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少女は、海から来たと僕に言った。

 しばらくして落ち着いてきたころ、彼女のお腹が鳴った。

 それはもう、盛大に鳴った。

 呆気にとられる僕の前で、頬を真っ赤に染めて彼女はお腹を押さえる。

「ぷっ」

 吹き出してしまった。くつくつと笑いが止まらない。

 潤んだ瞳で彼女は可愛らしく睨んでくる。

 僕は、はあっと息を吐いて笑いを止めた。

「そうだ、話を聞くついでに……ご飯食べていかない?」

 ぱあっと彼女の顔が輝いた。

「あ、でも」

 がくんと目に見えるくらい落ち込んだ。

「い、いや、ごめん。その前に、お風呂に入った方がいいかなと思って」

「お風呂……ですか?」

 彼女は小首を傾げた。

「お風呂って、なんですか?」

 生まれて初めての戦慄を覚えた。





「わあ、これがお風呂なんですね……! そういえば本で読んだことあります!」

 本で読んだ、って。お風呂の知名度の認識を改めないといけない。

 まるで初めて見たような声だった。

「シャワーとか分かるかな?」

「あ、はい! わかります! ここのレバーを倒せばいいんですよね!」

「そう、上に倒すとお湯が出るよ。ちなみにそのまま倒すと頭上から降ってくるから注――」

「ひゃあああああ」

 南無。

 静かに手を合わせる。注意が遅かったかな。反省しよう。


 彼女はお風呂を知らないようだったけど、入ってもらうことにした。女の子なのだから、きっと身だしなみには気を使うと思う。道に倒れていた時は汗をかいていたし、一度さっぱりしてもらった方がいい。

