『海憑き』
――なんだかなあ……。
やけにくすぐったいなと思ったら、見慣れた白い髪が顔にかかっていた。
「アミアさんや、朝ですよー」
朝の光はいつも通り眩しい。
肩を揺さぶるとアミアは「う、ん……」と声を漏らした。
そこからの変化は劇的だった。
「―ナギサさん……っ!」
アミアは目を見開くと突然跳ね起きて、瞳を潤ませ抱きついてくる。
僕は反応できなかった。
アミアは顔を歪めて、涙をぽろぽろ零している。
「ナギサさん……! どうして……どうして言ってくれなかったんですか?」
その言葉と、窓枠に立てかけられていた写真が無いのを見て、僕は察する。
――気づかれたんだ。
そんな事実だけが、どうしようもなく突き付けられていた。
「ナギサさんの目が青いのは、普通のことじゃないんですか……!?」
最後まで知られずにいたかった。変に悲しみを背負ってほしくなかった。
僕は手を伸ばして、子供のように泣きじゃくるアミアの涙をすくい取る。
残念だと思う。
アミアと、もう――。
くしゃくしゃな顔のまま、アミアは自分の目元を拭った。
「……まず、朝ごはんにしよう?」
僕はアミアの髪を撫でる。
時間はきっともうほとんど無かった。
備え付けのパイプ椅子を出して、そこにアミアは座っていた。泣き腫らした後の目で、黙って林檎を齧る。食欲が出ないようで、しばしば手を止めている。
僕は少し味気ない病院の朝食を食べていた。
アミアがちらりと僕の手元を眺める。
「食べる?」
首を振られる。
「……そんな気分じゃ、ないです」
僕は「そう」とだけ言った。
「じゃあ林檎はもう一ついるかな?」
かちゃんと皿に林檎を置いてアミアが俯いた。ぎゅっと拳を握りしめ、肩を小刻みに震わせる。
「どうして……そんなに平気でいられるんですか」
「え……?」
アミアが椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
「どうしてそんなに平気でいられるんですか!?」
怒鳴るような口調だった。言い切って、次第に辛そうな表情に変わっていく。
「――死んじゃうんですよ……?」
掠れていて、喉の奥で絞り出したような声だった。
アミアはかくんと膝を折って椅子に座りこむ。「すみません」と小さな謝罪の声が聞こえた。
僕はトレイにゆっくりスプーンを置く。
「――気づいたのは、去年なんだ」
アミアが視線を持ち上げた。
「鏡の前に立って、何か変だなって思った。よく見たら、目が薄ら青くなってたんだ。ぞっとしたよ。母さんと同じだって思った」
息を殺して瞬きすら忘れたみたいに、僕に視線が刺さっている。
僕は体を抱きかかえた。
「――寒いんだ。ずっと。まるで冷たい海に沈んでるみたいに。……どんなに布団にくるまっても、どんなに服を着込んでも、内側からずっと冷たい風を当てられているみたいだった。今だってそうだよ。……海にいったのは、失敗だったかな」
「……それは、『海憑き』と私たちは呼んでいます」
「海憑き?」
「海の民だけに起こる病気です、特徴は目が青くなる事です。どんどん体が冷えて、動けなくなって、死にます」
死にます。
死にます。
その言葉だけが脳内で反響する。
「ナギサさんのお母さんは……海憑きにかかっていたんですね」アミアは逡巡する。「――もしかして、ミハゼという名前ではないですか?」
「え……?」
僕の顔が跳ね上がる。
不自然に冷静な視線と目が合う。
驚きに打たれて、それを疑問に思うことはない。
「どうして……知ってるの?」
「ミハゼさんは、お母様の姉です」
胸の内をえぐられたかのような衝撃だった。
母さんは、昔の話はほとんどしなかった。海の民と言う言葉も、アミアに聞いて初めて知ったくらいだ。ただ、妹がいたという話は聞いたことがある。そういう時はいつも申し訳なさそうに目を伏せて、僕の髪を撫でていた。
「お母様は、地上の人が嫌いです。原因はミハノさんだと思います」
淡々とアミアは告げる。
責めているようにも聞こえる。
「母さんは悪くないよ」
「悪いとは言っていません」
「それならよかった」
それきり口は動かなくなる。
沈黙が重くのしかかっていた。
刺すような雰囲気のアミアに、僕は何も言えなかった。
初めてだ。こんな雰囲気。
朝食を口に運ぶ気にもならず、僕はただ病室の隅を眺め、沈黙が解かれるのを待つ。
不意にアミアが口を開く。
「ナギサ……さん」
声が震えていた。
その声に気づかされた。
――違った。アミアは、別に冷静だったわけじゃない。
感情を無理やり抑え込んでいたから、違和感のある冷たさになっていただけだったんだ。
少しだけ、気持ちが軽くなり。
「能力の話をしたことを……覚えていますか」
反対に、アミアの声は重い。
「海の民には、不思議な力があるって……やつかな」
「はい」
アミアは何かを耐えるように拳を握りしめた。
「今まで言わなかったんですけど、私にも、能力があります」
「アミアに……?」
なぜそれを今言うのだろうと思った。
