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文化祭黙示録  作者: 黄印一郎
非日常的日常 編
17/19

chap.! 愛について

 三岳の返答に、小春の頭の中は驚愕で塗りつぶされる。自分と彼は、少なくとも言葉の上では、気持ちが通じていたはずだった。だからこそ、自分も一歩前へ踏み出す勇気を持てたはずだった。


 それが、彼女の言葉に、彼は嬉々として否と答えた。


 小春には、彼の言葉も、意図も理解できなかった。それでも、小春は驚いて見せたりはしない。彼女の矜持は、そんな醜態を許容しない。


「どうして?」


 小春はただ、淡々と訊き返す。静かに、冷静に聞こえるように、喉の上辺から声を出そうとした。けれど僅かに、声が震える。


 三岳は小さく、くすりと笑みを零した。


「だって、先輩は別に僕と付き合いたいわけじゃないじゃないですか」


 三岳が答え、小春は首を横に振る。


 それを眺めながら、三岳は笑う。薄く、冷たく。


「先輩は僕の事を愛してくれるかもしれない。けど、僕の事を好きになってはくれないですよね」突き放すように、言う。


「そんな事ないわよ。私は、きちんと三岳の事が好きなんだと思うもの」


 そう。


 いつも、そう思いながら、彼を見ていたはずだった。


 暖かく湿った、やわらかい気持ち。


 手に入れがたい、愛おしいもの。


 いつしか心の奥底にあった思いは、時が経つにつれてだんだんと暗く、深いものになっていった。奈落に転がり落ちるように、勢いを増して行った。


 得がたい物を、心の底から求める気持ち。


 渇きに水を求めるよりも強い、底なしの望み。


 彼が持っている、自分が持っていない物の全てを、心の裡に飲み込みたいのだ。


 そうやって生まれた、血の通わない、冷たい渇望。


 それが満たされた時、自分がどうなってしまうのか、小春は想像することさえ出来ない。そもそも、満たされるなんてことがあるのかさえ、わからない。


 流れる水のように、滑らかでも、澄んでもいない。蠢く粘菌のような、どうしようもなくおぞましく、ひりつくような渇きがあふれている。小春自身も受け入れ難い、醜悪な欲望が煮詰められている。


 それでも、ただ彼を求めていた事を、間違っていたとは思わない。


 裏切られる事は、無いと思っていたから。


 信じていたから。


 赤ん坊が、母親に抱かれて理由なく安心するように、それがあたり前だと思っていたから。


 これが恋なんだ、とそう思ってきたから。


 それは、決して覆される事のない事実、のはずだった。


「先輩は、僕の事を好きでいてくれるかもしれない。けれどそれは、別に僕じゃなくたって、構わない望みなんだ」三岳は、昂ぶりを押さえたような表情で、小春を見る。ゆっくりと、かんで含めるように、言う。「先輩は僕の事を愛してくれるかもしれない。けれどそれは、お気に入りのぬいぐるみを愛でるのと、何も変わらない」


 三岳はそこで、息をついた。何もかも、はき出すような吐息だった。そうして、大きく息を吸い込んだ。胸の裡にある全てを、飲み込もうとでもするように。


 それから、


「だったら、別に彼氏彼女って関係じゃなくたって、いいですよね」


 透き通るような、笑みを見せた。


 けれど、どこかおかしなところがある。小春の知っている彼とは、何かが違う。


 そう囁きかける本能に従って、小春は三岳を見つめ続けた。彼の瞳から、目を逸らさないでいた。


 そして、彼女は気が付いた。


 小さく薄暗い、二人きりの放送室の内側でなければ、小春も見落としてしまったかもしれない。彼の瞳から、常感じるような魅力的な輝きが失われて居ると言うことに。あるいは、彼女自身が今の彼の瞳に魅了されていないことに。


 彼の瞳から失われた、彼女にとって愛おしいものは何なのか、小春は知っている。


 彼は部厚い笑みの下に押し隠そうとしている。


 後ろ暗さを、あるいは恋の残り火を。


 目を背けているのだ。


 受け入れがたい現実から。


 受け入れられない、彼にとっての事実から。


「君は、きっと誤解しているのよ」小春は彼を窘めるように言葉を紡いだ。


「何を誤解しているって言うんですか」三岳が心底不思議そうに訊き返す。


「言ったはずでしょう。私は、君のこと、好きなんだよ」


「そういうこと言うの、止めませんか? 先輩はただ、ちょっと気に入ったものをそばに置いておきたいだけ、じゃないですか。そんな風に扱われるだけだったら、僕は今まで通りのままでいいと思ったんです」


