夕日の出会いをもう一度
潮の満ち方に注意を払っていなかった僕の失態だ。色を失うくらい拳を握りしめる。
「ナギサ……」
ヒマリは心配を滲ませている。
懐中電灯を点けて、周囲を確認する。あざ笑うかのように何も無い。
リュックサックにも、他には保存食くらいしか入っていない。
状況は絶望的と言ってよかった。
「……帰れない、の?」
僕は唇を噛みしめた。ヒマリは力が抜けたようにへたり込む。
「そん、なぁ……。嘘でしょ……?」
僕は自分の不甲斐なさに腹の底が煮えくり返るようだった。一人ならまだいい。でも僕のせいでヒマリまで巻き込んでしまった。
何か方法は無いか。
「誰かぁぁぁぁぁぁっ!」
僕の声はわんわんと反響して、暗闇に吸い込まれる。……ここまでかかった長さから考えると、声は外まで届きそうもない。
胸の内で悪態をつく。フェンスくらいしっかりしたものを立てていてくれれば、こんなことにはならなかったのに。
呼吸が荒くなっているのが分かった。僕の体力も限界に近い。
視界も朦朧としている。気を抜くと倒れそうだ。
――これしかないかな。
「ヒマリ」
「……何?」
ヒマリはまた涙が出てきていた。
僕は笑って見せた。
「君は……懐中電灯を持って、水の中に入って進むんだ。急げば間に合うと思う」
「じゃあナギサも!」
それには答えず、僕は目を伏せて腰を下ろした。
「な、何してるの!?」ヒマリが悲鳴のような声をあげる。「ナギサも行くんだよ! 早く……!」
「ごめんもう、動けそうにないんだ」
僕の言葉に、ヒマリがショックを受けたように固まった。
「だからヒマリだけは……助かってほしい」
ヒマリは口に手を当てて、何度も首を振る。
「……いや……! ナギサも一緒に……っ!」
「……ごめん」
「やだ……! それなら私も行かない!」
「それは駄目だ」僕はヒマリの瞳を見据える。「君は、生きなくちゃならない」
「ナギサ……っ」
「僕の分まで、生きてほしい」
ヒマリの瞳から雫が溢れて、零れた。アミアを思い出して、こんな時にまで仕方のない奴だなと自分をなじる。
ヒマリは僕の胸に顔を埋める。泣き声が僕の冷たい身体に当たり、くぐもって洞窟に広がる。
別れを惜しんでくれる友人がいるのは、友達冥利に尽きるなと思った。
僕は目を瞑ってヒマリの細い肩を支えていて――異変を感じた。
「……ヒマリ」
「な、何、っ……?」
ヒマリがしゃくりあげながら顔を外す。
「何か、聞こえない……?」
「え?」
僕らは入ってきた辺りの通路を見つめ、黙った。
しんと静まった静寂の中に……そっと水をかき分ける音。
「聞こえた……!」
僕らの周りの水面も揺れが大きくなっていた。
誰か、来ているんだ。僕はほっと肩を下ろした。これでヒマリは助かる。
「――ナギサ、さん……!」
そして奥から聞こえた声に、僕は跳ね起きた。
もう聞くことは無いだろうと思っていた声。溺れそうなほど焦がれていた声。
なぜ、なぜそれが聞こえるんだ?
