脱走そして洞窟へ
「――今日の昼頃に出ていったっきり帰ってこないらしいよー……。大した荷物も持ってなかったから、またタクロー君かナギサと遊ぶんじゃないかと思ったんだって」
僕のせいだ。
それは、僕のせいだ。
「で、電話してもタクロー君の所にはいないね。もちろんここにもいないねー。警察に届けるそうだよー。もし心あたりを知っていたら、教えてほしいと言われた……何か、知ってるかな?」
話は聞こえていなかった。
胸を思いきり殴られたかのような衝撃を受けていた。
僕のせいで、ヒマリはいなくなってしまった。
「……何を、したんだよ」
「え?」
「僕が、何をしたんだよ……っ!」
拳を振り下ろすと、白い布団が跳ねた。
理不尽だと思った。何もしていないのに、何もかもが僕を泥沼に突き落とそうとしている。充分すぎるくらいもう僕は失ったのに。
胸にぽっかりと空いた場所がある。アミアはいなくなってしまった。
それ以上に絶望を受けろと言うのか?
噛みしめた歯が軋む。
ふつふつとこみ上げる怒りをどうすることもできない。やるせない憤りを、行き場の無い感情を、ただ布団にぶつけることしかできない。
「……ナギサ」
何も出来なかった。
僕はただ傷つけただけだった。
こんなことなら、初めからヒマリにもタクローにも父さんにも、全て打ち明けておけばよかった。
なぜ言わなかったんだろうか。答えは知っている――優越感に浸りたかったからだ。
空想の世界でしか起こりえないような状況に、僕は得意気になっていたからだ。
ああああああああ。
叫んだ。胸の内で叫んだ。
醜い僕が、僕を蔑んで貶して、笑いながら現実を破壊してくる。
ケタケタ笑って、僕が僕を壊すため近づいてくる。
目を思いきり閉じる。ぎゅっと瞑り耳を塞いで、僕は顔をそむける。
それでも笑い声は聞こえてくる。
お前が悪いんだと、ケタケタケタケタ。
「……やめろ」
まるで取り囲まれているみたいに。
「やめろ!」
お前が悪いんだと、ケタケタケタケタケタケタケタケタ――
「――ナギサ!」
鋭く肩を揺さぶられて、僕は現実に引き戻される。
目の前に、めったに見ない真剣な表情の父さんがいた。僕が我を取り戻したことを見るとほっと息を吐いて肩を下ろした。
「……ま、戻ってくれたようでよかった。ナースコールは押さないでいいかー」
僕は荒くなっていた呼吸を整えながら頷く。
父さんはそうかと言って立ち上がって、窓に掛かっていたカーテンを開く。
夜が見えた。
「俺も昔、たぶん似たような思いをしたからなー」
外を眺めたまま、どこか憂いを帯びた口調で言う。
「俺は……母さんの病気を、情けないことに知らなかった。母さんが死んでから、シーリエちゃんに侮蔑の表情と一緒に伝えられたんだー」
母さんは伝えなかったのか。
僕と同じように。
「……もう一つ言われた事があるんだ。母さんも……昔ナギサと同じ事を言ったんだと」
「え?」
父さんは悲しそうな目をする。
「忘れるなら、死んでもいいってさー」
僕は息が詰まるような錯覚を受ける。
「……あいにくな、その会話は俺のいないところで始まって、終わったんだー。母さんがそういう風に仕組んだのか……今となっては分からないけどなー」
静かに窓を開ける。風が入ってくる。
父さんは窓枠から顔を覗かせて、下を見た。「行けそうだなー」と呟いた。
「どこまで話したっけー?」
「……母さんが仕組んだのか分からないってところ」
あーそうだそうだと手を打った。
「母さんも分かってたんだろうなー。もしその話を聞いてたら、俺が生きろって言うことくらいなー……最後くらい我が儘ってことだったのか。でもな……少し考えてほしかったなー」
僕は思わず目を丸くする。
父さんは少し震えた声をしていた。まるで泣きだすのをこらえているみたいに。
「――残される人の気持ちくらい、考えてほしかったなぁ」
思いきり胸を殴られたかのような衝撃。
痛い所を突かれて、僕は石にでもなったみたいに固まる。
僕は何も考えていなかったのか。ただ自分の我が儘で、皆を悲しみに突き落とそうとしていたのか。
でも。
それなら僕にどうしろと言うのだろう。
忘れて、生きろというのか。
それは……嫌だった。
「……ナギサ」
振り返った父さんに、震えた声の面影は無い。いつもの、のんびりした父さんだ。
「俺は親として、息子の我が儘くらいは聞いてやるつもりだー」
「……うん」
それはおそらく、僕の選択を尊重するということだ。
忘れない、という選択を。死という選択を。
それならさっきの話は?
