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文化祭黙示録  作者: 黄印一郎
日常的非日常 編
2/19

Chap.2 森林浴

 羽田翔は美術部の幽霊部員である。しかしながら、彼は放課後頻繁に美術部のアトリエ(美術準備室)へと顔を出す。美術教師の私物であるコーヒーサイフォンをアルコールランプで加熱し、液体がゆっくりと上下するのを眺める。それからカップにコーヒーを注いで部屋の中央に置かれたソファに腰を下ろし、部員と世間話をしながらコーヒーを啜る。そして、コーヒーを啜り終えたら、家路に着く。


 もちろん、美術準備室は飲食禁止かつ火気厳禁である。


 特にそうしなければならない理由はない。部員たちも、彼と気が合う者もいるし、まともに活動しようともしない彼に業を煮やしている者もいる。それでも彼はアトリエに足を運ぶ。彼自身は、自分は手持ちぶさたな感覚に振り回されているだけだ、と思っている。事実はどうあれ、翔が暇なのは確かである。


 とは言え、翔は美術部の美味しいところだけを摘もうとしているわけではない。ふらりとやって来ては、その度にそれなりの負担を背負い込んでいるつもりでいる。


 あくまでも『それなり』の範疇ではあるが。





 放課後も終わりに近づき、日没も差し迫った時間、美術部にふらりと立ち寄った翔が見た光景は、美術部員達がここ最近目にするようになったものであった。


 それは、美術部部長の三学年・糸杉彩子が肘掛けにしな垂れかかるようにしてソファで寝ている様であった。電灯は灯されていないが、窓から差し込む残照が室内を僅かに照らしている。


 美術部ではこの時期、文化祭展示作品の準備に大わらわである。とは言え、三年生は実質的に引退しており、文化祭の展示は二年生が主導して行う。二年生達の遣り様を見て、誰を次の部長や副部長といった幹部に任命するか、三年生で決めることになっている。いつもなら部員達が作業に没頭しているはずのアトリエには、しかし今は彩子一人の姿があるだけだった。


 彩子は制服からツナギに着替えていた。美術部員達が入部と同時に揃いで購入するものである。


 彼女のツナギは所々絵の具がこびりつき、その上から更に絵の具が重ねられ、あるいはアクリルガッシュが白く固まっている。何度も洗濯されたのであろう。裾は所々ほつれ、藍色だったはずのそれはくたびれたブルージーンズのように色あせている。そのツナギ自体が、彼女の3年間の記録なのだ。


 秋に差し掛かり日の入りが早くなったこの時期は、ちょうどアトリエの窓の正面に夕日が見える。彩子はそれを描こうとしていたのだろう。イーゼルに据えられたキャンバスには、窓から見える町並みが精緻にデッサンされている。西の地の果てに沈む大きな太陽には、薄く淡く黄色で下塗りがされていたが、そのまま投げ出されていた。


 テーブルに置かれたパレットには、『赤』とか『紅』とか『緋』とか、およそ『あか』と呼ばれる色を全て網羅しようとしているかのようにたくさんの色が混ぜ合わされ、作り出されている。まだ乾ききっていない油絵の具は、ぬらぬらとした光沢を放っていた。


 翔はしばらく彩子の様子を観察していたが、彼女が完全に寝入っていることを確認すると、足音を忍ばせてソファの方へ歩いていった。


 ソファの前に辿り着くと、彩子が眠っていることを再度確認し、ゆっくりとその手を鞄の中に入れ、小さなケースを取り出した。そして静かに鞄を床に下ろすと、ケースを開け、取り出したそれをゆっくりと彼女の顔に近づけていく。


