Chap.3 誇りもなく意地もなく
サブタイトル変遷ログ
誇りと意地→共感覚的フォーリンラブ→意地と誇りと→誇りもなく意地もなく
僕と時任先輩は、林を抜けてグラウンドの脇を歩いて行った。グラウンドで、野球部が練習しているのが見える。三年生の主将が、バッターボックスに立ってノックをしていた。二遊間を抜けるように足の速い球が駆け、セカンドが飛びつく。セカンドが一塁へ送球する脇で、二塁へカバーに入ったショートが、こちらに気が付いて小さくグラブを掲げて見せた。僕も軽く手を上げて応える。主将から、そこ、なにやってんだ! と罵声が飛び、彼はあわてて正面に向き直る。
同じクラスで野球部の彼とは、たまにランニングの途中で同道することもあり、奇妙な連帯感がある。野球部は、夏の大会の予選を何とか四回戦まで勝ち残り、今は次の試合を目前に控えている。公立高校としてはなかなかの、いや、かなりの快挙に、しかし部員達の表情に余裕はない。トーナメントを勝ち進む度に当然対戦相手は強くなってゆく。手強い、とどこか客観し、諦めを含んだ表情で言う監督と、それでも何とか足掻こうとする幹部、どちらについて行けばいいのかわからない選手達。
信頼関係が築けていない。それを何とかしようという気概のある人間もいない。彼の話から僕が受け取った印象は、そういう上っ面に限ったものだった。
野球部の彼からの挨拶に応えている間に、時任先輩との距離が少し開いてしまう。僕はちょっと足を速めて、先輩の横に並んだ。先輩は、僕の姿を見留めると、不意に足を止めた。
「こういうの、撮ろうと思わないの」
先輩は、グラウンドを指さして言う。金属バットのかん高い打撃音が響き、今度はこちら側、ライト方向へとフライが打ち上げられた。打球は、フェンスぎりぎりまで飛行して、駆け寄ったライトのグラブにすぽり、と軽い音を立てて収まる。
視線の先で、本来の守備位置へ戻る選手の額から流れる汗が、グラウンドへしたたるのが見えた。
「こういうのって、青春の輝き、ってやつですか」
僕がそう訊き、先輩に向き直ると、先輩もこちらを見ていた。僕は、肩を竦めて言った。
「そういうの、あんまりガラじゃありませんから。先輩こそ、撮らないんですか」
「僕は、女の子を撮る方がメインだからね。あんまりそういうことは考えられないな」
にんまりと笑って言う先輩に、僕は、
「そうですか」
と短く返事をした。
これから先、どんなことがあっても、興味が湧かない、なんてことは、もちろん言えない。けれど、今の僕が目標を見失っているとは言っても、新しく提示された何かに即座に飛びつくことなんて、僕には出来ない。忠犬、というわけでは無いけれど、新しい主人にすぐに尾を振るような真似をするのは、嫌だった。再び歩き始めた先輩を追いながら、僕はそんなことを考えた。
グラウンドの脇を抜けると、体育館の入り口と校舎を結ぶ渡りが見えてくる。体育館の内側から、時折声が響く。ボールが弾む音も聞こえてくる。今はまだ、部活の練習時間だ。体育館の入り口近くには、自動販売機が二台設置されていて、運動部はよく練習の後にそこで喉を潤しながらたむろしているのだけれど、今日はまだ時間が早いこともあって、人影はまばらだった。
渡りを抜けた向こう、自動販売機の向かいにある木陰に設置されたベンチに人影を見留めて、僕達は少し足を速めた。ベンチでは、制服を着た女生徒が一人と、白衣を着た教師が一人、それぞれに飲み物を持って、話をしている。僕たちとの距離が十メートルぐらいになり、ベンチに座る人影の顔立ちがようやくはっきりした時、教師が僕たちに気が付いて顔を上げ、つられるようにしてこちらを見た女生徒が、こちらに気が付いた。
「こんにちは。二人とも、もうパネルの準備は出来た?」
女生徒の、いや、写真部部長の夏目紗代子のその言葉に、僕と時任先輩は、揃って肩を落とした。
「なにやってるんですか、部長」
部長のあっけらかんとした様子に力が抜けていくのを感じながら、僕は言った。長い付き合いで、部長のこういうところにも慣れっこになってしまっている時任先輩は、何も言わない。僕は、重ねて口を開く。
「今日、ミーティングを開くから、部室で待機しておくように、って言ったのは、部長でしょう」
