そして向日葵は見つかりましたか
――私は何かを間違えてしまった。
ふとした瞬間に、彼の必至で絞り出された拒絶の声が、私の脳内をかき分けて飛び込んで跳ね回る。
――ごめん。
そう言われて、私は上辺だけの言葉しか返せなかった。
本当は、あそこで泣き出したかった。思いきり叫んで、少しでも困らせてやればよかったのかもしれない。そうしたら、ちょっとは楽になっていたのかもしれない。
どうして彼は私を拒んだんだろうか。
彼も、私を見ていてくれたはずなのに。
隠し事は上手だけど、そういった方面にはびっくりするくらい疎くて、ちらちらと視線を私に向けて、目が合うと逸らして頬を赤くする。
女の子の友達は皆、『ナギサくん、絶対ヒマリのこと好きだよー』なんて笑って私の肩を叩いた。『だってヒマリと同じことしてるもん!』
私は頬が熱くなるのを感じた。
そう知ってからは、意識せざるを得なかった。挙動不審になったり、舌が上手く回らなくなったり、とても不審な人物になっていたかもしれない。
タクローが『手伝ってやるぜ』と、よく私たちが二人きりになるよう細工をしていた。私はそのたびに怖気づいてしまって、関係が進まない日々が続いた。
でも、ある日から彼は急にどこか冷めた態度になった。ふとした時に遠くを見つめるようになって、老人のようにどこか落ち着いた雰囲気を纏うようになった。
私には、彼がどんどん離れていくように思えた。手の届かないところに行ってしまって、もう出会えない。そんな思いが焦りを生んだ。
そして昨日。
やってしまったという後悔ばかりが頭を支配して、五寸釘でも刺さっているようにずっと胸が痛かった。胃の底に重い物でもたまったように気分が悪くて、私はずっと吐き気をこらえて布団にうずくまっていた。
私が目を覚ましたのは昼過ぎだった。いつの間にか寝ていたようだ。
部屋を出ると、お母さんが言った。
『ヒマリ、ナギサ君が入院したんだって。元気になったならお見舞い行ってあげたら?』
――私のせいだ。
尖った切っ先を突き付けられたような気がした。
自己嫌悪が脳をかき混ぜて、自分がどうしているのかも分からなくなる。
何かに追い立てられるかのように家を飛び出した。
向かう先は誰もいないところ。
脳裏に描かれたのはあの洞窟。
なんとか奥までたどり着いて、私はそこに膝を抱えて座った。
沈黙に包まれていると、ゆっくりと落ち着いてくる。落ち着いてくると、今度は静寂が恐ろしくなってきた。
咄嗟に持ってきた懐中電灯の明かりは、暗闇を消すにはあまりに細々といていて頼りない。
もう帰ろう。そう思った時、視界が黒に覆われた。
「え」
電池が切れた。
背筋が凍りついた。総毛立って、身震いした。
――帰れない。
恐怖が全身を支配した。
焦燥に駆られて大声で助けを呼んだ。ただ虚しく反響して消える。
手探りで帰ろうかと思った。駄目だ。洞窟のそこかしこに、深さの分からない池のようなものがあった。そこに沈んでしまう可能性が高い。
そして希望は潰えた。
絶望が全身を駆け巡った。
ただ必至で言葉にもならない言葉を叫んだ。静けさが怖くて、喉が嗄れても叫び続けた。
やがてその声も途絶える。疲労と、状況に希望が見えないせいで。
どうしてこんな所に……!
後悔に震えた。膝を抱き寄せると、鼻の奥がつんとした。
涙が出てくる。沈黙が体を圧迫してくるようで、さらに固く抱きしめる。必至に歯の奥を噛みしめていたけど、ゆっくりと忍び込んでくる恐怖に、嗚咽が漏れる。
「もう……嫌だ……! 帰りたい……帰りたいよ……!」
「……ヒマリ?」
――そして、一番聞きたくて、一番来てほしくなかった声が現れる。
ヒマリの顔は泣き腫らして、こういうのも何だけどくしゃくしゃだった。光に目が眩んだのか、強く目を閉じている。
それでも小さく、「……ナギサ?」と言った。
「……うん。大丈夫かな」
「大丈夫じゃ、ない」
酷くその声は掠れていて、きっと大声で助けを呼んでいたんだろうと思った。暗闇で、一人で。
ヒマリは顔をそむけて、顔を袖で拭う。僕は黙って目を逸らした。
「……ありがと、来てくれて」
言わなければならないから言ったような、ぎこちない声だった。
僕は目を戻す。
ヒマリは膝を抱き寄せて、顎を埋めて、岩肌に視線を落としていた。
「……びっくりしたよ。急にいなくなったって聞いたから」
「私は、入院してるって聞いてたナギサが来たことの方がびっくりした」
知っていたのか。少し驚く。でもそういえば父さんが助っ人のために電話していたんだ。知っていてもおかしくはない。
「知ってたんだ」
「大丈夫なの……? こんなところにいて」
「……たぶん、駄目」
いや、絶対駄目だと思う。
ヒマリがうかがうように顔を上げた。
「……じゃあ、どうして」
伝えたいことがあってと言おうとして、喉でせき止められた。
どうして躊躇うんだろう。時間も無いんだ。
「……ランタンがあるんだ。一回そこに置いていいかな」
僕は関係の無いことを言って、ヒマリは一瞬戸惑ってから頷く。
ランタンの明かりを点けると、その場一杯にオレンジの光が広がった。見渡してみると、僕らは少し周りより高い、お椀を逆さにしたような山型の岩にいるらしかった。