なぜ今まで言わなかったのだろうとも。
それはとても重大な出来事のように感じた。
どうして君は、そんなに強く唇を噛みしめているのだろう。
「私は――」
「――よーう、ナギサ!」
がらがらと大きな音を立てて扉が開かれた。場を読まない大声に、ちょうど彼の後ろにいた看護婦が眉をひそめる。
僕もこの時ばかりは舌打ちをこらえなければならなかった。
タイミングが悪すぎだ。まったく悪気は無いんだろうけど。
「とりあえず扉閉めて」
わりぃなと反省した様子の無い笑顔で彼は後ろ手に扉を閉める。
「うおなんだこのでけえリュックサック」
「……父さんがね」
なるほどと神妙に頷かれる。父さんの性格はもう町中の知るところだった。
「体調はどうだ?」
「最悪」
「マジかよ」タクローは眉をつり上げた。「林檎食うか?」
「どうして皆林檎なんだろう……ちなみにタクローは皮剥ける?」
「あ」
結局僕が剥くことになる。
剥いている最中に、手持無沙汰になったタクローは椅子に座って、感心した声を漏らしながら僕の手つきを見ていた。
「ほお……これが職人の手つきか」
「そんな大層なものじゃないよ。タクローだって慣れればできるさ」
「いやー、俺手先は壊滅してるからなぁ」
中学校の調理実習で鍋を爆発させたことを思い出す。
「……まあ、慣れればできるよ」
「そうかぁ?」タクローは歯を見せて笑う。
でさ、とそのままの調子で言った。
「――ヒマリを振ったのか?」
「っ」
皮を剥く手が止まった。隣でアミアが肩を強張らせる気配。
そっと林檎を下ろす。
「……なんで?」
「ヒマリの様子が変なんだよな。あいつはお前と違って、あまり隠し事は上手くないから」
飄々とした口調でタクローは言う。
「それだけで……どうして?」
「どうして……知っているのか、か?」
僕は黙っている。
「相談されてたからだよ」
「相談?」
「ナギサが好きだっていう相談だよ。なんとなく予想はついてたからそれほど驚きやしなかったが……今回のは驚きだ」
タクローは鼻で笑うように、僕を見てへらへらした笑みを浮かべる。
「お前、ヒマリのこと好きだったろ?」
アミアが目を見張る――
気が付くと僕はタクローの胸倉をつかんでいた。睨みつけた視線はタクローの冷たい瞳とぶつかる。
「……なんだよ」
僕は歯を食いしばって血が上った頭を宥め、手を離した。
「……ごめん」
僕は林檎の皮剥きを続けた。
タクローはアミアのことを知らない。知っていたら、絶対に言わなかったと分かる。だから僕はそれ以上彼に苛立ちをぶつける気は無かった。
タクローは勢いを削がれたような顔をする。
「……謝られると調子狂うな。一度喧嘩しておこうと思ったんだが」
「僕病人なんだけど」
「はは、そうだな」ははじゃないよ。
こう話しているだけでも、苛立ちは募ってくる。
どうしてここで言ったんだ。どうしてアミアの前で。
……そうして責任を他人に押し付けるんだから、僕は救えない。
「なあナギサ……ヒマリを振ったのは、お前が自分の病気を知ってたからか?」
タクローはいつも通りの調子で、僕を慮るように聞いてきた。
喉の奥で変な声が出る。
過程を省略して、いきなり内側に踏み込んできた。それがほとんど正解なんだから性質が悪い。
「……それもあるよ」
「阿呆」
阿呆とはなんだ。僕はいくらかの怒りを込めてタクローを見上げる。
立ち上がって、お調子者の彼らしく僕に指を突き付けた。
「そんなもの! 恋の前では全くの無力!」
唐突な大声に面食らう。
「男なら突っ走れ! ――以上、男の中の男より」
にっ、と笑った。
アミアまできょとんとしていて、僕はなんとなくおかしくなる。苛立っていたのが馬鹿みたいに思えてきた。
「……意味わかんないよ」
僕は呆れたように大げさなため息を吐く。
器用に片眉だけつり上げて、タクローは椅子に座りなおした。
「まあ、もう一回ヒマリと腹割って話してみろよ。案外許してくれるかもしれないぞ?」
「どうかな……回し蹴りでもされそうだ」
「あいつ武闘派だからな」
悪いと思いながらも笑ってしまう。
「――わかった。もう一回話してみるよ」
おうとタクローは親指を立てた。
「しくじるなよ?」
「もうしくじったから大丈夫」
「なんだよそりゃ」
そう。僕は選択肢を間違った。ご丁寧にも嫌われようとして、おかしな方向に進んでしまった。
きちんと話してみよう。悲しませることになってしまうだろうけど、黙っていなくなるのは、今考えると酷い事だと思う。
「さて、じゃあ俺は帰るかな」
「もう帰るの?」
「やることはやったからな」
「じゃあ一つお願いしていいかな。これなんだけど」
「うん?」
タクローは差し出されたビンを見て首を傾げる。
「なんだこれ?」
「まあ、さっきのお詫びってことで海に投げてきてくれないかな」
「ボトルメールってやつか? まあいいけども」
タクローが扉へ振り返った時、
「――その必要はありません」
澄んだ女性の声が割って入った。




