現実に安堵の深い息を吐いた。

 リカはこの事件で悟った。

 悪霊にとりつかれた真似をするのはやめよう。もしもそんなことをしたら見ている人間は相手を人とは思わず残酷な方法で攻撃をしてくるということを、リカはこの体験から知ったのである。

 それからのリカはイタコや霊媒師のマネごとをすることをきっぱりとやめ、霊の姿が見える霊能力者としてのみ振る舞うことに決めたのだ。それならば彼ら無知で野蛮な生き物の攻撃を誘うことはない。

 そうだ。幼稚園の時にやったように、グループの中で弱い個体にターゲットを絞り、そしてしつこく、入念に、効果的に霊が相手の生命を脅かそうとしていると信じ込ませていくのだ。相手かまわず嘘をつくのは、まるで手当たりしだいに目に入る人間にケンカを売っていくチンピラのようなもので、命がいくらあっても足りるものではない。

 そこでリカはクラスで比較的おとなしく臆病なヤスシという少年に目をつけた。ヤスシは争いを好まぬ平和的な性格で人と争うのを嫌って相手のいいなりになる癖がある。それはヤスシの臆病さからくるものだとリカは見抜いた。

 リカの席はヤスシの斜め後ろだった。だからそれを利用し、他の生徒が近くにいない時を狙って後ろからボソッと話しかけることにしたのだ。

「あんたの後ろから背の高いおじさんが睨んでいるわよ」

「……えっ?」

 初めは自分に話しかけられたことだと気づかないヤスシであったが、後ろを振り向きリカと目が合い、それが自分に向けられた言葉だと知るとヤスシはビクッと身体を大きく震わせた。

「あんたのことが気に入ったから、おじさんがあんたを洞窟の洞穴の中に連れて行って地面に埋めてやるって言っているわよ」

「……!?」

 気弱なヤスシはリカの言葉を聞こえないフリを装い前をずっと向いて振り向かないようにしていたが、その言葉の一つ一つに身体がピクリと反応し、ヤスシの心に徐々にダメージを与えているのが分かった。

 リカの行動はすぐに他の生徒たちの知る所になったが、誰もヤスシを助けようとはしなかった、タケシ以外は。

「お前はまだそんなことをしているのか」

「……」

 無言でタケシを見つめるリカの表情にタケシの表情はあきらかに動揺の色を見せた。そして何事もなかったかのようにその場を立ち去ったのだった、その後姿をヤスシが寂しそうに見つめるのを知りながら。

 タケシや他の生徒は臆病だ。

 臆病だからこそリカが昔マサトに危害を加え病院送りにしたことを知ると、自分たちも同様の被害にあうかもしれないと思い、リカを脅迫し、そして暴行を加えたのだ。

 しかし自分たちにリカが危害を加えないことを知ると、いつも仲間のように扱っているヤスシがリカの標的になっていることを知りながら彼を見捨てるのだ、まるで草食動物の群れの仲間が肉食動物に襲われた時に仲間を見捨てるように。彼らはただ同朋が襲われるのを見て、それが自分でなくてよかったと思うだけの自分勝手な低級な生き物なのだ。

 そんな彼らにリカを責める資格があるのだろうか?

 彼らは言う。脳に障害があり、精神に異常があるかわいそうな幼稚園児におもしろ半分で付きまとい冗談を言って、その人生を狂わせたリカは極悪人であり、どんな罰を受けても受けたりない許されないものだと。

 確かにリカのしたことは悪いことかもしれない。しかしリカにも言い分がある。

 あの当時のリカはまだ幼稚園児であり、ちょっと前までオムツをしていた世間知らずの社会生活のことをよく知らない初心者だったのだ。

 そんな初心者のリカがたまたま一緒にいたマサトを標的にして、その心をいたぶり、マサトの苦しむ姿を見て興奮し、己の楽しみのためにマサトが破滅に陥るのを知りながらしつこく霊がいると嘘をつきマサトの精神に消えることのない傷を負わせたとしても仕方がないことではないのか? とリカは思う。

 その頃テレビのニュースで一つの事件が放送された。

 それはヒーローごっこをしていた幼児二人の内、ヒーロー役の子供が悪役の子供を殴り、意識不明の重体に陥らせたというものだった。

 そのヒーロー役の子供は悪人を倒すことに夢中で、相手の身体に馬乗りになり、相手がぐったりして動かなくなるまでひたすら殴り続けたのだった。

 その子供は言った。

「だって僕は世界を救わなくちゃいけないから、悪人を倒しただけなんだ」

 彼は相手の悪役の子供が「もうやめてくれ」と言うのを知っていながら殴り続けたのだ。

 それを知った周りの大人や子供たちはそのヒーロー役の子供を酷い悪人だと断罪した。

 しかしはたしてそうだろうか?

 彼はただ遊びに夢中になり、その結果ただ悪人を懲らしめることに熱中しただけなのだ。

 もしも物語のヒーローが悪人が謝ったという理由で攻撃をするのを止めたらどうだろうか。

 相手の悪人はすぐにまた悪いことをし始め、世の中の善意ある人々がその心に邪悪を宿したものたちに苦しめられる。だからそれを防ぐためにヒーローは相手が謝ったとしても許さずに攻撃をし続けるのだ。

 悪役の子供に馬乗りになる少年は、日頃人々を苦しめ続けた犯罪者をついに捕まえたという歓喜の心に包まれたのだろう。そして二度と相手に悪事を働かせないようにするために彼は悪役の子供をひたすら殴り続けたのだ。

 相手は当然謝るだろうが、それは悪人がよくやる一時しのぎの嘘のようなもので、それを信じたものは悪人の反撃にあい殺されてしまう。

 だからヒーローは相手を攻撃し続けなければならない。その心の中に眠る正義の心に突き動かされ、相手を痛めつけることが世の中をよくすることだと信じて――。

 リカも同じなのだ。

 初めてオモチャを与えられた子供がそのオモチャを使って心ゆくまで楽しんだだけなのだ。初めてマサトというオモチャを与えられたリカはそのオモチャがどんなものか色々試して遊んでいただけなのだ。

 ぬいぐるみを与えられた子犬が、それを噛み、振り回し、頭突きを食らわせ、噛みちぎったとしても誰もその子犬をしかったりしないだろう。飼い主はその子犬を見て元気な子犬だなと思うだけに違いない。

 だからリカがマサトに幽霊がいると言って脅して、苦しめ、発狂させ、白目をむいて痙攣するまでその心に攻撃を加えたとしても、まわりの大人や子供たちはリカが元気な才能豊かな子供だなと思うべきなのだ、というのがリカの主張なのだ。

 しかし他の人間たちはこういうかもしれない。

 彼らは遊びでやっていただけなのだから、相手が殴られ、苦しみ、意識を失ったのならば、すぐに遊びをやめるべきだったと。

 それは無理な相談だとリカは思う。

 遊びに夢中な子供、ちょっと前まで紙おむつをつけていた子供にそんな判断力というものがあるわけがない。

 彼ら園児はようやく発達してきた知能を使って初めて覚える娯楽というものに夢中になり、その結果楽しいという気持ち以外のものが目に入らなくなり、大人であれば気がつく他の人間の心や身体の痛みというものをまったく感じ取ることが出来ず、ただ興奮の真っ只中にあり、それは未開地を訪れた文明人を突如として襲う集落に住む原住民たちのように訳も分からず、ただ熱狂と興奮とその場の勢いだけで生きている獣に近い人間のようなものなのだ。

 だからそれは人間が生きていれば避けられない事故のようなものであり、責任を取らされ、責められるようなことではないのだとリカは思った。

 その後のリカはしつこく獲物を探して精神の弱そうな人間を見つけると「霊が見える」、「あなたを殺そうとしている」としつこく言い続けた。

 どれぐらいの時間が経っただろうか? リカは成長し、小学校を卒業し、中学、高校、そして大学を卒業し社会に出てもリカは霊が見えると嘘をつき続けたのだった。

 そうなのだ。リカには霊が見えない。霊が見えると言い張っているだけで一度も霊魂のようなものを見たことがないし、まして信じたこともないのだ。

 ただ霊が見えると嘘を付き、霊が相手を襲撃しようと悪意を持った企みを企てていると言って、他の人間が驚き、恐怖し、困惑して困る姿がおもしろいから言い続けていただけなのだ。

 そんなことは小さい子供のうちだけで、大きくなったら飽きて止めてしまうに違いないと思う人間がいるかもしれない。

 しかし大きくなっても小さい頃の夢を忘れられずにそれを追い求める、少年の心を忘れない大人のように、リカも幼稚園の頃マサトを精神病院送りにした体験が忘れられずに嘘をつき続けたのだ。

 その結果リカは人々からの信頼を失い、気持ち悪がられ、バレンタインのチョコレートを便器に流され、汚染されたドブ川に頭から投げ落とされても、リカの一途な心は折れなかったのだ。

 それはまるで嘘をつき続けていれば、いつかそれが本当になると信じている少年のようなものだったのだ。

 しかし嘘は本当にはならなかった。

「霊があなたを池の中に引きずり込もうとしている」

「車に轢かれて死んだ女の子があなたの後ろからついてきている」

 そんな嘘がもし本当になったとして、一体それが何になるのだろうか。

 リカは人々が驚き恐怖する姿をみたいだけだった。

 もしそれが現実になったのなら他の人間だけではなくリカ自身も恐れ逃げ惑うことになる。リカはそんなことは望んでいなかった。

 ただ自分だけがそれが嘘だと知っていて、一人だけ安全な場所にいて他の人々が危険にさらされ困る姿を見て喜びたかっただけなのだ。

 そんなことをしているうちにリカの年齢は35歳を過ぎ、人生の半ばに近づこうかという時になってようやくリカは「いい年をした大人がこんなことばかりしていてもよいのであろうか?」ということに気づいたのであったが、長年の習慣を変えることなど出来ずに、ただ惰性で霊がいると嘘をつき続けたのだった。

 そしてある日リカに異変が起こった。

 それはリカが道を歩いている時に顔の青白いサラリーマンが歩いているのをリカは目撃した。

 その不安気で落ち着きのない態度を見て、彼は幽霊を信じ怯える人間だと直感したリカは初対面の相手の背後に回り込み、後ろから「頭蓋骨が陥没した男があなたの足にしがみついている」とボソッと言ったのであった。

 そのサラリーマンは驚いて振り返りリカの方を見た。その目は恐怖に支配され身体がガタガタ震えている。

 よし、やった、いつもの必勝パターンだ。

 心の中でひそかに勝利を確信したリカは畳み掛けるようにサラリーマンの精神に攻撃を仕掛ける。

「あなたにつきまとって人生を破滅させてやるってその男は言っているわよ」

「……っ」

「あなたが会社でミスが多いのは霊が取り憑いていて、あなたの足を引っ張って邪魔をしていたからなのよ」

 サラリーマンはじっとリカの目を見て恐怖の感情をその目に浮かべる。

 どうやら簡単に騙されたようだ。リカは相手に起こった不幸な出来事はすべて悪霊が取り憑いていたせいだと言うようになっていた。なぜならこういう気の弱い人間はそういうとたやすく霊の存在を信じることを人を騙し続けた体験から知っていたからだ。

 自分の騙しのテクニックも上達したものだとリカはほくそ笑んだが男は予想外のことを口にした。

「それで私は会社でミスをして首になったのか!!」

「……」

「どうか私に取り憑いた悪霊を除霊してください」

「……えっ!?」

 今までの被害者たちとは違う反応にリカは驚き戸惑ったが、今更嘘だとも言えずリカは男の足にしがみついている悪霊を説得して止めさせる演技をすることになった。

「これであなたの足にしがみついて地獄の底に引きずり込もうとしていた頭蓋骨が陥没して目玉が片方飛び出していた縞々のシャツを着ていた男はあの世に去りました」

「あっ、ありがとうございます。これで今まで悪いことばかり起きていた私の人生が良くなります。本当にありがとうございました」

 その青白い顔をしたサラリーマンは顔を真っ赤にして何度もしつこく感謝の言葉を述べ、相手をしているリカがちょっとめんどくさいと思うほどにリカの両手を握り、頭をぺこぺこさせ感謝の気持ちを最大限に表現した後で、リカの連絡先まで聞いて、そして「また何かあったらお願いします」と言って立ち去ったのだった。

 その後姿を見るリカは疲れてしまい、普段であれば警戒心の強さから相手に連絡先など教えることがない、もしくは嘘の連絡先、例えばトイレの壁に書いてある落書きの電話番号でも教えるリカであったが、つい本当の連絡先を教えてしまったのだ。

 おかしい人間に電話番号を教えてしまった、大丈夫だろうか? 

