Chap.1 馬鹿とは何であるのかについてのある女史の考察
羽田翔は、本人の思うところ平凡な高校1年生である。あくまで普通の環境において、その自己洞察は裏切られる事は無い。
その日は土曜日だった。彼はいつものように始業5分前に登校し、いつものように靴箱を開け、いつものように1-Cの扉を開けた。
ただ一つ違うところがあったとすれば。
教室の内側で銃撃戦が始まっていた事であった。
「GO! GO!! GO!!!」
窓側から、アサルトライフルを三点バーストしながら無謀な突撃を仕掛ける者達。
「弾薬持ってこいやおらぁ!!」
机の上に分隊支援火器をドラムマガジン付きで設置して、教室中に弾丸をばらまく者。
「そこバリケード補修して!! 崩れかけてる!!」
陣地を守ろうと、机を積み上げて防衛線を築く者。
「衛生兵、衛生兵はまだか!!」
足に被弾した者を引きずって、何とかバリケードの後ろまで下がろうと足掻く者。
「……………………」
蜜柑の段ボールを被って、低姿勢からスニーキングミッションを行う者。
最後の一人は十字砲火点に誘い込まれ、集中砲火を受けてずたぼろにされていたが。
教室の教卓側に女子が、後ろ側に男子が集って、それぞれ赤と緑のマーカーで区別されていた。
そこは単に教室と言うにはあまりにも広大で、殺気に満ち、そして物語にあふれていた。
そこはまさに戦場だった。
そして戦線は膠着状態にあり、千日手の様相を見せていた。
入り口の前で立ち尽くしていた翔に最初に気が付き、声を掛けたのは、隣の席の園宮希美だった。
「あ、羽田君おはよ~」横倒しにした教卓を盾にしてライフルを構えながら、目だけで翔の方を見て希美が言った。
「今日は何?」そう訊く翔の様子には、驚いたり困惑したりしている部分は全くない。普段から慣れ親しんでいる、と言わんばかりである。
「昨日会長から通達があったでしょ、今日の一限をロングホームルームにするって」
「ああ、それが?」
「二限に、クラスの代表者が集まって文化祭の出し物を決めるから、それまでにクラスで意思統一しておくようにって」
希美のヘルメットが、正面から飛んできた弾丸をはじいた。彼女は慌てて頭を机の下に引っ込める。
「それがどうしてサバゲーになるんだ」翔は呆れながら訊く。
『やっぱり俺はユミと戦う事なんて出来ない!!』
『アキラ! 私も!』
クラスのバカップルが、机を積み上げたバリケードの
向こうから教室の真ん中に飛び出して来て、熱烈なハグをかます。
「なんかね、女子と男子で意見が真っ二つに割れちゃってぇ」
見つめ合う二人。
クラス全員の銃口がバカ二人に向かう。
「男子は全員メイド喫茶がいいって主張したんだけど、女子はそんなのより演劇の方が盛り上がるって言い争いになったの」
一点に集中した銃口が、一斉に火を噴いた。
『Yaha!! 仲良くおねんねしてなぁ』
『ヘッドショット、ヒット!!』『ハートショット、エイム』
『裏切り者に死を!!』
死体に追撃をかけるクラスメイトたち(バカども)。
「それで、羽田君がいないとうちのクラスって男女比20対20でしょ。ちょうど真っ二つに割れちゃって、多数決では収集が付かなかったんだよ。そしたら」
『ユミ……メイド服を着たお前の姿が見たかった……』
『アキラ……あなたがステージで舞う姿、最後に見たかったわ……』
彼らは教室の真ん中にバタリと倒れ伏した。
最後まで欲望に忠実な二人である。
「生徒会長がサバゲーの道具一式持ってやって来て、『時間がない、これで決着を付けろ』って」
「あの人は……」
翔は頭を抱えて呻いた。その間にも希美は、銃撃を敵陣に据えられている軽機関銃に命中させ、向こう側にたたき落としている。彼女が週に1度程度の頻度で社会人のサバゲーサークルに顔を出しているのは、あまり知るもののいない事実である。
