そして、プロローグ
入り口から差し込む薄明かりが、魔鉱でメッキされたような白金一色の部屋の唯一の光源だった。
その部屋のあらゆる場所に──つまり床、壁、天井が高密言語の紋様で埋め尽くされている。
『目覚めたか、引き継ぎは終了だ。自分の体を確認しろ』
目を開けて部屋の様子を確認するのと、頭に響く声は同時だった。
頭に送られてくる情報──『記録』が、まず引き継ぎの状態の確認を促す。
仰向けで寝そべった体勢から、俺はゆっくりと上半身を起こし、座る。
ただそれだけの、しかし人生で初めて上体を起こすという作業は、我ながら上手くできた。
いや、比較する相手がいないのだから普通なのかも──もしかしたら下手なのかもしれないが。
『大丈夫だ、普通だ。それに、その作業にあまり上手い下手などはない』
考え事に割り込んでくるように頭に響く声は無視して、俺は次に外見から自分の肉体年齢を確認する作業に入る。
姿見があるわけでもないので見える範囲、つまり人間の構造上それは首から下、それも前面に限られる訳だが、恐らく意図した肉体年齢である十五歳となってるだろうと『記録』から判断した。
『記録』はあくまで『記録』のため、記憶ではない。俺は生まれてからほとんど何も体験していないからだ。
『肉体年齢相応の人格を、記録から構築し与えてある。ある程度の物事の判断は可能だろう』
そう頭に響く声に促されるように周囲を見る。まず目に入るのは、自らの体を横たえていた、棺のように窪んだ魔鉱で造られた寝台だ。
『調停者』はこの棺から始まり、棺で終わる。ふと左を見ると、自分が収まっているのと全く同じ棺が目に入るが、そこには何もない。
再度自らの体を見る。
ついさっきまで赤子だった自分をくるんであった、一枚の布が腰の辺りにある以外は何も身に付けていない。
強制的に年齢を十五年分成長させたこの肉体では、小さな布は何の役にも立たない。
次に部屋を見回す。
目に映る物のほとんどは『記録』に照らし合わせればどういうものか理解できる。
だがどれも、見るのは始めてだ……それを言えば、今見ているものだけではなく、この世に存在するほとんど何もかもが、だが。
なんせ生まれてから、ほとんど目を開く前に引き継いでいるのだから。
おびただしい紋様に囲まれた部屋は、人によっては、美しいと思うのかも知れないし、何も無い方がシンプルで好きだと思うかもしれない。ギラギラとして嫌いだ、ということも有り得るだろう。
俺は、何も思わない。
この部屋は調停者が引き継がれ、調停者が消滅する、ただそれだけの空間。それ以外には意味がない。
隣の棺の近くの床に、 先代調停者の衣服などの所持品らしき荷物が置いてある。
また今いる棺と棺の間には台座があり、一本の剣が刺さっている。
先程から頭に響く情報を送ってくるのは、この剣だ。
俺は役立たずの布を払いのけながら立ち上がり、隣の棺の前まで歩いたあと、衣服を身に付けていく。その後でそう言えば歩いたのも、服を着るのも初めてだ、と思うが、それも特に意味がない。
台座から剣を抜いて鞘へとしまい身支度を終え、部屋を出ようとした時──
引き抜いた剣『アービトレーション』が、闘神の出現の予想を関知した。
『ここから歩いて二日ほどの場所で、おそらく闘神が出現する。人為的なものではなく、恐らく自然の蓄積によるものだ』
見た目には何も変わらないが、闘神の出現予想位置を『記録』として直接思考の中に伝えてくる。
「起きてすぐ、忙しいことだな」
人生初の言葉は、そんな皮肉めいた言葉だった。
アービトレーションから送られる『記録』から与えられる疑似人格は、本人の生来の資質にも影響を受けるのかもしれない。
とはいえそんなものは確認のしようもないことだが。
履いたブーツのサイズが少し大きいことに顔をしかめながら入り口へと歩き、『引き継ぎの間』を出て闘神の元に向かおうとして……ふと、視線を中に戻した。先程まで身に付けていた布が目に入る。
部屋の中に戻り、寝台だか、棺だかから布を拾い上げる。
布には刺繍がしてあった。
「愛する息子 ザック」と記されている。
『この刺繍は……誰によるものか分かるか?』
俺は頭に浮かんだ疑問を、アービトレーションへと飛ばす。
『闘神、またはその討伐に有益と思える情報しか蓄積は許されていない。分かっているだろう?』
『……そうだな』
予想通りの回答だ。この刺繍を誰が布に施したのかはわからない。『記録』には調停者としての活動に有益なことしか情報がないからだ。
人との繋がりは時に力にもなるし、時に弱さにもなる。
つまり不安定だ。不安定なものは、引き継がれない。
布に刺繍された言葉の意味は、もちろんわかる。
おそらくザックというのが俺の名前なのだろう。
俺の親は、遺された衣服が俺にそれなりに合うということは、父親が調停者だったのだろうし、調停者が刺繍をするとは考えにくいのでおそらく母親が用意した布だろう。
愛するという言葉の意味は、理解できる。ただ、どのような感情なのかは本当の所わからない。体験したことが無いからだ。
ただ、何となくこの場にこの布を置いていくのは躊躇われ、荷物へとしまう。
その布はこの部屋に存在するもので、俺にとって唯一意味があるものの様に感じた。
今度こそ、外へと向かう。
部屋を出ると扉は勝手に閉まり、周囲の岩肌とほとんど変わらない、つまり崖の一部となった。
もう次の引き継ぎまで、つまり俺が消える必要が出るまでここに来ることは無いだろう。
外は夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間で、初めて直接目で外の光を感じるには、やはり少し眩しかった。
光に目を慣らすために、しばらく目を細めながらその場に留まる。
目が慣れてきたのか、それとも単純に夕方になったからか、先程までの少し痛みさえ感じる眩しさが治まり、俺は歩き出した。
 