 そんなリカの予想は当たり、リカのもとには霊に取り憑かれて困っているという人間たちからよく電話がかかってくるようになったのだ。

「地縛霊に会社に居座られて会社の経営がうまくいかないんです。何とかしてください」

「お客様のおかけになった電話番号は現在つかわれていま――」

「お礼にお金をお支払いしますから」

「えっ!?」

 当初は相手からの電話を無視していたリカだったが、リカはお金に困っていたので相手のお金をくれるという言葉を聞いて、依頼を受けることにしたのだった。

 リカは子供の時から霊が取り憑いていると言って人々を脅かすことにばかり熱中していたので、社会生活を営む能力にかけ、親しい友人を得ることも出来なかったので、会社の就職面接には落ちてばかりいたし、バイトの面接も相手の嫌そうで人手が足りないので仕方なく採用してやったのだという態度に気分を悪くし、すぐにバイトをやめては転職を繰り返し実家に居候をして親に小遣いをせびるというまるでゴクツブシのような生活を送っていたので、その生活は困窮し金が喉から手が出るほど欲しかったのだ。

 リカの元には霊に取り憑かれ、その結果人生が破滅し、仕事を終われたり、恋人に別れ話を持ち出されたり、家庭が崩壊したという人間たちが大挙押し寄せ、それらの人間からリカは除霊と称して金を受け取りはじめた。

 リカの元にやってくる人間たちは、元は宗教にハマってお金をつぎ込んで財産の大部分を失ったものや、自分の生活態度、振る舞い、言葉遣い、外見が悪いなどの理由で自己の欲望を満たせず不満を抱えた人間たちが、その原因を他人や自己の生まれつきの能力や出自の悪さに押し付けようとしたが、それがうまくいかずに最終的に霊に押し付けることに決着した、心と外見の醜い人間たちばかりだった。

 本来であればそんな人間たちの相手をしたい人間はいない、当然リカもそうであった。

 世の中には変態というものがいて制服を着た女性を見ると興奮するおかしな人間たちがいて、女性にお気に入りの制服をお金を払ってまで着せようとする。しかしそんな彼らも相手を選ぶ。あまりに不気味で人間離れをした外見を持つ人間相手では相手が制服を着ていたとしても、興奮よりは吐き気というか嫌気というものを感じるのだ。

 リカも霊の存在を相手に信じさせ相手が苦しむ姿を楽しむのが目的であったが、自分勝手で外観の造りの悪い構造物の建築物のような出来損ないの外見を持つような彼らの相手をしたくはなかったのだ。

 しかし、彼ら霊に取り憑かれたせいで人生がうまくいかないと主張する人間たちはリカに多額の金を持ってくる。

 彼らはあまり金を持っているようには見えないが、ギャンブルに熱中する人間が彼らのもらうその少ない給料のほぼ全額をつまらない賭け事につぎ込むように、リカにおそらく自分たちの金だけではなく、家族や恋人の金を勝手に持ち出したり、借金をしてまでリカに除霊をお願いしにやってくるのだ。

 そんな彼らはリカのインチキな除霊で人生がよくなるどころか余計に人生が悪くなり、あるものは人の金を盗んだせいで刑務所に入ることになるのだが、リカにとっては彼らはただの金づるでしかなく、彼らの人生が崩壊しようがどうでもよかった。

 それはまるで下水道の中の汚物にまみれて生活するドブネズミのような人間たちを見下して、彼らを同じ人間とは見ておらず、その存在自体をおぞましいものと感じていながら、お金欲しさに彼らに下着を売って金を稼ぐ女子高生のような気分で、リカも除霊を行っていたのだった。

 そんなリカの評判を聞きつけてテレビ局の人間がやってきた。

 今度番組で悪霊が出没する廃病院で心霊番組を撮影するのでリカに出演して欲しいということだった。

 霊の存在などまったく信じていなかったリカはテレビ番組に出演して見たかったことと、もし人気が出て芸能人になることが出来たならばお気に入りの男性アイドルグループのメンバーと付き合い、あわよくば結婚出来るのではないか、そんな淡い期待を胸に抱いていたので、リカは二つ返事で承諾した。

 汚ったない病院だな、リカは最初現場に来た時にそう思った。

 そこはバブルの時に立てられた病院で田舎の自然豊かな地で治療が受けられるという謳い文句で立てられたリゾートホテルのような病院であったが、不景気と人口減少による過疎化が進んだために患者の数が減り、経営が立ち行かなくなり廃業した病院であった。

 その持ち主は行方不明で病院は放置され、荒れ放題になり、若者たちのたまり場のようになり20年以上経過している場所であった。

 そこは他の廃墟の例にもれず、夜中に例が出現する心霊スポットとして地元住人に知られるようになり、肝試しに若者たちがたまに集まるくらいの寂れた場所であった。

「よろしくお願いします」

 リカに礼儀正しく挨拶をした男はこの番組に一緒に出演することになったお笑い芸人のピーナッツ遠藤だった。

 何だ、ピーナッツか。どうせ一緒に出演するならもっと若くて外見のよい芸能人を選んでくれればいいのに。

 リカは小さく舌打ちをした。

 よく見ると番組の撮影スタッフはカメラマン、プロデューサー、ADの3人で、皆3日間は風呂に入っていないだろうという汚い格好をしており、髪は艶を失いフケが肩に落ちている、そんな女性に持てない、さえない外見をした人間の集まりだった。 

 リカは本当にがっかりした。

 どうやらこれは地方の低予算のローカル番組で視聴率も一桁くらいの、番組スポンサーも地方の聞いたこともないような会社の番組だなと、すっかりやる気を失ってしまった。

 この番組は金にならないと判断したリカは手を抜いて適当に時間をつぶして引き上げることにした。

「じゃあ、そこのベッドの所に立ってください」

 錆びついた金属の枠組みの上に破けたマットレスの乗っている、野良猫か何かの排泄物のシミのついた汚いベッドの前に立てとプロデューサーの田淵が言う。

 まさかここでベッドシーンの撮影でもするつもりじゃないだろうな、という下世話な想像をしていることはおくびにも出さず、リカは真剣な表情でカメラの前に立った。

 そこで遠藤と一緒に心霊番組でよくやるお決まりのつまらないやりとりをした後で、リカは部屋の奥を見て驚愕の表情を浮かべた。

 リカの表情を見て遠藤やスタッフたちも異変を感じて一斉にリカの見ている視線の先を追う。

「えっ、どうしたんですかリカさん。何かいるんですか?」「あなたたちには見えないの? あれが」

 それはいつもリカがやっている霊が見えるフリなのであるが、芸能界で生きている彼らも他の人間たちと同様の反応をするのでリカは拍子抜けをしてしまった。

 そこでリカは適当に存在しない霊の相手をして、説得をしてこの世から立ち去らせたと言って「えっ、もうですか?」と驚く遠藤やスタッフたちを後に残してさっさと家に帰ってしまった。

 それから数週間後、以前リカ出演した番組の評判が思いの外良く、レギュラー番組として全国放送して欲しいという依頼の電話がプロデューサーの田淵から入った。

 リカは適当に手を抜いてやった番組が好評を博したことに驚いたが、全国放送という言葉を聞いて二つ返事で快諾した。

 そしてそれからというものリカは有名霊能力者の仲間入りをし、それだけではなく他の同業者を押しのけ、この業界でもっとも有名な霊能力者であるという異名まで手に入れるに至ったのである。

 しかし、ついにリカにテレビ業界の枕営業の魔の手が伸びてきたのである。

 リカにはとても身体を売ってまで芸能界でのし上がっていく勇気というか気力はない。

 そもそも肉体を使った接待のようなものはテレビの視聴者などは望んではおらず、その恩恵を受けることもない。それで得をするのは一部の業界関係者だけなのだ。

 それなのにわずかばかりの人間を喜ばせるためだけに己の肉体を愛してもいない相手に提供し、仕事を得なければならないというのは理不尽なことではあるが、法治国家を気取った表面的にだけ人間の人権と尊厳を守ると主張するような国ではそんなことを期待するのは無理なことなのだ。

 テレビでは人権侵害、セクハラ、パワハラなどの問題をよく取り上げ、それがとても大切なことのように報道するが、その裏ではバラエティー番組、ドラマ、教育番組の出演者や人権問題を取り扱うニュース番組の女性キャスターにまでそのゆがんだ性欲のはけ口を求めて肉体接待を強要する魔の手がのびる。

 なんて歪んだ世界なんだろう? 偽善と汚職にまみれた世界がテレビ業界という場所なのだ。

 リカには好きでもない相手に抱かれて、嫌悪感を露わにせず喜んでいるフリをする、そんな女優の真似などはとても出来ない。

 ピーナッツ、酸化して汚れて黄ばんだ肌をしたあのピーナッツ遠藤に抱かれて楽しんでいるふりなどリカには出来はしないだろう。もしそうなったらエクソシストに出てきた少女のように緑色のゲロを遠藤のしなびたエンドウ豆のような顔に浴びせかけるに違いない、身体は正直なものなのだから、リカの場合は特に。

 もういい。今まで努力をして霊能力者としてのキャリアを積み重ねてきたがその結果はどうだろう。無計画な経営で事業が破綻した個人営業主、己の行いの悪さのゆえに恋人に振られた女、外見と性格の醜さのゆえに女性に持てない不格好な男、そんな人間たちが大挙リカの元に押し寄せ、人生がうまくいかないのは霊にとりつかれたせいだと騒ぎ立てる。

 そしてテレビに出演するようになると、リカの身体だけが目当てで仕事をしているフリだけをしている芸能人やスタッフ、スポンサーに囲まれる。

 この世の中でもっとも醜い人間たちに囲まれて吐き気をこらえて生活するのはもうやめよう。船酔い患者が船に乗って吐き気を我慢するように、霊が見えるフリをして人生の道のりを歩いていくのはやめよう。

 確かに彼らのおかげでリカは儲けさせてもらった。その指には赤や緑、色とりどりの無秩序に雑然と並ぶ、安っぽい成金がつけるような指輪をきらめかせ、腕には金ピカのボッタクリ価格で買った腕時計をつけるまでになった。

 しかしそれが何になるのだろうか? 

 自分の身体に身につけた高価な貴金属を見ていい気分になったとしても、自分のまわりに集まってくる汚物にたかるハエのような人間たちを見ると、たちまちその気分は地の底まで沈み込み、生きていることさえいやになるではないか。

 リカは今の仕事をやめる決心をした。そしてそれを伝えようとした時に急におかしな気分に襲われた。

 それは新人女優が初めてのドラマの撮影で、台本にないキスシーンを強要され、契約にないことだから断ろうとするが、周りの人間たちの「どうせカメラの回っていない所でもっといやらしいことをしているんだから、キスぐらいしてもいいだろ」という無言の圧力を感じて、撮影を断ることが出来ないのと同じような気分に襲われたのだ。

「ちょっと抱かれるだけじゃないか」

「どうせプライベートで男に抱かれまくっているのだろう」

 そんな遠藤やスタッフたちの心の声がリカには聞こえるような気がした。

 リカの心の中には羞恥心と仕事に対する責任感、突然理不尽な状況に陥ったことによる動揺など、様々な気持ちが頭の中をぐるぐる周りだした。

 男たちは勝手な生き物だ。女性が望んでもいないのに性の奴隷になることを強要してくる。

 リカは40歳を過ぎ、その身体から若さが去り、中年の象徴である贅肉、たるんだ脂肪がその身体を取り付き、外見からその美しさを奪われたかのようにリカには思われたが、男たちはそんなリカに対して女であることをやめることを許さないのだ。

 撮影スタッフにまぎれて立っている大手食品会社の男がその会社の商品のチャーシューを縛るのに使う細くて丈夫なタコ糸を使って、リカのその脂肪のよくのった肉を縛り、天井から吊るし煙で炙って喜ぼうとするのだ。

「お前の肉は燻煙するのにぴったりだ」

 そんなリカの姿を男たちが笑いながらリカの豊満な裸体を鑑賞して楽しむのだ。

 リカが年を取り、その体がシワだらけになってしまっても男たちの欲望の攻めては一向にゆるんだりはしないのだ。

「お前の皺くちゃの身体を包帯でグルグル巻きにして、ツタンカーメン王みたいに棺に収めたいんだ」

 そんなことを言って、リカのもはや人としての原型をとどめていないたるんだ身体を包帯で縛り、その身体をショーケースの中に収め、まるで博物館でミイラを見物する観客たちのようにリカの周りを男たちが取り囲み、ブランデーを片手に「これは年代物のミイラですね」などと会話をしながら、卑猥な欲望を満足させるのだ。

 この世での臨終間際になってさえ、男たちのゆがんだ欲望のはけ口の被害者であり続けなくてはならないのだろう。

 男たちの性欲はかつてギリシャの神々との戦いで破れたタイタン族の神々が放り込まれたというタンタロスの洞穴よりも深く、また借金取りが金のない債務者に内蔵や肉体の売買を強要してまで債務を回収しようという姿にも似ている。

 ケダモノ、知性というものをまったく感じさせないそんな言葉がもっともよく似合う男たちの欲望のはけ口になるつもりなどリカにはなかったのだ。そんなことのために今まで身体の純血を守って生きて来たわけではないのだ。

 しかしどうしても「止めます」という言葉をリカは言うことが出来ないでいた。それは初めてのベッドシーンに望んだポルノ女優が土壇場になり怖気づき本当は止めたいのにやめることが出来ないのと似ている。そんなリカの心境であった。

 リカは後ろを振り返り、遠藤のその知性の低さを感じさせる光の反射の鈍いその目に視線を向けた。

 こんな男にも知性というものがあるのだろうか? 一体なにを考えて生きているのだろうか? そもそもこの男は何のために生きているのだろうか?

