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27大貴〜振り下ろされる刃〜

「どうして……」

 誰にともなく裕紀は呟いた。それまで崩さなかった微笑も消えている。

 深雪は死んでいなければならない。そして、すでに死んでいるはずなのだ。

 なのに……、深雪はそこにいる。肩で息を繰り返し、惨めに涙を流しながら。

「ごめんなさい……でも、やっぱりいやなの。できないよ」

 深雪は子供のように首を振った。整えていた髪が乱れても、見向きしない。ここまで走ってきたのだろう。膝は登山を終えたときのように震えている。

「どうして、だよ」

 膝を抱えて蹲っていたはずの悟が、震える体を隠そうとせず深雪の前に躍り出た。唇を噛み締め、狂わんばかりに目を剥きだして。

「ここで、ダメだろ。もう、ダメじゃないか。やるしかないところじゃないか、何で、あんたは生きてるんだよ。智美姉ちゃんは死んだのに、あんた、また逃げるのかよ。一人だけ、逃げるのかよ。みんな、覚悟が決まってたのに、またかよ、また繰り返すのかよ」

「落ち着いて、悟」

 裕紀がたしなめるが、その言葉に力はない。

「あんた、後悔したんだよね。なら、どうして、繰り返すんだ。もう、嫌だって、あの時も言って、たじゃないか。なのに、どうして、なんだよ。今度は二人も、愛さんと真弓さんを、犠牲にしてるんだぞ。あんたが覚悟を、決めたんだから、もう、死ぬしかないんだよ。僕らが、喜んでいると、思っているのか。喜んで、姉さんを殺していると、思っているのか。死んでほしくなんかないよ。それでも、決めたんだから、やるしかないじゃないか。戻れないじゃないか。もう、ダメだろ」

「できない、できないの! ごめんなさい! ごめんなさい! だって、私は復讐なんてしたくない! 真弓みたいにご先祖様のために復讐なんてしたくない! 愛みたいに村のためになんて考えられない! 私は、本当は町に行って色んなものを見たかったの! 綺麗な服を着て、お洒落なお店に行って、おいしいものを食べて、町にはもっとすごいものがあるんでしょう? この村の娯楽なんて、何もないじゃない! 全部町の残りカス。私たちが喜んでいるものなんて、町じゃ忘れられているのよ! たった三時間よ! たったの三時間向こうに行くだけで、あんなに魅力的な世界が広がっているのに、どうして行けないの? 歴史のため? 掟のせいで?」

 誰に問いかけているのかわからない。それゆえに、誰も答えることはない。たとえ問いかけられたとしても、明確な解答を投げかけることができるはずがない。ここにいる誰もが、同じことを考えているのだ。同じことを考えているからこそ、このように馬鹿げた計画を実行に移している。今のままでは復讐を行うことができないから、だからこそ新たな武器が必要なのだと。

 思えば、この計画は誰のためのものなのだろうか。悟にとっては智美のため。真弓にとってはご先祖様のため。では裕紀は? 勝也は? 圭介は? 深雪は? 四人は心の奥底で願っているはずだ。誰も死んではほしくないと。できることならば復讐のことなど忘れて、普通に生活を送りたいと。

だが圭介は巫女の子孫として家系に縛られ、勝也は愛を守るという村の掟に縛られ、深雪は智美を見捨てたという後悔の念に縛られ、裕紀はその弟として縛られる。それぞれを縛る鎖は禍福のように絡み合い、もはや解けることはない。

「そんなのはいやなの! 私はもっと自由でいたいの! みんなだってそうでしょ? みんなだって本当はいろんなことがしたいんでしょ? だったらダメよ。ここでしんじゃったら終わりなの! 怖いの、だって、私は智美が目の前で殺されるのを見てるから、人が死ぬ瞬間を見てるから、知ってる……あんなのいや! 死にたくない! 死にたくないの!」

 深雪が縋るような視線を大貴に向けた。

「そうでしょ? 三島さんは優しい人じゃない。どうして殺さないといけないの? こんなことしたって、もう終わりなのよ。ご先祖様の復讐を、智美たちの復讐にすり替えたって同じよ! きっとみんな忘れちゃう。ただ遅い早いかだけに決まってる。ねえ、お願いだから、もうやめようよ」

「深雪さん、俺の姉貴は……」

 圭介は立ち上がり、気だるそうな所作で深雪に寄る。

 冷ややかとも取れる声音で呟いた。訴えかけるように、助けを求めるかのように。

「深雪さんは知ってるよね? 姉貴は自分の役目を全うする。だから、俺はそれを尊重した。俺だって姉貴を止めたかったさ。でも無理だった。姉貴はいつからか家族ではなくなっていた。たぶん、俺のことを思ってくれたんだと思うけどね。自分が巫女としての役目を全うするため、家族ではいることができなかった。巫女であり姉貴でいるのは俺を苦しめる。俺がそのギャップに耐えられなくなる。姉貴は身を削る思いで耐えてくれた。もしかしたら一人で泣いていたのかもしれない」

