夕日の出会い
――少女は倒れる寸前だった。
流れる汗は止まらない。渇く喉は水を求めてやまない。ふらつく体は抑えきれない。
少女は裸足だった。真っ白なワンピース。眩く白く、長い髪。
誰もが目を引かれるような容姿をしているのに、誰も彼女に視線を向けない。
――ここは、熱すぎる。
後悔がこみ上げてくる。それでも、海岸に戻れるほどの体力は無い。
――熱い。
呟きを聞きとめた、目の前の大学生が顔を上げる。
――助けて、ください。
え、と不審げに呟き辺りを見渡す。彼には誰も見えなかった。怯えが全身を覆い、彼は気味悪そうにそこを足早に離れていく。
それを追いかける気力もない。
視界が白濁してくる。もう真っ直ぐ歩けているかも分からない。
――もう、駄目だ。
なんとか日の射さない路地に倒れこんで、ふっと彼女は意識を失った。
――いよいよ夏休みが明日に迫っていた。
校長先生の長い話も終わり、見たくない通知表も返されて、後は帰るだけ。
「きりーつ、れーい」
形だけの礼をして、皆がわあっと騒ぎ出す。お前どっか行くの? だとか、宿題めんどくせえだとか声が聞こえる。
相変わらず毎年同じ言葉ばかりだ。
リュックに荷物を詰め込んで背負った時、肩を叩かれる。
「ナギサ、帰ろ!」
明るく言ったのはヒマリだった。
クラスの皆と同じく上機嫌なようで、ヒマリは満面の笑みを浮かべていた。
「タクローは?」
「あいつは……先に帰っちゃった。何か用があるって」
なぜかもじもじと視線を逸らしてヒマリは言う。
タクローはお調子者で、いつもはしゃいでいる男だ。
「『海行こうってナギサに言っていてくれな!』って言ってた」
つい笑ってしまう。
「そうだね。僕ら三人で行こうか」
「う、うん!」
僕ら三人は昔からの付き合いだった。幼馴染といっていいだろう。
お転婆なヒマリと、やんちゃなタクロー、そしてその二人の間にいた僕。子供の頃から全く変わっていない。
とりとめのない話をしながら、僕とヒマリは校門を出た。
昨日の夜にあったらしい大型台風なんか無かったように、コンクリートには湿り気一つない。容赦なく熱を僕らに打ち付けてくる。
夏だ。
夏は、嫌いじゃないけど。
「え、えっと、あの、ね?」
人が少なくなってきた辺りで、ヒマリが切り出す。
「ん?」
視線を向けると、ばっと凄い勢いで逸らされた。
わお。
ちょっとショック。
同時に、ヒマリの顔が赤いことに気が付く。
「えっと、大したことじゃないんだけど――」
「顔が赤いけど……大丈夫?」
「へっ!? う、うん大丈夫! えと、それでね――」
その時、僕はヒマリの奥にある路地に、不自然な影を見つけた。
「もし、だよ。もしよかったらなんだけど――」
「ちょっとごめんヒマリ」
僕は言葉を遮り、横を抜けて路地に向かう。
「どこかお店によってか――って、へ?」
ヒマリには申し訳ないけど、今はこちらの方が重大だった。
何せ、人が倒れているような影が伸びている。
日差しは強い。気温も高い。場合によっては危険だろう。
「どうしたの……?」
ヒマリの声を背に、僕は路地を覗き込む。
――息を呑んだ。
はっとするほど美しい少女がそこにいた。
真っ白なワンピースを着て、明るく白い髪。まるで絵画の一部かと思うくらいに、彼女は瞼を閉じてそこにいる。
少女はコンクリートの塀にもたれて座っている。白い素足を投げ出して、眠るようにうなだれている。
眠っている? 違う。
意識が、無い。
急速に脳が事態の深刻さを捉える。
「助けないと……っ」
「え……?」
後ろから路地を覗き込んだヒマリが、不思議そうな声を出す。
「何か見えるの?」
僕は言葉を失う。
この期に及んで、何を言いだす?
「……どうしたの? 怖い顔してるよ?」
ヒマリの顔に嘘を言っている様子は無かった。本当に訝しそうな表情を浮かべている。
どういうことだ?
