17大貴〜智美〜
二人の間をやわらかい風が吹き抜ける。頬をなでるその風は心地よく内面をもなでていく。揺れる木の葉は軽やかなメロディーを奏でているように耳に響き、微かに香る線香に鼻腔をくすぐられる。すでに太陽は傾きだし、周りの木々だけでなく、二人の顔にも陰影を作り出していた。
どれほどの時間が流れていたのだろうか。深雪は寂しげに目を伏せ、大貴は智美の墓標の岩を一心不乱に見つめている。岩の周りの雑草は綺麗に取り除かれている。かなり最近土をならしたのだろうか。空気に触れていない焦げ茶の土がむき出しになっていた。
「……智美さん」
大貴が呟くと深雪が視界の隅で頷くのがわかった。
それまでにも何度も耳にしていた名前。それでいて、そのことに触れてはくれなかった。気にはなっていたが、気がつくと話が逸らされついに聞けずじまいになっていた。今朝も深雪と真弓はその話題に触れているのが思い出された。表、というのはどういう意味だろう。
「村の人は、誰もが歴史について知っています。一番よく知っているのが真弓。程度はどうあれ、大貴さんが昨日知った知識を村のみんなは知っています」
大人も子供も、と深雪は付け足した。
「話が飛びましたね」
「ゆっくりと、すべてお話します」
どうやら話を逸らすつもりはなさそうだ。大貴は手振りで先を促した。
「おそらく大貴さんはこの村が復讐を心に誓っている。そう考えていませんか?」
この問いに大貴は少し戸惑った。確かに大貴は真弓の話を聞いてそう考えていた。この村はいまだに復讐を誓っている。町に怨みを抱いていると。しかしその気持ちが徐々に薄らいでいるのも事実だ。今日村の中を歩いて出会った村民。その顔からは一応に笑顔を見て取ることができた。誰も復讐を抱いているように見えない。
それでも、大貴は小さく頷いた。それを見て、深雪は続ける。
「復讐を心に決めていた時もありました。その結果、真弓のようにしきたりに縛られている子もいます。でも、今この村の多くの人は復讐を忘れています。むしろ、町に好感を抱いている人がいるくらいです」
「いいことなんじゃありませんか? 復讐を考えるよりも、ずっと」
深雪は、そうかもしれませんね、と言って力なく微笑んだ。これに大貴は少し拍子抜けした。大貴はあえて能天気を装って答えたのだ。もしも深雪が復讐を誓っているのなら、この言葉に何らかの反応を示すはずだと考えてのことだ。村民から復讐心が感じられなかったが、深雪からはそれを感じ取ることができたから。
「この開発計画が、村のためになるんですか?」
この問いに、大貴は口をつぐむしかなかった。深雪は知っているのだろうか。この計画の真意を。大貴自身詳細を知っているわけではないが、それでも村のためになるかどうかぐらいわかっている。
大貴の反応を見て深雪は小さなため息をついた。
「町は素晴らしいところです。この村から出て町を歩いた人間なら、誰でもそう思います。自分たちが住んでいる場所がどれだけ不便なんだろうって。大貴さんだって、この村がどれだけ不便な場所にあるかわかりますよね。でもいくら便利になるからって、よく考えもせずに手を叩くのはよくないと思うんです」
「……その通りですが」
「人によっては町が村民を殺す、なんて考えている人もいるんですが、私はそれがあながち的外れといえないような気もします」
「深雪さんは開発計画に反対なんですか」
「……ええ、どちらかといえば」
そう言って、深雪は智美の墓標に目を向けた。
「特に、あの日以来は」
「あの日、ですか」
深雪の視線と話の流れから大貴はその先に想像がついた。
「智美が、死んだ日です」
やはり、と大貴は思った。深雪の目が暗く沈んでいくのがわかる。
「三年前、この村で事件があったのを知っていますか?」
「はい。確かそれが原因でこの計画もここまで遅れをとったとか」
「あれは地質調査と称して、町の役人がここでダイナマイトを使用しました」
深雪はじっと大貴と目を合わせた。
「それに巻き込まれたのが、智美です。智美はこの岩の下敷きになって、死にました」
