お風呂場お誘いディスタンス
アミアがお風呂に入っている時、父さんが帰ってきた。
最悪のタイミングだった。
「おーい、ナギサー。風呂入ってんのかー?」
心臓が跳ねる。
「う、うん。今日は早いんだね。仕事は?」
「今日は早く帰っていいってさー。課長に感謝だなー」
「ちょっとその課長に魚でも投げつけてやりたいね」
「うん? なんか言ったか―?」
「う、ううん、なんでもない」
「そうかー。ナギサー、着替えてるなら父さん風呂入っていいか―?」
「ぐぅぇっ」
「今凄い声したけど大丈夫かー?」
咳き込みながら僕はかつてない窮地に陥ったことを感じていた。
状況を整理しよう。
まず僕はアミアのために脱衣所に控えている。
そこに父さんが帰ってきてしまった。父さんが帰ってきた時、父さんをお風呂に行かせないために僕はここにいたわけだけど、まさか本当にこんな事があるとは思っていなかった。
そして後ろには忘れちゃいけない人がいる。
ご存知アミアです。
アミアがお風呂に入っているこの状況で、父さんをお風呂に行かせるわけにはいかない。
どんなことが起こるか想像もつかない。
夜になって涼しいはずなのに、嫌な汗が止まらない。
「ナギサさん、どうかしましたか……?」
小声でアミアが聞いてくる。
「うん、誠に言いづらいんだけど……父さんが帰ってきちゃってね」
「え」
絶体絶命だった。
「ど、どどどどうしますか」
「どうしよう……!?」
「おーい、どうしたんだー」
「な、なんでもないよ」
「なんか声が震えてるぞー? ……あ、ビブラートの練習か?」
そんなわけあるか。
「父さん入っていいかー? もう着替えは終わっただろー」
「えっと……っ!」
どうするどうするどうする!
脳はこれ以上無いくらいに回転していた。
限界を超えているのか知らないけど、周りがスローモーションに見えてきた。
粘つく時間の中で、僕は一大決心を迫られる。
「く……そう」
使いたくなかったけど……もう最終手段しかない。
「ごめん! アミア!」
僕は目を閉じたまま浴槽のドアを開け、そのまま入って思いきり閉めた。
僕がドアを閉じるのと、父さんが脱衣所のドアを開けるのは同時だった。
「なんだナギサー。また入ったのかー?」
「う、うん、ちょっと寒くなってさ」
「そうかー風邪でも引いたのかー? さっき声も震えてたしなー」
「そ、そうかもしれない! だからもう少しゆっくりしてくよ!」
父さんは脱衣所で、洗濯物をかごに放り込んでいる。
早く出ていってくれ……!
心臓はさっきからどくどくとうるさいし、背筋が粟立ったようにぞわぞわする。後ろにアミアが立ったまま硬直しているから。
それに加えてさっきぎゅっと目を瞑っていたはずなのに、気を抜くと思考の片隅にちらつく。
誰のとは言わないけど、すらっとした白い肌が。
お湯に浸かっているわけでもないのにのぼせそうだ。
「ナギサー、洗濯物いつも悪いなー」
「大丈夫! 大丈夫だから、できれば早く出ていってくれない!?」
「なんだ産気づいちゃってー」
「それを言うなら色気! いいから早く!」
「おーう」
父さんが出ていく気配がする。僕はほっとしてドアを開けようとして、
「あ、そうだナギサー」
がくりと滑らせた。
「な、何?」
「さっきヒマちゃんから電話があったぞー」
「ヒマリが?」
「それだけだー、じゃあなー」
今度こそ父さんは出ていった。
僕は浴室から転がり出て、うずくまって荒い息を吐く。
酷く疲れた……。
「ごめんアミア……」
返事が無い。
「アミア?」
「っ! は、はい! おはようございます!」
……相当混乱しているようだ。
「とりあえず僕は外にいるから……着替え終わったら言ってね」
「は、はい!」
脱衣所を出て父さんが居間でテレビを見ていることを確認してから、やっとほっと息を吐けた。
「もしもしー」
ヒマリに電話をかけると、待ち構えていたようにすぐ受話器が取られた。
幼い頃から変わらないヒマリの声。誰に対しても明るい、向日葵のような声。
「もしもし、ナギサだけど。さっき電話くれたんだ、よね?」
「あ、そ、そうなのナギサ! えっと、明日予定ある?」
ぼんやりと、ヒマリの声を聞くのも久しぶりだなと思った。実際の所そうでもないんだろうけど、アミアとの時間が濃かったせいだ。
「明日は無いかな」
「良かった……! じゃあ、海に行かない?」
「海?」
「うん、タクローとナギサと私で」
「海かぁ」そういえばヒマリ達と最後に行ったのは、随分前の事だったような気がする。
「うん、ナギサは海……好きでしょ?」
「それはもちろん」
「だよね……! だから、行かない? 嫌だったらいいんだけど……」
声の調子から、電話の向こうでヒマリの表情が沈んでいくのがありありと分かる。
「嫌じゃないよ、行こうか」
急に元気の無くなったヒマリにそう答えてしまう。
やった! じゃあ――と元通り明るくなったヒマリの声を聞きながら、僕は少し胃の底に重い物を感じていた。
部屋に戻ると、アミアはベランダにいて暗くなった外を眺めていた。すっかり気に入ったらしいピンクのパジャマを着て、手すりにもたれ夜の風を受けている。
「アミア」
呼びかけると、「なんですか?」と振り向いた。
「えっと……さっきはごめんね」
ぱっと顔が真っ赤に染まる。「い、いえ! お気になさらず!」
お気になさらずというのは難題だ……少し落ち着いた今でも、ふとした時に思い出してしまうというのに。
アミアはうつむいて指をもじもじといじっている。
それだけなのに、僕の目には湯気の奥にアミアが立っているように見える。その真っ白い肢体が湯気の奥に見えるような――
僕は思わず目を逸らした。
「え、え?」
アミアが訳も分からずびっくりしている……と、思ったら「あ」と呟いた。
どきりとした。
どうか勘違いであってくれ……!
