十字架のヨハネ、、あるいは完徳の道。(私のキリスト教遍歴ノートより)
キリスト教的神秘主義は
かっては異端とされて、
迫害されたりもしたが
その流れは滔々として命脈を保ってきている。
その広大な流れの全容を解き明かすことなど不肖、私などには不可能だが
私の知る範囲のことならいくらでも話せるので
まあ。お聞きください。
その中で私が一番敬服するのが
ファンデラクルス(十字架のヨハネ)Juan de la Cruzである。
彼はカルメル会の修道士で
瞑想と修道の階梯の
つまり、、サトリの道程を細かく記した
1578年「魂の闇夜」が代表作?である。
つまり
人は迷妄から脱却して
修道を重ねて
魂の闇夜を抜けて
神と接神し、
その宗教てきな
法悦の
黙想、、メディテーションに至るのこそが
完徳の道であるという
いわゆる
接神論、
汎神論?でしょうね。
(以下、あくまでも、私なりの解釈であることはお断りしておきます。)
ファンデルラクルスは言う。
彼は魂は闇夜に満たされているという。
だがその闇夜も
受動的闇夜と
能動的闇夜があるという。
受動的闇夜とはただ神から下される罰?としての闇夜であり、
能動的闇夜とは
肉の子の人が神への働きかけとしての闇夜であるという。
このあたりキリスト教的な神秘主義の共通項?みたいなものがありますよね?
すなわち肉の子である人間の置かれた状態はいかなるものであるのかという
自己分析?現状把握?の共有性ですね。
つまり人の子の置かれた、、現状というのは、、
「不可知の雲」(作者不詳)につつまれているのであり
「無知の知」(クザーヌス)の状態であり
「肉の魂」(聖テレジア)のままであり
まあつまり、、迷妄の闇の中にある、、という自己分析でしょうか?
ちなみに、、
聖テレジアは女子カルメル会のグル(導師)?
ファンデラクルスは男子カルメル会のグルー?です。
いずれにしても
修道院生活ですから
最終目的は
接神であり
神との合一であり
そして「完全なる黙想生活」であることはいうまでもありません。
何を喰らうとか、、女にもてたいとか、金が欲しいとか、、俗世の改革?などは問題外ですね。
さてその魂の闇夜から
サトリの山頂に至る修行の階梯とは?
それは13世紀にエックハルトがすでに説いている
接神論
汎神論の延長線上にあるということでしょうか?
エックハルトは
当時の硬直化した教会や神父の
教会至上主義を否定して
直に神と接し、、合一して
神の光栄を直観しなさい、、と、
説いたのですね。
たとえは違うかもしれませんが
これはまさに、、即身成仏?でしょうか?
これは教会否定にも通じかねない
異端ですから
結局エックハルトは
異端として断罪されたのですが、、、
まあさて
ファンデラクルスの教えは
一般的なカルメル会の修道士への
ガイドブック?的なものですからより
具体的です。
具体的といってもそこは神秘主義ですから
あくまでも、暗喩であり
サジェッションですけどね。
完徳の山、、カルメル山の登攀には
正しい道をたどらねばならない、
決して「不完全な霊の道」や「間違った霊の道」を
たどってはなりません。
「生命に至る道は狭くこれを見出す人は少ない」のです。
あくまでも「完徳の狭い道」をたどるのです。
ですがその道をたどるものは
そこに
無 無 無 無 無 しか見いだせないでしょう。
なぜなら
その道には
偽りの愛や
おためごかしの慰めなどないからです、
それほどこの道は険しいものです。
こうして山に分け入ってもそこには
なにもないでしょう。
しかしそれでも神を信じて
登り続けたなら
やがて山道すらなくなるでしょう。
なぜなら?
「真の義人には掟も、、道もあり得ない」からです。
しかし
登ることを止めてはなりません。
そうしてこそ
あなたは
神のしるしを得られるからです。
神の愛と神の饗宴を得られるからです。
あなたはやがて、、
自分がカルメル山の山頂にいることに気がつくでしょう。
そしてそこには
ただ「神の光だけがある」のです。
これが十字架のヨハネの描く
神への道
すなわち
「完徳の道』です。
最終目標は
「完全なる黙想生活』です。
それはまさしく
修道院生活の完徳生活なのですからね。
神が人であり
人は即神であるという
神と人の合一
は
敬虔な修道女たちが
常に思い描いた世界そのものだったのですからね。
ビンゲンンのヒルデガルトが
幻視したのもまさにそうした神人一体の世界
巨大なイエス様なの懐の中に
まるで幼子のように
あるいは、、
子羊のように
包み込まれて
永遠の安らぎの中に憩う
人の子の
姿は
幻視者たる
ヒルデガルドの
桃源郷?だったのでしょうね?
最後にファンデラクルスの言葉のいくつかを提示して終わりにしましょう。
「自我愛で愛しなかったとき求めないでもすべては与えられた」
「何もないところに自分を置いたとき人は何も不足していないことに気がつくであろう」
こうした瞑想的な啓示、、暗示。。暗喩、、隠喩は
まさにメディテーションンによる
神の観想でありであり、
テオーリアとしての
神との合一、
神との一体化を
夢想?する、
接心論
汎神論の幻術ですね。
それはビンゲンのヒルデガルド
聖テレジア
その他の多くの神を見た修道女らちの
エトノスとタナトスの
到達点なのでしょう。
神という男性原理、、
イエスはまさに男性ですよね。
修道女の聖性、、聖別は
こうした神というある意味男性原理との合一
をもって神に受け入れられたという
充足感によって保たれてきたのでしょうね。
逆に
男性修道士にとっては
永遠の憧憬?は聖母マリアであり
その永遠の女性性の聖別を受けることで
神との合一を図れるという
潜在深層真理なのでしょうね。
ただし
エックハルトや
シレジウスにとっての神とは
女性性も男性性も併せ持つ
まさにそのかなたにある
神の両性具有的な
完全性を
接心するという
完璧なる汎神論?だったのでしょうけどね。