言い終わった深雪の瞳は、あの時の暗さを湛えていた。闇というのですらまだ明るく、深海ですら浅すぎる深み。それは最初に見せた色。深雪と、真弓が持っている色。
「……事故だったんですか」
大貴はそう言うのがやっとだった。唇が震え、口内では唾液が粘りつき開閉を妨げている。深雪の瞳の色を恐れているのか、それとも別の何かなのかわからない。大貴は息を吸い込み、背筋を伸ばした。
「そうです。事故でした」
あっさりと、大貴が拍子抜けするほどに深雪は認めた。だがそれだからこそ、深雪が嘘をついていると大貴は見て取った。
「火薬の量を誤ったようです。その結果、智美が巻き込まれました。智美は今の私のような役割を買って出ていたんです。つまり、案内役のようなものです。どうやらここは町と村をつなぐ新しい道路を建設する予定の場所。にするつもりらしいです」
不気味なぐらい深雪は淡々と語っている。その言葉に覇気はなく、苦々しげでもある。
「智美も地質調査ということで案内したのですが、すでにいくらかの下準備を整え工事を始めるつもりだったのです。それに巻き込まれて、智美は死にました」
「……智美さんは、悟くんのお姉さんですよね」
深雪の弟が裕紀、愛の弟が勝也、真弓の弟が圭介、となると残るは悟だ。あの時は遠目からでよくわからなかったが、あの四人の中では一番おとなしそうな印象を受けた。その時はその程度の印象だったが、今ではその印象が不自然に思える。
「言いたくはないんですが、それでは、智美さんはこの計画のせいで―――」
殺された。大貴はその言葉を飲み込んだ。口に出すと取り返しのつかないことのように感じられたからだ。それに、口に出さずとも深雪には通じた。深雪も眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべている。
「……そう、考えている人もいます。それでも、この村の上層部はそんなことを考えていません。見方によっては確かにそう見えてしまいます。でも、やっぱり事故なんです」
何故だかわからないが、深雪はそれに固執しているように感じられた。是が非でも事故にしたいかのように。それを語る深雪はそれまでとは違う。村を案内するように喜々としているわけでもなく、無邪気な笑みを振りまくわけでもなく、かといって暗い瞳に身をやつしているわけでもない。
いや、身をやつしていることに疑問の余地はない。まるで自分を責めるかのように、事実を否定するかのように。微かに呼吸が乱れているのがわかる。
「この事業が三年も遅れた事件というのは、それだったんですね」
「ええ」
大貴が話を進めると、深雪も呼吸を整えようと静かに深呼吸をした。
「ですが事業再開は決定したようです。それは大貴さんがこの村を訪れたことでもわかります。それに、村のものの反対意見も多くはありませんしね」
「それで、いいんですか」
「えっ?」
「それでいいんですか。事業が再開されても」
大貴は自分が言っていることを理解している。それが自分の本来の仕事から矛盾していることに。自分の本来の仕事はこの事業についての記事を書くことだ。つまりは、この事業の促進効果も期待されている。
「再開されれば、多くのものが失われるんじゃないですか? 深雪さんが大切にしているものも、他の人たちが大切にしているものも。それでもいいんですか」
大貴の脳裏には深雪の寂しげな顔が浮かんでいた。思い起こしてみると、深雪は気がつくと寂しそうな表情をしていた。無邪気な笑みもたくさん見てきた。それでも、その寂しそうな表情は他のどんな表情よりも、ずっと深雪に沁みこまれていた。
「それに、智美さんだって―――」
「いいんです」
小さく、だがきっぱりとした声で深雪は言う。
「もう決まったことです。私は、もう決めましたから」
「でも、」
「大貴さんは大貴さんのできることをしてください。これはもう、私の力ではどうしようもない。ただ、それだけです」
そこに見えた深雪の表情は、やはり寂しげであった。深雪はゆっくり目を閉じると、何かを回想するように息を吐いた。長い睫が光っているように見える。泣いているのだろうか。