「私は、あなたと付き合いたいと思っているのに?」


「そういう言葉で、これ以上期待させられて落胆するのは、もうたくさんです」


「嘘なんかじゃない。からかっているわけでもない。本心よ」


「あなたがそう思い込んでいるから、僕はこうするんです」


 頑な三岳に、小春は一度大きく息を吸い込んで、小さく溜息をついた。それから、訊いた。


「それで、あなたは一体どうなりたいのかしら」


 小春は、三岳とじっと見つめ合ったまま、目を逸らさずにいた。けれど、つい、と目を伏せて、もう一度開いた時には、三岳は朗らかに笑って、おどけたように肩を竦めて見せていた。


 それを見て、小春は悟った。


 彼は、諦めてしまったのだ。


 彼女を求めることから、目を逸らしてしまったのだ。


 求め合っていたはずの彼と彼女は、今はもう違うところを向いているのだ。


 口を開いても言葉が出なかった。酸素の供給されない金魚鉢の中にいるように、小春は喘いだ。


「僕は、たった今、あなたが僕の方を見てくれているっていう、その事実だけで十分なんです。先輩が僕の事を自分のものだと思っている、その一事だけで十分なんです」


 断定的に、彼女から希望を根こそぎ奪うように三岳は言う。


「ただ、先輩のそばにいられるだけで、僕は満足なんです」


 自分の心を手に入れた人が自分に心を向けようとしないなら、いっそ自分の心を捧げるのは止めてしまえばいい。心を注いでも、同じだけ返してもらえなければ、ただ苦痛が募るばかりだから。


 そう考えたのだと、小春にも分かる。


 分からざるを得ないような状況を、眼前にしてしまったのだから。


 だから三岳は、小春も自分の心を手に入れるのは諦めろ、とでも言いたいのだろう。


 それでも、三岳の言葉はその声は、微かに湿り気を帯びていた。


 突き放して見せても、彼はまだ、彼女をつなぎ留めるよすが(・・・)を求めているのだ。


 彼の心は、まだ彼女を求めている。それは、小春にとって明らかなことだった。それが思い込みに過ぎないとしても、そう思い込むことで情念のただ中に一瞬の凪が訪れる。


 驚愕に彩られていた小春の芯の部分が、すっと冷えた。頭の冷静な部分が、まだ自分の欲望は叶う望みがあるのだと示している。


 彼をこちらに向き直らせたくて、視線を投げかけて欲しくて、彼の心を、自分に向けて欲しくて。


 そのためにどうすればいいのか、直感は教えてくれない。たくさんのものがぐるぐると渦巻いて、一つの答えを導き出せない。


 考える事でしか、わからない。


 小春は三岳が自分に求めていたものを彼に与えられるかどうか、愛を注がれた時に自分も愛を返してあげる事が出来るのか、考えてみる。心底求めているものを自分が手にした時、どう振る舞うか想像すらできないから。幸福を得た高揚感で、彼女にとって大事な何もかも置き去りにしてしまわないという保証が出来ないから。


 もちろん、思考の果てに答えは出ない。これまでだって、考えても答えが出てこなかった。幾多の考えが頭の中を駆けていって、思考のテーブルの上から零れ落ちていく。


 小春がどんなに考えたって、結局頭に残るのはいつも一つだけなのだ。


 彼を失いたくないという、単純な望みだけなのだ。


 だから、


「イヤよ」


 小春は、抗う事にした。


「えっ?」


 三岳が、間抜けな顔をして、訊き返す。詰め将棋の答えを導き出したように自慢気な顔をしていた彼の瞳が、とっさに見開かれる。


 ほら、振り向かせてやった。


 王手を、覆してやった。


 自分の手で、彼の心を掻き乱してやった。


 小春は内心、にやり、とする。そして、思い出す。


 こういうやりとりは、三岳が入部した当初の方が多かった。理詰めで余計なものを排していって、余ったものを組み立てる、そういう彼の思考に対して曲りなりにも小春が楔を打ち込むことが出来たのは、彼女がそれを覆すだけの意思を、感情を持っていたからだった。