 様々な想いをのせて、リカは遠藤の眼をじっと見つめた。



 遠藤はリカの異変に気がついていた。

 リカが何を考えているか正確には分からなかったが、様子がおかしいということだけは、遠藤ははっきりと分かっていた。

 しかし、遠藤はそれをおくびにも出さなかった。

 遠藤には妙な癖というか、よく遭遇する出来事のようなものがある。




 それは女性から変な目で見られることである。

 そのせいで、遠藤が相手の女性の身体を狙って猥褻なことを考えながら相手の身体を舐め回すように見ているのではないか、そんな風に女性からよく疑われるという体験をしているように遠藤には思われていたのだ。

 リカに初めてあった時もそうだった。

 何でこの人スパッツなんか履いているんだ?

 心霊番組の撮影にやってきた自称霊能力者の40過ぎの中年の女性が、廃墟の病院という場所には似つかわしくない、まるでスポーツジムに最近太ってきたので身体を絞りに来ましたという出で立ちであらわれたリカの姿を見て遠藤は不審に思った。

 そしてそのたるんだ脂肪を無理矢理しまい込んではちきれそうになっているリカのスパッツを見た時のことだった。

 番組の撮影中リカはことあるごとに遠藤の方をチラリと見て、まるで遠藤にセクハラでもされている被害者のような表情で遠藤の顔を見るのだった。

 遠藤はリカの態度に気が付かないフリをした。

 もし遠藤がリカの態度の変化に気がついたという態度を取ったとしたら、リカはそれを遠藤がセクハラをしていることを認めた証拠だと勘違いするかもしれないから。

 だから何があっても知らないフリをしているのがいいのだ、あの時のように――。


 それはちょうど遠藤が先輩芸人に夜中に呼ばれてホテルの部屋に行った時と同じであった。

 あの時も相手の様子がおかしかったのに、遠藤はそのことに気が付かないフリをしていたのだった。

 その先輩芸人は芸能界では知らないものがいない人気芸人で毎日のようにテレビに出て、長者番付では芸能人部門のトップ5に毎年入るほどの年収を得ている男だった。

 その先輩芸人にはある噂があった。

 それはあるテレビ番組のことだった。大勢のお笑い芸人が大勢集まって、芸能界での内幕を暴露し合うというよくある番組に遠藤が出演した時のことだった。

 一人の芸人Mがある噂を聞いたことがあるという。

 それは人気芸人のOが気に入った新人芸人を部屋に呼んで肉体関係を強要するという、芸能界でよくある噂話だった。

 その芸人Mの知り合いの若手芸人S――女性からも人気があり外見の良いことで有名だった――がOのホテルの部屋に行くと、Oがバスローブを来てワインを片手に持ってホテルのベッドの上に座っており、「自分の隣に来て座れ」と言う。

 先輩芸人の言うことを断れないSはOの隣に座ると、Oが「君かわいいね」と言い、「そんなことないですよ」とOの態度をおかしく思ったSは答えた。

 その後先輩には逆らえないという芸能界の掟によってSはOに抱かれ、その後SはOの番組にたびたび呼ばれるようになり若手人気芸人の仲間入りをしたという話だった。

 そんなわけないだろうと思いながらも、遠藤は他のお笑い芸人とともに大げさに驚いたフリをした。

 しかし遠藤もそんな話を信じているわけではなく、他の若手芸人のようにただテレビに映りたいという理由だけで大騒ぎをするフリをした。

 そしてその話はすぐに忘れてしまったのだ。

 それからしばらくして、その話を完全に忘れかけたころに遠藤はOのホテルの部屋に呼ばれたのだった。

 遠藤がOの部屋に行くと、Mの話どおりにOがバスローブを着て片手にワインの入ったグラスを持ちベッドの上に腰掛けていたのだ。

「こっちに来て座れよ」

 強面で普段はあまり笑顔を見せないOがやさしそうな笑顔で遠藤の方を見る。

 異様な雰囲気をすぐに遠藤は感じ取った。

 これはあの番組でMが言っていた通りの展開ではないのか? だとするとこの後自分は――

「いいから、こっち来いよ」

 Oが語気を強め、芸能界の先輩が後輩に有無を言わさず言うこと聞かせようとする時によくする態度を取った。

 遠藤は反射的に「はい」とうなずきOの隣に座ったが、内心ではしまったと思った。これではあの話の通りの展開ではないか。

「お前とツッコミをしたいんだ」

 そう言って、Oは話始めた。

 最近遠藤がテレビに出ているのを見て笑いの才能があることにOが気がついたこと、そしてそんな遠藤と一緒に漫才をしたいと言い出した。

 人気お笑いコンビのOが駆け出しの遠藤と一緒に漫才などするはずはない、それは分かっているが遠藤は褒められて悪い気がしなかった。

 Oはコンビのボケ担当だったが、最近ボケるのに飽きてきたのでツッコミをしたくなった。遠藤のボケが気に入ったので二人で漫才をしようと右手に持ったワイングラスを揺らしながらOは遠藤の目を見つめていった。

 Oの妖しく光る目つきを見て異様な雰囲気を感じ取った遠藤はとりあえずホテルの部屋の中を見回した。

 もしかしたらこれはテレビ番組のドッキリかもしれないと遠藤は思った。

 Mのあの話もドッキリのためにつくった話で、その後同じ状況になった遠藤がどんな反応をするのかを別室にいるスタッフや芸人たちが見て楽しんでいるのかもしれない。いや、きっとそうに違いないと遠藤は思った。

 しかしどこにも隠しカメラらしきものはなかった。

 遠藤がたまたま隠しカメラを見つけることが出来なかったのだろうか? そんなわけはない。

 前に遠藤がドッキリ番組に出た時には楽屋に置いてあったレタスのダンボール箱に直径5cmくらいの誰が見ても分かる大きな穴が空いていて、そこからカメラのレンズが除いているのがすぐにわかった。

 隠しカメラとはそんなものなのだ。

 そもそもテレビのドッキリ番組というものは事前に出演者に連絡があり、そこで番組の説明があり、契約書にサインをして、それから知らないフリをして演技をしながら番組に出演するのが普通で、本人に何も知らされずにドッキリが行われるということは現在のテレビ業界ではありえないことなのだ。

 だとするとこれはやっぱりドッキリではない。だとするとどうなるのだろうか? それを考えると遠藤は寒気のような悪寒を感じた。

 Oはしきりに「お前とツッコミをしたいんだ」と言って、芸人がテレビでよくやるように遠藤の身体を触りながらツッコミを入れてきた。それは遠藤が何もボケていないにも関わらず続けられた。

 そのたびに遠藤は「すみません」、「自分は一人でやりたいんで……」の2つの言葉だけを繰り返した。

 そうこうする内にOの言葉が「お前とツッコミをしたい」から「お前にツッコミたい」に変化していることに遠藤は気がついた。

 この変化が何を意味するのか? それを考えてはいけないと遠藤は思った。

 Oは遠藤の目を見て、その表情の変化をカエルを見つめる蛇のような目つきでじっと見て、遠藤の心を探っているように思われた。

 もし遠藤がその言葉の変化に気づいたそぶりを見せたなら、Oがその本性を現し襲ってくるのではないか、そんな気がしたので遠藤はそのことについて何も考えず、気づいていないフリをした。

 そのうちOの遠藤の身体に触るその仕草が、お笑い芸人のツッコミからゲイのカップルがお互いの身体を愛撫し合うような態度に変化しはじめたのだった。

 Oの手が遠藤の胸の男女共通の敏感な部分を攻撃しはじめるが、遠藤は無表情でOのコンビを組んでテレビで漫才をやりたいという、おそらく表面的な嘘の提案に真剣に答え続けた。

「すみません」

「自分はやっぱり一人でやっていきたいんで……」

 どれぐらいの時間が経っただろうか? 無限のようにも感じる長い時間、Oとの漫才コンビ結成、もしくは他の――考えてはいけないその誘いを断り続けた遠藤はもう駄目かもしれないと思い始めた。

 Oの攻撃は胸から他の部分に移りつつあると感じ始めたからだ。

 しかしそこで風向きが急に変わり始めた。

 突然Oの態度が変わったのだ。それは海の上に浮かぶ輸送船を嵐が襲い豪雨を浴びせ、荒波に揉まれ、マストを引きちぎられ、もはや沈没を免れないと思われた輸送船が、突然の天候の変化によって嵐が去り空を覆っていた薄暗いよどんだ灰色の雲が四散し、空が晴れ渡り、破滅の運命を避けることが出来た、そんな感じの出来事だった。

「お前、やっぱりおもしろくないわ」

 それは遠藤にお笑い芸人としての才能がないと言っているようにも見えたが、遠藤にはOが何か楽しいことを期待していたが、その期待が裏切られ、ちょうど気分の変わりやすいオカマが女のようにスネて不機嫌になっているようにも感じられた。

 Oはせっかく先輩芸人の自分が新人の遠藤の相手をしてやろうとしているのに、それを断る遠藤は愚かで失礼な人間だと色々な言葉を使って遠藤を罵った。

 その言葉にはもう「ツッコミ」とか、「ツッコム」という言葉は無かった。

「出ていけ」

 Oのその言葉に遠藤はホッとした。やっとこの場所から帰れる、無事に帰れるんだ。遠藤は安堵して、その顔にわずかながら笑顔が見られた。

 遠藤のその表情を見逃さなかったOは嫌そうな顔をして、何か遠藤を傷つけるような言葉でもかけようと思った。

「……不感症」

 ホテルの部屋を出ていく遠藤の背中に向かってOがポツリとつぶやいた。それは小さな声であったが、遠藤に聞こえるようにOが計算して言ったのだ、それを聞いた遠藤がくやしがるように。

 まるで性悪のオカマのようなOのその言葉を聞いて、遠藤は侮辱をされ、名誉を傷つけられたと思っただろうか?

 いや、遠藤はただ喜んだ。化け物の住処からその大事な身体を死守して脱出出来たことを遠藤はただ喜ぶばかりだった。

 しかしその事件は遠藤の気づかない間に、遠藤の内面の奥深くに深い傷跡を残すことになった。

 それに遠藤が気がついたのは、それから3ヶ月後のことであった。

 それはあるライブハウスでの出来事であった。

 その日は若手お笑い芸人が集まり、普段は別の事務所の芸人たちが1日限定でコンビを組み、観客にコントを見せるという企画が開催されたのだ。

 遠藤はPとコンビを組むことになった。

 二人のコントはたった10分の打ち合わせでつくったとは思えないほど観客に受け、遠藤とPは満足をして観客の前から立ち去ろうとした。

 その時Pが遠藤とコンビを組んで楽しかった、Pの組んでいるコンビを解消して遠藤に「ツッコミをしたい」と言った。

 それは何気ない一言であり、普通であれば何事も起こらないはずであった。

 しかしPの「ツッコミをしたい」という言葉を聞いた遠藤はまるで催眠術でもかけられたかのように「すみません」、

「自分はやっぱり一人でやっていきたいんで……」とそれまでの笑顔が顔から消え、真顔で言い出したのだった。

 遠藤の頭はPの「ツッコミをしたい」という言葉で真っ白になり反射的にそう言ってしまったのだが、その遠藤の豹変ぶりにPと観客は一瞬驚いたようだったが、その後遠藤が冗談を言っていると思ったらしく笑い始めた。

 そしてPは遠藤のことがやっぱりおもしろい、一緒に「ツッコミをしたい」と言った。

 すると遠藤はまた「すみません」、「自分はやっぱり一人でやっていきたいんで……」とロボットのように同じ言葉を同じ抑揚で繰り返した。

 Pと観客は遠藤が冗談が受けたので、それに味をしめまた同じことを繰り返したのだと思って大笑いをし、拍手をした。

 しかし異変はこの後も続いた。

 遠藤はその後もひたすらカセットテープに録音された声をリピート再生するかのようにひたすら「すみません」、「自分はやっぱり一人でやっていきたいんで……」と繰り返し続けたのだ。

 やめなくてはいけない、そう思っても遠藤にはどうしてもやめることが出来ない。ただ延々と同じことを繰り返し続けるだけだ。

 その内Pと観客の顔から笑顔が消え「もういいって」というPの声も遠藤を止めることが出来ず、舞台の裾から劇場のスタッフがやってきて「もうお時間なので――」と無理矢理引きずり降ろされる時まで遠藤はひたすら「すみません」、「自分はやっぱり一人でやっていきたいんで……」と言い続けた。