「さっきの話はなー」
僕の心を読んだみたいに口の端をつり上げる。
「お別れはきちんと伝えましょう、ってことだ」
僕の中で、一つの顔が形作られた。
――ヒマリ。
そうだ。ヒマリはまだ、僕の病気を知らない。
別れを伝えていない。
「いなくなった場所に心当たりはー?」
僕は記憶を探る。
瞬間ごとのヒマリを、一人一人思い浮かべていく。
何か手がかりは無いかと。ヒマリならどこに行くだろうかと。
――見つけた。
それは昨日、海岸の端、岩場での事。
『――……いつか、必ず話すよ』
ヒマリが笑う気配がした。振り向いて、いつも通りの声で「許してあげる」と笑顔を見せる。『……洞窟なら、誰にも見つからないかな』
『え?』
『ううん、なんでもない』
ヒマリは首を振る――
――ここだ。
「洞窟だ。ヒマリは洞窟に行ったんだ」
僕の言葉に、父さんがにやりと頷く。
手に持っているのは、父さんが持ってきた登山用リュックサック。
「これ使いなー。縄梯子を使えば窓から降りられるはずだー」
僕は驚いて父さんの顔を見返す。
何てタイミングだ。まるでこのために用意していたみたいじゃないか。
父さんは悪戯に成功した子供みたいに笑う。
「日頃お世話になってるお礼と言ったらなんだけどなー。ま、頑張れ。別れくらい男なら、びしっと決めなー」
「……うん、ありがとう。父さん」
立ち上がって、開いた窓から下を覗いてみた。
ここは二階。縄梯子があれば降りられるだろうけど、下の階の部屋に明かりが点いている。見つかってしまいそうだ。
「俺が誤魔化しとくよー。そうだなー、六十秒経ったら降りてくれー」
父さんは扉の前まで歩いて、そして振り返る。
僕と目を合わせる。
最後に、とでも言うように。
瞳に焼けつけるかのように。
「……父さん、ありがとう」
心から、僕は伝えた。
父さんは目を閉じた。
伝わったと分かった。
「じゃあなー」
「うん」
父さんが出ていく。
静けさが降りた。
僕は時計の秒針を見つめる。
外に人通りは少ない。ある程度知っていたことだけど、少し安堵する。小さな町だ、夜にも楽しめるカラオケのようなお店は中心くらいにしかない。この辺りにまで来る人はあまりいないのだった。登山用リュックサックなんて背負ってるし、人目につくのは憚られた。
海に近づくにつれて、さらに人は減ってくる。
警察には届けたのだろうか。いや、父さんが届けるそうだとか言っていた気がする。きっと連れ戻されてしまうから、できれば出会いたくないものだと思った。
真っ暗な中を出来る限りの速度で移動する。
しばらくして、僕は海岸に出た。
海からの風が吹き付けて、痛いくらいに肌を突き刺す。体は冷たくて感覚が胡乱で、本当に自分が動かしているのか分からなくなる。
月が海の上にぽっかり浮いていた。
アミアもあの月を見ているだろうかと考えて、僕はかぶりを振った。
今は洞窟だ。
洞窟は口を開けてそこにあった。口腔から覗けるのは、入り口付近のごつごつした足場だけ。奥は闇に染まって何も見えない。
立ち入り厳禁と書かれた看板を見て、申し訳程度に立てられたフェンスを乗り越える。何も無くても、ここには誰も寄り付かない。だからこんなお粗末なフェンスくらいしか無い。
僕は懐中電灯を取り出す。ずしりと重い。電源を入れると、暗闇に隠れていた岩場が姿を現す。
「……行こう」
慎重を期して、僕は暗い洞窟に足を踏み出した。
足場は悪い。湿っているし、気を抜くと滑りそうだった。
僕は思う。湿っているということは、言われていた通りここにも水が入り込むということだ。潮が満ちてくる前には、帰らないといけない。
あちこちに底の見えない海水の溜まった場所があった。そこに落ちないよう注意して進む。
しばらく歩いた、と思う。
僕は壁の窪みにもたれて休憩していた。
どこまで続いているんだろう。
先が見えなかった。明かりがあるとはいえ、こんな暗闇に一人だけというのはどれほど心細いかを知った。
大丈夫かな。ヒマリは。
そんな心配をした。
……出会って、何を話そう。
そんな不安も現れた。病室を脱走しておいて、今更だとも思うけど。
話だけじゃない。どんな顔をして会えばいいんだろう。一度傷つけたのに、さらに傷つけるかもしれないことを言うんだ。自分でも酷いと思う。
それでもアミアに言われたように。
「……僕はずるい人だから」
未だに関係の修復を望んでいる。
もう少し休んでみよう。そうしたら、何か思い浮かぶかもしれない。僕は懐中電灯の電源を切った。途端に視界が黒に覆い尽くされ、何も見えなくなる。
そっと腰を下ろして――――何か聞こえた。
この奥だ。
すすり泣く声。
「――ヒマリだ」




