空から落ちて
服の下が汗ばんできたのを感じて、鏡の前で突き出した拳を降ろした。
体を動かした方が調子が良いからというだけで、昔かじっただけの格闘技の練習を今でも続けている。
大して汗もかいていないから、気にせずそのままベッドの上に寝転がった。
揺れるカーテンの隙間から、まだ薄明るい空の淡い光が差し込んでる。
俺はそれを眺めながら意識が遠のくのを感じ、眠りにに落ちていた。
気付くと、目の前は真っ暗で急激に体が重力に引かれていく。
これは、夢から覚める前によくある落下する感覚になる現象だろうか。
しかし、そう思った瞬間、違和感を覚えた。
落下していく感覚が妙に長い。
奇妙な夢の中で、俺は慌てて目を開ける。
鼓膜を叩きつけていく風。みるみる遠くなっていく青空。
ジェットコースターに乗っている時のように体内で吊り上がっていく臓器。
これは本当に落ちているんじゃないのか。
「うわあ」
大声で叫びたかったが、もみくちゃな状況でまともに声も出ない。
下を見ると、すぐ目の前に水が見える。
そのまま巨大な水の中に頭から突っ込んで、俺は止まった。
大きな水しぶきがあり、思い切り叩かれたような衝撃があったが、どうやら俺は死んでいないらしい。
浮かび上がり、水面に顔を出す。
周囲は石レンガの壁に囲まれている。
間違いなくここは俺の家じゃない。どうなっているんだろうか。
足音がして、慌ててた立ち上がる。
「うおああああ!」
目の前に黒い毛むくじゃらの顔が現れて、俺は今度こそ大きな悲鳴を上げた。
俺の足元に黒いライオンの顔をした人間が立っている。
黒ライオンは中世の貴族のような服を着て、身振り手振りで誰かに指示をしている。
すぐに槍を持った兵士が俺を取り囲み、両脇から二人慎重に近付いてくる。
片側の兵士が強い力でこちらを抑え込んで来て、俺は思わず拳を相手の胴に打ち込んだ。
当たり所がまずかったのか兵士が苦しそうに呻く。
兵士達は騒然とした。
腹を殴った兵士が華麗な槍捌きでこちらを殴りつけて来る。
相手の反撃にひるんだ所で、俺はあっという間に周囲を取り囲まれた。四方八方から槍の穂先が突きつけられる。
俺はずぶ濡れのまま引きずり出され、兵士達に引っ張って行かれた。
大きな水溜だと思っていた場所の左右には、ライオンの像が彫られている。どうやらここは巨大な噴水だったらしい。
建物の中に入ると、ロウソクの火を明かりにしていて、思った以上に薄暗い。
リアルな中世の生活はこういうものなのかもしれないが、そんな事まで俺の夢が再現できるのだろうか。
そうこうしている間に俺は牢のような場所にに入れられた。
「お前いったい何者だ!」
明らかに日本語で兵士の一人が言った。
「あ、おれ……は日本人です」
相手が聞きたいのはそんな事じゃないのは解っている。
しかし、他に自分を説明する言葉が見つからない。
相手の顔つきは日本人ではないし、ここが日本だとも思えなかったから、何か自分の特別な情報と言えば、日本人である事ぐらいに思えた。
「日本人? 異国の人間か?」
責任者らしいその男は少し牢から離れると、他の兵士と話し始める。
上司らしいその男は少し焦った様子だったが、話しかけられた側の若い兵士は淡々と返している。
「見た目も人間ですし、特別な力のあるようには見えません」
「とすると、空から降ってきたのは魔法を使ったというより、誰かに使われたって事か?」
「かもしれませんね」
上司の方の男がまた牢に近付いてい来る。
相手がこちらの目をまじまじ見ると、こちらも相手の色素の薄い目が良く見えた。
「怪しい者でないと解れば帰してやれるが、お前はどこの誰なんだ。この国では何をして、どこに宿を取っている?」
「宿? 宿は……ないです。この国? で何もしてない……」
「言葉がわらかんのか?」
「いや、わかります」
男は首を傾げた。
まずい。明らかに疑われている。
助けを求める様に他の兵士達を見るが、こちらに鋭い目つきを向けるか、面白がって薄笑いを浮かべている者しかいない。
段々嫌になってきた。ここは夢なのに、どうして俺はこんなに気を使っているんだ
「俺、ここどこなのかわからないです! ここに来たのも良く解りません。気付いたら、空から落ちてました!」
こちらの疑いは晴れるどころか、兵士達は少し表情を険しくしていて、より怪しく思っているようだ。
「見張っていろ!」
上司らしき兵士は鼻息を荒くして、どこかへ歩いて行ってしまった。
しばらくすると兵士でない白髪交じりの男を連れて、戻って来る。
男は身分が高い人間らしく、上司は丁寧な態度で男に話しかけている。
「暗殺か盗みの為に入る際に魔法を使い、失敗したのやもしれません」
「暗殺にしては中途半端な手勢だな。この者に戦う力や魔力が無いのは確かだ」
男はこちらを見ながら少し考え込んだ。そして、不意にこちらの胸倉を掴み、服の質感を確かめる様に触る。
さらに首の後ろのタグの部分をじっと見ている。
「このような素材や印字の技術はわが国でも、周辺の国でも、見た事が無いぞ」
男は少し面食らって、引いた表情をした。
しばらく目の前で話し合いが行われていたが、俺は結局開放してもらえない事になったらしい。
もういい。どうせ夢だ。目を覚ませばいいだけの話じゃないか。
おかしな話だが、俺は夢の中で眠った。
しばらくして俺は目を開けた。
「あれ? 目が覚めてない……」
辺りは暗くなり、目の前の鉄格子も冷たい石の床も眠る前と変わっていない。
不意に目の前の闇がうごめいた。目を凝らすと闇の中で誰かが座っている。
影の中から光が二つ現れ、こちらを見つめてくる。
何かの目だ。
二つの目の下で白い歯がちらりと見えた。
「オキタカ?」
あの毛むくじゃらだ。地面に胡坐をかいて、こちらを見ている。
「トオイ……クニカラ……カ?」
黒いライオンの男は自分の方こそ外国人であるように拙い言葉で喋った。喋りながらも、やり辛そうに首をかしげて、イライラした様子だ。
「そうみたいだ。なあここはどこなんだ?」
「カレオン……ノシロ」
ライオンは言ってからこちらが本当に知らないのか疑う表情をした。
「カレオン? って国の名前か? 雰囲気はヨーロッパみたいだけど……そんな国名聞いた事ないぞ」
相手から出来るだけ情報を引き出さなければならない。俺は必死になって話し続けた。
「日本て国聞いた事あるか? 俺はそこにいたんだ! それが気付いたら空から落ちてて、この国にいた! 槍を持った兵士がいる国なんて聞いた事ない! 俺はひょっとしたら」
ライオン男の目をじっと見る。
「違う世界から来たかもしれない」