深雪はくるりと背を向けると、すたすたと歩き始めた。その先には古ぼけたベンチがある。深雪の意図を察し、大貴もベンチへと足を向けた。三人掛けのベンチ。もうどれだけ使われていないのだろうか。もとの色がわからなくなるぐらい、それは風雨に晒され朽ちている。直接座るのに抵抗がありそうなものだが、深雪は迷わずに腰かけた。大貴は少し迷ったものの黙って隣に腰かける。
「すみません。また辛気臭くしてしまって」
「気にしないでください。それよりも、まだこの村で語っていないことって」
「ええ、それじゃあどこから話そうかな」
「この村が町との交流を絶っているところを教えてくれませんか」
商店街で話していたことだ。有耶無耶になっていたが、これはずっと気になっていた。交流が難しいのではなく、交流を絶っている。
「そうですね。わかりました」
大貴の顔を直接見にくいのか、深雪は視線をまっすぐに向けている。大貴もそれに倣って深雪の横顔から目を外した。
「政策のようだ。大貴さんはそう言いましたね。それはあながち間違っていないんです。この村は独自の文化を築いてきたといっても過言ではありません。それは交流がなかったからだけではありません」
「といいますと」
深雪は中途半端に沈黙を保った。どうやら言いよどんでいるようだ。
「これも昔の掟が影響しています。というよりこれから話すことは掟の名残だと考えてください。真弓の役目が生贄の選出から神社の維持に変わったのと同じです」
「もちろんわかっています」
話してください、と言って大貴は話を促した。
「……過去この村は隔離され、多くのものが生贄に捧げられました。それは怨みとなって、町がこの村の存在を忘れても村に残り続けました。しかし、この村に復讐を実行するほどの力はありません。身分の低い者たちが作った村です。当然に教養も十分ではありませんでした。大貴さんならどうしますか? 力の強いものを相手にするときは」
思いがけない問いを振られ大貴は眉をひそめた。
「どうすると言われても…地の利を利用するとか、勝っている部分で勝負するとかじゃないですか」
「個人ならその方法は通じるかもしれません。必ずしも強いものが勝つわけでもありませんからね。ですが行うのは勝負ではなく、復讐。ただの喧嘩ではありません。正直、先祖たちがどのような復讐を果たすつもりだったのかわかりませんが、彼らが採ったのはまさに政策でした。彼らは村民ひとりひとりに役割を与えたのです」
「役割?」
「はい。そしてそれぞれに確実に実行させました」
それは、どういうことだろう。言葉は違うが、それはどこでも行っていることではないだろうか。大貴がこの村に来ているのだって、記事を書くためだ。その役割が与えられ、そしてそれを確実に実行しなければならない。それほど常軌を逸しているわけではない。
「もちろん。ただの役割ではありません」
大貴の心情を読み取っているのか、深雪は大貴の疑問を打ち消した。そして、理解しがたい事実を大貴は突きつけられた。
「この村をひとつの生物として考えるとわかりやすいと思います。この雨乞いの村をどこまでも成長させるために、村民は役割をこなしていく。もちろん、この成長というのは復讐を果たすための力です」
「…よく、意味がわかりませんが」
「簡単に言いますと、この村のすべてを復讐のために費やそうと考え、そして実行したのです。私の家系は先祖代々畑仕事を役割として与えられました。そして、愛の家計は先祖代々定食屋を役割として与えられました」
「それが、復讐になるんですか」
畑仕事や料理で復讐を果たせるのなら、これほど簡単な復讐はない。予想通り深雪はかぶりを振って続けた。
「これは村民を選別した結果です。村が大きく、強くなるためには村民が訓練するだけではありません。戦でも、勝つためには策を練り、兵糧を蓄え、士気を上げます。ゆえに、もっとも適正とされた職業をあてがわれたのです。もちろん、運動能力が優れていた家系は、訓練をしていたそうです。しかし時代の流れと共に、復讐よりも村の維持に重点が置かれるようになりました。訓練をしていたものたちは、時代の流れによって新たに生まれた職業に就くことになりました。鳶や土木業者、クレープ屋などです」