 楽屋に戻った遠藤を他の芸人たちは遠くから白い目で見守った。

「やっぱり痴呆患者のモノマネをするようなやつはマトモじゃないよな」

 そんな誰かの言葉が遠藤の胸に深く突き刺さった。

 別に好きで痴呆患者の真似をしているのではない、仕方なくやっているだけだと遠藤は心の中でつぶやいた。

 そう、遠藤が痴呆患者のモノマネをするのにはわけがあるのだ。

 それは遠藤が高校生の時のことだった。

 クラスの中で地味で、勉強も出来ず、運動も得意ではなく、外見も取り立てて優れた所がない遠藤は学校の不良グループの一人にすぐに目をつけられ絡まれるようになった。

 別にイジメられていたわけではない。他の人間が見たらもしかしたらイジメられているように見えたかもしれないが、遠藤にとってはちょっと嫌な思い、相手をしたくはないのに嫌な人間の相手をしなくてはならない、そんな煩わしさのようなものを感じていただけなのだ。

 遠藤に絡んで来たのは同じクラスの小沢という男子生徒で身体が人よりも少し大きく体格の良い、よくいるケンカが強そうなタイプだった。

 実際に小沢がケンカをしている所を遠藤は見たことはなかったのだが、小沢の外見に少し圧倒されている所があり、話しかけられるといつもの遠藤の陽気な態度が影を潜め、生真面目で礼儀正しい態度になってしまうのだった。

 遠藤は普段、特に家にいて家族を相手にする時には態度がでかく、明るく冗談をよく言う内弁慶タイプだった。

 小沢は小、中学校と別の学校で遠藤とは何の面識もないのに、初対面で馴れ馴れしく、まるで何年も前から知り合いであるかのように遠藤に話しかけてきた。

 人見知りをする遠藤は最初相手に合わせて話をしていたがために、遠藤が小沢の小さい頃からの友達でその頃から小沢に舎弟のように使われているかのような扱われ方を、高校2年で一緒のクラスになった2日後からさせられるようになった。

 小沢は毎朝遠藤に会うと挨拶をしてくる。それだけなら小沢は礼儀正しい人間ということになるが、それは友達に対してする挨拶というよりは芸能界の先輩が後輩に対してするような、もし挨拶を返さなかった場合すぐに制裁の右拳が遠藤の左こめかみ目がけて飛んできそうな雰囲気を漂わせた、半ば恫喝に近い威圧感を伴ったもののように遠藤には感じられた。

 小沢はクラスの人間が何か話をしていると、必ず遠藤にその話の矛先を持っていった。

 例えば人が真剣に話しているのに聞かない人間がいるという話題になると「ああそれは遠藤だよな」とか、ポテトチップスを一度食べだすと止まらないという話になると「遠藤もポテトチップスばかり食べているよな」と遠藤は一度も小沢の前でポテトチップスを食べたりしていないのに、小沢はなんでもそんな風に言うのだ。

 ある時クラスの誰かが道を歩いていたら年寄りが電柱に向かって話しかけていて気持ちが悪かった、たぶん痴呆症か何かだろうという話をしていた時にも、やはり小沢は「遠藤もよく壁に向かってぶつぶつ一人ごとを言っているよな」と言い出した。

 いつものように遠藤は適当に小沢の言うことを肯定してその場をやり過ごして終わるはずだった。そうすれば波風が立たずにすぐに遠藤から話題がそれて他のくだらない、例えば昼に何を食べるかとか、昨日のテレビがおもしろかったという話題になるはずだった。

 しかしその日は違った。

 遠藤が「ああ、そうだね」と適当に相槌をうって話を終わらそうとしたが「それってどんな感じ」と誰かが言い出した、それに対して小沢が「じゃあ遠藤やってみせろよ」と言ったのだ。

 突然の小沢のフリに対して、反応できなかった遠藤の頭は一瞬真っ白になった。そして何かしゃべらなくてはいけないとあせりドモってしまい、不明瞭な言葉にならない言語を口にしてしまった。

 遠藤の慌てふためく姿と意味不明の言葉を聞いた小沢とクラスメートたちは大笑いをした。「何だ。痴呆患者みたいなやつだな、遠藤は」一部の生徒は遠藤のモノマネまでしだす始末だった。

 それからというもの、事あるごとに遠藤は他の生徒たちに痴呆患者のモノマネをしろと言われて、やりたくもない真似をしなくてはならない羽目になった。

 それだけではない。

 小沢は他のクラスのガラの悪い、廊下の隅にたむろしている虫のような連中と仲がよく、遠藤がたまたま近くを通るとしゃがんで話をしていた小沢が「おい遠藤、こっちに来いよ。お前らおもしろいもの見せてやるぞ」と呼ぶので、本来であればそんな人々に関わりたくない遠藤であったが嫌々彼らの所に行って痴呆患者のモノマネをさせられるのだ。

 遠藤はこの後、高校を卒業するまでの二年間の間、小沢や知らない不良たちに痴呆患者のモノマネをさせられ、また遠藤が廊下を歩いていると知らない普通の生徒までが遠藤の顔を見て笑い出し、遠藤の痴呆患者のモノマネの真似をして笑いものにするのだった。

 そのせいで遠藤は女生徒に不人気で、彼女というものをまったく持てずに、他の生徒が彼女と登下校を一緒に歩いている隣をそそくさと一人歩いて帰るのだった。

 それからしばらくして遠藤はお笑い芸人になる道を選んだ。それは学生時代にさびしい生活を送っていたので芸能界の華々しい生活に憧れていたからかもしれない。

 学生時代に他の生徒からバカにされ続けた遠藤は人見知りをするようになり、一人でいるほうが落ち着く人間になっていた。

 だからコンビを組むよりは一人でやった方がいいだろう、そんな考えで遠藤は一人で漫才をすることになった。

 最初の内は他の芸人のような一般的なネタ、政治を皮肉ったものや、映画や話題の人物をターゲットにした、自分の頭で考える力のない人間がその時世間で騒がれているものを話題にして世間の注意を引こうとするような浅はかで面白みのない芸を披露していた。

 当然そんなものは客からはあまり受けが良くなく、観客たちからの冷たい目線を受けて舞台の上で一人で遠藤は途中で頭が真っ白になり、何をすればよいか分からなくなることが多々あった。

 もしもコンビを組んでいれば困った状況になっても相方が助けてくれるだろうし、心強くもあっただろうが、一人で漫才をすることを選んだ遠藤には何も心の助けになるようなものはなかった。

 その日も遠藤は舞台の上で、最近ワイドショーで騒がれている若手俳優と女優のカップルをネタにしたコントを披露したが、芸のない芸人がやるようにただ話題の人物を傷つけ攻撃するようなコントは客の受けも良いはずがなく、遠藤は舞台の上でいつものように頭が真っ白になり、あたふたとして意味不明の言葉をつぶやいてしまった。

 それを遠藤をさっきから憎々しげにみていた30代の男性、おそらく遠藤がネタにした若手女優のファンとおぼしき男、彼は遠藤の話を不快な表情で見ており、何か遠藤に危害を加えようと企んでいるかのような、殺気のようなするどい目つきをしていた男性が、遠藤の慌てた様子を見て突然言った。

「何だあいつ、痴呆患者みたいじゃないか。あ――」

 その男性の痴呆患者という言葉を聞くと、会場の観客たちから一斉に笑い声が起き、お気に入りの女優をバカにされ、遠藤をなじろうとした男性の言葉の後半部分がかき消されてしまった。

 こんな所でまで――、高校を卒業してから今まで忘れていたのに、社会人になって今更ながら高校時代に痴呆患者として扱われバカにされていたことを思い出し、遠藤は心の中で唇を噛み締め恥辱に耐えた。

 しかし失意の内に舞台から降りた遠藤を他のお笑い芸人や劇場スタッフたちは褒めた。

「やるじゃないか」

「お前おもしろいよ」

 それは予想外の反応だった。

 いや、高校時代も遠藤の痴呆患者のモノマネは受けた。受けたがそれは人々が遠藤をバカにして笑っているものだと思い、嘲笑されているだけだと思っていた。

 しかしどうやらそうではないらしい。本当に彼らは楽しんでいるようだった。

 痴呆患者が意味も分からず、意味不明な呪文のようなものを唱えながらブツブツ物を言う仕草がどうして楽しいのか遠藤には分からなかった。

 でも楽しいなんてことは本来そんなものなのかもしれない。

 それはあやふやで形のない捉えられない空気のようなもので、それは突然やってきて自分が笑っているそんな姿を見てはじめてそれが面白いということを知るようなものであり、それは知識というよりは体験のようなものであり、実際に体験したものにしか分からないものなのだろう。

 そのライブハウスにたまたまテレビ局のプロデューサーが見に来ていて、遠藤を見て気に入った彼に「今度テレビに出てみませんか」と誘われ、遠藤はテレビ番組に出演することが決まった。

 その番組は深夜放送であったが熱狂的なファンのいる番組で何年も続いている全国放送の番組だった。

 遠藤の痴呆患者のモノマネはその番組でも評判がよく、何度も呼ばれ、すぐにレギュラーとして番組に出演するようになった。

 この調子でいくと、もしかしたら自分はすぐにテレビ番組の人気者になり、大物芸能人の仲間入りが出来るかもしれない、そんな風に遠藤は思うようになった。

 しかしその考えはもろくも崩れ去った。

 遠藤の評判を聞いた他のプロデューサーがゴールデンタイムの番組のリポーターに遠藤を使いたいという依頼が事務所に入った。

 その番組は繁華街を周り、飲食店や洋菓子店などを紹介する番組で、リポーターの遠藤が男性アイドルと一緒に店をまわり一口食べて、一言軽いギャグのようなものを言って笑わせるという、家族向けのゆるい番組だった。

 遂にここまで来たか、遠藤の心はゴールデンタイムの大勢の視聴者に視てもらえるということに興奮して沸き立ち、初めての番組撮影に望んだ遠藤は今までに見せたことがないような頑張りを見せた。

 それがいけなかったらしい。

 普段よりも痴呆患者により似せて演技をしようとした遠藤のその態度が、痴呆患者をバカにしているように視聴者の目に映り、その番組の放送が終わるとテレビ局に良識ある視聴者たちから非難の電話が殺到した。

 その話を聞いた遠藤はそれもそうだなと思った。

 病人の真似をして人を笑わせるなんて病人をバカにしているとしか思えないじゃないか。

 どうしてそれを面白いと思ったのだろう? どうしてそんな当たり前のことが分からなかったのだろうか?

 遠藤が痴呆患者の真似を面白いと思ったのは他の人間たちが面白いと言ったからだが、彼らはどうしてそれを面白いと思ったのだろうか?

 痴呆患者の存在自体がおもしろかったのか? 

 それとも遠藤が痴呆患者にあまりに似ていたから笑っていただけなのだろうか?

 そもそもどうして似ているというだけで人は笑うのだろうか?

