少年は?
――少女は後悔に襲われていた。
感情のままに家を飛び出してしまったことに。
二人は、二人だけの世界で話をしていた。少年はとても心地よさそうで、見たことのない優しい微笑を浮かべていた。
今でも思い出すと激しく胸が掻き乱される。
少女は唇を噛みしめた。どうして逃げ出してしまったんだろう。
謝らないと。少女は胸に手を当てた。
雨は止んでいる。『海の民』だけあって、少女は寒さにとことん強かった。服も特殊な素材で、汚れ一つ無い。雨の影響はほとんど無かった。
空は夜色に染まり始めている。
謝って、またナギサさんと朝日を見よう。
少女は振り返って、辿ってきた道を戻る。
少し迷ったが、無事に少年の家へ到着できた。
「チャイムを押すんでしたっけ……」
そっとボタンを押すと、軽快なメロディが家の中から聞こえてきた。
何度か深呼吸を繰り返して、謝罪の台詞を小さく呟いて、少女はドアを見つめる。
誰も出てこなかった。
「あれ……?」
胸騒ぎがした。
恐る恐るドアを引くと、それはあっさりと開いた。暗い玄関に入って、ゆっくりとドアを閉める。
がちゃりという音を最後に、沈黙が場を支配した。
静かだった。異様なくらい。
もう外は暗いのに、どこにも電気が点いていなかった。
冷たい物で撫でられたみたいに、ざわりと鳥肌が立つ。
少女は一つ一つ部屋を回っていった。電気が点いていないのも、静かなのも当然だった。
「誰も……いないんですね」
少年のベッドに体を預けて、膝に顔をうずめた。
「どこにいったんですか……?」
投げかけた問いは、暗い部屋に溶けて消えた。
――一体どうしたんだろう。
様々な考えが渦巻く。
――怒って、口をききたくないのかもしれない。
もしそうなら謝ろうと思った。
――もしかして、すごく熱が悪化して。
はっとなって首を強く振った。それ以上は考えたくなかった。
しばらくして、小さく車の音が聞こえた。家の前で動きを止めて、音が止む。
がばっと体を起こす。
――ナギサさん……!
少女は部屋から出て玄関に駆けだした。
「んー……何持って来いって言ってたかなー……」
がちゃりとドアを開けたのは、焦がれていた少年ではなかった。ぞんざいに髪を掻いて、どこか眠そうな目。
聞き覚えのある声だ。どこで聞いたんだろう。
すぐにそれは思い出せた。
お風呂場だ。
つまりこの人は、ナギサさんのお父さんだ。
同時にあの場の事を思い出して少女は一人赤面する。
「本と……食べ物とか持っていくかー」
少年の父親はリビングの電気を点けて冷蔵庫を眺める。顎を撫でて、ううんと唸った。
「何が良いんだろうなー。おーい、ナギサ……っていないんだよなー。そうかー……じゃあ……懐中電灯でも持っていくか……?」
――懐中電灯? 少女は眉をひそめる。冷蔵庫は何のために開いたのだろうか。
「保存食とかいいかなー、それと杖に縄梯子にランタン……」
――一体ナギサさんはどんな所にいるんだろう……!?
怪訝に思いながらも息を潜めて彼の呟きを聞き取る。
「……病人だからなー、林檎でも買ってくかー」
――病人?
不穏な単語に、胃をきゅっと掴まれたような感覚を受ける。
――本当に熱が悪化して?
「後は……」
彼は、リビングに立てかけてある額縁を持ち上げた。眠たげな瞳でそれをじっと見下ろす。
「ま、持ってくかー……お、意外に多くなったな」
彼は登山用のリュックサックにそれらを詰めこんだ。
少女は気が気でなかった。少年の父親の手荷物がおよそ病人という単語からかけ離れているせいで、全く少年の容体が分からない。
「……っしょっと」
少年の父親がリュックサックを担いで、玄関へ歩いていく。
のんびりした彼と反対に、少女の脳内は混乱の真っただ中だった。
――病人……!? それとも突然の登山……!?
理性的に考えれば前者であることくらいわかりそうなものだが、この時の彼女は常識を外れた行動と、恩人の症状への心配に翻弄されて、およそ正常な思考が働いていなかった。
――あれ、でも病人って……。
はたと荒れ狂っていた考えが静まる。思い浮かんだのは、熱で苦しげに顔を歪める昨日の少年。
――体調が悪くなったんだ……!