だから、この村に同じ店はないのだ。それぞれが与えられた役割を担っている。もちろん、時代の流れと共にいくらかは職種が増え(当時にクレープ屋があるとは思えない)規模も変わっているのだろう。
それでも、解せないことはある。
「深雪さん。なら何故この村は交流を絶っているのですか。今でも積極的に交流をしているようには感じませんよ。それなのに、何故町の文化がこの村に入っているのですか」
文化というほどではないかもしれないが、クレープ屋や奇妙な家。あれらを村独自に考えたとは思えない。それに村だけで完結しているにしては統一感にあまりに欠けている。ちぐはぐなつぎはぎのような印象を受ける。つまり、町の情報はこの村に流れている。それも昨日今日ではない。
「さっきも考えていました。この村には町との共通点が多いですが、それでいてどこか違う。村に町の情報が流れているのは確認するまでもありません。しかし、町に村の情報は流れていない。それこそ、人口ですらも」
いつしか大貴は正面を向くことを忘れていた。顔ごと体ごと、深雪を凝視している。体が前に乗り出さないよう、自らを抑えているほどだ。瞳には深雪を逃さぬように、威圧するような力をこめているのが自分でもわかった。
「それも、役割です」
はっきりと、さも当然のことのように深雪は言った。おそらく大貴の疑問を予想していたのだろう。深雪の頭の中では、これから話すこともすでに順序だてて整理されているに違いない。そんな風に大貴が考えるほどに、深雪は平静な表情を貼り付けていた。
「村の情報を町に流さないこと。これは村民全員が課せられた役割です。当然のことながら、敵にこちらの情報を教えてはなりませんから」
深雪の「敵」という言葉を聞いて、大貴の胸が痛んだ。その敵の一人に、自分は入っているか。そう尋ねてみたかったがぐっと堪えた。
「そして、村民の一部に課せられた役目に、町の情報を把握してくるというのがあります。この役目を課せられた村民は、山を越えて、町に侵入して情報を得てきました。これは任務、運命と表現したほうがいいかもしれませんね」
平静な顔で話していた深雪が、そこではじめて表情を変えた。その表情は意図的にというより、隠そうとしているのに現れてしまった、という感じだ。
嘆いている。そんな印象を受ける。悲しいとか、寂しいとかいうのではなく、嘆き。
「村の中だけで、町を超えることはできません。鎖国の縮図といっていいと思います。ただひとつ違うのは、私たちはあの愚かな政府と違い、敵から多くのことを吸収してきたということです」
「まさか、そんなときにも…」
「はい、その時代にはすでにこの制度が確立していました」
これでようやく合点がいった。これほど町から離れていながら、この村は村らしくない。ところどころに町としての空気を感じ、それでいて町ではない。村としての空気を感じることもできるが、やはり村ではない。
どこかちぐはぐな、噛み合わない違和感。それは的外れではなかった。シーソーのように安定しない居心地の悪さはこれであったのだ。そして、もうひとつの謎もこれで解ける。
「閉じこもっていたわけでは、ないんですね」
重い口調とは裏腹に大貴は苦笑していた。この話題を口にしようとした時から身構えているのがわかる。真弓と話しているときも、自分は取り乱していた。その大貴の声の質の変化を感じ取ったのか、深雪は微かに瞼を震わせた
「町に侵入したのは、どんな人たち、どんなことを目的にしていたんですか」
「……はじめはとにかく復讐のつもりでした。でも、すぐに自分たちの無力に気付きました。当然と言えば当然ですよね。それまで生きるのにだって精一杯だった人たちなんですから。それに気付いてからは、村を強くする方向へと変化し、いつしか生活をより潤す方向へと変わっています。だから、今ではほとんどの人が町に行きます。定期バスもありますから、以前のように山を越える必要がありませんからね」
