二人の昔話
一旦落ち着こう。
僕は大きく息を吸って、吐き出した。
いくらか冷めた頭で考える。
家の中にいるかもしれないじゃないか……いや。
掛けておいた麦わら帽子が無いのを見て、考えを改める。
外に行ったらしい。
どこへ?
アミアなら、どこへ行くだろう。
「……海かな」
きっと海だろうと思った。
アミアの気持ちも分かるような気がした。焦っていた思考がすっと凪いでくる。そういえば、一人になる時間が少なかったかもしれない。そういう時間も必要だったはずなのに。
打って変わって気分が沈んでくる。泥沼みたいな情けない自己嫌悪。僕は、彼女にむしろ迷惑をかけていないだろうか。
アミアならそんなことないです! なんて首を振るだろうけど。本音は――ああ、いや、こんなこと考えても仕方ない。切り替えよう。
何と思われていても、僕はアミアのために全力を尽くそう。
「……光栄じゃないか。美少女を救うなんてさ」
僕は夕焼け色の海に目を細めた。
「――アミア」
声をかけると、アミアはぴくりと肩を震わせた。
アミアは人がほぼいない海岸の端の岩場に、隠れるようにして座っていた。もう少し行くと、立ち入り禁止の洞窟がある。そこまで行っていないか心配だったけど、良かった。
海には眩しいオレンジの光がちらちらと反射して、潮がさざめく。
アミアは麦わら帽子のつばを両手でひっぱり下げて、顔を僕から隠している。
胸がちくりとした。
「……ごめん」
アミアはぴくりと肩を震わせた。
「どうして……謝るんですか……?」
声が少し掠れていた。
「……おせっかいが過ぎたかな、って。もちろんアミアはきちんと送り返そうと思うけど、その間僕がいなくてもいいんじゃないかと思って」
「そんなことないです!」
強い口調で言って、アミアは勢いよく顔を僕に向けた。
その勢いにのけ反る。
顔が近い。
視線が交わる。
吐息が混ざる。
風が吹き抜ける。
「そんなこと、ないです。ナギサさんがいてくれて私……本当に嬉しいんです……!」
懇願するように、何かを訴えるようにアミアは言った。息づかいまで感じ取れるほどの近さで、僕は気が付く。
その目は、泣き腫らした後のように赤かった。
泣いていたんだと察すると同時、アミアはさっと顔をそむけた。ぎゅっと麦わら帽子のつばを引き下げて、顔を隠す。
「すみません……こんな顔、見られたくなくて」
僕は奥歯を噛みしめる。
アミアは本当に切実な顔を見せていた。嘘なんて言っているとは思えなかった。
違うだろう、と自分を罵った。そんなこと、聞くまでもなく分かっていただろう。アミアの全てを信じると決めたはずなんだから。
時間も無いんだ。こんな事、聞く必要なんてどこにもない。
アミアのために僕がすべきことは――
「――昔、ね」
がらっと調子を変えて、僕は小さな頃を思い出して呟く。
アミアが少し顔をこちらに向けた。横目では相変わらず表情までは見えないけど。
「僕は、魚と話せないかなって思ってた」
「え」鼻をすする音がして、「魚、ですか?」
「うん」僕は夕日を反射する海に目をすぼめながら言う。「お魚さんとお話をしたかった。五歳くらいの時だね」
アミアはぽおっと口を開けていた。何の話だろうと不思議に思う、子供みたいな表情だった。
「水族館に行ったんだ。小さな水族館だったけど、僕には海の中にいるようにも思えて凄く楽しかった。その時、一匹だけ、金魚くらいの小さな魚がずーっと僕を見てたんだよね」
「……そんなことがあるんですか?」
「ううん、どうだろう。分からないけど」ふっと笑って見せる。「僕は意志が通じているように感じたんだ。何度か手を振ってみた。声もかけてみた。途中から、あらあらって笑いながら母さんもやってきて、一緒に手を振っていた。それから……えっと……」