 そんなことを遠藤は色々考えたが、そんなことよりもはっきりしているのは遠藤は今回の出来事で世間を敵に回し、全国区で活躍するという望みが断たれたということだった。

 遠藤をゴールデン番組に誘ったプロデューサーは「ドンマイ、ドンマイ。こんなことはこの業界ではよくあることなんだよ。また次の機会があったら連絡するから、その時に頑張ればいいよ」と言って遠藤と電話番号を交換してくれた。

 その言葉を遠藤はうれしく思い、また信じていたが、それから一向にそのプロデューサーからは連絡がなく、2年後に遠藤が電話をかけると着信拒否になっていて電話がつながらないようになっていた。

 更に番組終了後、遠藤が痴呆患者のモノマネをしていた場面がネットで話題になり、大した知名度もなく、外見もあまりよくない遠藤はネットの悪意のある暇人たちの攻撃対象になり、まるで中世のヨーロッパで破門を受けたキリスト教徒のように迫害をされ、遠藤は何をされても文句の言えない人権のない人間であるかのように扱われた。

 ネットの住人からの攻撃はすぐに止んだ。

 遠藤の事件の後で、ある有名芸能人が薬をやっているのがバレて、さらに駐車違反や隠し子、その他ワイドショーで騒がれそうな数々の秘められた事実が暴かれたので大衆の注意は脇にそれ、遠藤のことはほとんど忘れ去られた。

 とはいっても、一部の執念深い数名の人間からの執拗な中傷は続き、ことあるごとに遠藤のありもしない犯罪歴や非常識な行動をでっち上げ、遠藤のことをよく知りもしない人間に信じさせようと言う常軌を逸した攻撃は細々と続いた。

 というわけで遠藤は深夜番組を中心に細々と活動をするさえない三流芸人として活躍し、現在のレギュラー番組は小菅リカと一緒に出演している心霊番組1本というさびしい状況になっているわけなのだ。

 遠藤は自分があまり売れていないということに関してあまり気にはしていなかった。

 人から面白いと思われるネタが痴呆患者のモノマネくらいしかないのだから、おそらくこのまま細々と芸能人として活動して、人々の知らない間に消えていくのだろう。

 それも良いのかもしれない。

 もし遠藤がテレビの人気者として活躍しだしたら、新しいネタを考えない限りはテレビで痴呆患者のモノマネをし続けなくてはならない。

 それは遠藤には耐えられないことだった。

 病人のモノマネをして人を笑わせてお金を稼ぐ、そんなことはまともな人間のすることではないと遠藤には思われたからだ。

 そんな遠藤の考えを聞いた人間がいたとしたら「それなら止めたらいいじゃないか」と当然言うだろう。

 でもそれは出来ないことなのだ。

 頭も良くなく、身体も強くなく、とくにこれといった特技というものを持たずに、かといって努力をして一つのことに打ち込むということもしてこなかった遠藤にとっては、たまたま他人の感性を刺激することになった痴呆患者のモノマネ以外に人生を生きていくうえですがるものなど何もなかったからだ。

 それに遠藤の痴呆患者のモノマネを見て笑っている他の人間を見ると、別に自分だけが悪いことをしているのではない、むしろそれを見て楽しんでいる人間の方が悪いのではないかという気さえしてくるのだ。

 遠藤は痴呆患者の真似をして喜んではいない。ただ、他の人間に「面白いからやってくれ」、「お前には痴呆患者としての才能がある」、そんな風に褒められ、おだてられているから、やりたくもないことをしているにすぎないのだ。

 痴呆患者のモノマネをする遠藤は悪い人間だし、それを見て喜ぶ人間も悪い人間なのだろう。

 世の中には悪意というものがあり、それはとても大きな力を持っていて、人々の心を惹きつけ、誰かに対して悪意のある攻撃を仕掛け、それに喜びを感じるように仕向けている、そんな住宅をなぎ倒す巨大な自然現象のような人の力では逆らえない大きな悪意の渦というものがこの世にはきっとあるのだと思う。

 その悪意の渦の中では誰も悪意に逆らうことが出来ずにただ流れの中に身を任せて行動するしか無い。

 遠藤はその悪意の渦の隅の方をただ流れにまかせて漂うクラゲのようなもので、渦の流れの内側にいる早い流れの中を泳ぐ魚の群れのような人間の意のままに操られるあまり意志というものを持たない低級な生き物、それが遠藤の今の立場なのだと思う。

 世の中には善人と悪人がいて、善人はそんな悪意の渦の流れから遠く離れた場所に住んでいて、悪いことなんか考えたこともしたこともないような人間たちが良い人間で、悪意の渦の中に自分から喜んで飛び込んでいき、その流れに身を任せて生きているような人間が悪人なのだと思う。

 きっと善人や悪人というものは数が少なくて、大多数の人間はその中間の自分の意志で悪意の流れから遠ざかることも近づくことも出来る場所にいながら何もせず、ただどうしようか迷い、ひたすらその時の流れに合わせて右往左往しながら人生を終えるような人間たちが遠藤の痴呆患者のモノマネを見て楽しむような人間なんだろう。

 彼らは何も考えず、その場限りの状況に身を任せ、その時時に浮かんでくる自分でもよく分からない感情に左右され笑い、侮辱し、人を傷つけているのだろう。

 そんな彼らは自分が安全な場所にいるかぎりはご機嫌で何の不安もないが、今回のように遠藤がテレビで痴呆患者のモノマネを披露し、それが非難され、遠藤のモノマネを喜んで楽しんでいる人間にまでその非難の矛先が向かうと、彼らはどこかへ言ってしまい姿が見えなくなってしまう。

 そしていつのまにか彼らの内の何人かは遠藤を避難する立場に回って、痴呆患者のモノマネを見て喜ぶような人間は悪趣味でろくでもない人間ではあるが、痴呆患者のモノマネを遠藤がしなければ彼らも笑わなかったのだから、痴呆患者のモノマネを始めた遠藤が一番悪い人間で、それを見て笑っている人間はただの被害者であるというおかしな論理を打ち立てて自己弁護に走るのだった。

 そんな状況に置かれた遠藤には為す術もなく、ただひたすら痴呆患者のモノマネをするしかなかった。

 それはまるで本物の痴呆患者のようでもあった。

 遠藤は善人が羨ましいと思う。

 善人は世の中の大きな悪意の渦の中にあっても自力でその流れから抜け出し、そして自分が助かるだけではなく他の人間も助けようと流れに流されている人間に助けの手を差し伸べる、そんな人間に遠藤もなりたいと空想することがある。

 しかし現実の世界の遠藤はそれが悪いことと知りつつ病人の真似をし続けるのだ。

 そんな時間もそれほど長くは続かないだろうということを遠藤は知っている。

 ゴールデン番組で大多数の視聴者を怒らせたということもあるが、最近では痴呆患者のモノマネ自体あまり似ていない、面白くもないものに変化してきているのを遠藤は感じているからだ。

 それは客を喜ばそうとして痴呆患者の動きを頭の中にイメージして真似しようとすればするほど、なぜか実際の痴呆患者の身体の動きや表情、喋り方、仕草などから微妙に違ったものになってきているからだ。

 当初の慌ててしまい頭の中が真っ白になった、本当に困った状況にあった遠藤だからこそ痴呆患者にそっくりだったのだろう。

 それは本物の痴呆症の患者が記憶を失い、とまどい、困ってしまい、どうしてよいか分からなくて自分でもおかしいと分かっているがどうしようもなく、生き物が困った時に行う身体の本来持っている反射のような行動が痴呆患者と遠藤との共通点だったからこそ似ていたに違いない。

 遠藤の痴呆患者のモノマネはそんな偶然の起こした奇跡のような出来事だったのかもしれない。

 遠藤は高校の時に小沢に痴呆患者の真似をするように言われて戸惑い本当に困っていた、お笑いのライブハウスで観客をまったく笑わせることが出来ず、それどころか敵意のような感情の矛先を向けられ本当に困っていた、そんな状況で周りの人間から笑われて遠藤はうれしいというよりは恥辱を感じ、この世から死んで消えてしまいたいという、ある種の苦痛のようなものしか感じなかった。

 だとすれば本物の病気の痴呆患者も病魔の影響でまったく頭が正常に機能しなくなって訳の分からない困った状況にあり、それを見て周りの人間が笑っているのを見たとしたら痴呆患者も恥ずかしく、屈辱を感じるのではないのか? それとも病気の影響で他人が笑っていることすら何を意味するのか分からず、そんなことを何も気にしなくなるのだろうか?

 それは当の病人本人にしか分からないのだろう。

 この場合問題になるのは笑われている人間よりも、それを見て笑っている人間の心境なのだと遠藤は思う。

 通常の状態の人間なら出来ることが出来なくて困っている人間を見て、愉快な気分になって笑ったり、その笑っている姿を見ても相手が何も出来ずにオロオロしていることに関して優越感を感じ相手は何も分からない人間なのだから何をしてもいいという考え方が、人間として、社会人として責任のある仕事を任される人間として正しいものなのかどうかが問題になるのだ。

 何で自分はお笑い芸人なんかをやっているんだろう?

 お笑い芸人とは人を笑わせるのが仕事だと世間の人間も、お笑い芸人本人も言う。

 人には笑いが必要であって、それが無ければ人は生きていけない。もし生きていけたとしても笑いの無い人生なんて死んでいるようなものだ、というのが遠藤がよく聞く世間の見解だ。

 しかしそうだろうか?

 笑うとはなんだろう?

 人が失敗をしたり、おかしな行動をしているのを見て人は笑う。それが何を意味するのだろうか?

 笑われた人間は恥ずかしくなったり、人に笑われたこと対して怒ったりする。

 それは笑われた人間が普通の人間であればしないような劣った行動をする、つまり他人よりも劣っていると本人が感じ、笑っている人間が自分よりも優れていると思っているから笑っているんだと感じているからではないだろうか?

 よそ見をして電柱にぶつかった人間がいたとしよう。

 それをたまたま目撃して笑った人間いたとしたら、彼はその後に「よく前を見て歩けよ」と相手に言うのではないか。

 それは相手が前を見て歩けば電柱にぶつかるようなマヌケな真似をしなかったということを考えもしなかった、思いつかないような劣った人間だから、そんなバカな真似をしない賢い人間である自分が相手に忠告してやっている、とういことを意味するのではないのだろうか?

 電柱にぶつかった人間はきっとこう思うに違いない。

 自分はそんなことは知っている。ただその時は考え事をしていたり、他のことに気を取られて一時的に忘れていただけで、そんなことは人なら誰にでもあることだと。

 それは正しいことだと遠藤は思う。

 人は寝ぼけておかしなことを言ったり、一時的に興奮状態になって普段しないような行動をするのはよくあることだろう。

 サッカーのワールドカップで優勝した国の人間が全裸で公道を走り回ったりするのがその例だと思う。

 彼は自分の国のサッカー選手たちが世界の頂点に立ったことを知って激しく興奮し、我を忘れ、裸で道を走ると女性や子供に悲鳴を上げられ、通行人に通報され、そして警察に逮捕され留置場に勾留され、その行いが家族や勤務先の人々に知られ、人々からの社会的信用を失い、あるものは会社を解雇され、あるものは妻から離婚を申し込まれる。そんな大事なことを一切忘れて、一時の夢を見ているような忘我の状態になり、奇声を上げ、そのおぞましい裸体を人々に自分からさらし、その姿をカメラで撮影され、インターネットにその画像をアップロードされたとしてもまったく気が付かないのだ。

 そんな人間を見て、周りの人間のあるものは笑い、あるものは顔をしかめ、あるものは恐怖に身を震わせることになる。

 しかし彼らは遠藤や痴呆患者とは違うのではないのか。

 困った状況に陥るという意味では同じかもしれないが、遠藤や痴呆患者は頭が真っ白になり何をすればよいのか分からなくなっている間は困っているが、その状況を脱すれば心の平静を取り戻し安楽することになる。

 それに対してサッカーの試合を見て興奮して裸をさらす人間たちは興奮状態になり頭が真っ白になったとしても彼らはまったく困ってはいず、むしろその間は楽しんでトランス状態に入り、人生でもっとも幸福で楽しい瞬間だとでも思うのだ。そして彼らが困った状況になるのはその狂騒状態が去り、一夜が明けて社会的制裁を加えられるその時にこそ精神的にも社会的にも困ったことになり、その後経済的にも困った状況に陥るのだ。

 ワールドカップの後に現れる全裸人間たちはきっと以前から他人に自分の裸を晒したいという願望を持っていて、それをワールドカップの優勝という国家的狂喜にまぎれて普段からその心の奥底に潜んでいた歪んだ汚れた欲望を発散しているだけなのだと遠藤は思う。

 彼らは人からきっと笑われるだろう。しかしその笑いは遠藤や痴呆患者に対する笑いよりも質においても量においても少ないものだ。

 彼らサッカーファンの仮面を被った露出狂の人間は街頭でそのみっともない精神の持ち主に相応しい肉体を見せて人々に吐き気のようなものをもよおさせている間だけ人から笑われるのだ。

 そしてそれは人々から忘れ去られ、そんな出来事があったことが当の本人の記憶からも消え去られようとしている時に、猥褻罪という名の犯罪が、何か国家的な別の出来事の時に新たに行われるのだろう。

 遠藤や痴呆患者はそれらの国民の中に潜む精神的知能の低い変態たちとは違い、何も企んではおらず、何事も成し遂げようとはしていない。

 ただ生まれ持った遺伝子の不良によるものか、未知の病原菌、もしくは空想上に存在すると言われる人々の頭の中からその考えを引き抜く妖精のようなもののイタズラによるものかは定かではないが、そんな避けられない不慮の出来事により、一時的にその意志の進路を見失い、迷子のような状況に陥るだけなのだ。

 そんな人間を見てどうして人は笑うのだろうか?

 きっと、そんな人間は常日頃から人が困った状況になるのを望んでいるのだ。だから遠藤や痴呆患者が彼らの待ち望んでいた立場になるのを見て心底から喜び、頭の中で弱い立場に立たされた人間の精神にダメージを与えようと考えていた言葉や、そのバカにしたような表情・仕草によって相手に消えることのない焼印のようなものを与えようとやっきになって笑うのだ。

 そんな人間には善意というものがまったく存在しない悪意の塊のような魂しかないように遠藤には思われる。

 もし彼らに遠藤がそのことを問うとしたら、彼らは人は誰でも心の奥底では人が不幸になるのを願っていて、自分たちは正直な人間だから良い人間のフリを止めて、本音で人に接しただけであり、それによって人を傷つけても仕方がないことだ、なぜなら人は他人を傷つけるように出来ている生き物なのだからとおそらく言うだろう。

 ならどうして人は人を助けるのだろうか?