「ということは、定食屋の店主が町に行っても不自然は無い。ということですね」
「そうですが…」
ここで深雪はようやく大貴のほうを向き、不思議そうに頭を傾けた。思考を辿るように目をくるりと回す。
「町の味に似ていましたか?」
心持ち自身が無さそうに深雪は言う。大貴はかぶりを振った。
確かにそれもある。これは町で通じるだろうなとは考えていた。よくこんな味を村の中で出せたものだ。逆を言えば、何故村の味がこんなにも表れていないのだろうと。だが、それではない。それはきっかけにはなったが、本当に知りたいのはそれではない。もうそんなことどうでもいいとさえ思っている。
「町に出れば多くの人と知り合いますよね。今まで知り合ったことのない人たちとも」
「そうですね。私もはじめは戸惑いましたが」
「例えば、どんな人がいますか」
大貴が何を言いたいのかまだ把握できず、深雪は口ごもった。それでも言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「料理人なら、たくさんの店で料理を食べますから、やっぱりそれ関係の人が多いと思いますけど。それに、何も料理だけではなく、他の、町の雰囲気を味わおうと考える人もいるので、全く関係のないところにもいきます。ですから、はっきりとは」
「なら、」
唇を湿らせ、おそるおそる言葉を押し出す。
「外国人と知り合うのはもちろん。恋仲になるのだって、できますよね」
湿り気を帯びたような声は、それでも深雪の耳にしっかりと感触を残した。蒼白とまでいかないが、間違いなく動揺しているのがわかる。大きな瞳をそれまで以上に見開いている。
「愛の祖父が恋仲になり、そして村民は二人を追い出そうとしました。これがどうにも理解できない。二人の恋路を邪魔するのであればもっと別の方法を考えるんじゃないですか」
さらに、これまでの深雪の話を聞いていて確信することができた。
「この村は町に情報を漏らすまいとしていたはずです。それなのに、なんで追い出そうとしたんですか。愛の祖母がこの村に入ったのは事実なのでしょう? なら、村についていくらか知っていたんじゃないですか。それこそ、歴史についても」
深雪は沈黙したまま大貴の問いに答えない。だがそれこそが答えのようなものだ。おそらく愛の祖母はこの村の歴史を知ってしまったのだ。そしてここからはさらに想像によるが、愛の祖母は村から出ようと考えたんではないだろうか。歴史を知り、恐怖したのではないだろうか。大貴がそうであったように、自分が復讐の対象となっていると考え疑心暗鬼に陥ってしまったのではないだろうか。
「愛の祖母は、本当に自殺だったんですか」
太陽はすでに傾き西の空に隠れ始めている。残り火のように世界を赤色に染めている。それは人間も例外ではない。深雪の顔は太陽の光を受け赤く染まっているはずだ。それなのにその顔は白く、能面よりも蒼い。大貴の目はじっと深雪を見据えている。それは睨んでいるといってもよかったかもしれない。それほどに大貴はこの問いの回答を求めている。
「そして、殺したのは誰なんですか」
その言葉がきっかけだったのか、深雪の瞳から雫が零れ落ちた。なんの前触れもなく、それは頬を流れ、顎を伝い、地に落ちた。
「す、すいません」
深雪は慌てて顔を隠し目元を拭った。静かに流れ落ちた雫は染みのように地面に跡を残していた。ここは乾燥しているのかな、などと大貴は考えていた。いや、考えたかどうかもわからない。今の大貴の心は罪悪感が溢れていた。深雪が何故涙を流したのかわからない。その涙が何を意味しているのかわからない。それなのに、大貴は自分がやってはいけないことをしたような、超えてはいけないラインを超えてしまったような、そんな居心地の悪さを感じていた。ただその染みの跡をぼんやりと眺めていた。
「私も、その時のことはよく知らないんです」
背を向けたまま深雪は言った。
「ただ、大貴さんの言っていることが、的外れだとは、思いません。やはり、この村には私たちですら知らないことが、たくさんあるんです」