「それから……どうなったんですか?」
アミアの声は少し明るくなっている。
僕はそっと肩の力を抜いた。
「ちょっと待ってて……記憶が喉につっかえてる――そうだ……母さんには時々反応したんだ。でも、僕には何の反応も無かった。結構悲しかったね。泣いちゃったような覚えもある」
「ふふっ」
おどけた調子で言った僕にアミアが笑みを零す。帽子のつばを抑えていた手は気づけば離されて、笑う口元に添えられていた。
「でもね。最後に、本当に離れようとした瞬間に、その魚は『バイバイ』ってしてくれたんだ……って言うのはね、僕らが『バイバイ』をする時手を振るみたいに、その魚はヒレを振ってくれた」
「ええ……!?」アミアが驚いた顔で視線を僕に移す。「魚との意思交換って、私たち――海の民の能力の一つですよ……!」
僕は目を大きく開く。
「そうなんだ。でも、僕は……偶然じゃないかなって今なら思う。あの時は本当に嬉しかったけどね」
いつしかアミアの顔から寂しそうな表情は消えていた。
良かったと僕は細く息を吐き出す。元気づけることができたようだ。
「私は……」
呟いたアミアは、顔を上げて、橙色の空をどこか遠い目で見つめていた。
「私は、空に潜りたいなって思ってました」
「潜る?」
「はい」照れ隠しのようにはにかむ。「上を見たら、凄く青い空が広がっているじゃないですか。小さい頃は、上にも海があるんだーって思ったりして。いつか行ってみたいなってよく眺めてたんです」
誰にも言ったことは無かったんですけどね、と笑う。
僕の頬が綻ぶ。
「そうか……空なら、飛行機っていうのがあるんだけど知ってるかな」
「飛行機……ですか?」
「そう、飛行するための機械。たくさんの人を乗せて、雲の上を飛ぶんだ」
「え! 本当ですか!? 落ちたりしないんですか!?」
「うん、落ちないよ。たまに事故とかもあるけど……まず落ちないと思って大丈夫だ」
「そうですか……ほっとしました」
安心したように肩を下ろして、えへへと笑う。
純粋な子なんだなと思う。そして、この子はきっとたくさんの人に愛されているだろう。この子の心配をして、身を切るような思いで待っている海の民の人たちもたくさんいるんだろう。
いい子なんだ。
絶対に、送り返さないといけない。
「――ナギサさん。ありがとうございます」
「え?」
アミアは麦わら帽子を取って、胸に抱える。白い髪が風に持ち上げられて、ふわりとなびいた。
「私を、元気づけてくれたんですよね?」
ありがとうございますともう一度言って、笑顔を見せた。さっきの悲しそうな面影はどこにもなくて、ふっきれたように見えた。
「……そんなことないよ?」
肩をすくめて言うと、アミアはくすくす笑った。
鋭いと内心思った。さすが女の子、鋭い。
僕は「よし」と呟いて立ち上がる。
「――さ、帰ろうか。今日のご飯も喜んでくれるといいんだけど」
「わあ! 楽しみです!」
手を伸ばすと、無邪気な笑顔が僕の手を掴んだ。
帰り道をアミアと並んで歩きながら、僕は自分も変わったのを感じていた。
アミアにもっと、笑ってほしいと思っている。
アミアのころころ変わる表情を眺めていたいなと思っている。
これからもアミアの傍にいたいなと思っている。
今思うと、初めて会った時からそんな風には思っていた。けれど、もっとその気持ちは強まってきている。
それに気づいて複雑な感情を覚えた。
なんだろうな、これ。
どう整理をつければいいんだろう。
「ナギサさん?」
「――あ、ごめん。なんだっけ」
「もう!」仕方ないですね、という声だった。「ですから今日の献立をですね……!」
「ああ、それなら――」
僕はもやもやした気持ちを抱えたまま、家に戻った。




