Chap.2 森林浴
僕はそれまで文化系部活動に、ゆるい学生生活という妄想を抱いていたのだけれど、その考えは写真部に入部して早々打ち砕かれることになった。待っていたのは、トレーニングに明け暮れ、くたくたで帰宅したらベッドに倒れ込むように眠りに落ちる日々。
写真部は、毎年文化祭展示の目玉として、山岳地帯に生息する動植物の特大パネルを用意している。それも、ハイキング感覚で行けるどこぞの高原、とかではなくて、山ガールも裸足で逃げ出す山岳地帯の写真なのだ。それはもちろん知人の山岳写真家に譲ってもらう、なんてことは無くて、自分たちで用意する事になる。ハーケンを岩の隙間に打ち込んで岩壁を登攀する、なんてことにはさすがにならないけれど――それじゃあ登山ではなくてロッククライミングだ――それでものべ三日に渡る登山計画は、本格的と言えるレベルに片足を突っ込んでいる。
つまり、写真部は、何かをフレームに収める技術だけじゃなくて、山を歩き回る体力も求められる、という事になる。
そんなわけで、僕たちは入部してから夏休みまでの3ヶ月間、放課後はミーティング後の体力トレーニングに明け暮れることになった。
ノルマとして五キロを走り、それを終えたら基礎的な筋力トレーニング。週が過ぎる度に少しずつノルマは上乗せされ、だんだんと走る距離が伸びてゆく。
一緒に仮入部した同じ中学出身の二人は、三日後にはもうミーティングに顔を出さなくなり、翌週には正式に入部を断っていた。
僕も足並みを揃えていてもおかしくなかったのだけれど、たまたま同じクラスのやつがいて、そいつと部の特訓の愚痴を言い合っているうちに、部のこと以外の話題でもよく話すようになった。
輝くような笑顔を向けてくれるそいつと話すのは、楽しいと思った。
それが、僕が白井菊乃と親しくなったきっかけだった。
部室を出ると、外付けの階段を降りて、校舎の方へと足を進めた。部室棟と校舎の間の広場には花壇が設けられているけれど、夏の間は土を休ませていて、まばらに雑草が生えているだけだ。
正午を過ぎて日は既に西へと傾き始め、アスファルトからの強い照り返しがじりじりと肌を焼く。僕は日差しを避けて舗装された道をそれ、林の中に足を踏み入れた。
初夏に差しかかったばかりの林は、どこか湿ったような、柔らかい空気のにおいがした。足元には、セミたちがまばらに、なにも言うことなく転がっている。今は愛の歌を歌い終え、ただ無言のエレジィを奏でるのみだ。
僅かに風が吹き抜けると、木々はざわめく。見上げる瞳に飛び込んできたのは、葉の隙間から覗く白、葉脈を透かして現れる萌黄、葉が重なった常磐色。差し込む光は万華鏡のように様々に形を変える。僕はその光景に目を奪われ、しばらく立ち尽くしていた。
間をおいて、ズボンの左ポケットの重みを思い出す。
うつろうその姿を、片鱗だけでも留めたくて、ポケットから名刺サイズのデジカメを取り出した。カメラを掲げ、電源を入れると、モータの低いうなりと共にレンズが伸びていく。レンズが頭上の樹幹を見据え、オートフォーカス機能がピントを合わせる。初めはぼやけていた液晶画面がはっきりと像を結ぶ。画面には、僕の求めていた輝きのかけらが、確かに現れる。
僕のデジカメは、自らの性能の許す限り、現実をそこに留めようとしていた。
まるで蜃気楼のオアシスに向けて手を伸ばすように。
僕に出来ることは、ただシャッタを切ることだけだ。けれど僕は、シャッタボタンにかけた指を、押し込むことが出来なかった。
今ここでシャッタを切ること。
液晶画面に映った光景をメモリに留めること。
それではシャシンを撮ったのは、輝きを渇望したのは、僕ではなくて、カメラだ。
それはただ記録しているだけで、シャシンを撮る、とは言わないんじゃないだろうか。
儚い輝きを上手に切り取って、フレームに収めることなんて、記憶に残る物を写し取ることなんて、僕には出来ないんじゃないだろうか。
彼女を手に入れたいと思ったのは、過ぎた望みだったんじゃないだろうか。