 そしてようやくそれが彩子の顔に触れそうになった時、彩子の瞼がぱっと開き、翔と視線が合った。


「おはようさん」


 彩子は寝付きも良いが寝起きも良い。敏感に周囲の気配を察知して目覚めると、目の前の状況をすぐに把握したらしい。疑問に思ったことをすぐに口に出した。


「ところでなんで私にそんなん掛けさせようとしてるん?」


「ああ、言ったことありませんでしたね。俺、実はメガネ趣味なんです。ええ、そんなようなものです。駄目ですか」


 翔は内心狼狽しつつも、外見上はにこやかな表情で答えた。ここで引いては彼の目的は達成されないからだ。


「いや、あかんことはないよ。ただ知り合いが寝てる隙に勝手に掛けさせようとするような人には、あんまりお近づきになりたないけど」


 彩子の口調は極めて平坦かつ冷ややかだ。事務的と言っても良い。


「ああ、これは済みません。今度は言ってから掛けるようにしますね」


「うん、わかればええねん」


 彩子の言葉に、翔は作り笑いを貼付けたまま口を開く。


「じゃあ糸杉先輩、これ、掛けて呉れないですか」


 翔の真摯な願いに、彩子は疑問を返す。


「なあ、羽田君」


「なんですか」


「なんでそのメガネ、花粉防止用ゴーグルみたいな形してるん?」


「花粉防止用ゴーグルですよ。俺、正確には花粉防止ゴーグル趣味なんです」


 翔は笑みを途切れさせずにいう。穏やかな笑顔を形作っている彼の表情は、能面のように無機質な作り笑いであることが誰の目にも見て取れる。しかし彩子はそれに対しては何も言わない。


「そうか。最近の流行に敏感なんやね。ところでなんで左手にクリームパイ持ってんの?」


「それは……」


「それは?」


 翔はしばし沈黙した。翔の左手には紙皿に盛られたクリーム(パーティ用)がある。そのままパイを投擲する場合、狙う対象は一つしかない。解答は既に示されている。途中でばれた悪戯に、意味はないのだ。


 だが、彩子はじっと言葉の続きを待っていた。翔が言葉を続けざるを得ない状況である。永遠にも似た沈黙の後、翔は諦めとともに口を開いた。


「それは……もちろん先輩の顔にぶつける為だぁ!!」


 翔は左手を大きく振りかぶると、勢いを付けてパイを発射しようとした。


 しかし、


「ええかげんにっ、せえっ!!」


 彩子の固く握りしめられた拳が、翔の顔面を直撃した。





「糸杉先輩って、結構容赦無いですよね」


「そんなことあれへん。これは羽田君みたいなアホの子に対してだけの特別仕様です」


 濡らしたハンカチを頬に当てながらいう翔に、彩子はいたずらっぽく答える。翔の方は自らに対する評価に少々不服であったが、しかし同時に安堵していた。ともかくも、先程まで翔が行おうとしていた暴挙は、水に流されて無かった事になっているようだ。


「それで、なんでこんな時期に準備室までお越しになったんですか、羽田君?」


「それを言うなら、どうしてこんな時間まで残っているんですか、糸杉先輩?」


 彼らはそれぞれ相手の為しように疑問を持っていた。美術部は文化祭で個人ごとに作品展示を行うのだが、他の者が自分の作品の仕上げに追われる中、頻繁に顔を出す割に絵の一枚も描こうともしない翔に苦々しい視線を向ける者は多く、彼は文化祭が終わるまでは部へのちょっかいを出さないようにと三年生達から(内密にだが)厳命されていた。


 彩子の方はと言えば、美大への推薦入試をすぐそこに控えており、授業が終わったらすぐに美術予備校に向かうはずであった。部での活動は、彼女の事情を考慮して顧問公認で免除されており、美術部に立ち寄る理由は無いはずである。まして、放課後が終わろうとするこんな時間まで残っている事は考えられなかった。


