九回裏ツーアウトランナー無し
「九回裏ツーアウトランナー無し。バッターは二番セカンド片山――」
僕は幼馴染の里奈と野球中継を見ていた。ジャンバラヤ対DNAのナイターは、ジャンバラヤのホームである東京スタジアムで行われていた。場面は終盤も終盤、7対2でDNAが勝ち越しており、勝負は決まったも同然だ。
僕はDNAの贔屓である。チームが勝利目前の今、自然と高揚感が湧き上がる。
しかしその一方で、じりじりと緊張感も高まっていた。
なぜなら、DNAが勝ったら里奈に告白するつもりだからだ。DNAがジャンバラヤという盟主に勝ってくれれば、僕も告白する勇気を貰える。弱いチームでも努力すればジャンバラヤに勝てる、それを目の当たりにすれば、僕にも可能性があると思えてくるのだ。
僕はいわゆるイケメンと呼ばれる人種ではない。むしろキモメンとかブサイクとか、そういうネガティブな言葉がよく似合う。
そして幼馴染の里奈は、人気者で美人だった。僕と彼女を天秤に掛ければ一瞬で僕が吹っ飛ぶことは容易に想像できる程に釣り合いが取れていない。それでも僕は彼女が好きだった。
「おっと山形、制球が定まりません。片山に対しストレートのフォアボールです」
守護神山形がランナーを出した。後一人というところで何をやっているのだ。
ともあれ、あとアウト一つなのだ。点差も5点ある。満塁ホームランを打たれてもまだ勝っているのだ。落ち着いて最後のアウトを取ってくれればいい。
「次は三番ショートの坂木、今日はここまで三打数二安打、調子がいいです」
いくら調子が良かろうとも5点をひっくり返すのは不可能だ。
僕は乾いた口を潤すために、麦茶を取りに行った。自分の分と里奈の分をコップに注いでいると、テレビから実況の興奮した声が響く。
「打ったー! 右中間真っ二つ! 一塁ランナーの片山は一気にホームイン! 坂木は二塁へ!」
二つのコップを持って居間に戻ると、点差が一つ縮まっていた。
しかし恐れることはない。まだ7対3だ。
「ここからジャンバラヤが逆転したら、たっくん大喜びだね」
里奈が中継を見ながら楽しげに言った。たっくんとは、僕らの共通の幼馴染である。あいつはジャンバラヤファンだから、よく野球がらみで険悪になった。
「さあ、打順は四番に回ってきました。キャッチャーの安倍です」
鈍足の安倍如き、ライト前に落ちても一塁で刺せる。打球が上がっても山形の剛球なら外野フライに留まるだろう。
カーン!
テレビから痛烈な打球音が響く。
「行きましたー! ライトスタンド上段に突き刺さるツーランホームラン! 打たれた山形はこの表情! 安倍、ゆっくりとホームイン! ジャンバラヤベンチは安倍を笑顔で迎え入れます!」
7対5。しかしこれでランナーはいなくなった。そもそも守護神を名乗るなら、これ以上失点してはいけないだろう。これでは一体何を守護しているのかわからない。
「マウンドの山形にセカンドの石山が声を掛けます」
「ホームランは打たれましたけど、もうランナーはいませんからねぇ」
山形が続投するようだ。
いい加減にしてくれ。僕は早く告白したいんだ。DNAの勝利の勢いで告白したいんだ。
里奈の横顔を見つめると、僕の心が熱くなる。最近は妙に色っぽくなって、身体に柔らかさと丸みが出てきた。はっきりいって辛抱たまらない。
否! 僕はそんな性欲の錯覚で彼女を好きになっているわけではない。里奈の優しい心、明るい性格に惹かれているのだ。決してほどよく育った推定Cカップの胸や、ぷりっとしたおしりに惹かれているわけではない。むろん、それも彼女の魅力のひとつであることは否定しない。
「バッターは五番サード町田。今日はここまでノーヒット」
安牌の登場だ。DNAの投手陣に対してノーヒットともなればかなり調子が悪いはず。当然、山形が抑えられない相手ではない。
「山形、ボールが先行しています。スリーボールワンストライク」
何やってんだこいつは! ストラインゾーンに入れないと話にならないだろうが。
僕はそろそろ苛々してきた。この見るからに追い詰められた顔を見るとむかむかしてくる。もしこれがゴンドラズ浅田くん並みの可愛い系イケメンだったら「あ、どうしたんだろ、大丈夫かな?」と心配になるが、山形のような顔に対してはただひたすらに苛立ちが募るばかりである。
「山形、投げた! 打った! 打球はレフトへ! 上園はもう見送っているー! ここまでノーヒットだった町田が値千金のソロホームラン!」
無情な実況である。7対6。もうこれ以上点はあげられない。
僕は麦茶を一息に飲み干した。この試合を見始めた当初は、告白のことで頭がいっぱいだったが、今はただDNAの勝利の行方ばかりが気になっていた。というか、山形に心底苛ついていた。
「ここでピッチングコーチがマウンドへ行きます。交代でしょうか」
「そうでしょうね。ちょっと動揺しちゃってるでしょうから」
「ですねー。……いや、しかし山形続投です! 交代はありません!」
「はー、まあ、抑えのピッチャーですからねぇ。ブルペンも準備してないですか」
なにやってんだ! ここはノータイムで交代だろうが!