「ナギサ……この声って」
僕は答えられなかった。呆れることに隠しきれない嬉しさと、そして浮かぶ疑問に思考を奪われていた。
水の音が近づいてくる。
胸の底から湧き出る何かに突き飛ばされて、僕は叫んだ。
「アミア!」
それは奥に消えて、その闇から声が返ってくる。
「……ナギサさん!」
もうすぐ近くのようだった。今更のように胸が鼓動を始めた。
水をかき分ける音。
僕は凝視したまま動けない。
ゆっくり、けれど着実に近づいてくる音。
僕は魅入られたように声のした方を見つめる。
「やっと、見つけました――ナギサさん!」
――そして、アミアが現れた。
「アミア!」
「ナギサさん!」
アミアが駆け寄ってくる。僕も走って行こうとして、足が崩れて倒れこんだ。
「ナギサ!」「ナギサさん!?」
二人が介抱してくれる。最後まで情けないものだと思った。
「うわぁ……ごめん」僕はアミアに視線を向ける。「どうして、ここに?」
「……お母さんに、無理を言って来たんです」
「シーリエさんに……?」
「はい」
アミアはどこか言いづらそうに目を逸らす。
「よく、許してくれたね」
アミアの肩が小さく跳ねた。聞かれたくないことだったように。
「……ヒマリさん、ですね?」
ヒマリがまるで見当違いの方向に視線を飛ばしながら、「う、うん」と言う。
「ごめんなさい……少し、眠っていてもらいます」
アミアの手が柔らかい光に包まれた。ヒマリの眼前でそれを揺らすと、ヒマリの全身から力が抜けて横倒しに傾いた。アミアは悲しそうな顔でヒマリを支えて、そっと横倒しに寝かせる。
「アミア……?」
「お母さんは……私が強く言い続けたら、行ってもいいって言ってくれました。でも……条件を付けられたんです。私はその条件を、呑みました。私も、心のどこかでそれをしたがってたんです」
僕は起き上がろうとしたけど、もう本当に力が入らなくて少し体の位置がずれただけだった。
アミアの顔がぼやけてくる。
「条、件?」
「能力をナギサさんに、使います」
全身が粟立った。それだけはやめてくれ。完治と引き換えに、記憶を失う。
そんなことをしたら、今まで過ごした時間が全て無駄になる。全部嘘みたいに消えてしまう。
「……駄目、だよ、それは」
声に力がこもらなかった。虚ろな頭の中では必至にやめてほしいと訴えているのに。
「ごめんなさい……っ! 私、どうしても……ナギサさんには生きてほしいんです!」
アミアの手が伸びてくる。
ああ。
そうか、アミアは僕のために力を使おうとしている。
好きだなんて言って、未練を残させた僕に。伝えた言葉は嘘じゃないけど、とても純粋とは言い難い。なんて卑怯な奴だろう、僕は。
もう少し、君といたかったな。
今更のようにそう思う。そうすれば謝ることだって出来たのに。
ぼやけた視界の中で、潤んだ瞳と見つめあった。
アミアの口が動いた。なんて言ったんだろう。きっと、「ごめんなさい」だ。
僕は笑う。
いいよ。僕だって、同じ立場なら、同じことをしてる。
もう声を出せているかも分からないけど、目を閉じて、重い口を開けた。
――ありがとう。君が、好きでした。
――そして三年が経った。
「おーいナギサぁ。また絵描いてんのかぁ?」
声に、スケッチを描いていた青年が振り向く。
「はい、まあ」
「……うわー、またその子かよ。お前のタイプピンポイントすぎんよ」
「そう、ですか」
どこか寂しそうな目で見下ろした絵には、背中まで降りた白い髪に、白いワンピースの女の子が描かれている。後ろ姿で、顔は分からない。
「そうだろ、だってお前絵描く時いつもその子いるじゃねえか。どんな風景にも描くから、たまに怒られてるだろ」
「ええ、気づいたら描いてるんです」
「うわー……まだ絵描き始めて少ないのにそのクオリティは凄すぎる、なんて最初は先輩も褒めてたのになぁ」
青年はその言葉に肩をすくめる。今では見向きもされなくなってしまった。
「彼女?」
「いえ……わからないんです」
青年は諦めの混じった声で答える。
「ああ、記憶無くなったって言ってたか」
青年は頷いて、記憶を思い起こす。
――思い出せるのはどうあがいても三年前で止まっていた。
目覚めると可愛らしい女の子がいて、すぐに泣き出して僕を抱きすくめる。わけが分からず、僕はただされるがままになっていた。
医師に記憶を失っていると聞かされて、僕はどういう反応をするべきなのか困った。父親だと聞かされた男性――今は父さんと呼んでいるけど――が穏やかに笑って、「ゆっくりやろうなー」と言った。
それから僕はふと絵を描き始めて、成長していく。ヒマリとタクローは明るく接してくれて、色んな気を紛らわすことが出来た。それでもその好意は、自分じゃない自分に向けられているようで、少し疎外感を感じていた。
二人は町の外へ進学を決める。僕は地元の大学に決めた。他の所に行くなんて想像もつかなかったし、何かやり残したことがあるような、そんなもどかしさを感じていたから。