「……う」
少女の苦しそうなうめき声が聞こえて、僕はかぶりを振った。考えている余裕はない。
よく見ると彼女は大量の汗をかいていた。辛そうな呼吸音がかすれ気味に聞こえた。
「え、何? 何か聞こえた……?」ヒマリが辺りを見渡す。
そうか。
ヒマリには彼女が見えていない。
いつもなら柔らかく説明するところだけど、そんな暇はない。そんな余裕もない。
異常事態だ。
ヒマリには、僕が多分コンクリートの塀に向けて焦っているように見えるのだろう。
僕はぐっと息を呑む。
でも。
だからと言って、少女を見捨てる理由になんてならない。
僕は少女の肩に手をまわして、彼女の体を持ち上げて背負う。
「ごめん、ヒマリ。また今度ね」
「え?」
僕は少女の症状を確認する。
一度僕の家に運んで、危ないようだったら病院に連れて行こう。そう判断した。
僕は少女を落とさない程度に急いで駆け出す。
後にはぽかんとしたヒマリが残された。
「……え?」
――夕日が辺りをオレンジに染め終える頃。
静かにドアを開けて、僕はつい動きを止めた。動いてはいけないような気がした。
少女がじっと夕日を眺めている。
ベッドから体を起こした姿勢で、窓から外を見つめている。手には僕が額に乗せた濡れタオルを持っていた。
夕日に照らされたその横顔は、泣き出すのをこらえているような、そんな表情をしている。
――雰囲気を壊すのも気が引けたけど、声を掛けないわけにもいかない。
「やあ、起きたんだね」
びくっと彼女の肩が跳ねた。
「えっと、ごめん。……替えのタオルを持ってきたよ。多分熱中症だと思うから、安静にしてるのがいいんじゃないかな」
僕の言葉に、少女は目を見張った。それも生半可な驚き方じゃなかった。
「え、あの……!」
と言ってから、はっと自分で口を押さえた。
何をしているんだろう。
そっと彼女は後ろを眺める。誰もいない。
辺りを見渡す。誰もいない。僕以外には。
手を振られた。
僕も振った。
さらに彼女の目が大きくなった。
立ち上がろうとして、彼女はぐらりとよろめく。
僕は咄嗟に肩を支えた。思ったより華奢な体だった。白い髪がふわりと揺れた。
「駄目だよ、まだ安静にしてないと――」
「私が、見えますか?」
透き通った、綺麗な声で彼女が言った。
「え?」
「あなたには、私が……見えるんですか?」
泣き出しそうな、震えた声だった。
「……そう、だね?」
質問の意味が分からなくて、曖昧な笑みを浮かべる。
少女の、肩が震えた。
僕は硬直する。
――え?
彼女はぽろぽろと泣き出していた。
「助けて、ください……!」
僕は目を丸くした。
「ち、ちょっと待って、それは一体どういう――」
「お願い、します……!」
彼女の視線に、僕は動きを止める。怯えて弱った子供が、親を見るような視線だった。
涙を拭いながら、彼女は必死に言葉を繋いでいく。
「ここがどこだかもわからないし……! 誰も私が見えていないみたいで、私、怖くて、でも行かなくちゃって思って……! 帰りたい……帰りたいよ……!」
しゃくりあげながら、彼女は子供のように感情を叫ぶ。
必死にこらえようとしていても、涙は流れて止まらない。拭うたびに溢れて頬を伝う。
僕はいつのまにか強張っていた肩の力を抜く。
ああ。
彼女が何をしていたとか。
彼女が何者だとか。
そんなことは全部――全部どうでもいい。
今目の前にいるのは、ただ泣きじゃくっている少女でしかない。
そうだ。
――何も迷うことは無いじゃないか。
「――大丈夫」
囁いた声に、少女は顔を上げた。
「僕が、助けるよ」
僕は安心させるように、彼女の頭をなでる。亡くなった母さんは、よく僕をこうして撫でてくれていた。
少女が僕を見上げる目は、泣き腫らして赤くなっている。
「助けて、くれるんですか……?」
「うん。絶対に、家まで送ってあげる」
「本当に、いいんですか……?」
「うん。本当だ」
笑いかけると、彼女の瞳が涙に覆われた。
ぐっとこらえようとして、こらえきれずに溢れ出す。
「……ありがとうございます――ありがとうございます――!」
涙を拭いながら、お礼を少女は繰り返す。せき止めていた壁が取り払われたように、涙はあふれて流れ続けた。
僕は母さんがしてくれていたように、微笑みながらずっと頭を撫で続けていた。