『死んでからが本当の贖罪の始まりだぁ』
『自分の罪を地獄で後悔しなぁ』
バカ二人に、わざわざペイント弾を選んで打ち込むクラスメイト(バカ)たち。
死体に鞭打つ、本当に容赦のない行為である。
そして現実は非情であった。
うわぁ、ペイント弾ってクリーニングで落ちるかなぁ、などと思いながら、翔が話を続けようとすると、
「それで」
希美がそう声を発した時、突然銃弾の雨が止み、クラス全員の銃口が翔の方を向いた。シングルアクションの拳銃が撃鉄をカチリと起こされ、暗い銃口をしっかりと翔に見せつける。その間に希美はボルトをスライドさせ、次弾の装填を終えていた。
「羽田君はどっちにつくのかなぁ~~」
希美は猫科の猛獣を思わせる笑みでそう言った。
クラスメイトたちも、口々に言う。
『羽田、俺たち仲間だろ』
『俺、お前のこと、信じてるぜ』
『羽田君。私、どうしてもジュリエットになりたいの』
『羽田君なら、私の気持ち、わかってくれるよね』
瞬間、時が止まり、クラス全員の生暖かい視線が翔に集中する。視線に込められた名状しがたいおぞましい気配に、翔の背筋に冷たい物が流れる。
永遠にも似た数秒を経て、翔の口から出た言葉は。
「え~~っと、中立ってのは?」
途端に園宮の銃口が火を噴いた。銃弾は翔のこめかみを掠めて、そのまま廊下のガラス窓に大きなひび割れを作る。園宮は冷たい殺気をにじませながら、今度はきっぱりと、はっきりと言う。
「もう一度聞くわ。羽田君はどっちにつくの?」
「……………」
『……………』
「……俺ちょっと、トイレ行ってくる」
「撃て!!!」
『ファイヤ!!』
『ファイヤ!!』
今まで争っていたクラス全員が希美の指示の下、一つの生き物のように動いた。先ほどまで争っていた二人のリーダーが、今度は手を組んで同時に口火を切る。銃弾の雨が、翔に降り注ぐ。しかし、
「うぉぉおおおおおお~~~~~」
翔はキアヌ・リーブスばりのブリッジで初撃を躱す。彼の奇抜かつアクロバティックな動きに、教室中から歓声が上がった。
『おお、熟練の技だ』『しかし微妙どころでなくネタが古いぞ』
翔はそのままごろりと横に転がって射線上から逃れると、諸悪の根源を絶ちに駆け出す。道すがら、怨敵の名を絶叫した。
「ぁんのクソ会長が~~~~~!!」
「追え! 生かして返すな!」
希美の指示にはもはや容赦がない。
『くっ、羽田、俺お前のこと忘れないぜ』『あなたは私たちの野望の礎になるのよ』『人は、死んだらどこへ行くのかなぁ』『ユミ、名誉挽回のチャンスだ』『彼を斃して汚名返上ね、アキラ』
翔を追って、教室からわらわらと沸き出してくる37名+ゾンビ2体。
教室には、女子に踏みつけられた靴跡が真新しく残る蜜柑箱を被り、ぐちゃぐちゃになった偉大な男が、一人残されていた。彼の顔は喜悦に満ち、聖者のように優しく微笑んでいた。
※後でスタッフがおいしく頂きました。
「どうしてこんな事になるんですか!!」
翔は、執務机を拳で叩きながら叫ぶ。全身にペイント弾を撃ち込まれて全身蛍光色に染まり、ブレザーの左袖は追いすがるゾンビたちによって肩口からちぎり取られた、ひどい有様である。
何とか戦場を抜け出した彼は、生徒会室に駆け込んでいた。目標を見失ったクラスメイトたちは、戦線を校内全域に広げて再び膠着状態に入り、そして隙を見せたものから順次教職員に拘束されている。
戦端が開かれてから、既に1時間が経とうとしていた。
翔の目の前で窓を背に高級そうなリクライニングチェアに腰掛けているのは、2学年主席にして生徒会長、博覧強記にして明眸皓歯、才色兼備を地で行く園宮薫である。神が鎚を振るった彫像の如く整えられた美貌。加えて、姿に見合わぬ運動神経を持つ薫は、天は一人の人間に二物も三物も与えるという、生きた見本でもある。薫は、白魚のように細くたおやかな指先で、肩まで伸ばした美しく光を反射する黒髪を梳りながら、億劫そうに言った。
