ぱりん
目を開けると、すやすやと眠る寝顔が目の前にあった。僕の胸の上でアミアは穏やかな寝息を立てている。
そっと体を起こすと、アミアは目を覚ました。
「えと……ナギサ、さん。ナギサさん――ナギサさん! お体は大丈夫なんですか!?」
アミアが身を乗り出してくる。
「平気だよ」僕はにっこり笑って見せる。
「良かった……! 心配しました……!」
アミアは目元の涙を拭う。そこまで心配していてくれたのか。
時間を見ると、もう少しで明け方だった。
「ねえアミア。ちょっと外に出ない?」
「まだ安静にしていた方がいいですよ……? 風邪なんですから……」
風邪と思われたのか。
僕の不安がどっと掃われる。代わりに眠気が迫ってくるけど、今は眠りたくない。
「ちょっと海に行くだけだよ」
アミアはあまり気乗りしないようだったけど、最後には頷いてくれた。
海は、昨日の喧噪が嘘みたいに静まり返っていた。ただ波の音と、風だけが僕らを通り過ぎる。砂浜から見る海はまだ黒い。
「アミア、心配かけてごめんね」
「気にしないでください。今は大丈夫なら、良かったです」
僕は頬を掻く。
「……実は、少しまだ体がだるいんだ」
「え、なんで言わなかったんですか!」
僕はごまかすように、岩場に落ちているビンを拾い上げてコルクを抜く。手紙には、想像した通りの言葉が書かれていた。
「なんですか? それ」
僕は答えず、指を伸ばす。
「あれ、見て」
引っ張られるように、僕の指の先にアミアは視線を移す。
息が止まるような朝焼けがあった。
光が海に弾かれて、僕らの顔を照らす。たまらず目を細めて、手で影を作る。もう一度目を開くと、海の上に広がる眩しい朝日が飛び込んできた。
さざ波はちろちろと朝日を映して、暗い海を明るく染め上げる。この時、この場所から、僕には世界が色付き始めるように感じられる。風が朝の光を運んで、町の隅々に届けて回る。鳥が鳴き声を運んで、町に音が咲き始める。僕はそんな想像をするのが好きだ。胸が澄んで、気持ちが明るくなる。
「アミアに見せたかったんだ。この景色を。……凄いでしょ?」
放心しきった表情で、ただ眩い朝日に視線を注ぐアミアに、感想を求めるなんて野暮だろう。
このままずっと、世界が止まってしまえばいいのに。
でもそんなことは起こらない。魔法は解けるし、日は沈む。
空もまっさらな青とはいかなくて、雲が多い。風からすると、今日は雨が降るかもしれない。
「アミア、もう一つ」
「何ですか?」
僕は手紙を見せる。
「君のお母さんから」
手紙には、居場所を知らせてほしいという事と、定型のような感謝の文が流麗な字で書かれていた。
アミアは実感が沸かないようだった。朝食を食べている時も、いつもと違ってぼうっと口に運ぶだけ。
それなりに覚悟していた事だから、僕にダメージはあまりなかった。
ゼロではないけど。
「アミア」
スプーンを持って動かなかったアミアが顔を上げる。
「アミアのお母さんはどんな人なの?」
「……厳しい人です。私が地上に行きたい、っていうことにも反対してます」
アミアはスプーンを置いた。
別れが脳裏にちらつき始める。
僕らはそれ以降一度も手紙の話をしなかった。
食器を洗い終えてしばらくしてから、チャイムが鳴った。
「誰だろう?」
あ、とアミアが呟く。
「そういえば、ナギサさんのお父様が『しょうがない……助っ人呼ぼうかー』って言ってましたよ」
「助っ人?」
仕事でいなくなる父さんの代わりに、ってことかな。近所の人だろうか。確かに家事をするにはまだ少し辛いものがあった。
僕はドアを開けて、そして見慣れた顔にうろたえる。
「――やっほー、ナギサ!」「来てやったぜ!」
「ヒマリにタクロー! どうして?」
二人は楽しそうに顔を見合わせた。
「ナギサのお父さんから電話があったんだよ」
「あ」助っ人、ってこの二人だったのか。
「今日は俺たちがお前の仕事ぶんどってやるからな!」
「それだと私たち悪いことするみたいになっちゃうよ!」
僕らはそうして笑い合う。
確かに、気の知れた仲間の方が気は楽だ。でもよくそれだけで電話をかけられるよなぁ父さん。どこか抜けた所もあるし、もしかすると何も考えず頼んだのかもしれない。頼りになるのかならないのか。
「じゃあ悪いけど……お願いしようかな」
ほんの数分前の僕は、やっぱり熱で頭が回っていなかったんだと思う。
「……なあナギサ。洗った食器二つあるんだが?」
「あ、えーと昨日の夜食べてなかったからさ、その分だよ!」
「コップはどうして二つあるの?」
「ふ、二つ分のお茶が飲みたくて」
「……一つのコップにまた注げばいいんじゃ?」
「そ、そそそうかー、その手があったかー」
我ながら酷い誤魔化し方だ。
アミアのことまで考えてなかった……!