深雪が本当に知らないとは思えない。しかし、これ以上突っ込んで話すこともできない。あの涙を見た後では、何をするにしても、大貴がこの村にいることでさえ、それは罪のように思われてしまう。それでも、知りたいこと、知るべきことはたくさんある。
今朝、真弓と二人で何を話していたのだろうか。今話したことは表の話なのだろうか。それとも裏の話なのだろうか。真弓はともかく、深雪はすべてを話すのに抵抗があるようだった。悟が気にするとはどういうことだろう。梅に何故あんな言葉を返したのだろうか。あの言葉に一体どんな意味をこめていたのだろうか。そして、おそらく愛は真実を知らされていないのだろう。祖母は自殺したと、そう教えられている。周りに騙されて、この村を大好きだと言っていたが、それすらも作られた感情。雨乞いの村という偽りで固められた村の創造物。
そう考えると大貴の奥底からふつふつとにじみ出てくるものがあった。それは底にたまった泥が揺さぶられ水面に現れてくるかのように、それまでの清らかな水を簡単に黒く濁してしまった。それまでの罪悪感も霧散し、代わりに沸いてくる濁った感情。その中で、愛が笑っている。
彼女がどんな思いで笑っていたのか痛いほど伝わっていた。本当にこの村のことが大好きで、きっとこの村の誰よりもこの村のことが大好きで、とびっきりの笑顔をみせていた。それなのに、その笑顔は作られたもの。真実を知らないからこそ笑っていられる。それをみて誰も何も思わないのだろうか。愛を騙し続けて何も思わないのだろうか。そう、今隣に座っている深雪も、何を思って愛を今まで見ていたのだろう。
「愛さんを騙しているんですね」
言葉に棘がこもっていることが自覚できた。それでも、そんなの気にならなかった。誰にでもいいからこの感情をぶつけてしまいたかった。コップの水がいっぱいにたまり、表面張力でやっとこさこらえている。少しでも力が加われば取り返しのつかない水が零れ落ちてしまう。
「そんなつもりなんて、ありません」
「ならどんなつもりなんですか!」
歯を食いしばり怒鳴りつけていることに気付いたときは、もう遅かった。深雪が目を丸くし大貴を見上げている。大貴はこれ以上ないぐらいにこめかみに力をこめ、自分でも信じられないぐらいに深雪を見下ろしている。奥歯はきりきり鳴り、拳を握り締めている。そのまま勢いに任せ二の句を継ごうと口を開きかけたが、ふっと大貴の動きが不自然に止まった。
深雪の瞳から再び飽和寸前まで涙が溜まっていた。いや、もうすでに流れ落ちている。先ほどの静かな涙とは違い、それはどんどん洪水のように勢いよく流れている。深雪はそれを隠そうともせず、ただ流れるがままにし、じっと大貴を見上げていた。
「………っう……あう」
涙はとどまるところを知らず、ついに深雪は嗚咽を漏らし始めた。腰を曲げ小さく丸くなっている。自分の細い体を大貴が心配になるぐらいに両手で抱きしめている。それは必死で全身の震えを抑えているようにも見える。それでも抑えきれていない震えはその小さな肩に表れていた。子供が家の隅で泣いているように弱弱しく、すぐにでも壊れてしまいそうだ。
「深雪さ―――」
「そこをまっすぐ!」
大貴の言葉を遮り、深雪は叫んだ。指を差したその先を大貴は目で追う。深雪の態度の変化にほとんど反射的に視線を向けた。その先は来たところとは違い人が通れるように草が刈られている。
「すぐに村にいけます。学校の裏から出てこれます」
「…えっと」
「ひとりに、してください」
ほとんど懇願のような深雪の叫びに、大貴は抗おうとも思わなかった。ただただ頷き、次の瞬間にはもう体がそちらに向かっていた。思考が麻痺していたのかもしれない。それとも、深雪の涙に我を忘れてしまったのかもしれない。はたまた、慣れない濁った感情に支配された副作用であったのかもしれない。
どれであったとしても、それに大きな違いはない。この光景を藪の中から隠れ見ていた少年がいたのを大貴はおろか、深雪も気付くことはなかった。その少年は二人が離れていくのを見届けると、さっと音もなくその場を離れていった。