 空を仰ぐように喉をそらせる。天井には、何もない。

 大貴はひとつだけ鍵のついた部屋を思い出した。あの扉の向こうで、真弓は何を考えていたのだろうか。唯一絶対不可侵の聖域。巫女の仮面を脱ぎ去ることのできる限られた空間。

「姉貴が最後に言ったのは巫女としての言葉。姉貴としての言葉は残してくれなかった。だから俺は姉貴の最後の願いを叶えたい。姉ではなく、巫女の願いを」

「どうして? お姉さんなんだよ。最後なんだから、真弓のこと考えてあげてよ! 家族なんだから、たった二人の姉弟なんだから!」

「俺の姉ちゃんは、」

 勝也が握り締めていた拳を解いた。そして、独白のように呟く。

「真弓さんとは違う。姉ちゃんはやっぱり俺の姉ちゃんだ。俺が生まれたときからずっと俺の姉ちゃんをしてくれたよ。そういう意味じゃ俺は幸せだったのかもしれねえ。でもよ、俺はそれだけだ。俺は姉ちゃんがどれだけ苦しんでたのか、ちっともわからなかった。姉ちゃんが失踪するようになったのがいつか、正確にはわからねえけどよ、たぶん祖父ちゃんと祖母ちゃんのことを知ったときだと思う。あれ以来、姉ちゃんは自分の家系を探していたんじゃねえかな。もしかしたら親父やお袋もそれを知ってたから、姉ちゃんがいなくなっても心配しなかったんだろうな。……やっぱり俺は、何も知らなかった」

「やめてよ……そんなこと言うの、ダメだよ、そんなこと」

「ごめん、深雪さん。でも、最後ぐらいは姉ちゃんのことをわかりてえ。姉ちゃんがどれぐらい村が好きだったのかを、知りてえんだ」

「裕紀!」

 耳を覆いたくなるほどの悲痛の叫びを、深雪はあげる。声は掠れ、恐怖に全身が痙攣している。とめどなく溢れる涙をもはや拭おうとしない。あまりの恐怖からか、深雪は笑っている。それ以外の表情を知らないかのように、ただ、ただ。

「助けて、お願い。裕紀……お願い」

 裕紀は何も答えない。ただ黙って深雪を見下ろす。大貴からは裕紀の背しか見えないため感情を推し量ることができない。もどかしかった。おそらくこの中で深雪を助けることができるのは大貴だけ。それなのに、何もすることができずただ蹲っていることしかできない。いくら体を蠢かせても縄は大貴の腕にきつく絡みつき肉をえぐるだけ。すでに表面の皮は剥げ血が滴り始めているだろう。鋭い痛みが大貴の全身を襲う。脂汗が額に浮かび上がる。それでも、無意味とも思える抵抗をやめることができない。

「裕紀君!」

 言わずにはいられなかった。無意味とも思えるかもしれないが、それでも言葉を尽くさなくてはならない気がした。深雪だけでも、目の前に見えるこの女性だけでも。

「きみはこれでいいのか? 今ここで深雪さんを犠牲にすることが最善なのか? すでに計画の一部は崩れているだろう。彼女と最後に一緒にいたのは俺でなければならない。だけど、誰かが覗いているはずだ。深雪さんがここまで走ってくる道のりで、誰も深雪さんの姿を見なかったと断言できるのか。そうなれば必ず疑問を持つ人間が出てくる。計画を突き止める人間は出てくるぞ」

 裕紀は振り向かない。大貴の言葉は間違いなく届いているはずなのに。その肩は震えている。泣いているのだろうか。悔いているのだろうか。

 大貴は深雪を見た。腰が抜けたのか力無く座り込んでいる深雪。泣き笑いの表情のまま、救いを求める殉教者のように裕紀を見上げる。矛盾しているその姿。見るも無残な姿。見るも惨めな姿。見るも愚かな姿。

 それでも、美しかった。

 すべてを晒し、偽るところの無い真実。

 無様で滑稽で愚かで惨めで憐れで……哀れで、儚くも美しい。

 目が離せなかった。瞳が離れない。この二日間、深雪が形作っていた表情たち。それはすべて偽りの中の幻想。大貴は始めて深雪という存在を自覚した気がした。深雪が演じたのはすべて幻想の世界。誰もが幻想を夢見る。幻想を掲げつつも、誰しもが現実と折り合いをつけて生きている。なのに、深雪は幻想を演じた。幻想を自然なものとして演じていた。大貴に対して「らしく」振舞おうと、深雪は知りもしない幻想を演じた。わかるはずがない。それは幻想なのだから。

 だから、自然な存在などあろうはずがない。なのに深雪はあまりにも自然であり、あまりにも当然のような存在。役割を全うするために、幻想の中で行動していたがために表れた違和感。 

 自然な存在という違和感。自然すぎた、それが深雪。

 夢のような時間。長かったのか短かったのか。

 だから気付かなかった。見えていても、気付かなかった。

 振り下ろされる、その刃に。


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