血の臭い
こうして俺はバンドブールでの生活を始めた。
老人の名前は李白というらしい。
虎道の訓練の大半は普通の格闘術だった。映画などのカンフーに見られる手で円を描いたり、片足で立ったりする独特の動きもなく、俺が習っていた現代の格闘術に近い打撃中心の武術だ。
俺は、精霊の世界にある自分の肉体を利用する、という幻想的で厳めしい表現から俺はもっと不思議なエネルギーを体から出したり、体に受けたりする訓練を想像していた。
その他の訓練の内容も重いものを背負って運ぶとかひたすら走るとか体力を付けるものが多い。騙されているのではないかと思う事は多々あったが、体には筋肉がついていった。
訓練以外の時は、会館の掃除をしたり、客をもてなす手伝いをする。
普段の食事は質素なものだったが、李白の家に招かれて、李白やメイヨウに料理を振る舞ってくれる事があった。
「おいしい」
初めてメイヨウの料理を食べた時、俺は自然と感想を言った。しかし、メイヨウは当然という顔で何の反応も示さない。
俺がどうにもならない空気の中助け舟を求めて李白を見ると、李白は長い髭を震わせて笑った。
隣でヤンヤンも笑っている。口の中に見えるピンク色の小さな舌が可愛らしい。
李白の家で出て来る料理にはふんだんに香辛料を使った本格的な料理ばかりだ。
「李白さんて相当金持ちなんですね」
「そら夏国では、貴族みたいなもんだからな」
俺はあの怖い顔をした夏国の男とも仲良く話すようになっていた。
数か月後、少し変わった訓練でお互いの体を押し合うものを李白が教えてくれる。体の小さなヤンヤンやメイヨウを相手にしているはずなのだが、俺は鉛の塊でも押しているような重さを感じた。二人は大して踏ん張っている様子もない。
逆に俺が押してもらう順番になると、二人は空の段ボール箱のように俺を押していった。
俺が虎道の効果らしき力を体験したのは、この時だった。
「自分の体がもっとでっかくて重いって想像するんだよ」
メイヨウにじわじわと押されながらヤンヤンが見本を見せてくれた。
メイヨウは常につっけんどんな対応をしていたが、指導は真剣だし的確だった。構えが下がると、手を押し上げられる。
元の世界の情報については全く進展が無かった。ガストーネが一方的にこちらに質問をしてくる事はあっても、新たな手がかりは見つからずじまいだ。
そんなこんなであっという間に半年近く時間が経過してしまった。
俺は次第にこのまま帰れないんじゃないかという可能性を意識しだしていた。
生きていた時間に比べて圧倒的に短かったはずのこの世界にいた時間は、俺にとって今までどこか夢やフィクションの出来事だったのである。
それが一年近くを過ぎ、訓練で体に変化を感じる内、ここが俺にとっての現実になりつつあった。
そんなある日、突然俺が暮らす夏国の会館にビダルとラモンが来た。
「ええ?!」
「ハルタ久しぶり!」
ラモンは、一回り背が大きくなって、俺の背を越していた。声も低くなって青年らしくなっている。
ラモンが俺の手を掴んで来る。顔が少し父親に似てきていた。
ラモンは服のポケットからあの数珠のようなブレスレットを取り出して、見せて来る。
「これミレディから渡してもらったよ。ありがとう」
寂しくなり始めていた俺は再会を喜びたかったが、二人はどこか落ち着いているというか、常に何かを憂いている表情をしている。
ビダルは再会を喜ぶラモンの顔を微笑ましく見ていたが、やがて地面に目を落とした。石の見たまま口を開いた。
「ハルタ……王子が行方不明になったそうだ」
「行方不明?」
「また暗殺の企てがあってな。今度は下手人が複数人いて、ちょっとした軍勢だったらしい。事前に察知して数人の兵士と共に城を出られたそうだ。それから消息が途絶えている」
俺はしばらくその場に立ち尽くしてしまった。ビダルの疲れ切った顔を見て、ようやく二人が仲旅をしてきたことを思い出し、建物の中に招き入れた。
「行方不明って死んでしまったという事なんですか?」
不謹慎を承知で言うと、ニュースなどで行方不明という表現を大抵その人は死んでしまっている事が多いイメージだ。
「いやそれはまだ解らない」
ビダルの表情は険しい。可能性で言うと、どちらがどれくらいなのだろうか。
ビダルは膝に置いた手を胸の前で組みなおす。
「これからどうする? 今のままでは一年後に城に帰れるかどうかは解らないぞ」
会館の狭い部屋に三人眠るのは無理そうだったので、ビダルとラモンは町の宿屋に泊まる事になった。
俺は自分がどうすればいいのかわからなくて眠れなかった。