「あ~、やっぱりサブマシンガンはやりすぎたかぁ。狭い教室の中じゃ、ちょっと制圧力過多だよね。ごめん、会長うっかりしてた」
薫はぺろりと舌を出す。それを見た翔の眉間には深いしわが刻まれ、同時に目はつり上がり、怒りが露わになる。
「そこじゃねえよ! ゲームバランスの心配してねえよ!! 何で教室でサバゲーが始まるのかって聞いてんだよ!!!」
翔はみっともなくも全力ではぐらかし続けようとする薫の胸ぐらを右手で掴んで引き寄せ、より正確に質問した。薫は俯き、しょぼくれた様相を見せて答えを返す。
「仕方ない。仕方がなかったんだ! だって昨日の晩、希美がわざわざ会長の部屋まで来てね、『お兄ちゃん、明日の文化祭に向けての話し合いがあるでしょ。私、どうしてもやりたい物があるんだけど……』って俯きながら言うもんだからさぁ、もうやるしかないっしょ。死ぬ気で準備したさ。会長、妹が可愛くってもう生きてるのが辛かったんだよ、残念ながら」
残念である。色々な意味で本当に残念である。ミス・ユニバースに出場できそうな容姿と知性を兼ね備えている(はずの)薫は、言葉の示すところすなわち男性であった。加えて言えば園宮希美の兄である。天は一人の人間に幾つもの業を背負わせるという、生きた見本でもある。
希美は、普段決して兄のことを『お兄ちゃん』等とは言わない。彼女の行動が純然たる知略なのか。それとも無垢な子供の如き天然の為せる業なのか。いずれにせよ、それは確かに策略として作用していた。尤も、仕掛ける相手は頭は回っても相手によっては知恵の回らない男であったが。
「そのまま昇天しろやオラあ!!」
翔が怒声と共に鋭く繰り出した魂の左拳を、首を捻ってあっさりと躱した薫は、負けじと両手で翔の右腕を極める。肘を抜けて肩まで走る疼痛に、右手から力が抜け、翔は薫の襟から手を離してしまう。そこへ、頭を大きく後ろへ振りかぶり、勢いを付けた薫のヘッドバットが襲いかかった。それを見て取った翔は瞬時のバックステップにより、際どいところで薫の攻撃を躱した。かと思いきや、
「うわっ」
翔の視界が黒い何かで覆われ、彼の口から驚きの声が上がる。薫の長い髪が翔の顔面に襲い掛かったのだ。今度こそ翔は躱し切れず、あっさりと黒髪の洗礼を受けた。
「うえっ、髪の毛口の中に入っちまった。ぺっ、ぺっ」
大げさに唾を吐くまねをしてみせる翔。
「ふふふ、こんな事もあろうかと、会長髪の毛伸ばしといたんだ」
薫はその髪をさらりと掻き分ける仕草をする。
因みに薫が髪の毛を伸ばしているのは、小学生の頃に妹から『お兄ちゃん、髪の毛伸ばした方がかわいいのに~』と言われたことが発端である。その後成長した妹は、兄に対して腫れ物に触るような扱いをするようになったが。
「だ~め~だ~よ~羽田君。ここは停戦緩衝地帯なんだから。会長、怒っちゃうゾ」
薫は決して翔を挑発しているわけではない。未成年にして百薬の長に手を出したわけでもない。薬物でハイになっているわけでもない。本気である。紛う事なき素である。しかしながら、いや、だからこそ許せないということが世の中には往往としてあるものである。
そしてそれは、翔の憤りを沸点まで持って行くのに十分な熱量を秘めていた。
「今日は死ぬにはうってつけの日だぜ、会長さんよ」
「それはネイティブ・アメリカンの挨拶だよ、羽田君。意味としては『こんにちは』だ」
翔の堪忍袋が――既にはち切れんばかりに膨らんで漏れ出してはいたが――遂にいっぱいになり、怒りの念が次第に殺意へと変貌してゆく。二人は既に互いの制空圏の内側で向かい合っている。距離は、僅かに二メートル。互いに少しでも隙を見せれば、その瞬間に勝負は決する。
