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 僕は手を伸ばした。

 大事な物を失ったような、裏切られたような、何か途方もない衝撃を受けたように目を限界まで見開くアミアに。

 ヒマリの言葉は純粋な感情に溢れていた。ただ素直に気持ちを届けた。誰にだって、冗談なんかじゃないと分かるくらいに。言葉の意味を理解するまでも無く、声音だけで全てが感じ取れた。


 アミアにだって。


 手を伸ばして、何を掴みとろうと言うのだろう。

 絶対に届かないのに。

 僕の手に気が付いて、アミアは肩を跳ねさせた。得体のしれない物に怯える子供みたいに見えた。

 僕の手が震える。アミアも様々な感情の波紋がその瞳を揺らしている。

 アミアは口を引き結んで、弾かれたように駆けだす。ドアが大きな音を立てていきおいよく閉められた。


 しんと沈黙が降る。僕は手を下ろす。

 気温が一気に下がった気がした。


「……な、なに。今の」

 アミアの姿が見えないヒマリにはドアが勝手に開いて閉じたように見えたはずだ。さっきまでの雰囲気はどこかに消えて、ただ異常に驚くヒマリがそこにいる。

 ヒマリはそれから僕を見て、ぎょっとした。

 僕はどんな顔をしているのだろうか。どうでもいい。

 どうでもよかった。

「ナギサ……?」

 色んな疑問を()い交ぜにして、ヒマリは首を傾げた。

 謝ろうとして、声が出なかった。(うつむ)いて、何も掴めなかった手を握りしめる。その手の甲に雫が落ちた。

 雨漏り……? 上を見上げるとそんな様子は無い。代わりに、頬に熱い感覚。

 涙だった。

 ああ、だからヒマリはびっくりしたのか。


 雨音がくぐもって聞こえる。

「私……帰る、ね?」

 おずおずとヒマリが言った。

「待って」

 立ち上がりかけたヒマリを引き留める。

 気づかないふりをし続けた報いがここになってやってきたわけだ。僕がなんとかするべきだろう。……なんて白々しく、良い奴でいようとするわけだけど。

 僕が全て悪い。それだけだ。責任は全て僕が被る。

「――全部話すよ」





 ――話し始める。

 あの日出会った時から、こうしている今までを淡々と。

 僕は手の甲に向けて言葉を投げていたし、ヒマリは雨を眺めて横顔で聞いていたから、どんな事を感じているのかお互いに分からなかった。

 ――話が終わる。

 雨の音が戻ってくる。

 ヒマリは何も言わなかった。僕は何も言えなかった。ヒマリが口を開かない限り、僕に何かを言う資格は無い。

「ナギサは」

 ぽつんと呟かれた言葉から、感情を読み取ることは出来なかった。

「アミアちゃんが、好きなの?」

 僕は一瞬思考する。「……分からない」

 少しして、ヒマリはぐっと手を前に伸ばした。

「……私、帰るね」

「……うん」

 僕はふらつく体を抑えながら立ち上がる。動いちゃ駄目だよとヒマリは言って、玄関までだからと僕は答える。

 ヒマリが靴を履いている。ぱらぱらと雨が耳についた。

「傘、貸そうか」

「ううん、いい」

「そう」

 僕は――がくがく震えそうな口を無理やり押さえつけて、ごぼごぼ溺れそうな喉から声を絞り出す。


「僕は、ヒマリの事が、好きだよ。でも、それは、家族みたいなもの、なんだ」


 吐きそうになる。

 気持ち悪かった。

 胸が張り裂けそうだった。

 どうして、こんな。


 ――だから。僕は告げる。


「ヒマリとは……友達でいたい」


 泣き出しそうな顔で、ヒマリは僕を見た。

 うん、と頷く。

「そう、だよね……うん。うん……」

 ごめん。僕は心の中で言う。

 胸が痛い。押しつぶされるように痛い。でも、痛みが欲しかった。僕を殴り飛ばして、刃物を突き刺して、炎の中に突き落としてほしかった。

 叫びたい。どうしようもない胸の内を全てさらけ出したかった。

 ヒマリが笑う。酷く(もろ)く壊れそうな笑顔。

「じゃあ、帰る、から。……今日のことは忘れて?」

「うん」

「またね」

「……気を付けてね」

 その姿がドアの向こうに消える。





「――ぁあ……っ!」

 途端に僕はうずくまる。嗚咽(おえつ)が静まった玄関に落ちる。

 もどかしくて悲しくてどうにもならない非情さが憎くて、僕は()れた声で叫んだ。

 ――ごめん。

 ヒマリはずっと歯の奥を噛みしめていた。気づかないわけが無かった。今まで一緒にいた時間が、鮮明に彼女の気持ちを告げていた。

 歯の奥を噛みしめるのは、涙をこらえる君の癖。

「――ごめん……ごめん……ごめん!」

 せき止めていた何かが崩れて、涙が溢れた。