 ある人が突然道を歩いていて倒れたとする、それを見ていた通行人は相手がどうしたか気になり、そしてもし体調に異常があるのなら慌てて電話をして救急車を呼んだりするだろう。

 もし人が他人が傷つく姿を見て喜ぶ生き物なら、そんな病人なんかほうって置いて、苦しむ姿を観賞し、笑い、相手を侮辱して傷つくような言葉をかけるのではないのか。

 しかし遠藤の経験上、突然怪我をしたり、病気で苦しみだした知らない人間を見て喜ぶ人間をいまだ見たことはない。

 それは人が人を気遣い、困った人間を助けようとする習性がある生き物である証拠ではないのかと思う。

 ではなぜ遠藤や痴呆患者を人は笑うのだろう。

 それは人の本来持っている習性に反しての行動に違いない。

 海を泳ぐ魚を彼らの習性に反して陸の上に放り上げたらどうなるだろう。魚は暴れて苦しみ必死に海の水の中に戻ろうとするはずだ。

 空を飛ぶ鳥だってそうだ。

 鳥に漬物石を縛りつけて水の中に沈めたら、彼らは死んでしまうだろう。

 遠藤の痴呆患者のモノマネを見て笑う人間たちは、人間が本来持っている習性に反して笑っているのだから、それは笑っているというよりは、地上の土の上で飛び跳ねる魚類や水の中で溺れる鳥たちと同じもので、それは喜びではなくて苦しんでいるのであり、人間が本来持っている困った人を助けるというすぐれた大切な能力を取り戻そうと苦しんで呼吸困難になり、あがいているだけにすぎないのではないのだろうかと遠藤は感じている。

 そんな考えにとらわれるようになってから、テレビや舞台の上で痴呆患者を演じて笑っている人々を見る遠藤の瞳にうつるそれは、もはや以前のそれではなく人間以外の別の何か悪霊のようなものにでも取り憑かれている、そんなモンスターやゲームの世界に出てくる怪物でも見ているかのような、そんな気分になり、遠藤の心からは人間らしさというものが失われ、ただ人形のように決められた動作を繰り返す生命なき物質、それは操り糸の動きに支配される文字通り人形のような気分を味わうようになったのだ。

 病人の真似をしている遠藤は人間ではなく、それを見て笑っている人々も人間ではないとしたら自分たちは何なのだろう?

 たぶんそれは人間なのだろう。

 遠藤がこんなことを考えるのは、人間が尊い優れた人間だという思い上がり、本当はそうではないのに自分を良いものだと見せかけようとする金や銀、芸術品やブランド品などの偽物のような、その金儲けという目的のためだけに人を騙そうと表面だけを偽ろうとする外面だけは見栄えのよい、それら魂のない偽物のような、視覚に訴えるのではない、その精神に与える違和感のようなものを持ったものが人間というものだと思うからだ。

 この世の中はどんどん優れたものを生み出す。生物はどんどん進化し後に生まれてくるものほど高等な生物で価値有るものだと人々は言う。

 それを成し遂げるのは科学であり、科学を生んでそれを利用することが出来る人間がこの地球上でもっとも優れた生物だと大勢の人間は言うだろう。

 遠藤の記憶によると科学の歴史というものは16世紀に生まれたガリレオ・ガリレイのピサの斜塔を利用した物体の落下実験から始まる。

 それまでは実験というものが行われることがなく、物体に対する観察というものが重視されることがなく、聖書に書かれた神の言葉というものを知ることのみがこの世の仕組みを知る正しいものだというキリスト教が支配する世界であったという。

 それをガリレオが変えた。

 ガリレオの時代からは自然を観察し、それが人間の考えと違うのなら人間は間違ったことを言っているということになった。

 正しいかどうかを決めるのは人間ではなくて、それは人間以外のもの、それはその辺に落ちている石ころだったり、あるいは空からの雷撃、川の流れ、それら自然現象を観察し、正しいことを人間は教えられる。決して人間からは正しいことは教えられないということを決めたのが科学というものだと遠藤は理解した。

 以前テレビ番組で一緒になった大学教授、その教授は日本では権威であり、長年科学に身を捧げてきた日本を代表する科学者、そうテレビ番組のテロップでは流れていたが、実際は世界の他の科学者からはまったく相手にされず、もちろんノーベル賞を受賞したり、何か世の中の役に立つような発見を何かしたようなことは一度もない、そんなテレビにたくさん出て人々を笑わせる術だけを身につけた知名度だけが高い大学教授と遠藤は過去に一緒に仕事をする機会を得た。

 遠藤はその教授と一緒に仕事をするときまでは大学教授というものは理性的で感情を表さず、科学的な質問には真面目に答える、そんな宗教家が神に人生を捧げるように、科学に全人生を捧げるそんな気高い人間がなるものだと思っていた。

 そこで遠藤はその大学教授、名前は田所と言う名前の教授に軽い気持ちで科学に対する質問をぶつけてみた。

 それは他愛もない質問であった。

 その大学教授が専門にしている原子物理学というこの世の物質の成り立ちに関して研究する学問で、遠藤はふとしたことからちょっと気になっていた質問をいい機会だからというのでテレビ番組中に質問してみることにしたのだ。

 遠藤の質問を受けた大学教授の田所は最初戸惑ったような表情を見せた。

 その番組はお笑い芸人と一緒に出演するようなゆるい番組で、科学の”か”の字も知らないような一般人に対して専門家の田所が子供にでも分かるように親切丁寧に科学というものがどんなものかを教える、未来の科学者を志す少年・少女たちに夢を与えるような、そんな子供向けの教育番組で、あまり小難しいことを言って一般人の興味を失わせないように遠藤のようなお笑い芸人が所々冗談を言って笑わせるという番組構成になっていた。

 遠藤の質問は科学を初めて学ぶ中学1年生レベルくらいの誰にでも答えられるような簡単な質問だと思って遠藤は質問したのだが、それは科学の本質に触れ、長年科学に身を捧げた科学者であっても答えに窮するような専門家にとっては触れられたくない、もし子供電話相談室であればその質問はなかったコトにされ闇に葬り去られるような繊細で重大な質問だったのだ。

 その番組は生放送であった。

 本来であれば遠藤の質問は編集でカットされ、その存在自体を視聴者には知られることもなく文字通り闇に葬られることになったはずだ。

 その方が遠藤にとっても、その大学教授にとってもよかったかもしれないが実際はそうはならなかった。

 生放送、なぜそんなバカな放送をするのだろうか?

 テレビ番組というものは非常識な芸能人や自分が偉いと勘違いした知識人のような一般社会の中で生活していくには問題のある人間の集まりである。

 それはカメラの回っていない控室や、ロケバス、はたまたテレビ番組の撮影を見に来たお気に入りの有名人に挨拶をしたりサインをもらおうとする一般人に対して行われる、本番中のカメラには絶対に映らないような、そんな世間一般が彼らに対して持っているのとはかけはなれた思い上がった、人間が他人に対して行う無慈悲で親切心のかけらなどもない行いをよくするのが芸能人というものなのだ。

 テレビの視聴者も芸能人とはそのようなものだと薄々感づいているのではあるが、実際のそれはテレビ番組で見るライオンと実際にサバンナの草原で遭遇する肉食獣の王者である野生のケダモノほどの違いがあるのだ。

 テレビ番組に映るライオンはその凶暴性というものをうまく隠しており、視聴者からは凶暴ではあるが中身は集団生活を営むのに必要なやさしさや思いやりのようなものが隠れ持っているように感じさせ、テレビを見ている人間に親しみのようなものを持たせるにいたるが、もし彼らがサバンナでライオンに遭遇したならばその野蛮で残忍で血に飢えた、相手を切り裂き、内臓に喰らいつくことしか考えていないこの世の中でもっとも恐ろしい獣の本性を知ることになるのだ。

 芸能人もそのようなものなのだ。

 テレビに映る彼らは視聴者からの好感度を得ようと必死になり笑顔を振りまき、やりたくもないボランティア活動をしているかのように人々は思っているかもしれないが、実際の彼らは世間の評判のようなものをまったく気にしてはいない。彼らはまるで暴君が支配する恐怖の王国の王のように番組のスタッフや事務所のマネージャー、ファンたちに対して無法の数々を行い、そこにはおよそ人間らしさというものが皆無なのである。

 そんな芸能人たちがテレビカメラの前でだけ善人として振る舞うということには無理があり、彼らの邪悪な本性を表す行動がカメラのレンズを通してビデオテープに記録されることになり、それを取り除いて視聴者の視聴に耐えられる状態にするのにテレビ局の編集スタッフは徹夜で作業をすすめることになるのだ。

 本来なら人の前に姿を表すことが出来ない人間たちが、なぜテレビ番組やCMに出てこられるのだろうか?

 それは彼らを見て楽しむ視聴者や応援するファンたちも似たような種類の人間たちだからに違いないと遠藤は思っている。

 テレビを見て楽しんで笑っている視聴者たちがよくこんなことを言っている。

 芸能人たちはテレビに出て人々を喜ばせるために苦労をしているのだから、カメラの回っていないプライベートの部分に関しては彼らの自由にさせてやるのがよい。おかしな言動や粗暴な行動をしたとしても、それを責めてはいけない。彼らも人間なのだから精神力に限界があり、芸能界で活躍するために受ける様々なストレスやプレッシャーのためにおかしくなってやむにやまれずそんなことをしているのであって、それを責めるのは人権の無視であり、無理なことをいって本来は善良な芸能人を苦しめて楽しんでいるだけの偽善者を装ったクレーマーのような、貧乏人がテレビに出て人々の役に立って高額の給与を稼いでいる人間に対する嫌がらせをして喜んでいるような人間たちだけが善人面をして芸能人を非難して自分たちの悲惨な生活から受ける鬱憤を晴らそうとしているだけだ、そんなことを良識ある知識人のようなフリを装った一般人たちが言っているが、これは間違ったことだと遠藤は感じている。

 テレビに出て有名になると周りに大勢の人間が集まり、彼らをあまやかし、チヤホヤして、芸能界に入ったばかりのまだ真面目で常識があり控えめな新参者に対して「そんな風に人に礼儀正しくしなくてもいい」とか「少しくらいならわがままを言ってもいいんだ」そんなことを言って彼らに乱暴な言動や人をバカにした態度を取るように勧める。

 それが人間が本来持っているさがであるのだからそうするのがいいのだというのだ。

 それは人を教育する資格のない親が子供を育てるようなものだ。

 小さな子供が騒いだり、いたずらしたり、物を破壊しているのを見ても叱らずに黙ってみていて、それを見かねた他人が子供を注意するのを見ると怒り出す親をよく見る。

 まだ子供は小さくて知能が発達していないのだからほうっておけばいい。大きくなって学習して賢くなれば社会人として生活していくのにふさわしい態度を取るようになるのだからとその親は言う。

 小さい頃からピアノの練習を繰り返した子供はきっと将来ピアニストか、ピアノの演奏のうまい人間になるだろう。一度もピアノの演奏をしたこともない人間がプロのピアニストになることなどはありえないということは誰にでも分かるはずだ。

 何かを小さい頃から努力をした人間だけが、その努力したことをうまくやることが出来るのだ。

 悪いことをしてもほうっておかれた子供がそのまま成長したら、悪いことばかりをして育ったわけなのだから、その子供は悪いことする努力をして悪いことをやる達人、たとえば強盗、放火魔、猟奇殺人鬼になるに違いない。

 一度も良いことをせずに育った子供が将来キリストや仏陀、マザーテレサのような人間になどなれるはずがない。現在の子供が2千年以上前の人間になることは出来ないし、男が女になることが出来ないのとそれは同じことなのだ。たとえ性転換手術をして男女を特徴づけている部分を交換しホルモン剤を投与したとしても生まれ持った雄と雌としての性質を変えることが出来ないのと同じことなのだ。

 だから過去に悪いことをして育った人間は未来によい人間になることなどありえないし、未成年者という立場を利用して軽犯罪を繰り返した小さな悪魔が成長して天使になることなどこの世界の法則ではありえないことなのだ。

 悪いことをし続けていればその人間は悪くなる、そんなことも分からない人間が芸能界に入った人間の周りに集まり、群がるのだ。

 だから芸能人にはまともな人間というものがほとんどいない。

 芸能界では先に入った方が偉い、芸歴が長い方に優先権があり、後から入ったものは年長者であっても相手に頭を下げるべきだと芸歴の長い芸能人が主張するのも、芸歴の少ない人間はまだ悪に染まっていない、そんな人間に芸能界でデカイ顔をさせるわけにはいかないというわけなのである。

 遠藤が芸能界に入ったばかりの頃、ある番組共演者の控室に挨拶に行くことになった。

 その相手はイケメン俳優Aで数々の女優とキスシーンをブラウン管越しに繰り返し、人々の、特に男の羨望の的になっている人気急上昇中の若手俳優の代表格のような相手だった。