 服は畳まれて横に置いてある。彼女が着ていた白いワンピースは、あんなに汗をかいていたにも関わらず、真っ白で汚れ一つなく、清潔そのものに見える。

「うゃぁぁー……」

 お湯に浸かる音と、脱力したらしき声が聞こえる。

「湯加減は大丈夫?」

「はーい……素晴らしいですー……」

「……眠らないようにね?」

「はーい……」

 とても眠たげな返事をされる。

 心配なことこの上ない。

 何か話していた方がいいだろうか。

「そういえば、名前は何て言うの?」

「はーい……?」

胡乱な返事の後に、ばしゃっと大きな音がする。体が眠りに落ちそうになって、はっと現実に戻った感じの音だった。

「え、えーと、私はアミアって言いま…………ふわぁぁ……」

 あくびが聞こえる。

 ……不安だ。

「アミアだね。僕はナギサって言うんだ。……眠っちゃうと、魚でもない限り息ができなくなっちゃうから気を付けて」

「ああ……! 大丈夫ですよー」

「大丈夫?」

 確信に満ちたアミアの声に、僕は疑問を浮かべる。

 アミアはどこか遠く、寂し気な声で言う。

「だって私――海から来たんです。水の中は、慣れてます」





 夕食に何を献上しようか迷って、オムライスを作ることにした。人気メニューだし、なんて簡単な考えから。

 アミアはピンクのパジャマを着て、わくわくと僕の料理する姿を見ていた。

 ピンクのパジャマは、亡くなった母さんの物だった。どこか子供らしい一面のあった、母さんのお気に入り。

 アミアにぴったりだと思う。サイズもちょうどいい。アミアも気に行ったようだ。

 心配があるかといえば、干してある洗濯物に、母さんのお気に入りピンクパジャマがあったら父さんは何て言うだろう、なんてところくらい。

 まあその辺りの家事仕事は、仕事で忙しい父さんの代わりに僕の担当だ。当面は大丈夫だろう。

「そろそろできるよ。そこの椅子使っていいからね」

「はい!」

 スプーンを掲げて、アミアは元気に返事をする。

 差し出すと、アミアは子供のように好奇心旺盛な瞳を見せた。

「こ、これはなんて料理ですか!?」

「オムライスだけど……」

「頂いていいですか!?」

 僕に食らいつかんばかりの勢いだった。

「も、もちろん」

 僕が食べられては困る。

 ああ、それはそれでいいのかもしれない。いや、よくない。ナギサよ。何を考えている。

 邪念は隅に追いやって、僕はテーブルの向かいに座るアミアを観察する。

 オムライスにがっつく少女は、夕日を眺めていた時の神秘的な面影はない。きれいさっぱり、お風呂に入って神秘性も洗い流してしまったか。

 白くて長い髪。くりくり動く紅い瞳。

 例えるなら、ウサギが一番似合っている気がする。

 想像の力で、アミアにウサギの耳を生やしてみた。

 うん、似合ってる。

「あの……?」

 気づくとアミアはスプーンを動かす手を止めて、不思議そうな目を向けている。

 軽い罪悪感。

「ほっぺた、ケチャップ付いてるよ」

「へ?」

 僕はティッシュペーパーを取って、アミアの頬に付いたケチャップを拭う。

「うん……よし、いいよ」

「す、すみません!」

 体を縮こまらせる少女は、見ていてとても微笑ましい。

 まるで妹が出来たみたいだと思った。

「ううん、それより、オムライスはおいしく出来てるかな?」

「はい! それはもう、とっても!」

 オムライス信者なんているのか分からないけど、そんな感じの力がこもっていた。

「それは良かった」作ったかいがあるというものだ。

「地上にはこんなにおいしいものがあるんですね……!」

 地上、か。

「海から来た、って言ってたよね?」

「……はい」

 かたんとスプーンを置いて、アミアは少し視線を落とす。

「話してくれる、かな?」

 アミアは少し考えて、顔を上げた。

「お話しします」

 毅然(きぜん)とした態度で、アミアは背筋を伸ばした。


「『海の民』を、知っていますか?」

「ウミノタミ」もちろんそんな名前は聞いたことが無かった。

 僕は首を振って、アミアは頷いた。

「海の民は、みなさんと同じような人間です。ただ、海の中で暮らしています。大抵の海の民は地上に上がることなく一生を終えます」

「ちょっと待って、人間ってことは、海の中じゃ息なんてできないんじゃない?」

「いえ、魚のエラみたいなものが皆どこかに付いているので大丈夫なんです」

 見ますか?

 見ません!

 躊躇いもなく服をたくし上げ始めたので、慌てて止めた。

「えっとそれで……アミアはどうしてここに――地上に来たの?」

「はい……昨日、台風がありましたよね」

 僕は頷く。夜の間に収まったようだけど、結構規模は大きかったそうだ。

「普段海の民の村は、泡みたいだけどすごく強い結界に覆われていて、台風なんかじゃびくともしないんです。……でもその時、私、結界の外に出ていて……」

 話していく度、アミアの視線が下に落ちていく。

「……油断してました。海は怖いってよく言われますけど、心の底からそう思ったのは昨日が初めてです。気づいたら周りに魚たちが全然いなくて、怖いくらい静かになっていました。急いで帰ろうとしたんですけど、波の流れが強くてうまく泳げなくて……いつしか私は気を失っていたんだと思います。目が覚めたら、知らない場所で寝転がっていたんです」

 アミアはぎゅっと口を引き結ぶ。あまり思い出したくないことを思い出すかのように。

「……辛ければ、いいよ」

 口を一線にしたまま、アミアは首を振った。

「いえ、大丈夫です。――それから朝になって……落ち着いてくるにつれて、ここは地上なんだなってわかってきました。周りに水が無くてすごく変な感じでしたけど、段々慣れてきました。それで大丈夫だって思って、私、町に入っていったんです。何か帰る方法が見つからないかと思って。

 でも失敗でした。太陽は……あんなに眩しくて容赦がないんですね。すぐに頭がくらくらしてきて、でも何もせず帰るわけにいかないと思って。帰ればよかったんですけど、意地を張っちゃったんです。

 もう戻ろうと思った時には、自分がどこにいるのか分からなくなってました。――でもその時はまだ余裕があったんです。多分私がいたのは海岸だから、そこまでの道を尋ねればいいと楽観してました」

 そこでアミアは、両手で自分の肩を抱き寄せる。

 それは怖がる子供のように見えた。

「たまたま通りかかった人に声を掛けたら、その人は私を見ないで驚いた顔で言うんです。『なんだ……? 誰かいるのか?』――背筋がぞっとしました。私はここにいるのに。男の人には見えていない。その人は怯えた様子で離れていきました。