 小春の想いに、彼が応えてくれたからだった。


 だから、


 小春の恋に、彼は愛で応えてくれるのだと、信じていた。


 なのに、彼は今、それを捨て去ろうとしている。


「そんなの、絶対に許してやらない」


 それ(・・)の生殺与奪の権を握っているのは彼ではない、自分なのだと、小春は吼えた。


 思考は、引き算だ。平等な多くの事実から余計なものを除いていって、最適解を導き出すための計算尺だ。だから、きちんと手順を守りさえすれば、誰がやっても同じ結論が出る。


 けれど、感情はそうじゃない。榎本小春は、そうじゃない。


「あんたがどう考えていても、私はそんなの絶対に認めてやらない」


 人は誰だって、心をあたたかな湿り気で満たしていたい。いつだって、渇きに対する恐れを抱えている。人間は、他人から好かれる事に満足感を覚えるように、出来ている。


 それでも、


「あんたがどう思ったって、私を愛さないなんて、認めてやらない」


 無意識下から生み出された感情は、それ自体がエネルギーを持っていて、しかもそれは誰にとっても等価値、というわけではない。水に浮くブイが空に浮いたりしないように、受ける人によって重さが違う。


 愛情は、等価値じゃない。等価交換は成立しない。


 万人に好かれるよりもただ一人から愛されたいと思う、その感情こそが恋なのだ。


 小春は知っている。小春にとって、そのただ一人が誰なのかを。そして、三岳にとって、その一人が誰なのかも。


 だって、彼の口から直接囁かれたのだから。


 それを知っているから、思い切り傲慢になれる。


「だからあんたは、大人しくあたしの事を愛しなさい。そうしたら、あたしもほんの少しだけ、あんたのことを大事にしてあげる。時々頭を撫でて、優しくキスしてあげる」


 駄々をこねる子供のように、そういう言葉で、それじゃ駄目? と優しく問いかけた。


 小春は彼の視線の先で、にっこりと微笑む。優雅に、彼にとって望ましいであろう笑みを見せる。


 三岳はしばらくあっけにとられ、それから小さく頷いて、そのまま耳の先まで赤く染めて俯いた。


 そんな三岳を見やりながら、小春は考える。彼はきっと、彼女が彼をどれだけ愛おしく想っているのか、知らないのだ。知らないから、彼の愛情が彼女にとってどれだけ価値があるのか、試すような真似をして見せるのだ。


 もしかすると、きちんと、正面から、彼に愛を注いでやれば、彼に彼女の愛を囁いてやれば、そんな問題は起きないのかもしれない。溺れる程に愛を注いでやって、彼の心を満たしてやれば、彼も穏やかに過ごしていられるのかもしれない。


 それでも、自分の愛が彼にとって希少価値を持たないなんて、小春には受け入れられない。彼女の愛情を、空気に酸素が含まれていることが当然なようにあたり前だと感じられるなんて、許容出来ない。そんなの、平等じゃない。


 だって、小春はきっと浴びる程の愛を注がれても、満ち足りないのだから。


 愛を目一杯注がれたら、ほんの少しだけ、愛を返す。


 小春は多分、そういう不平等な契約を三岳にさせたのだ。そういう付き合い方が、彼女にとって望ましいのだ。


 それでもそこに、確かに愛はある。それだけは、変わらない。


 それだけは、信じていられるはずだった。


愛って何だろう、なんて、哲学迷路に迷い込んでみたり。


そういうテーマは多くの作家が既に描いていて、三番煎じ以下なんだろうなあと書き始めてからつくづく後悔しました。


古典物理学では、弾性係数が1を示す「完全剛体」なんてものを仮構してみたりしますが、世の中で語られる愛はまさにそんな感じ。


例えば聖書で語られる愛と、世の中で普遍的に存在する愛との間には、大きな開きがあるように感じられて、完璧だなあ、と溜息が漏れたり。


そのギャップを知りたいなら「狭き門」でも読んでおけばいいし、断定的な解答を求めているなら、「好き好き大好き超(略」でも読めばいい。そうは思うものの、疑問には何らかの解答を示しておかないと気が済まない質なので。


それでも愛とは何か、なんてものに解答がないとしたら、それはきっとLoveを翻訳した際に、間違ってしまっていて、定義自体が成立していないんだと思います。



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