天井は僕の倍くらいまでありそうだけど、部屋としては狭かった。ベッド一つも置けないだろう。
ヒマリはまた膝に顎を埋めて、横目でランタンの明かりを見つめていた。
「伝えたいことがあって、来たんだ」
視線が僕に滑る。
オレンジ色に照らされたヒマリの顔はどこかやつれていて、僕よりもよっぽど病人みたいだと思った。
でも病人は僕だ。
「僕は死ぬ」
ヒマリは驚愕を顔に浮かべて、ゆっくりと顔を持ち上げた。
「どういうこと……?」
「病気なんだ、僕は。海憑きって言うらしい。どんどん体が冷えていって、動かなくなって、死ぬ」
何か途方もない衝撃を受けたようにヒマリは愕然とした表情をした。
僕は言葉を選ばなかった事を後悔した。何を焦っているんだろう。この期に及んで、まだ間違えるのか。
「それは……本当、なの……?」
「……うん。現に、僕は今すごく寒くて、感覚がほとんどない」
ヒマリは自分の手を見つめて、僕の手を見つめた。今は夏だ。恐らく洞窟の中は涼しいんだろうけど、感覚の無くなるほど寒いというわけではないだろう。
「なんで……なの」譫言のようにヒマリが呟く。「なんで……こんな」
「だから、ヒマリに謝っておきたかったのと、伝えたいことがあった」
「え……?」
伝えたいことは、僕の病気についてじゃない。
もっと重要なことだ。
「まずは、ごめん」僕は頭を下げる。「僕はヒマリのことを考えてなかった。どんな気持ちになるかなんて、ちょっと想像するだけでよかったのに」
頭を上げると、ヒマリはおずおずと僕を見上げていた。何を言うべきか考えあぐねている風だった。
「……それと、伝えておくべきだと思ったことを、伝えます」
胸を手で押さえると、まだ鼓動を打っているのが分かった。気負いすぎて、変な言葉になってしまう。ヒマリの背筋が伸びていた。僕は何度か咳払いをして、覚悟を決める。
「えっと……僕はヒマリが、好きでした。それだけは、伝えておこうと思って」
ヒマリはきょとんと目を丸くした。
「――え」
僕の顔を見て、不思議そうに言う。予想外の反応にたじろぐ。
「それ、だけ?」
それだけ、って。
僕はこけそうになる。それなりの覚悟をもって言ったんだけど。恥ずかしいし。
どうもいたたまれなくなってきた。
「……うん、まあ」
声がか細くなってしまった。意味も無く壁なんかを見て、髪を掻く。
ぷっと噴き出す声がした。
「もう……何それ……!」
ヒマリはくすくすと笑っていた。
何かおかしい所あったかな……?
「ごめんね、でも……ぷふっ……おかしくて……!」
何か悪い空気にでも当たったのだろうか。
居心地悪いなぁ……。
僕はただ黙してヒマリの楽しそうな笑い声を聞くしかなかった。
「ふふ……はあ……ごめんね、ナギサ」
やっとヒマリの笑いが落ち着いてくる。
「いえ……おかまいなく」
ヒマリは慈しむような目で僕を見てくる。なんだかむず痒くなる視線だ。
「知ってたよ」
「え?」
「ナギサの気持ちには、気づいてた」
「へ――」
かあっと顔が赤くなるのを感じる。なんだそれは。相当恥ずかしいことしたんじゃないだろうか僕は。
「それを改まって、しかも病気より重大な事みたいに言うんだからなんだかおかしくなっちゃって」
そう言ってはにかむ。
僕はまともにその顔を見られない。
「……断ったのは、死んじゃうからってことだったの……?」
ふと小さくヒマリが聞いた。
タクローにも聞かれた事だ。
「それも、あるよ」
同じ答えを返す。
まだ不満があるような、疑うようなそんな顔をヒマリはしていた。
「アミアちゃん?」
ぎくりとする。
「ぎくっとしたでしょ今」
さらに肩が跳ねる。
追い打ちだなんて容赦ない。
「……うん、そう。アミアのことが気になってた」
「分からないって言ったのに」
そういえばアミアが好きか聞かれて、分からないと言った覚えがある。
「……あの時は混乱してたから」
「へー」
半眼でじとーっと見つめてくる。なんだいその目は。
「まあ、いいかな……っ!」
ヒマリは膝を抱えていた手を離して、ぐっと前に伸ばした。
「いい、って……?」
「ナギサがアミアちゃんを好きだってこと」
「……というと」
「私はもう、何て言うか、諦めることにしたの。これはナギサがいなくなっちゃうからとかではなくて、アミアちゃんに負けを認めるってこと」
ヒマリは何か吹っ切れた様子で笑顔を見せた。
「戻ろ! ナギサ!」
ヒマリはいつも通り明るい声で言う。
「うん……そうだね」
僕は胸をなでおろすことが出来た。
同時に、気づかされることがある。
敵わない。この笑顔に、僕はいつだって敵わない。
ヒマリが立ち上がって、僕も立ち上がる。
向かい合って、深々と頭を下げた。
「――今まで、ありがと」
「――こちらこそ、ありがとう」
素直な思いは、ただ純粋に喉を通り抜ける。
オレンジの明かりに顔を照らされて、僕らはいつもみたいに笑い合った。
不都合は、何の脈絡もなく、唐突に起こる。
「……あれ?」
ランタンの光が揺れていた。
まるで、水面に移っているように。
「ナギサ……これって!」
迂闊だった……!
僕らを取り囲むように、黒い海水が静かにせり上げる。
――潮が満ちていた。