 Aの控室は煙臭かった。

 最初遠藤はそれをタバコの煙だと思った。

 さわやかなイメージとは違いAが喫煙者であるということに軽い驚きを覚えたが、それは芸能人にはよくあることでテレビのイメージと実際の本人の行いがかけ離れているということは一般人でもよく知っていることだった。

 しかしAが吸っているのはタバコではなくマリファナだった。

 Aは紙タバコ風のマリファナを口にくわえながら控室に入ってきた遠藤にチラリと視線を送った。その目つきはトロンとしており、目に光がない薬物中毒者特有の生気が抜けたまるで人形のような目であった。

 その光景に驚き、唖然とした遠藤に対してAの近くに座っていたマネージャーやスタッフたちが鋭い眼光で睨みつける。それはまるでならず者の集まりが無辜むこの市民に対してするような威圧とも、脅しとも取れるような、そんな悪意に満ちた眼差しであった。

 遠藤はその場の異様な雰囲気に完全に呑まれてしまったが、Aがまだ19歳で未成年であるにも関わらずタバコはおろか法律で禁止された危険薬物を摂取していることに対して、それまでの人生で一度も犯罪と呼べるようなことをしたことがなかった遠藤には何も言わずにその場を立ち去ることなど出来なかったので「もし警察に見つかったらどうするんですか」とつい余計なことを言ってしまった。

 それに対してAはゆっくりと立ち上がり、まるで生命力というものがまったく感じられない魔法の力によって動くヌイグルミのような正常な人間ではありえない、ゆったりとして這いつくばるナメクジのようなスピードと気持ち悪さで近づいてきたAは遠藤の前に立つと、彼の顔に向かってその口から昭和時代のまだ環境に配慮されていない鉄くずのような自動車が排出する汚れた排気ガスのような白い煙を吹き付けて、まるで催眠術をかけられた人間のように抑揚のない声で「自分は葉っぱを吸っているだけだ、葉っぱを吸ってもよいと法律に決められているのだから問題ない」と言った。

 そんなわけないだろうと遠藤は思った。

 Aは法律でタバコを吸うことを認められているのでマリファナを吸っても良いと拡大解釈しているのではないのか?

 冗談で言っているのか、マリファナの吸いすぎで思考能力が低下し理解力が低下してしまったがために国の法律を正しく理解することが出来なくなってそう言っているのか遠藤には判断がつきかねたが、その場の異様な雰囲気と法律無視の無法者の巣窟から早く離れなければという生物が本来持っているであろう危機回避能力が激しく遠藤を逃走に駆り立てたので、遠藤はその場を逃げるように後にした。

 Aの控室のドアを閉め、自分はとんでもない世界に足を踏み入れてしまったのではないか? そんな後悔の念のような、それとも草食動物が肉食動物を前にして己の持って生まれた食物連鎖の下位に位置するという無残な現実を目の当たりにして、肉食獣の獰猛な姿を見ただけで身体に震えが走り、失禁し、気を失いそうになる、そんな弱い生き物だけが持つ悲しみのような気分に満たされていた所、目の前を子供が通りかかった。

 それは最近テレビで人気者になった子役タレントの一人Bであった。

 Bはその愛くるしい笑顔と子供特有のあどけなさで世間の人間たちからの評判もよく、テレビのバラエティ番組にもよく出てくる時の人であり、遠藤もその魅力にすっかり魅了されファンになっている子供だった。

 Bは小学4年生に相応しいまだ未発達のぽっちゃりした赤ん坊のような所を残した愛くるしい体型をした男子児童であり、小学校を卒業した後、あまり小さい子供と接する機会がなかった遠藤にとっては小動物、ゴールデンハムスターやチワワに接するかのようでもあり、社会生活を送るようになり歪んだ心の持ち主の大人たちと接して、一緒に仕事をしなければならなくなった遠藤にとっては心洗われるような存在だった。

 しかしBには気になる噂があった。

 Bの通う小学校ではBの人気に嫉妬した一部の同級生たちがBに対して嫌がらせをしてイジメているという。それに対してBは心が傷つくだけではなく、教室では常に一人で、給食を食べる時も一人教室の隅の生ゴミの入ったゴミ箱の近くで食事を強制されるような、そんな不遇な学生生活を送っているという話を芸人仲間の一人から遠藤は聞いていた。

 薬漬けのAの楽屋から出てきて気が動転していた遠藤であったが、彼の前をうつむきながら通るBの寂しそうに歩く姿に心を打たれ、何か言葉をかけなくてはいけなくてはいけないという想いにかられて「頑張ってください、応援しています」と相手が年下の子供にも関わらず敬語で礼儀正しく、まるで長年人に頭を下げ続けて生活してきた中年サラリーマンのような丁寧さでBに言葉をかけたのだった。

 Bは立ち止まり、遠藤の方を向いた。

 その目が遠藤の顔を認識するやいなや、Bは下を向き遠藤の足元、それは遠藤が3日前に新しく買ったばかりのスニーカー、まだ新しく光沢がありショーケースから出してきたばかりのような新品の靴に向かってBはツバを吐いた。

 Bの口から発射されたその液体は粘着性の流動体で緑色の光を発していて、爬虫類の体液を思わせるその毒々しい排泄物は遠藤の白いスニーカーにまとわりつくように張り付き、それはひと目見ただけでおそらく洗濯をしたとしても取れないだろうという位のまるでタールのような悪臭を発しており、もし遠藤がヤクザ、あの犯罪者でありながら堂々と道を歩き、一般人を脅して歩いてそれが当然のような顔をしているカネ目当ての無法者でなかったとしても「靴を弁償しろ」と言いたくなるほど遠藤のおニューのスニーカーを汚し、もはや人前では履くことも出来なくなるまで汚されてしまったのである。

 予想外の出来事に遠藤はつい大声を上げてしまった。

 Bは顔を上げ、遠藤に対して威嚇の表情を作り、その口からはタスマニアの悪魔と呼ばれたオーストラリア大陸に生息する小動物のような恐ろしい唸り声を、その幼い少年の外見からは予想も出来ない音量と鋭さで発した。

 遠藤はBのあまりの恐ろしさに身体が固まって硬直してしまった。

 そんな遠藤を後ろからきたBの母親と思われる30代後半のメガネをかけた香水の匂いを辺りに振りまくスーツを着た、外見だけはまともな若作りをしているが目尻にシワがはっきりと刻まれたその女性が遠藤を異常者でも見るような目つきで睨んだ後で、Bの肩を抱きながら小声で、恐らくは「あんなおかしな人間に関わっちゃだめよ」とか何とか遠藤の悪口を言いながら立ち去っていった。

 Bとの遭遇の恐怖感から20分後ようやく立ち直った遠藤は「なんてことだ……」とつぶやいた。

 何てことだろう。

 芸能界とは何と恐ろしい所だろう。

 若者を薬物漬けにして社会でもっとも劣った、誰もが汚物を見るような目で見る最低レベルの人間にまで人を堕落させたり、無邪気なあんな小さな小学生を人間とも思われない体内から毒物を生成し、近づくものを手当たりしだいに攻撃する怪物のようにしてしまう、そんな芸能界という所に遠藤は心の底から恐怖を感じた。

 きっとAやBは芸能界に入るまではまともなごく普通の外見が良いだけの中身は気立ての良い、むしろ善良な人間だったのだろう。彼らの顔の人間らしさを失った表情にわずかに残るやさしさのようなものから過去のまだ正常だった頃の彼らの本来生まれ持っている善良さというものを遠藤は感じ取っていた。

 こんな所にいたら自分もあんな人間離れをした怪物のような、映画に出てくるゴロツキやミュータントのような、とても現実世界の生き物とは思えない、そんな生き物に変わってしまうかもしれない、そんな確信とも取れる直感を遠藤は感じた。

 しかし遠藤は芸能界を去らなかった。

 それは芸能界で成功し、一般人では一生かかっても手に入れられない大金と、まるで貴族や皇族のように人々から敬われる名声と、何よりも芸能界に多数存在する女性たち、元々の造形美に映画業界が持っている特殊メイクの技術と、最新医療による身体の表面や骨格まで変えるSFの世界のような改造技術により、テレビカメラのレンズの向こうから見る視聴者を魅了する外形を持った女優やアイドルや女子アナウンサー、金品とイケメン俳優が大好物の貪欲な神話の世界に出てくる旅人を引き寄せ死の運命に引き寄せる魔物のような人間離れをした彼女たちと飲み会というなの堕落した、肉欲のはけ口を探すことのみを目的とした集いに参加し、他の参加者のように多量のアルコールと薬物の摂取によりその体内から多量の排泄物を排出しようとする、およそ自然界に存在する生物の持っている、そのDNAに刻まれていない醜悪なポルノビデオの世界でのみ行われるような、生物が元々は持っていない生殖技術、他の生き物が神々から生涯に数回しかその権利を与えられていない能力を世の中に存在する自然法則に反して駆使しようという、身体の奥底から沸き起こってくる溢れんばかりの欲望が遠藤を芸能界という人外の魔物の巣窟にとどめておくことになったのだった。

 そんな芸能界の中で生活してきた遠藤にとって教育番組で共演する大学教授の田所は、相手が一般人に近い存在であるだけに油断をして、ついよく考えずに質問をしてしまったのだ。

 田所は遠藤の質問に対して文字通り目が点のようになり、一瞬静止画の登場人物のように身動き一つしないで、田所の周りだけ時が止まったかのようにただじっとしていた。

 それを見た遠藤は田所が遠藤のアドリブに対して一般人特有の頭の回転が一時的に麻痺し自分が何をしているのか分からなくなる、そんな遠藤がよく真似をしている痴呆患者のような状態になったのではないか? と遠藤には思われた。

 テレビの視聴者たちはテレビの画面を眺めている間は自分がもしテレビに出ることになったとしても、いつもと何ら変わりなくふるまい、言語を発し、隙きあらば冗談を言って世間の人々の笑いを取ることも出来るそんな風に考えているだろうが、実際のテレビ出演に対して大勢のスタッフたちに囲まれ、また芸能界に住む、他の業界の人間に対して排他的な一部芸能人の敵意に満ちた眼差しや態度と、もしも台本と違う行動を取ったならば法的措置も辞さないという映画や漫画の世界とはまったく違うプロデューサーの態度に萎縮してしまい、それら数々のプレッシャーに負けてまるでいじめられっ子のようにオドオドして下を向き、その口からは不明瞭な言葉しか発することが出来なくなり、撮影が終わった後に業界人たちから失笑を買われるような存在だというのがまったく分かっていないのだ。

 田所もそんな一般人と同じ状態に陥ったのではないかと思ったが、田所の額から流れる汗、それは突然警察官が目の前に現れ、隠れて行っていた犯罪を暴露され、大衆の見ている前で逃れようのない逮捕という絶望的状況に追い込まれた汚職政治家や猥褻物陳列罪に問われたテレビ局のニュースキャスターのように、何とかこの場をごまかしてやり過ごすことが出来ないだろうかという絶望的な希望に取りすがろうという人間だけが見せる脂汗、それが大学の教壇に立ち大勢の学生の前で授業を数十年の間行っていた田所の額から流れるのを見た遠藤は、何事かと訝しんだ。

「高卒の癖に……」

 それはおよそ人に物を教える教師という職業の人間が言ってはいけないような差別的発言が田所の口から発せられたのだった。

 生放送という視聴者にその行動のすべてが筒抜けになる状況にも関わらず行われた田所の暴言とも取れる発言に驚く遠藤の前で次第に身体を震わせ、顔の色が蒼白色、それは体内の血液を失い死にゆく患者を思わせる不健康な皮膚の色から、田所の様子は次第に番組撮影前5分前に多量のアルコールを摂取したかのように顔色が赤くなり始め、遠藤の方をチラチラとまるで中学生のまだ恋をしたことがない女生徒が初恋の男性を前にして告白しようかどうか迷っているかのような、そんな挙動不審な態度を取り始めたのである。

「遠藤さんは工業高校出身ですからね――」

「遠藤さんみたいな学問とは縁のない人生を歩んできた人間には分からないでしょうが――」

 そんな遠藤を小馬鹿にした、まるで人間の言葉を理解することがないチンパンジーでも扱うような態度を取り始めた田所は、番組中ことあるごとに遠藤の低学歴と学生時代に取った落第スレスレの試験の点数に関して、本当にあった出来事とまったくの田所の捏造による情報をゴチャ混ぜにして、まるで番組で放送している内容がすべて真実を放送しているかのように見せかけるニュース番組のキャスターのように執拗に、それは年配の社員が新入社員に対して自分の仕事を奪われるのではないかという危機感から行われる陰湿なイジメとも取れるしつこさによって行われたのだった。