僕がそう言うと、部長は、手に持った缶コーヒーを抱え込むように身を縮こませながら、あはは、と小さく、乾いた笑いを漏らした。
「夏目を引き留めたのは、俺なんだよ。合宿の前に、打ち合わせしておきたいことがあってな」
そう言ったのは、右手に座る教師、写真部顧問の曾根崎先生だった。いつも苦み走った様子の表情を、珍しく申し訳なさそうに緩めているのに驚いて、僕は部長を咎めるのを、一度止めた。
「打ち合わせって、宿泊先の予約のことですか」
時任先輩が、やわらかく、そう言った。僕が振り向いて先輩を見ると、時任先輩はこちらに笑いかける。先輩達部の幹部と、先生の間には、共通の認識があるようだった。怪訝に思った僕の内心を察したのか、夏目先輩が、慌てて口を開く。
「実を言うと、この時期他の登山客も多くて、キャンセル待ちになってしまって……」
「僕としてはね」時任先輩が、部長の後を継いで言った。「合宿を中止にするか、それとも登山以外の内容にするかも、考えには入れてたんだけど」
「それだと」曾根崎先生が、時任先輩の言葉を遮る。「来年、写真部は合宿経験者が吉田一人になってしまうだろ。ブランクも開くし」
ベンチへ辿り着く前に見えた二人の様子だと、そんな重要な話をしているようには見えなくて、ただちょっと休憩しているだけのように思えたのだけど、僕はそれを口に出しはしなかった。
「それで、結局予約はどうなったんですか」
僕が訊くと、それまで落ち着かない様子だった部長は、僕達の方を見て、笑顔を見せた。
「何とかなったよ。今日、宿から連絡があったって」
そう言って部長は、曾根崎先生の方を仰ぎ見る。先生も部長に応えて頷いた。
「直前でキャンセルが出たそうでな。正直、ひやひやしたよ」
「ご心配おかけしました」
部長が小さく頭を下げて、明るくそう言った。
「それで」時任先輩が、ちょっとボリュームを上げて言う。「これからミーティングに移るんでしょう」
「ああ、そうだった。すまんな」
曾根崎先生が、改めて謝った。部長も、僕らに向き直って言う。
「ごめんなさい。お詫びにみんなの分、ジュース奢るよ。二人とも、何がいいかな」
「いや、今回は俺が奢る。夏目を引き留めたのは、俺だからな」
部長と先生がそう言うのを聞いて、僕と時任先輩は思わず顔を見合わせた。それから、笑った。お腹が空っぽになりそうな笑いだった。笑う僕らを見て、部長は不思議そうな顔をしていたけれど、曾根崎先生は、いつもの苦み走った表情に戻って無言で立ち上がり、自動販売機の方へ向かった。僕もどうにか笑いをこらえて、吉田先輩達の注文を伝えるために、先生を追った。部長達は、何か話すことがあるようで、声を顰めて何かを話している。後ろから小さく声が聞こえる。
曾根崎先生に注文を伝えると、先生は、厚かましいやつだな、とでも言いたげに、ちょっと眉を寄せたけれど、結局お願いした通りに買ってくれた。
先生は右手でコーヒーの缶を提げ、空いた左手をひらひらと振って、渡りから校舎の内側へ戻って行く。僕は両腕で四人分の飲み物を抱え、ありがとうございます、と言って頭を下げた。その拍子に、窮屈な腕の中から、吉田先輩の缶コーラが飛び出して、後ろへ転がって行く。
ころころと進む缶を、僕は身体を捻って視線で追った。そのままあてどなく進むかと思われた缶は、いつのまにか僕の後ろに近寄っていた部長のローファーにぶつかって止まった。
部長は腰を落として、跪くようにして缶を拾い、もう一度立ち上がる。僕の視線も、それを追って上下する。上げた視線が、部長の視線とぶつかった。
部長はにっこりと笑うと、コーラと反対の手に持っていた缶コーヒーを、軽く振る。缶の中から、ちゃぷちゃぷ、と軽い水音がした。それから彼女は、飲み口に唇を添え、缶を傾けた。肩に掛かる黒髪が、はらりと背中へ流れ、白くて細い首が露わになった。僕は、胃袋が持ち上がったような感覚にとらわれる。ゆっくりと上下する喉から、目が離せない。ゴクリ、と黒い流れが嚥下される小さな水音が、やけに大きく聞こえた。
やがて部長が缶を下ろし、夏の喧噪が戻ってくる。僕は背筋を流れる汗の不快感に、眉を寄せた。
部長は自動販売機横のゴミ箱に空き缶を捨てると、もう一度僕を見た。