翔は、右手右足を前に出し、少し引いて左手を構え、更に体重を右足に預ける。狙うのは、李書文が得意としたという八極拳の背面体当り・鉄山靠。翔の功夫は目の前にいる男を窓の外まで吹っ飛ばし、そのままこの世と永久におさらばして頂ける程であった。
対する薫は、両足を肩幅に開いてすっくと立ち、胸を張って左右対称の自然体である。全身を適度に脱力させることでいかなる状況にも対応出来るその姿は、まさしく王者の構えと言える。
両者の間に流れる空気は翔の殺気が具現したようにどろりと重くなり、次第にその密度を増して行く。
そして遂に、翔が全体重を乗せた右足を踏み出そうとした、まさにその時。
「いい加減にして頂けませんか、会長」
決闘には場違いな闖入者。開け放たれた扉から生徒会室に響いたのは、その怜悧さと冷淡な美貌、そして、何が起ころうとも表情を歪めることのない冷静さから絶対零度の女王と渾名される、2学年次席の副会長・柏葉美幸の声であった。薫が慌てて言い訳にならない言い訳を言の葉に乗せる。
「いや、仕方がなかったんだよ。男には、避けては通れない関門というものがあってね」
「その前に会長には、校則に違反している長髪をバッサリと切る、という関門を潜って頂きたいのですが」
薫は即座に押し黙る。長髪は彼にとって、最近はろくに会話することも無くなった妹との、最後にして最大の思い出であった。
ごく常識的な事をごくごく当たり前に言う常識人の代表たる彼女の前では、非常識人の代表たる薫も形無しである。薫が彼に与えられた知性をいかに浪費してあたろうにも、彼女に対してだけは、無理を通そうとしても道理は引っ込まないのである。
半年前の生徒会選挙で薫が生徒会長への立候補を表明した際、全校生徒が美幸を対立候補として擁立しようとした。全校生徒の中で彼女だけが、野生の獣よりもなお自由な薫を沈黙させ、大人しく座らせておく事が出来るからである。
それ以外の状況で、彼は常に学級崩壊したクラスの小学生のごとき自由さを見せる。
他に良識を持ち、彼によって繰り広げられるであろう横暴を憂慮する人間が居ないわけではなかったが、彼らは狛※が誇る奇人と関わり合いになることを避けた。他の人間が対立候補として立つことは、まず考えられなかった。
そしてまことに残念ながら、美幸は副会長として立つ事を決め、薫の生徒会長就任が確定した。リーダーシップも十分であり、周囲の期待に応える事を由とする彼女が、どうしてこのときばかりは期待に応えてくれなかったのかは、狛※でも最大の謎の一つである。
尤も、薫がこれだけふざけた態度でありながら誰も薫への不信任を出していない現状は、生徒会が美幸によって持っていることを如実に表しており、実際の所は何も変わりはしない、というのが生徒の、そして教師の間での共通見解ではある。
美幸は向かい合う二人を交互に見やりながら言う。
「もう一限は終了しています。間もなく、各クラスから代表者たちが姿を現わすはずです。羽田君も落ち着いて下さい」
美幸の眼鏡の奥の冷めた眼差しを受け、翔は細くゆっくりと息を吐き、言った。
「そこの一般世間から隔絶したバカ会長が黙るのなら、俺もこれ以上やるつもりはありませんよ」
場の空気が急速に熱を失って行く。絶対零度の女王の面目躍如である。しかし、ここで薫が余計な差し出口を挟んだ。
「羽田君、それは違う。世の中には2種類の人間しかいないのだ。すなわち、単なるバカか、それとも愛すべきバカかだ。単なるバカは世間から隔絶しているが、愛すべきバカは世間が隔絶しているのだ。言うなれば選ばれた者なのだ。そして会長はもちろん、愛すべきバカだ。さあ、会長を称えて言い直したまえ。『愛すべきバ会長』と」
「会長、それはどちらも同じことです」
美幸が冷静にツッコミを入れるが、そんなものはもはや二人の耳には届かない。