 田所の態度の異変に気がついたプロデューサーがしきりに止めるようにスケッチブックにその片言の外国人が書いたようなゆがんだ文字で書いて説得をするのであるが、そのすべてを田所は無視し、遠藤の知性に対する侮辱は番組中ずっと続いたのであった。

 放送終了後、当然のごとく田所の番組中の態度に対してスタッフたちが集まり、そのリーダーであるプロデューサーによる詰問が田所に対して行われた。

 それに対して田所は知識を長年頭の中に詰め込むことだけを考えて生きてきた人間特有の理論武装によって、自分が番組中に行った行動・言動はすべてお笑い芸人という、その与えられた立場を理解せずに、本来番組で自分が果たすべき役割を見失い、教養という知識人にのみ許された、それは田所が番組制作スタッフからまかされた仕事の領分にその汚れた足で踏み込み、学生生活で常にクラス最下位という学業成績しかおさめてこなかった知性というものがまったくない下等動物同然の分際であるにも関わらず、大学教授という文明国家で最も尊敬される、人々から称賛を与えられ、国家の一大事にはその発言を一般大衆から注目されるような自分に対して本来猿同然の生き物が口にして良いような話題ではない科学者のみに許された重要問題に対して、その発達の遅れた原始人の如き脳みそからひねり出された、場違いで、常軌を逸した、およそ文明人が耐えられないような質問に対して、教育番組という重大な仕事に全神経を集中し、その魂を燃やし、人生のすべてをかけているかのような田所の精神に動揺を与え、その結果未開文明の裸族に対する先進国家の人間がするような侮辱的な態度を田所が取ってしまったが、それは知識人であれば仕方がないことであり、すべては遠藤という野蛮人に与えられるべきではない名前を与えられた、北京原人のような前頭葉の発達の遅れた頭蓋骨をした生き物に原因があると2時間にもわたり、かつてヨーロッパ大陸を席巻したヒトラーのような巧みな演説によって番組スタッフを説得したのである。

 それを聞いたスタッフのあるものは涙を流し、あるものは身体を震わせ興奮の雄叫びをあげ、またあるものは遠藤を殺意のこもった憎悪のような眼差しで睨みつけるのであった。

 その光景はかつて第二次世界大戦でユダヤ人を虐殺したドイツ人たちの熱狂的とも狂信的ともいえる、自分に起こったすべての不幸を他人のせいにするという、およそ文明人には許されない蛮行に駆り立てたてるという計画をその小さな脳みその中で空想するだけでは飽き足らず、現実世界で実際に実行に移した、外見だけは立派な制服に身を包んだ自称エリート集団のナチスの幹部やその手足として働いた武闘派集団のSAと呼ばれる突撃隊たちのような、それは精神病院でよく見られるヒステリー患者の集まりを思わせる異常な熱気に包まれた人間たちの集まりがそこにはあった。

 田所の発言には遠藤も少なからず心を動かされる所があり、もし非難を浴び糾弾されているのが自分でなかったならば他のスタッフたちと同様に番組をぶち壊したと田所が主張するアウストラロピテクスから現代人に進化しそこねた原人のごとき遠藤に対して怒りを感じ、その存在を地球の歴史上から抹殺しようという企てに参画しようとする所であった。

 プロデューサーが口を開いた。

 彼の口からは遠藤に今回の田所の本番中の異様な行動を取らせ、操った、その責任を取らせるため番組を降板してもらうという、この業界ではよくある立場の弱いものに責任を押し付けるというものだった。

 遠藤にはこうなることは分かっていた。

 芸能界では強者と弱者の差がはっきりしており、強者の立場にあるものが責任を取らされるということはなく、例えば番組の司会者がスタッフを恫喝し暴行を加え、相手の肋骨を折り、その皮膚の表面にDVの被害者のように、まるで拷問にでもかけられた、そんな執拗さをもってしか作ることができない、見るものに恐怖の念をさえいだかせる身体の表面の皮膚に現れる変色を伴う青アザを作り、相手のその心の奥底に消えることのない海底を走るマントルにまで達する亀裂のような深い傷を負わせたとしても、強者の立場にある司会者が社会的な制裁を加えられ、留置場に閉じ込められ、大手食品会社からタダ同然で支給される賞味期限の切れた生ゴミのような、およそ人間の食べ物とも言えない豚の餌と形容される、その食事を数年間に渡り食べさせられるという、犯罪を犯したものが当然受けるべき罰を逃れ、そのかわり弱者の立場にある被害者のスタッフに全責任を押し付け、司会者にそのような蛮行を行わせるように目つきや仕草や言動、または催眠術やテレパシーを使って操った弱者であるスタッフが悪いという結論に達するのが芸能界という所なのである。

 芸能界という所では弱い立場にあるものは、よけいな物を見ず、発言せず、そして生まれたばかりの赤ん坊のように頭の中を空っぽにしていなければならない。

 もしそうしなければ、上空300メートルの上空を飛ぶ隼の目のような、そんな人体に与えられた眼球では捉えることが出来ない、豆粒ほどの獲物を見逃さず、精密機械のような正確さで上空高くから落下し、その鋭い爪で捕まえる、あの空を飛ぶ悪魔のような芸能界のトップに君臨する他人の行動だけは厳しく監視する怪物たちの感情を損ね、相手を激怒させ、その憤怒の念から起こる無分別な八つ当たりに近い暴力の餌食になり、芸能界に生息することさえ許されずに淘汰されてしまうのだ。

 だから今も何もせず、何にも気づかないフリをしてやり過ごすのが良いのだ。

 遠藤の目の前にいる、恐らく自分は男性たちからモテると勘違いをしているもはや女の盛の過ぎた、男性を喜ばせるためではなく、人々を恐怖させるためだけに番組に出演している厚塗りの白い粉にまみれた大福のような身体をした小菅リカの痴漢を見るかのような目つきには気づかないフリをして、ただ番組をいつものように決まりきったセリフを言い、決まった動作をし、決まった表情を浮かべているのがいいのだ。

 こんなことだから自分はいつまで経っても芸能界のトップに駆け上がるどころか、その麓からさえ上に行くことも出来ずにいるのだという想いが遠藤の心に突如として沸き起こる。

 歴史上に残る偉人と言われる人間は目の前で起こった現象を注視し、もしその異変に一度でも気がついたならその原因を与えられた知能を限界まで酷使し、その謎を解き、世間にそれを伝え、何世紀にも渡り人々から称賛を受けることになる。

 古代ギリシャの数学者アルキメデスは大衆浴場で湯船につかっている時に、その風呂桶からあふれるお湯という、凡人では見過ごしてしまうような些細な出来事をその肉眼で遠く離れた惑星表面のクレーターでさえ見分けてしまうであろう彗眼で捉え、そのもって与えられた豊かな知性を思う存分に発揮して、アルキメデスの法則と言われる、人類の歴史に残る法則を発見し、2千年後の人類の人々からでさえ尊敬の眼差しを受けている。

 もしアルキメデスが湯船につかっているその場に遠藤に「ツッコミをしたい」とホテルのベッドの上で激しく迫ってきた大物芸人Oがいたとしたらどうするだろう。

 Oがアルキメデスを見つけて言う。

「アルキメデスとツッコミをしたい」

 お湯の中に入り思考の最中のアルキメデスから数メートル離れた地点からOがそうつぶやく。

 そしてアルキメデスと同じ浴場の温泉の湯の中に入り、海水の中から獲物を狙うホオジロザメのようにゆっくりとその身体の一部を空気中にさらしながら、自分は何もしないという風をよそおい近づいていくのだ。

 そして「アルキメデスにツッコミたい」という単語を連呼しながら、アルキメデスの背後から近づき、彼のそのよく肉のついたその身体を凝視しながら迫っていく。

 しかしアルキメデスは風呂のお湯の流れに注目し、その表面張力によって液体表面がゆらゆら揺れるその動きを注視し、Oがアルキメデスに襲いかかろうとお湯の中に潜った時に風呂桶から溢れ出る温湯をその瞳孔を通じて大脳に送られるその情報の意味する所を天才だけが持っている細やかで繊細な神経細胞の塊の人間だけが持つことを許された脳みそを流れる微量の電流によって、この世界が始まってから変わることがない法則、世界の真理、そしてOの「アルキメデスにツッコミたい」という言葉の意味する所、それらのすべてのものを知るのだろう。

 もし遠藤がアルキメデスと同じ立場にあったなら、遠藤のその大して筋肉のついていない肉体を異様な熱心さで見つめるOの視線に数十メートル先からでも気が付き、Oの餌食にならないように、肉食動物に狙われた小動物のようにガタガタ震えてしまい、Oの挙動、言動にのみ全神経が集中してしまい、風呂場のお湯の表面の流れなどまったく目に入らず、ただ「自分は一人でやっていきたいんで」と仏教の修行僧の唱える念仏のように同じ言葉を繰り返し、Oの「お前にツッコミたい」という言動の意味する所を考えることすら恐ろしく、後ろからゆっくり近づくOに対して悲鳴を上げ、全裸のまま浴場を飛び出し、道路を歩いている若い女性たちにその裸体を見られていることにすら気が付かず、数キロ先の地点に達してようやく正気を取り戻し、安堵のため息をつき、そして国家の役人に逮捕されてしまうのであろう。

 ”天才”何と美しい響きだろう。

 遠藤もそんな風に呼ばれてみたいと夢想することがある。

 でもそれは無理なことなのだ。

 かつて古代ギリシャのソクラテス、真冬に下着もつけずボロ布一枚を身体に巻くという出で立ちで真冬の雪山を裸足で歩いたという伝説の怪人、彼は「知性は勇気だ」と言った。

 恐らくそうなのだろう。

 勇気があるものにだけ、この世にもし神というものがいるのなら彼らの勇気を称賛し知性という人類が最も求めてやまない能力を与えてくれるのだろう。

 もしアルキメデスがOに恐れをなし逃げ出すような惰弱な精神の持ち主であったのなら、彼は人類の歴史にその名を残すことなどなかったはずだ。

 天才とはその身に迫る危険など意に介さず、彼らが求めるこの世の最も偉大で、最も美しい、この世界を構成するのにかかせない自然現象を操る”法則”というものを知ることのみを考えるのだ。

 アルキメデスは彼の住んでいる城塞が攻め落とされ、ローマ兵が地面に書かれた幾何学の問題を解こうと躍起になっている彼の後ろから鋭い槍を持って迫った時も、彼は野蛮な兵士の方に視線を一度も送ることもなく、ただ彼の思考のみに集中し、そしてその身を金属の殺戮だけを目的に作られた残酷でおよそ良識ある人間にはそれを直視することも出来ない恐ろしい武器によって心臓を貫かれて息絶えた。

 そんな彼ならば後ろから近づいたOにその身をOの肉の槍で貫かれたとしても、まったく気が付かないほどの集中力を発揮したとしても何ら不思議ではないし、実際にそうなのだと思う。

 アルキメデスのような天才たちは恐れを知らず、ただその持って生まれた知性を満足させる仕事にのみ没頭し、自分の身体を狙う電柱の陰やベッドの下から這い出てくる悪夢のような欲望の塊の怪物たちにその身を狙われたとしても、その魂は微動だにせず、日本の昔話に出てくる耳なし芳一のようにお経を書き忘れた耳を悪霊に奪われ、口から絶叫を上げ、失禁し、命乞いをしながらぶざまに地べたを転げ回ったあげくに気絶するというような醜態は決して晒したりはしないのだろう。

 遠藤にとって天才と凡才の違いを嫌というほどその人生で味あわされることになるOとの密室でのあの出来事。

 あの時遠藤は幾何学や自然現象を支配する物理法則、果てはこの世の物質を構成する分子や、この宇宙を駆け回る電磁波のそのエネルギーの振動の謎に意識を集中することもなく、ただ自分の身の安全のことだけを考えてしまった。

 それは自分の身を襲うであろうケダモノから生まれた時から大切に守ってきた純血をただ守ろうという、恐らく生物が持つもっとも低級な反射のような単純な動作にのみ集中し、持って生まれた頭脳、人間以外の生物には持つことを許されなかった前頭葉を司る言語能力をまったく麻痺させ、ただオウムのように同じ言葉を繰り返す人形のような姿を晒すだけだったのだ。

 一体誰のための純血だというのだろうか?

 それを捧げる者も存在せず、またそれを求める者も存在しないガラクタのような純血というものに一体何の意味があるのだろうか?

 そんなゴミ捨て場に捨てられた粗大ごみのような、地方自治体の財産を狙う廃品回収業者でさえ放っておくであろう誰からも見捨てられたゴミとしての価値しかもたない純血を、どうして自分はそんなに必死に守ろうとしたのだろう。

 確かに人からは何の価値もないものかもしれない。

 本人である遠藤自身にとってもOとベッドの上で語らうまでは大切なものだとは思ってはいなかった。


(なろうの文字数制限の7万文字を超えたので後編に続く……)

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