そんな考えが浮かぶ。浮かんでは消え、また現れる。
目を閉じて、心を落ち着けようとする。
けれど、心が定まらない。指先が震えて。
僕は、カメラを下ろした。
「おや、撮らないのかい」
ぎょっとして振り向くと、こちらに向かってカメラを構える姿があった。校則に引っかからない程度に着崩した制服の襟元には、三年生の証拠である藤色の襟章が光を反射している。
僕がカメラの電源を切ってポケットに仕舞うと、相手もカメラを下ろした。プラスチックのトイカメラの向こうから現れたのは、思った通りプラスチックの黒縁メガネをかけた、柔和な笑みだった。写真部副部長、三年の時任先輩だ。
ほっとして、思わず溜息をついた。そして、身を引き締めた。時任先輩は、いつも人を煙に巻くような話し方をする。そしてそのまま、どこか心の柔らかい部分に触れるところがある。今は、ほんの少し、踏み込まれたくない気分だった。
「どうしたんだい、もうすぐミーティング始まるだろ」
先輩が、いつもと同じ、からかうような調子で言う。
「他ならぬ先輩達が来ないから、その間にジュースでも買って来ようかと思ったんですよ」
僕はなんとか平静を取り繕って、言った。
風が小さく吹き抜けて、林の中はざわめく。僅かな木々の息遣いに紛れ、誰かが息をついた気がして周りを見渡したけれど、僕と先輩以外には誰もいないようだった。
「やあ、それは悪かったね」時任先輩は、まるで気にした様子もなく、破顔する。「部長のクラス、まだホームルームが終わらなくて、暇を持て余していたんだよ」
「それはいいとして」思わず溜息がこぼれた。「何してるんですか、副部長」
「人が写真を撮る瞬間を撮る、っていうのを一度やってみたくってね」先輩は目を細めた。両手の人差し指と中指をL字に伸ばして重ね、四角く枠を作る。「被写体は自分の被写体に注目してるから、こちらには注意を払っていない。タイトルは……“シャッターチャンス”っていうのはどうだい」
「そんな写真撮って、意味があるんですか」
敢えてきつく言ったけれど、拒絶を示したけれど、これぐらいでめげるような人じゃない。先輩が見透かしたように笑う。
「もちろん、これを今年の展示にするんだよ。自分では、なかなかいいアイディアだと思うんだけど、お気に召さなかったみたいだね」
先輩は、肩を竦めて見せる。僕は静かに、深く息を吸う。
「どうせなら、自慢の彼女さん達にモデルになってもらったら良いんじゃないですか」
僕がそう言うと、先輩は一瞬あっけにとられたような顔をして、それから元の柔和な笑みを見せた。けれど、先輩のメガネの奥の目が、僅かに細められたのが、僕にも分かった。
「いや、頼もうか、とも考えたんだけど、それじゃあもし別の子が僕の展示を見に来たら、面倒なことになるだろ。君子危うきに近寄らず、って言うじゃないか」
虫も殺さないような顔で、そんなことを言う。先輩が現在進行形で三人と付き合っている、という噂は、写真部では――あるいは狛※高校では――公然の秘密だった。隠そうともしないその態度に、苦い笑みが浮かぶのを自覚する。
何か皮肉の一つでも言ってやろうかと考えて、それから諦めた。誠実さ、というものとは違うけれど、先輩は確かにまっすぐに生きている。僕が横から何か言っても、そんなことは先輩のベクトルを変えたりはしないだろう。そんな風に感じられる人だから。
だから、話題を逸らした。
「確かにそのカメラじゃ、人物を主体に撮るのは難しいかもしれませんね。けど、先輩先週まではデジタル一眼使ってませんでした?」
「もちろんね」そう前置きして先輩は言う。「カノジョたちに、『綺麗に撮ってね』なんて言われたら、そっちを使うんだけど」
僕は小さく溜息を吐いて、言った。
「今日は持って来てないんですか」
「持ってるよ。けどね」先輩は、首から下げたトイカメラをちょっと持ち上げて見せた。「これじゃなきゃ撮れないシャシンもあるんだよ」