急き立てられるように少女は登山用のリュックサックを追いかける。
音をたてないよう玄関のドアを開けると、彼は車の後部座席に荷物を置こうとドアを開けているところだった。
裸足のまま少女は外に飛び出す。音が出ない分好都合だとさえ考えていた。
少年の父親が荷物を放り込もうとしたその瞬間に、少女は座席との隙間へ滑り込む。
彼は訝しそうにリュックサックを持ち上げた。
「……んー? 今なんか……ま、いいかー」
――いい加減な人で助かった……!
気にした様子も無く、少年の父親はリュックサックを置いて前の座席に座った。それから地図を取り出してしばらく眺める。
ぽつりと言った。
「どこだっけ病院……んー。ま、なんとかなるか」
――い、いい加減すぎる……!
少年を心配するより前に、まずたどり着けるかが問題だった。
――病室の窓から、海は見えなかった。
仕方ないから、僕はぼんやりと空を眺めて過ごす。雨は止んだけど、空はまだ雲がかかっている。残念ながら星も見えない。
病室はしんと静まり返っていた。
まだ消灯時間でもないから、寝るには早い。
「やっぱり本が欲しいなあ……」
ため息を吐いた時、タイミングを見計らったかのようにノックの音が鳴った。
「どうぞ」
「ナギサー、元気にしてたかー」
「元気じゃないから病院にいるわけなんだけど」
がらがらと扉を開けて入ってきたのは父さんだった。背には大きいリュックサックを持っている。……リュックサック?
「頼まれてたもの持ってきたぞー。ほい」
中を開けてみると、次々と現れる謎の道具。
「……僕が頼んだのは本だけだったような気がするけど」
「んー、そうだったかー?」
縄梯子なんてどこで使うんだ。
「ま、持っとけよ。案外使える時がくるかもなー」
「……そうかなあ」
僕は本だけを取り出して、他の物は横に退けようとして。
ぴく、と動きを止める。
「父さん……どうして、写真なんて?」
手に持っているのはリビングに飾ってあった家族の写真だった。
「母さんの笑顔見たら、いつでも元気になれるだろ」
「それは父さんの話でしょ」
「そうかー」
相変わらず気の抜けた返事だ。
雑に扱うのも気が引けて、写真は窓枠に立てかけておいた。
何やらごそごそとやっていた父さんは「ほい」と紙袋を差し出す。
「林檎だ」
「……皮剥けるの?」
「いや?」
そんな当然のように言われても。
結局僕が剥いた。
林檎をしゃくしゃく食べながら父さんが言う。
「あー、明日も仕事なんだ。昼には切り上げてくるが、一応助っ人を頼んだからなー」
びくりと肩が震えた。
胃にどろどろした感覚。
父さんは続けた。
「あー、頼んだんだが、ヒマちゃんはダメだってよ。なんかヒマちゃんも寝込んでるんだってさ。おじさん残念だなー」
「……そう」
ほっとしてしまう自分に気分が悪くなる。
「お、そろそろ消灯時間かー」
父さんが林檎を一切れ摘まんで立ち上がる。
「もうそんな時間なんだ」
「んー、時が経つのは早いものだなー。じゃあナギサ。元気でなー」
手を振って、父さんはそのままふらっと出ていく。
電気も消えて、静けさが満ちて、不意に強く眠気が襲ってきた。
今日一日で、色々あったせいかもしれない。
すぐに僕は眠りに落ちた。
人気も無く静まり返った夜遅く。
少女は硬い椅子に座ってうずくまっていた。
部屋の前まで来たのはいいものの、少年の態度が気になって足が竦んでいたのだった。――私を見て、どんな顔をするだろう。
それでもしばらくする内に心配が膨らんでくる。
いつしか少女の脳内では、ナギサはこの世のものとは思えないような姿になっていた。
「な、ナギサさん!」
立ち上がって、極力音を立てないように扉を開ける。なぜかロックはかかっていない。
暗い部屋のあちこちに体をぶつけながら、なんとか見つけ出した少年は、月明かりに照らされて安らかな寝息を立てていた。
「よかったぁ……」
安堵で全身から力が抜ける。
ベッドにもたれこんだ少女は、窓枠に立てかけられた額縁に目を留めた。
「これ……ナギサさんのお母さん……?」
軽い気持ちで手に取って。
月光に浮かび上がるそれを見て、少女は額縁を取り落す。
「――嘘」
乾いた音が鳴った。




