普通の男
竜神谷という名前ではあるが、ここは谷と、そこから流れる川から形成された扇状地も含んだ場所の総称だ。
ただ谷も、扇状地も、山と海とで囲まれているので、外界からは緩やかに隔離されている。
その中心部を流れる竜神川の側の公衆浴場で、俺はベルルスコニと名乗った美女に、体を洗われていた。
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「ん? あなた、なんかくっさいわねー」
自己紹介を済ませた後、彼女は不躾に俺に顔を寄せて、鼻をヒクヒクとさせたあとにそう感想を述べた。
「いつからお風呂に入ってないの?」
「風呂? 風呂ってなんだ」
「……体を洗ったり、お湯に浸かったりよ。体の汚れを落とすことだけど?」
「そんなことは、生まれてこの方、したことないな」
そう答えると、俺はベルルスコニに無言で公衆浴場へ強制的に連行された。
もちろん、強制的といっても縛られたりしたわけではなく、ただ俺が抵抗しなかっただけだが。
ベルルスコニが、右手で俺の袖を指先だけでつまみながら、集落のあいだを引っ張っていくのは、それなりに注目を集めた。
「おーいベルちゃん! なんだその男、人間かー?」
「お父さんのお客さん、ザックよ」
「あ、ベルさーん! どこいくのー?」
「お風呂。この人とってもくさいの」
その後も次々と、竜神谷の住人からベルルスコニは声をかけられていた。
「人気者なんだな」
「そうね、人気者なの!」
謙遜もせず、彼女は持っていた桶を脇に挟んで、器用に腰に手を当ててそう答えた。
公衆浴場に到着し、言われるがまま服を全て脱ぐと、彼女は「股間を隠せ!」と目をそらしながら命令し、布を渡してきた。
浴場に設置してあった、背もたれのない簡素な椅子に座り、指令通り股間を隠したまま、彼女のなすがままに身を委ねている。
「さっきのは訂正する、返り血などを落とすときは、水を使用していたぞ、そういえば」
ベルルスコニが持参した桶で、彼女によって体にお湯をかけられ、布で擦られながら俺は情報の修正を伝えた。
「あ、訂正しなくても大丈夫よ、くさかったし、まだくさいから」
彼女はそう言って甲斐甲斐しく、体を洗ってくれていた。暫くただゴシゴシと布で擦られていると、彼女が話しかけてきた。
「でも生まれてからって……あなた、幾つなの?」
「3歳だ」
「……面白くないわ、全然」
「そうか」
それだけ話して、また沈黙する。
しかし彼女は、沈黙はあまり好まないようだった。
「ねぇ、あなた『調停者』なんでしょ? 何しにこの谷に来たの? 神様がちぎったものを数えに?」
彼女の言っているのは、この大陸に伝わる神話だ。
白と黒の神が海で泳ぎ疲れ、お互いフラスコ大陸に上がって休もうとするが、大陸は狭く二人同時には休めない。
そのために、お互いが先に大陸で休むため、自らの体をちぎって競うように陸地に投げ入れ、多く投げ入れた方が先に休むという優先権を主張する。
どちらが投げ入れた数が多いか調べるのが調停者の役目、というのが神話だが、真実は全く違う。
恐らく裏切りのエルフ達が広めた、下らない嘘だが、あまり興味はない。
そもそも俺は、ちぎったものなど数えない。敢えて言うならちぎったものを殺す役目だ。ただ本来の使命などイチイチ説明する気も起きなかった。
「ここは目的地じゃない。ランティースへ向かう」
そう伝えると、彼女は少し驚いたように返事をしてきた。
「え? 今の時期は無理じゃない?」
「なぜ?」
ベルルスコニに聞くところによると、ランティースにすぐに行くことは難しいようだ。
記録とは違い、竜神谷とランティースへの交流は既に途絶えていた。
ランティースでの魔鉱の採掘と、武器の生産は既に成り立っておらず、他にろくな産業もなかったランティースには人がほとんど住んでいないらしい。
そのため近いとはいえ、外海に存在するランティースへの渡航の技術が、竜神谷では既に失われているようだ。
竜神谷にある船は、沿岸での漁を行う為の小舟しかなく、沖に嵐が頻発するこの時期に、外海へとその船で向かうのは自殺行為とのことだった。
「だから、しばらく泊まっていけば? 礼儀とか教えてあげるわ、あと、体の洗い方も、ね」
笑顔を浮かべながらの彼女の提案に
「気が向けばな」
と適当に答えた。
すると、彼女は少し沈黙したあと、俺の正面にささっと回り込んでしゃがみ、顔を覗きこんで来た。不思議なものを見たような、驚いたような顔をしていた。
「なんだ?」
「あなた、変わってるわね。私に誘われて喜ばない男って、初めて」
「そうか、君は美しいからな。普通なら喜ぶべきことなのかも知れないな」
「あ、それはわかってるのね、ならいいわ。あと、ね……」
そう小さく呟いたあと、彼女らしくなく、何かモジモジと言いにくそうにしている様子が気になり「なんだ?」と促してみる。
「あと、くさいって言っちゃったけど…… あなたの匂い、何か嫌いじゃないわ」
俺にそう告白しながら、指を口元に添えて、微笑んだベルルスコニは、何というか、そう、魅力的だった。
簡単に言えば、その笑顔で「気が向いて」しまったのだ。
そういう意味では、俺も普通の男と変わらないのかも知れないな、と思った。
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竜神谷での日々の中で、特に変わった事はなかった。
たまに闘神を倒して、竜神谷へ戻るとその都度ベルルスコニから歓迎されたこと。人が出迎えてくれるというのが、嬉しいというのはこのときに学んだ。
なぜか、竜神谷の男たちに喧嘩を売られることが多かった。そしてその八割は、なぜかベルルスコニが吹き飛ばしていた。
彼女の祖母が、一度竜神谷を訪ねてきた。彼女と、彼女の連れは『記録』にも残っている有名人だった。
彼女に挨拶すると「こんな礼儀正しい調停者は初めてだわ」と誉められた。嬉しかった。ベルルスコニに習ったことがしっかりとできて、ベルルスコニが喜んでくれたことが。
彼女の連れは、俺が出会った中でも別格に強かった。彼なら、闘神ともある程度戦えるだろう、俺には及ばないが。
俺が、少しだけ、笑うようになったこと。
ベルルスコニの魔術は、裏切りのエルフの中でも、特に力を持っているレベルと比べても遜色がなかった。
高密言語の事を知らない、知りたいと言われて、消えるまでは用がないと思っていた「引き継ぎの間」に連れていくと、紋様を興味深げに眺めていた。アービトレーションは連れていくことに激しく反対したが。
「あなたの事、好きになったみたい」
帰り道でコニーに、そう言われたこと。
俺もその時には、同じ気持ちになっていたこと。
しばらくして海が落ち着く時期となり、俺がランティースへの渡航を決意した頃、彼女は谷から姿を消した。