 彼らはそれぞれ自分の疑問への回答を待ち、相手の表情を窺っていたが、やがて一方が唐突に声を上げた。


「分かったで」


 そう言ってにたりと笑うのは彩子である。面白いおもちゃを見つけたとでも言うような、意地の悪い笑みである。


「何がですか」


 対する翔の方は、何の事だかさっぱりわからない、という思案顔である。


「最近アトリエが妙に小ざっぱりしてるおもたら、羽田君が片付けとったんやな!!」


 迷探偵が犯人を名指しする時のような得たり顔である。それを聞いた羽田はしかし、


「ギクリ」


「それ、自分で言う人初めて見たわ」


「ばれては仕方がない。そう、放課後密かに準備室を掃除する、アトリエの小人さんとは私のことだ!!」


 今度は翔の方が得たり顔である。しかし彩子の対応は冷ややかであった。


「アホにはつきあっとれんな。まあええわ、何でそんな事しとったん?」


「……いや、一応俺も美術部の末席に加えて頂いているわけですから、まともに活動しない代わりにせめて何か役に立つことしようと思いまして」


 彩子の優しさによって発動されたスルースキルは、翔の心を深く抉ったようである。そんな翔の様子に気づくこともなく、彩子は言葉を返す。


「自分にしては珍しく殊勝なことするんやね。偉いやん」


 それを聞いた翔は、しかし喜ぶでも恥ずかしがるでもなく、訝しげな表情である。彼は抱いた懸念を吐き出すようにまくし立てた。


「どうしたんですか先輩、疲れてるんですか、コーヒー入れましょうか、それとも、悩み事でも抱えてるんですか? 俺なんかで良かったら、相談に乗りますよ?」


「随分な言いようやね。ウチになんか恨みでもあるんか」


「だって、先輩が俺の事誉めるなんて、天地がひっくり返ってもないと思ってましたから」


 訝しげな顔で失礼なことを言う翔を、彩子は怒ることもなく微笑ましげに見ている。


「まあ、たまには誉めたらんと羽田君も立つ瀬あらへんやろうからね」


「……ありがとうございます。で、まだ僕の疑問には答えてもらってないんですけど?」


「あ~、そうやったね。ええよ、何でも聞き」


 彩子の言葉に、翔は即座に疑問を投げかける。


「先輩は推薦入試の準備で忙しい筈じゃないんですか? 今月は部活に顔を出せないって、先輩たちからは聞いてますけど」


「準備の方は目処が立ったというか、これ以上根を詰めても今は技術的に得られるもんがないというか、とりあえず一度リラックスする為の時間を置こうと思ってん」


「だからってわざわざアトリエで筆握ってたら、世話無いですよ」


 翔は、彩子の身に染みついた習性に呆れ、俯き、苦笑する。入試の実技試験の練習をする為に絵筆をとっていたのが、今度は心を落ち着けるために絵を描いている。結局、彩子は部の誰よりも絵を描くことが好きなのだと、翔は思う。


 彩子がいる間、アトリエの時間はゆっくりと流れる。それは、どのような形であれ、彼女にとって絵を描いている時間が何よりも得難いものであることを示している。そしてそれ以上に、アトリエにいる彼女自身が心穏やかであることを意味している。


 そして翔は、自分がそんな時間の流れの中にいることが好きだったのだと、唐突に気が付いた。


 彩子はソファから立ち上がり、蛇口をひねってコーヒーサイフォンのフラスコに水を入れた。マッチを擦ってアルコールランプに火をつけ、フラスコを加熱する。おぼろげな光が、アトリエを優しく照らす。


「羽田君も飲むやろ。もう日も暮れるし、これ飲んだら帰ろか」


 彩子はそう言いながら食器棚を開け、マグカップを2つ取り出す。フラスコ内の水が沸騰したのを確認して漏斗を差し込むと、フラスコの中身は少しずつ漏斗に吸い込まれていった。


 こうやって時間を使うことは、もう出来ないかもしれない。そう考えた翔の口から、ぽつりと言葉がこぼれる。


「俺、先輩とこうやって過ごすの、好きですよ」


 翔が顔を上げると、彩子がじっと自分を見つめていることに気が付いた。翔は視線を合わせたまま、ゆっくりと、もう一度口を開く。


「こうやって、先輩と他愛もない話したり、先輩が絵を描いてるの見てたりすると、俺も何となく安心できるんです。それだけですよ」


 ほんの少し、茶化すように肩を竦めた翔に、彩子が言葉を返す。


「私もな、こうやってアトリエで絵描いてんの、好きやったよ。ここでキャンバスに向かってると、落ち着く。せやから今日はここにおった」


 彩子はそこで言葉を区切った。それから目を伏せ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その声は僅かに震え、どこか弱々しい。


「……けどな、私も先へ進まなあかん。ここから出て行かなあかん。

 大学行くていう事だけやなくて、これからいろんな物見る準備をせなあかん。今ここに居んのは、ほんの少し道を戻って風景を眺めてる、みたいな物や」


 彩子は目を開き、その瞳に翔を捉えると、今度はしっかりとした口調で言った。


「羽田君も、これからいろんな物を見ていかなあかん。これから二年生になるんやし、ここで寛いでばっかりおらんと、背筋伸ばして自分でしっかり立たなあかん。アトリエの掃除は、その第一歩、てとこやな」


 翔は彩子の目を見つめ返す。彩子の瞳に、決別と前進の意思が込められていることが、翔にもわかった。


「それで珍しく誉めるような事、言ったんですか。先輩、スパルタ式なんですね」


 翔はそう言って苦笑する。


「まあ、餞別みたいなもんやな。ああ、そろそろコーヒー、出来たみたいやな」


 彩子はアルコールランプをサイフォンの下からずらし、キャップをかぶせて火を消す。既に日は完全に沈み、アトリエの中は突然闇につつまれた。翔は立ち上がると、手探りで電灯のスイッチを入れる。点滅を繰り返して灯された強い光に、眩暈のような感覚が二人を襲った。