また会おうねと言い合って別れた。本当に会うのかどうかは分からない。
「――先輩は、どうしてここに?」
「ああ、そうだそうだ。お前に来客だよ」
「来客?」
疑うように眉をひそめる。誰だろうか。
「校門で待ってるってよ。お前の気に入りそうな子だぜ」
先輩は口の端をつり上げると、じゃあなと手を振って立ち去る。
心当たりは無かった。気に入りそうな子とは、どういうことだろう。疑問を浮かべながらも立ち上がった。
全部行ってみれば分かるかな。
出会ってみて納得する。そこにいたのは大人びた中に、少しあどけなさの残った顔立ちの少女だった。白いワンピースを着ていて、麦わら帽子から覗く髪は鮮やかに白い。
気に入りそうとは、こういうことか。
少女が僕を見て顔を輝かせた。
「ナギサさん……ですか?」
「うん、まあ」名前を知っているということは、知り合いだったのだろうか。
それからじっと見つめてくる。「私のこと、わかりますか?」
「……ごめん。分からない。三年前より昔のことは、記憶が無いんだ」
少女は少し悲しそうに俯く。すぐにぱっと顔を跳ね上げて、僕の手を取った。
「これから、時間はありますか!?」
突然のことに一歩のけ反る。
「う、うん、あるけど」
「じゃあ、少し――お付き合いいただけますか?」
少女は可憐な笑顔を見せる。
ああ、これは断れない。
引きずられていった先は、普通のスーパーだった。少女は目当ての物があるようで、店内をふらふらと彷徨いながら「うわあ……何度見ても凄いです……!」なんて呟いている。髪の色といい、外国の人なのかもしれない。でも外国にもスーパーはあるかと思い直した。じゃあ、何だろう。
珍しいのか、周りからも注目されている。
「あ、あった……!」
居心地が悪くてそろそろ何か言おうとした時、少女は声を上げた。かがんで、細い腕を伸ばす。
「これです……何か、思い出さないですか?」
おまけつきのラムネだった。
見せられた瞬間に、脳裏を高速でかすめる何かがあった。気づけばぎゅっと拳を握っていた。胸の奥に、今まで感じたことのないほどの喪失感があった。
「……これ、は?」
「昔ナギサさんが買ってくださったんですよ」そうほほ笑む。「後一つだけ、行かせてください」
失ったものは、何かとても大切なものだ。少女はそれを知っている。
胸を押さえて、頷いた。
「……海?」
見慣れた光景に戸惑う。
どこまでも広がる青い海は、気に入っている景色の一つだった。よく見に来ては、ぼんやりと海を眺めることが好きだった。
「もう少しです……!」
少女は岩場に腰を下ろして、見上げてくる。僕も座った。
「あの時は……泣いてる私をナギサさんが元気づけてくれたんですよね」
懐かしそうに言う。
僕は意外な気持ちでいっぱいだった。そんな勇気があったのか僕に。
「……僕は、どんな人だったの?」
「優しい人でした」即答されて、「あと、ちょっとずるい人でした」そうはにかまれる。
「ずるい人かぁ……」
それは不名誉なことなんじゃないだろうか。
「私は……そんなナギサさんが、好きでした」
どきりとした。でも、ちがう。それは僕じゃない。
少女の瞳は、海を見つめて穏やかだった。
僕は何も言えずに、つられるように海を見た。
「……来ます!」
「え――」
そして、眩しい光に照らされた。反射的に腕を持ち上げ目を庇う。
「夕日?」
「ナギサさん……見てください」
咄嗟に庇った手を、ゆっくりと外す。
――息が止まるような夕焼けがあった。
オレンジが海に弾かれて、さざめく波と共にちろちろと消えては生まれる。広大な海に夕日がきらきら反射して、煌々と澄んだ空を照らす。視界の奥には、ゆっくりと顔を覗かせる夕日があった。胸の奥が広がるような、そんな清々しい爽快さが突き抜けた。
そして――風が吹いた。
その一瞬で、胸に何かが吸い込まれた。
それがなんだかわかった途端、必至で体を抱きすくめた。
堰を切ったように感情が溢れ出して、止まらない。
「手放したくない! もう二度と……絶対に……っ!」
とめどなく流れる激情に、涙が溢れる。口も手も、小刻みに震えて言うことを聞かない。
「――ナギサさん」
顔を上げると、そこには見慣れた泣き顔があった。
夢じゃないかと思った。
「夢じゃないですよ」
少女は泣きながら笑った。
僕は思いきり彼女を抱きしめた。細い肩を抱いて白い髪を間近で見つめて、逃さないように固く、きつく引き寄せた。
喉が詰まってうまく話せなかった。伝えることがいくつもある。全てが先に出ようとして、結局つかえて出てこない。まず言うべきは、こうだろう……?
息を思いきり吸い込んだ。目を閉じて、震える息を吐いた。
「――ただいま、アミア……!」
「――おかえりなさい、ナギサさん!」
風が少女の髪を巻き上げる。
それはまるで祝福するかのようで。
海も、空も賛美を送るかのようで――
夕日に照らされた二人は、より添い合うようにいつまでも抱き合っていた。