再び空間に熱と殺気が充満し始めたが、そこで各クラスの代表者たちが入室してきて、今度こそ死合いはお流れになった。
「ところで羽田君、君のクラスの代表者がいないように見えるのですが」
繰り返すが、戦線は、再び膠着状態にあった。
「というわけでだ」
四限が終わり昼休みに入った教室で、翔は独り教壇に立ち、席に着いたクラス全員を前にして、生徒会室での会議の内容を説明していた。クラスメイト達の顔には疲労が色濃く浮かび、予定を大幅に延長して行われた戦闘が彼らの精神に深い傷跡を残していることを伺わせた。同様に翔の精神も自らの熱い怒りと美幸の冷たい冴えの間で揺れ動き、半ばまで下がった眠たげな瞼にその疲労が表れていると言えた。
翔はクラス全員に、同学年の他クラス、及び部活と出し物が重複しないようにする、という規則を説明すると、一息に言い放つ。
「うちのクラスの出し物は演劇、喫茶店、お化け屋敷、縁日、楽器演奏、将棋、囲碁、焼きそば、たこ焼き、揚げアイス、家庭用ゲーム実演、マジックショー、おっパブ、詩歌朗読、作品展示、ダンス、化学実験実演、以外のものにしてもらう。申請は今日の放課後までだ」
途端にクラス中から翔へとブーイングが殺到する。
『そんなに禁止されたらもう出来ることなんて残ってないわよ』『アキラの凛々しい姿が……』『おっパブなんて誰が申請したんだよ』『もう演劇出来ないじゃない』『エミのメイド服……』『何やってんだよ羽田』『マジで役に立たねーな』『おっパブ マジで行きてえ』
形の上ではホームルームの延長となっているため、担任教師が教室の隅に鎮座しているが、既にその存在感は空気と等しく、また当人もこれら魑魅魍魎に関わろうとはしない。彼とて、伊達に半年間このクラスの担任をやってきたわけではない。下手に手を出そうとする位なら、最初から介入しない方がましだということを知っているのだ。
しかし、
「黙れ、有象無象共」
翔はそう短く言い放ち、ブーイングは更に大きなものとなった。ついに希美が立ち上がり、翔に冷たい視線を向けながら言う。
「クラスを代表して言わせてもらうけど、羽田君はもうちょっと頑張ってくれても良かったんじゃないの? 高校1年の文化祭は、人生で一度しかないのよ?」
同様の意思を込めた視線が、翔に集中する。深く頷いて同意を示す者も多い。だが翔は怯まなかった。
「なら、お前がクラスを代表して俺の制服とスマホを弁償してくれるのか? なんなら、引き取ってくれてもいいぞ?」
翔は未だぼろぼろの制服を着たままだった。左袖は引きちぎられたままで独立独歩の精神を体現しながらも、全身に彩られたペイント弾の蛍光色が前衛的な雰囲気を醸し出し、彼のロックな生き様を存分に見せつけていた。
生徒会室での会議が予定以上に長引き、着替える時間が与えられなかったことに加えて、体育が無かったためにジャージを家に置いてきたためでもあった。
視線を逸らし、黙り込む希美。僅かなざわめきを残して静まり返る教室。
(※参考価格一覧)
破れた狛※高校制服一式:¥45,500―
炸裂したペイント弾:¥15×142―
ウォーターガンで壊れたスマートフォン:¥28,000―
締めて7万と5,630円也。
捨て去った羞恥心:priceless
「それから」
クラスの面々に、翔は更なる事実を告げる。
残酷な事実を。
「おっパブを開催するのは相撲部の面々だ」
今度こそ、クラス全員が完全に沈黙した。思わず想像してしまい、短く「ヒィッ」と悲鳴を上げる者すらいた。
男子相撲部。特にスポーツに力を入れているわけでもないこの至極普通(のはず)の公立高校に何故か存在する、武道系クラブの一つである。部員は三人しか居らず、彼らの豊満な肢体はいつも汗でしっとりと濡れ、芳しい芳香を放っている。実績を残せていないため、練習にも合宿費用の捻出にも苦労している。学園祭の収益で何とか部費を賄いたいのであろう。