「消すんだったら、先に言ってくださいよ。びっくりしたじゃないですか」


 明りの中で、翔の目に、琥珀色の液体がゆっくりと下がっていくのが映る。もう漏斗の中には、ほとんどコーヒーは残っていない。砂時計の砂が落ち切る寸前のように。


 コーヒーがフラスコに完全に落ち切ると、彩子はフラスコをサイフォンから外し、二つのマグに注ぐ。液体の流れるやわらかい音が、翔の耳に優しく、切なく響く。


 彩子はマグの一つを翔に手渡し、残る一つを啜ろうとしたが、


「あつっ!」


 即座にマグから口を離した。顔を顰め、舌を空気に曝して冷やそうとする。


「大丈夫ですか、先輩!」


 翔はマグをテーブルに置き、彩子に駆け寄った。


「出来立てはちょっと熱すぎやな」


「先輩、猫舌ですもんね」


「これは、冷めるまで飲まれへんな」


 手元のマグを慎重にサイフォンのそばに置き、彩子が顔を上げると、そばに寄った翔と目が合った。翔の方が彩子よりも、少し背が高い。額の触れ合わんばかりの距離である。


 自分たちの今の状況に気づいた翔が身を固くしていると、彩子がにやりと笑って、言った。


「コーヒーが冷めるまで、ちょっと時間つぶそか。羽田君、さっきの悪戯完遂せんかったら、もう機会ないかもしれんな。やっとく?」





「行きますよ?」


 翔がそう言うと、彩子はこくりと頷き、目を閉じた。花粉防止用ゴーグルは、目の周りを完全に覆っている。翔は手に持ったクリームパイを、ゆっくりと彩子の顔に近づけていく。


 やがて、僅かな衝撃と共に、パイを盛った紙皿が彩子の顔に張り付いた。翔はそこで手を止め、紙皿を引きはがした。


「意外と気持ちええもんやな、これ。せやけど、真っ暗になってしもたわ」


 彩子は顔中にクリームを付けたまま、そんなことを言う。かけられたゴーグルのグラス部分も、余すところなく白いクリームに覆われている。


「今、ゴーグル外しますから、動かないでくださいね」


 翔は彩子のこめかみに手を伸ばす。そして、髪の中から手探りでつるを探し当てると、頭を両手で包み込むようにしながら、彼女からゴーグルを引き剥がす。それから、傍らの机の上にとりあえずペーパー・パレットを敷き、その上にクリーム塗れのゴーグルを置く。


「今度はえらい明るうなったわ。けど、良かったんか?」


「何がですか?」


 翔が彩子の質問の意味を量りかねていると、


「最後のチャンスやったかも知らんのになぁ~」


 彩子は間延びした声でそんなことを言う。それを聞いてようやく理解した翔は、苦笑した。


「何言ってんですか。先輩はスパルタ式が身上、でしょ。自分でそこまで追いついて見せますよ」


「ふふ、頼もしいな」


 彩子もにやりと笑う。翔はそっと視線を外し、上着のポケットからハンカチを取り出した。それに気が付いた彩子が、慌てた調子で言う。


「ああ、ええんよ、そんなん気にせんで。こんなもん袖で拭ったったらええねん」


 けれど、翔は退かなかった。


「だめですよ。さあ、俺が拭いますから、目を閉じていて下さい。口も、ちゃんと閉じとかなきゃ駄目ですよ」


「はぁ。わかったわ。ん」


 彩子は目を閉じると、神妙な表情になって翔を促し、その瞬間を待つ。彼女の顔は肉厚の化粧に覆われているけれど、目の周りだけは地肌が曝されている。伏せられた瞼の下で、長い睫が僅かに震えているのが翔にはわかった。


 それから彼は。


 ゆっくりと、


 丁寧に、


 きめ細かく、


 磨き上げるように。


 彼女の肌を拭った。





「ところで先輩、何で今日は関西弁で話してるんですか。思わずつまらないボケをかましたりしちゃいましたけど」


「関西の美大に行こうと思ってるから、今のうちに練習してるんだよ」


「……イントネーション、変でしたよ」


「…………」


「まあ、まだまだ練習が必要ってことで」


「じゃあ、羽田君もまだまだ練習が必要ってことで」


「…………」


「…………」


「……上手になったら、会いに行ってもいいですか?」


「……うん、いいよ。けど、今日は帰ろうか」


「はい」




 木の扉が緩やかに閉じられ、静謐に満ちたアトリエだけが残った。




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