二人は渋い表情をして、「これは本格的に不味いんじゃねえか……?」「そうだね……」とささやきあう。アミアはひたすらに手を合わせて謝っていた。いや、これは僕が悪い。どうにかして、誤魔化しきらなければならない。
たとえ僕の尊厳が地の底に落ちようとも。
「ナギサ? すっごく暗い顔してるよ……?」
「ああ、これからどうやって生きようかなと思って」
「風邪くらいで!?」
世話が必要だと確信を抱かせてしまったせいで、二人は真面目な顔で家事をするようになった。
寝ていろと放り込まれたベッドにいるわけだけど、二人が動いているのに寝ているのは申し訳なかった。
「あの……休憩にしたら」
「駄目! ナギサ休んでる間に家事しそうだもん!」
その通りだった。
ぐうの音も出ず僕はベッドに倒れこむ。僕の部屋の隅っこには、アミアが神経を尖らせて立っている。掃除の時などに触れられたら面倒なことになるため、さっきからそれを躱すため曲芸師も真っ青なアクロバットを見せている。
「……アミア、ごめん」
「……………………大丈夫、です」
とても大丈夫では無さそうな声が返ってきた。憔悴しきった顔をしている。
……体調。早く治さないと。
「……おい。ナギサお前」
小声で洗濯物を干していたはずのタクローが入ってきた。
なぜだろう。
激しく嫌な予感がした。
タクロー君、その含み笑いはなんだい?
「お前……これ着てるのか?」
取り出されたのはピンクのパジャマ。とても可愛らしくてどう見ても女性用ってああああああああああ。
「ち、ちがっ」
「じゃあ誰が着てるんだよ。お前と親父さんだけだろ?」
ぐっと言葉に詰まった。
アミアのなんだよと叫びたかったけど、無理。
神妙に頷いたタクローの顔には、抑えきれないにやついた笑い。
「まあ大丈夫だ! ヒマリには秘密にしてやるから安心しろって! な!」
安心できるか。
くくくと笑いながらタクローは部屋を出ていく。
熱でなくて別の原因で頭が痛くなってきた。
時間が経って、一番体調が悪そうに見えるのは僕じゃなくてアミアだった。見つからないよう、まるで戦場にでもいるみたいに常に辺りをうかがっていていたせいだろう。
消耗が半端じゃない。鮮やかだった白い髪も、少しくすんでいるようだ。
「アミア……大丈夫、かな」
「…………はい、何か、言いました?」
「い、いや。いいよいいよ。休んでて」
「ナギサー?」
ヒマリがドアをノックして、はっとアミアが飛び退く。
……本当に申し訳ない。
「開いてるよ」
「お邪魔します」
ヒマリはドアを開けて、ゆっくりと閉める。後ろ手に濡れたタオルを持っていた。
「タクローは?」
「帰っちゃった。何か用事があるんだって」
なぜか目を逸らして赤い顔でそう言う。
「ふうん……タクローらしいかな」
笑おうとして、僕は咳き込む。
「駄目だよ寝てないと」仕方ないなぁと笑ってヒマリはベッドの横に膝を下ろした。「ナギサ、上向いて?」
「いいのに、そんなしなくても」
照れくささから、少し笑う。
「いいの」
僕はなんとなくヒマリの顔を直視できなくて目を瞑る。
ヒマリの指先が僕の額に触れた。少し汗ばんだ額に、ほっそりとした指が吸い付く。その指が、ゆっくりと僕の髪をかき分ける。
「ねえヒマリ」
「なに?」
額に、濡れたタオルが乗せられた。結構水っぽい。
「前にも、こんなことあったね」
「そうだっけ」
ヒマリは布団を直している。
「いつだったかな……まだ小さくて、小学生くらいだ。確か……小学三年生の夏だったと思う」
「よく覚えてるなぁ」
「覚えてない?」
「覚えてるけど」
口をすぼめた様子が目に浮かぶ。僕は小さく笑う。
「あの時も海に行った帰りに僕が熱を出したんだよね、やっぱり海に弱いのかな……?」
「単に体が弱いだけじゃない?」
「うわあ……ぐさっときた」
ヒマリの笑い声がくすくすと零れる。
「あの時はタオルの水がちゃんと絞れてなかったんだよね。濡れタオルじゃなくて、びしょ濡れタオルだった」
う、と声が聞こえる。
「今は大丈夫でしょ?」
「七十点」
「もう!」
べしっと腕をはたかれる。
穏やかな空気が流れていた。居心地のいい、僕らの空間。ずっと一緒で、家族みたいに育ってきたから。ヒマリはお転婆で、僕はいつも我が儘に振り回されていた。母さんがいなくなった時、ずっとそばにいてくれたのもヒマリだった。一緒にお風呂に入ったこともあったっけ? ほとんど覚えてないけど。
ふんわりと柔らかくて、この空間にずっと浸かっていたい。
ぽつぽつと音がして、やがてさああ、と紙がこすれるような音になる。
「雨だ」
呟いたヒマリが立ち上がる気配。瞼を開ける。風で広がったカーテンの先に、細い雨が降っている。
「うん、しょ」
窓が閉まると、音が途絶えた。ここに僕らしかいない。そんな事実がありありと浮かび上がる。
僕は体を起こして、ヒマリはベッドの上に腰を下ろす。横顔に薄く紅が掛かっていた。足先を見つめて、ぶらぶらと落ち着かない様子で空気を蹴飛ばしている。
「ねえ……ナギサ」
「うん?」
蕩けた瞳が僕を見つめた。
――びくりとした。全身がぞわりと総毛だった。
見ちゃいけない。もう遅かった。僕は瞳に憑りつかれたように凍りつく。
舌が痺れたように動かない。毒でも回ったみたいに、錠でも掛けられているみたいに、僕は石のように固まって何も言えない。
駄目だ。駄目だヒマリ。胸の内の声は届かない。
逃げ場はなかった。
雨の音は遠くて、窓もドアも何もかも僕たちを隔離して閉じ込めていた。
濡れた真っ赤な唇が開いて。
「私、ナギサのこと……好きだよ」
――アミアの視線が僕を貫く。
何かが、割れた。