「もしかして……見たん、ですか……?」
そう言われた瞬間、僕はある種の悟りを開いたように感情を失っていた。
終わった。
ただその実感だけがあった。
目の前が真っ暗になったとはこういうことか。
「……申し訳ありませんでした!」
せめて誠意だけは見せるべきだと思って、僕は膝と手と頭を床に付ける。
土下座です。
……もっと早くするべきだった。
「本当に申し訳ありません……我が生涯を尽くす所存でございます」
「えっと……だ、大丈夫、ですよ」
耳を疑った。
訴えられてもおかしくないようなことをした気がするけど。
「ナギサさんは、わざとでそんなことしないって信じてますし……」アミアはか細く、「それに、ナギサさんになら見られても――」
「え」
「へ?」
顔を上げた僕と、ぽかんとした顔のアミアと目が合った。アミアは自分でも何を言ったかわかっていないようだった。
当然僕は何も言えない。お互い黙っているうちに、段々とアミアは自分が何を口走ったか理解してくる。
「あう……え、と……っ!」
視線をあちこちにさまよわせて、明らかに狼狽しはじめた。
「い、今のは違うんです! 今のは! えっと……っ! うう……も、もう、ばかぁっ!」
アミアは忍者のようなスピードで、ベッドに飛び込んで布団を頭まで被った。
ううう、と可愛らしい呻き声が聞こえる。
「大丈夫だよ、何も聞いてないから」
僕の言葉に、ひょこっとアミアは顔だけ覗かせた。
穴倉にいるウサギみたいだ。涙目だけど。
「本当ですか……?」
「うん、もちろん。僕に見られてもいいなんて聞いてな――あ」
あ、という声がやけに響き渡った気がした。
まずい。
まごうことなき失言だった。
アミアの顔が一瞬で赤く沸騰する。
「うう――$#&*###&%$#っ!?」
もはや誰にも理解できない言語を発して、アミアは布団に潜りこむ。
「ご、ごめん! ごめん!」
「おーいナギサーなんか食い物作ってく……」
ガチャリとドアを開けた父さんが固まった。
「お前……何してるんだ?」
はっと気づいた。
父さんの目に映るのは、僕が誰もいないベッドに土下座する姿。
「こ、これは――」
「……いや、いいんだ言わなくて俺は何も見てないから」強い言葉で遮る。「俺は何も見てない俺は何も見てない俺は何も見て俺は何も」
言葉と共に、父さんは部屋からフェードアウトした。
一体何と思われたのか。
とりあえずと僕は冷静になって立ち上がる。
これからどうなるんだろう。
外からの風が心地よかった。
雄大な夜の空が見下ろしていた。
……そうだな。
……すごく泣きたい。
「そういえば」
アミアがようやく落ち着いてきた頃。つまり夜もすっかり更けきったというかもう深夜。
あまり言いたくないけど、言わなくちゃならない。僕は切り出しにくかった本題に入る。
「はい?」
「明日……友達と海に行くことになったんだ」
アミアは一瞬何のことか分からないような顔をした。
「海、ですか?」
「夏には海に行くっていうのが定番でね。友達と三人で、夕方まで」
だから、明日は一緒にいられないんだ。言外にそう伝える。
アミアは丸い目を大きくした。思っていた以上に衝撃を受けたようだった。
「ご、ごめん、もしあれだったら断っても大丈夫だから」
「い……いえ、大丈夫です。楽しんできてくださいね。私はお留守番してますので!」
さっぱりと笑った。けどその表情はどことなく寂しそうに見える。
そう言われたら僕に反論する言葉は無い。――反論?
僕は我が儘を言って欲しかったのか? 無意識のうちにアミアと一緒にいたいと思っていたのか? 僕はアミア――
違う。やめろ。
そこまで思って、無性に自分を殴りたくなった。そういうことを考えるのは、とても罪な事であるような気がした。
アミアは、視線を斜めに落としていた。
僕は意味も無くちらっと外を見る。
「……ご飯は作っておくから」
僕はそう言って口元を曲げて、顔を笑みに似せる。
「わあ、楽しみです!」
アミアの嬉しそうな表情も、どこか余所余所しく見える。
会話も弾まず、僕らはそのまま眠りについた。