トイカメラのプラスチックレンズが、光を受けて鈍く輝いた。トイカメラの機能は最小限に限られていて、ピント調節も自分でやらないといけないし、僅かな熱で膨張し、歪むプラスチックレンズは、細緻な写真を撮影するのには向いていない。
けれど、光の入り方が独特だ。写真の四隅が暗く染まり、柔らかい印象を受ける写真に仕上がる。手間はかかるけれど、熱心な愛好家も多い。
「確かに、面白い写り方しますもんね」僕は頷いて同意を示した。「けど、慣れないとなかなか上手く撮れませんよね、ソレ」
「だから、慣れる為に使うんじゃないか」
「けど僕は、今のカメラの機能だって使いこなせてませんから、それを覚えるのが先決ですよ」
僕が言うと、先輩は苦笑する。不思議に思って先輩に聞いた。
「何か変なこと言いました?」
「いやね、カメラの話じゃないんだよ」
「じゃあ、なんの話なんですか」
「つまりね」先輩はそこで区切って言う。「技術というか、心構えの話なんだよ」
思わず口から、はあ、と生返事が出た。先輩は言葉を続ける。
「君はシャシンを撮る時、何を考えてる?」
その問いかけに、頭の底が凍り付いたように働かなくなる。僕がシャシンを撮る理由は、今しがた無くなってしまったばかりだった。それでも、混乱する頭の奥底から、何とか言葉を絞りだした。
「それは、やっぱり、被写体の特徴を浮かび上がらせるような」
そこまで言った時、先輩が、はは、と笑った。
「それは、吉田の言った事だろ。そのまんまじゃ、自分の物にはならないよ」
「自分の物って」
「これは僕の考えだけどね」先輩は僕の言葉を遮って言う。「撮りたいシャシンを創り上げる、自分なりの方法、ってこと」
「それは、フレームの中から余分な物を引いていって、とかのアレですか」
「そういう風に普通は言うけれど、このカメラじゃ、被写体がしっかり写るかどうかすらあやしいからね。引き算よりも、足し算をしなきゃいけないんだ。それに慣れる為の練習をしてるんだよ」
僕は、先輩がトイカメラでシャシンを撮る様子を想像した。被写体までの距離を考えてピントを調節し、思案して、フィルムを狙い通りに感光させる為に様々に角度を変え、光を足す。
撮りたい、と思った時に、すぐにシャッタが切れるわけではないけれど、フィルムの上には、その苦労が、確かに積み重ねられているはずだった。
「それが、先輩の方法、ってことですか」
僕は先輩にそう問いかけた。
「分からないよ」先輩は朗らかに笑った。「今はいろいろ模索してるところだし、被写体によっても変えなきゃならないとは思うけどね」
僕はそれでもしばらく考えていたけれど、答えは出なかった。考え込む僕に、先輩は言った。
「別に今すぐに考えなきゃならないことでもないよ。そう言う考え方もある、ってこと。見えてる物はそれぞれに違うんだから、人とそっくり同じ方法にはならない、ってだけ」
「そういうものですか」
僕は先輩に返す。
「そういうもんでしょう」
先輩もオウム返しにそう答えた。
そんな会話に、ふと、おかしみがこみ上げてきて、僕は笑った。乾いたコップの縁から零れるような笑いだった。
「まあ、それはそれとして」先輩が言った。「ジュース、買いに来たんでしょ」
そう言われて、僕もどうしてここにいるのかようやく思い出した。
「そういえばそうでした。ついでに部長達も探そうとしてたんですけど」
「じゃあ、とりあえず校舎の方に戻ろうか。待たせたお詫びにおごるからさ」
「いえ、お金なら吉田先輩から預かってるんです」
僕はそう言ったけれど、時任先輩は、まあまあ、とぼかした。そして、踵を返して校舎の方に歩きはじめた。僕は、慌てて先輩の後を追った。
先輩の後ろ姿は、今は切り離して、ゆっくり考えなさい、と言っているように、僕には聞こえた。何が解決した、というわけでは無いのだけれど、ほんの少し、心が軽くなるのを、僕は確かに感じた。
例え、それが一時の逃避に過ぎなかったとしても。
その先でいずれ、自分の心という、暗く深い淵を覗き込むことになるのだとわかっていても。