 謝ったって何も変わらないのに。

 ドアの向こうで、ヒマリも同じようにかがみこんでいるのが分かる。

 雨が冷たく僕らを囲む。


「ごめん――ずっと……、ずっと――好きだった」





 ――僕は家族以上の感情を持つ相手に、ただ謝り続けていた。





 ――ヒマリには、初めてであった時から惹かれていた。今から思うと、だけど。

 あの頃はお互い小さくて、気になることといえば夜ご飯はなんだろうとか、喧嘩した子にどうやって謝ろうとか、そんな微笑ましいただの子供だった。

「ヒマワリじゃないよ! ヒ―マーリーだーよ!」

 幼いヒマリが僕に頬を膨らませる。

「ひ、ヒーマーリーちゃん?」

「ちがーうの! ヒマリ! 私ヒマリ!」

「ごめん、ヒマリ……ちゃん」

 満足そうにヒマリがにっこり笑う。

「いいよ! ねぇ、お名前何て言うのー?」

「ぼく? ぼくは……ナギサ」

「ナギサくんね! よろしく! ナギサくん!」

 向日葵みたいに眩しい笑顔で、彼女は僕に手を差し出す。


 五歳くらいで近くに引っ越してきてから、ヒマリはいつもエネルギーに満ち溢れていた。

 思いきり遊んではしゃいで、喜んで、怒って、泣いて、笑っていた。

 僕にはそれがたぶん、鮮烈だった。僕が持っていない所を全部持っているような気がして羨ましかった。

 ヒマリの隣にいる。それだけで僕まで明るくなれるようで、心地よかった。


 いつしか僕はヒマリをヒマリと呼ぶようになって、ヒマリは僕をナギサと呼ぶようになった。

 ヒマリはよく僕に遊ぼうと手を差し出した。

 僕が普段通りの時も、落ち込んでいる時も、変わらずに笑いかけてくれた。

 どれほど救われていたか分からない。

 ああ、まだそのお礼も言っていない。


 小学校でタクローと出会って、三人で遊ぶようになった。もちろん他の人と遊ばなかったわけじゃないけど、二人の方が繋がりは深かった。


 いつからだろう。

 ヒマリを意識し始めたのは。


 高校生になってからじゃないかと思う。詳しくは覚えていない。ある時、あれと疑問に思ったのだ。

そういえば。

 授業を受けながら、寝転がりながら、家事をしながら、ご飯を食べながら。

 僕はいつもヒマリの姿を追っている。

 それは現実に視線を動かしていたり、夢の中だったり、想像の姿だったりした。

 頬に触れてみた。

 熱を帯びていた。

 ――ああ。

 はっと気が付く。

 ――僕はヒマリが好きなんだ。

 胸が弾んだ。

 ――ずっと、そうだったんだ。

 ヒマリとはよく目が合った。遊んでいる時や、授業中や、それ以外の小さな時間にも。その度に頬を染めて、ぎこちなく彼女は目を逸らしていた。薄々勘付いていたけど、今まで気にしたことは無かった。

 ――もし、ヒマリも同じように思っていたら?

 どうしようもなく胸が高鳴った。頬が緩むのを抑えきれなかった。

 伝えてしまおうか。そんなことを思って、仕方のない奴だなと自分を鼻で笑った。だって向こうがそう思ってる確信なんてないだろう?

 僕は自分に答える。そう思ってるかもしれないじゃないか。

 決めた。機会があったら言おう。

 その先を妄想して、一人でにやけたりしていた。


 ――これが少し前までの話。


 ある事情が、そんな僕の気持ちを無慈悲にぶち壊した。





 ――僕は鏡の前に立つ。

 笑えてきた。

 頬はこけて、やつれた顔で、目は心なしかくぼんでいる。

 これが僕か。

 体調は悪化の一途を辿っている。

 家の中は静まりかえっていた。明かりも点けず、暗いリビングへ歩く。

 沈黙に押しつぶされそうだった。

 これほど静寂は耐えがたいものだったか? そんなことは無かった。小学生の時、母さんが亡くなってから十数年、僕は父さんが返ってくるまで、ずっとこの静寂の中で過ごしていた。

 アミアが来るまで。


 リビングには写真が飾ってある。

 母さんが亡くなる少し前の写真だった。

 髪に手を当てて控えめに笑う父さん。屈託なく無邪気で、嬉しそうな僕。そして、僕を見て柔らかく目じりを下げる母さん。

 体調を崩してばかりいた母さんが、珍しく元気だった頃の写真。

 写真を撮った後、急に倒れてすぐに入院することになった。

 医者は分かりませんと言った。この症状は前例がありません。


 この病気の特徴は一つ。


 母さんの瞳。


 その瞳は、(あお)い。


 暗くて深い海のように、ただ蒼い。


 それが、この悪夢の原因。


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