 他の人も同じです。そうしているうちに段々余裕がなくなって……少し休もうと日の射さない場所に入った途端、意識を失いました」

 アミアは抱きすくめていた両手を下ろして、顔を上げる。

 そこからの話は、知っている通り。

「――そして、ナギサさんに出会いました」

 アミアは初めて笑ってみせる。

「うん」僕は話を噛みしめるように、ゆっくりと頷く。

 彼女の辛さなんて、僕には分からない。きっと、想像もつかないくらいに不安だっただろう。誰からも見えないというのは、一体どれほどの恐怖だろう。

 賞賛されるべき勇気だと思った。彼女は全てをこらえて、一人孤独に未知の場所へ進んだ。

 アミアは胸の前に手を当てて、目を瞑って言う。

「すごく、嬉しかったです。ナギサさんがいなかったら、私はどうなっていたかわかりません」

「僕も、見つけられて良かったよ」

 心から、思う。不自然な影を見つけずにいたら、影に興味を持たなかったら。

 ぞっとしない。

「――疑わないんですか……?」

 アミアが聞いてくる。恐る恐るといった調子の不安そうな声だった。

「疑う?」

「だって……地上の人からしたら、こんなおかしい話は無いでしょう?」

 まあ確かにと僕は思った。海から来たなんて、途方もなく荒唐無稽な話だ。捉えようによっては、怪しくも思える。

 でも、だからなんだ。

 少女は道に倒れていた。少女は助けを求めてきた。

 そんな彼女が嘘を吐くはずがない。

「僕は信じるよ」

 安易な理由だと、自分でも思う。

 アミアがほっとした様子を見せた。次いで嬉しそうにはにかむ。

 まあ、こんな表情が見られるなら、構わない。

 それに――信じないわけにいかない理由が、もう一つあることだし。


 アミアが申し訳なさそうに頭を下げる。

「お礼をしたいんですけど……私、何も持っていなくて」

「別にいいよ。偶然姿が見えて、なおかつ通りかかったのが僕だっただけだし」

「いえ! 是非お礼をさせてください……そうだ!」

 アミアは手を叩いた。

「何かしてほしいこととかありませんか!? なんでもします!」

 …………。

 律儀なのはいいことだけど、言葉には気を付けた方がいいと思う。

 一言で緊迫していた空気がどこかに消えた気がする。

 さて、と僕は思う。どうしようか。

 きらきらした目で、アミアは僕の言葉を待っている。

 どう見てもエサを待つ子犬じゃないか。

 はたと思う。

 子犬も似合うな……。

「あの?」

「は、はい!」

「どうかしましたか……?」

 純粋な瞳を向けてくる。

 なんかごめん。

「も、もう少し待って。天啓が降りそうなんだ」

「は、はあ」

 と言ったけど、僕のお願いは特に無い、と思う。

「そういえば、アミアは泊まっていくんだよね?」

「え、えぇ!?」

 素で驚かれた。こっちも驚きだ。

「……嫌だったかな?」

「い、いえ! そこまで迷惑をかけるわけにはいきませんので!」

 なるほど、こちらとしては泊めるつもりでいたんだけど。もちろんプライバシーは配慮して。

 ここで、僕の頭にひらめくものがあった。

「じゃあ僕のお願いだ。うちに泊まっていってほしい」

 彼女は目を丸くした。ううと呟いて、可愛らしく僕を睨む。

「……意地悪ですね」

「そうかな?」おどけて僕は肩をすくめる。「まあ泊まっていってよ。こんな可愛い子が泊まっていくなんて、僕の友人に話したら涎でも垂らしそうだよ」

「え?」

 アミアは虚を突かれたようにぴたっと止まった。

 ……冗談にこんな反応されると困ってしまう。もしかしたら、本当に地上にはそんな話で涎を垂らす人がいると思われたのか。

「あの……今なんて?」

「いやごめん。いくらなんでも涎を垂らす人はいないかな。多分」いるかもしれないけど。

「いえ! そ、その前です!」

 なぜか赤い顔でアミアは言う。

 違ったのか。その前というと……。

「こんな可愛い子?」

「はうっ!」

 いきなり胃を絞り上げたみたいな声を出して、アミアはテーブルに突っ伏した。

 僕としては戸惑うしかない。

「……えっと?」

 ばたりと倒れたままぴくりとも動かない。

 そっと立ち上がって、指で頬をつついてみる。柔らかかった。

 アミアは動かない。

「し、しんでる」

「生きてます!」

 がばっと叫びながら起き上がる。まだ顔が赤かった。

 むっとした顔で僕を見てくる。

「ご、ごめん?」

 とりあえず謝ると、顔をそむけられた。

 誠意が足りなかったか……。

 腕を組んでどうするべきか悩んでいると、アミアがむずむずと切り出す。

「……でも、その、そんなことじゃお礼にはならないので……何か、他に……」

「他に……かぁ」

 口をきいてくれたことに安心しつつ、僕は思考に耽る。

 なんでもいい、というお願いが、こんなに難しい問いだとは思わなかった。だって本当になんでもいいわけじゃないだろうし。その辺りの見極めが必要だから、ちょっと難易度が高い。

 そうだ。

 何の脈絡もなく、僕は思いつく。

「海の民の話を聞かせてよ」

 アミアは目を丸くする。

「私たちの話、ですか?」

「そう、すごく聞いてみたい」

 本心だった。

 アミアは納得しかねるみたいに少しの間、難しい顔で考え込んでいたけど、結局は頷いた。

「……わかりました! じゃあ早速」

「待った」

 勢い込んで話し始めようとするアミアに静止をかける。

 意味が分からず固まるアミアに、僕はスプーンを差し出す。

「オムライス食べてからね?」冷めちゃうし。

 アミアは顔を赤くして、スプーンをひったくると勢い込んで食べ始めた。






「それで、泊まっていってくれるのかな?」

「ごほっ」

 アミアはむせた。

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