「さっき、先生に注文をつけていたでしょう。駄目よ、わがままばかり言ったら」
「あ、あれは吉田先輩と白井の分です。もともと、自分を入れて三人分買う予定だったんです」
僕が言うと、部長は小さく、そう、と答えた。それから、
「それじゃあ、二人の分は私が先に持って帰るわ。あなたたちは、休憩がてらゆっくり帰っていらっしゃい」
と言って、僕の手元から林檎ジュースの缶を取って、渡りの方へと抜けていった。
「とりあえず、座ろうか」
部長の後ろ姿を目で追う僕に、時任先輩がそう言って、ベンチの方へ僕を促す。僕は促されるままにベンチへ腰掛けた。
隣に腰掛けた先輩は、だらりと背もたれに身体を預け、カッターのボタンを二つ程外す。襟元から、明るい色のシャツが顔をのぞかせた。僕は、手に持った二つの缶から一つを先輩に手渡した。先輩は、プルタブに指をかけて引き起こす。林から響くセミの鳴き声に混じって、ガスの抜ける小さな音がした。
「夏目のこと、あんまり怒らないでやってくれないかな」
時任先輩は、唐突にそんなことを言う。僕は、首を傾げた。先輩の視線は、どこを見るでもなく、ただ茫洋と空の方へ向けられている。
「ミーテに遅れたことなら、別にもう怒ってはいないんですけど」
僕がそう言うと、先輩は安心したように頬を緩ませた。
「良かった。ああ見えて、夏目は神経が細くてね。自分が上手に部長をやれてるか、いつも不安なんだよ」
「ずいぶんと心配なさるんですね」
「そりゃあそうだよ」時任先輩は、ふうっ、と息を吐く。「何しろ入部以来ずっと、僕らの代は二人きりだからね。お互い気心も知れるってものさ」
「そんなこと言ったら、今の二年生は吉田先輩一人きりですよ」
「僕らも、もう少し部員確保をがんばれば良かったんだけどね。あいつに苦労を押しつけることになっちまった」
先輩はそこで言葉を切った。僕の方を見て、けれど僕と目を合わせること無く、言葉を繫いだ。
「ホントはね、合宿の手配は二年生の仕事なんだよ。でも、あいつ一人だけじゃ厳しいだろ? だから僕らも少しずつ手を出して、けど上手く連携がとれなくて」
「危うくおじゃんになってしまうところだった」
僕が先輩の言葉を引き継いで言うと、先輩は渋い表情を作って、僕を見つめた。それから、諦めたように頷いた。
「どうしてそんなことを僕に?」
そう聞くと、先輩は苦笑して言う。
「そりゃあ、このまま行ったら来年にはきみ(・・)がやらなきゃいけない仕事だからさ。僕らの失敗のことを覚えておいてもらえれば、どうすれば上手くいくのか、考える時間は出来るだろ?」
「ずいぶんと、苦労性なんですね」
「あんまり気付いてもらえた試しはないけどね」
先輩はそう言って、乾いた笑いを漏らす。僕はそんな先輩を見ながら、入部してからこれまでのことを考えていた。
ちょっと軽い感じのする、妙な先輩、と言う第一印象。無遠慮に、心のやわらかいところに踏み込んでくるひと。それでも、この人を嫌いになることが出来なかったのは、僕が思っていたよりも、ずっと優しい人だから。今まで気が付かなかったことが、すっと頭の中に入ってくる。
先輩はベンチを立ち上がり、ゆっくりと歩き去ってゆく。途中でこちらに振り返って言う。
「先に戻るから、それ飲んだら帰ってきなさい。さっきの話のこと、よく考えておいてね」
僕は先輩の後ろ姿を、ただじっと見ていた。後ろ姿が見えなくなってから、ようやく手に持った缶を開ける。
飲み口に口を付け、缶を傾けると、香ばしさと苦みが花開くように口内に広がる。
部長と同じ、ブラックコーヒ-。
僕は、飲み込もうとして、部長の白い喉を思い出した。
記憶に焼き付いたそれは、まばゆい輝きを伴っている。
上書きされそうなその記憶を、何とか打ち消そうとして、突然、胃袋の中身が逆流してくるのを感じた。
口を押さえ、ぎゅっと目を閉じて、それでも止まらない。
多くの愛を育むことはできても、多くの恋を抱くことは、できない。
抱えていられるのは、たった、一つだけ。
一途さは、恋の、誇りだ。
そして僕の恋に、誇りは、無かった。
意志が弱く、意地も、ない。
心根の醜さは、罪だ。
自分のおぞましさに、嘔吐いて。
飲み込もうとした全てを吐きだしてなお、おさまらなかった。