しかし山形は投げる気満々。僕の願いを打ち砕くかのようにボールを投げ続ける気満々。
僕はハラハラしながら山形の投球を見届ける。さっきまでは淡いドキドキでいっぱいだったのにどうしてこうなった。
「次のバッターはファーストコペスです。一発があります。ツーアウトランナーは無し」
何としてでも抑えろ。ここで打たれたらもうだめだ。
「コペス打ちました! 詰まった当たりはショート深いところ、懸命に取るがこれは、間に合わない! 内野安打で出塁しました、同点のランナーです」
ぽんぽんランナーを出しやがる。こいつはジャンバラヤのスパイじゃないのか?
「おっと、ここでようやくピッチャーの交代です。山形に代わって右のソース」
ようやく交代か。ソースなら安心だ。最近は調子が悪いが、それでも山形よりはマシだろう。
「バッターはセンター橋田です。ソース、セットポジションから……牽制。おや? ボークですか。今日の主審は橘」
ボーク!? ボークだと!?
これでランナーは二塁に行ってしまった。くそくそ! 下手したらシングルでも帰ってくるじゃねぇか! くそくそくそくそ!
里奈を見ると、彼女もテレビに釘付けだった。彼女は特にどこ贔屓ということはないのだが、こうなれば内心ジャンバラヤを応援していても仕方ない。
もうなんでもいいからアウトを取ってくれと懇願していると、ソースの投球が始まった。
「バッターは足のある橋田。ソース、二塁ランナーを一度見て……投げました。打った! 打球はセカンドへ!」
勝った! セカンドゴロだ!
「あーっと! セカンド石山弾いてしまった! 慌てて取りに行ってファーストへ送球! あーしかし逸れて一塁シーソー取れず! その間に二塁ランナーコペスはホームイン! バッターランナーも二塁へ! 一塁ベンチ付近を転がる球をキャッチャー赤羽根猛ダッシュで取りに行く! バッターランナーは……二塁を飛び出している! 赤羽根がそれを見て二塁へ送球! しかしこれを山本取れず! ボールが左中間を転々としている間にバッターランナー橋田は三塁へ! センターの小波がようやくボールを掴……めない! ジャッグルした! その隙を付いて三塁も回った! 小波、バックホーム! タッチは! ……セーフ! ジャンバラヤ、サヨナラ勝ちをもぎ取りました――」
何が、起こってるのか、よく、わからなかった。
「うわー、こんなことあるんだね。ちょっとDNAエラーしすぎ」
僕は放心状態に陥った。弱いチームはいとも簡単に瓦解してしまう。そして弱い僕も告白する勇気がなくなってしまった。僕はテレビを呆然と見つながら、アヘ顔晒して笑うしかなかった。
その時、家のインターホンが鳴った。
「誰か来たよ? ……あ、たっくんだ! 私出てくるね」
里奈がインターホンの映像を見て、玄関の方に小走りで向かった。
玄関での話し声は、居間にも届いてきた。
「あのさ、里奈。こんなところで言うのも何だけど、俺、里奈のことが好きだ!」
「え、うそ、たっくん。ほんとに……?」
「ああ、本当だ! 最初はカツヤがいるから諦めてたけど、俺、最後まで諦めちゃダメだって思って……、だから里奈、好きだ! 付き合ってくれ!」
「……うれしい。私も、たっくんのこと、好き」
「よっしゃあ! 里奈!」
「きゃっ! もう、苦しいよぉ」
僕の目から滂沱の涙が流れていた。これはいったいなんだ? 山形がリードを守れずに負けた結果がこれか?
テレビは野球中継を終えて、ドラマを流していた。その中の登場人物がキメ顔で言う。
「いつかのアメリカ大統領が言ったらしい。一番おもしろいゲームスコアは、8対7だと」
僕はそれを見て心の底から思った。全然面白くねぇじゃねぇか、と。
玄関から感極まったような笑い声と泣き声が届いて、僕も変な笑い声が出た。