客足は絶望的だが。
「じゃあ、もう昼休みもあんまり残ってないし、お前らなんかやりたいこと言え。そん中から、俺が厳正な抽選をもって選んでやる」
『なんで抽選なんだ』『羽田やる気無さすぎだろ』『もっと熱くなれよ羽田』
気だるげな翔に対して誰も大きな声で文句は言えないようであったが、クラスから小さくヤジが飛ぶ。それを耳にした翔は、しばし瞑目した後で、やはり気だるげな表情のまま言った。
「弁当食いながらでいいから、何やりたいか言っていけ。話し合いののち、出し物を何にするのか決める。もし時間内に決まらなかったら、全部の案を生徒会室に持って行って、美幸さんと俺で学生の課外活動に相応しいものを一つ選ぶ。それでどうだ」
狛※の誇るクールビューティ、柏葉美幸と同席するとあって、男子生徒からは恨みの声がぼそぼそと漏れる。それを聞いた翔は不満を漏らした生徒へ目を遣りはしたが、やがて言い訳するように言った。
「心配するな。間違いなく会長も一緒だ」
それを聞いたクラスメイト全員の視線が同情的なものに変わる。同時に、彼らから翔へささやかな励ましの言葉が投げかけられる。
『強く生きろよ』『人生、まだまだ先は長いぞ』『苦労した分、いつかきっといいことあるよ』『あの会長と一緒で我慢できるだけでも、俺お前のこと尊敬するよ』
「お兄ちゃんを悪く言わないでよぉ!!」
何が彼女をそうさせたのだろうか、希美が突然立ち上がり、叫ぶ。しかしクラスの面々は、これを彼女一流の冗句として流すことに決めたようだ。
猶も騒ぎ立てる希美を華麗にスルーして、翔は廊下側一番前の生徒を指名すると、各々が順次意見を出すに任せる。指名された男子生徒は律儀に立ち上がり、なぜか文化祭のあるべき姿を滔々と語り始めたが、しかし翔は彼を見ていなかった。翔の視線は彼を通り過ぎ、教室後ろの扉の小窓から室内を覗き込む、柏葉美幸に向けられていた。美幸はかすかな微笑みを浮かべつつ、翔に小さく頷いて見せた。それから、1-Cに背を向けて、立ち去って行った。
羽田翔は絶対零度と称される女性の稀有な微笑みに内心では驚愕しつつも、まだ出し物の決まっていないクラスを心配していたのだろうと理解し、またその責任感の強さに好感を抱いた。同時に、非常識な人間しかいないこの1―Cというクラスに関わらなければならない彼女の不遇に同情した。
しかしながら、彼は自分をその非常識な人間の勘定に入れることを忘れていた。
柏葉美幸は微笑んでいた。
彼女の冷徹な頭脳は、しかし彼女に訪れるすべてを瞬時に理解し、そこから『新鮮な驚き』という喜びを失わせていた。彼女は、自分が周囲と比べて突出して、あるいは隔絶して優秀な人間である事を知っている。それ故に、彼女は周囲と楽しみを共有できないことを理解こそすれ、周囲に落胆することはなかった。
それでも、人は自分が知らないものを得たい、見たい、共感したい、と思うものだ。
誰かが言った。真理とは、そこに辿り着く道のない場所であると。
彼女の冷徹な頭脳を以てしても、喜びに辿り着く道は見いだせなかった。
だが、1―Cの面々は、あるいは、生徒会長はどうであろうか。彼らもまた、喜びとは何であるのか知っているわけではない。しかし、彼らは自分が楽しくなる術を知っている。そして、周りの人間と共に楽しむことができる。
それは人を選ばない類の喜びだった。暗いところも、皮肉な面もなく、ただ純粋に楽しみ、共に笑うことが出来る。
それだけに、彼女は1―Cの非常識な面々と、そして、『愛すべきバカ会長』と過ごすことに、喜びを感じていた。周囲に置かれた状況を、心から楽しんでいた。
そして同時に、彼女にしては珍しく、自分がバカではないが非凡な人間である事を忘れていた。
ごく普通の少女のように微笑んでいた。




