異なる世界の空の下
これはオリジナル異世界戦争物長編ストーリーの外伝にあたる作品です。本編にあたる話は長くなりそうなので作成するかどうかは決めかねていたりしますが、一応この番外編単体でも読めるように書いたつもりです。楽しんでいただけたら幸いに思います。
なお、本編とは、作中に出てくるオルヴァン帝国という国家が舞台の話になります。
PS,2012年1月20日、本編へ挿絵及び、後書きにおまけ漫画集を追加しました。
ああ、どうも……。
……なんだ。なにか?
……俺の話か?
俺は、リクセル・フォーマット、この近くのオルヴァン学園の高等部2年に通っている、歳は17だ。この世界ではな。
なんだって……?
風景が日本風なのに、何故名前や顔が外国人なんだ?
そんなこと……俺にきくな。
これはただのパラレルワールドに過ぎないのだから。
そう、これはただの夢物語。
ありえない世界のありえない話なのだから。
『異なる世界の空の下』
ざあっと流れる洗い場の水道の音、それは本来なら俺が聞くことなど一生ないだろう音で、水は清潔に澄み渡り、泡だらけの使用済みの皿を綺麗に拭うてくれる。一人、この世界で異質な記憶をもったままの異分子である俺は、本来の俺なら潤沢に使えないはずの清水を思う存分に味わい、皿をきゅっきゅと磨き上げるその瞬間がとても好きだと密かに思っていた。
「兄貴!! やべ、なんで起こしてくれないんだよ!」
とたんに、騒がしい聞きなれたちょっと甲高い声が響き渡る。
どたどたとせわしない音を立てて、がらりと引き戸を開け現れたのは、思ったとおり、幼少時から慣れ親しんできたたった一人の家族というべき、最愛の弟、ラヘッドの膨れたツラだった。
「今日は朝練があるから、5時半にはおこしてくれって言ったろ! つか、兄貴もかけもちとはいえ、同じ柔道部員なんだから 朝練一緒に参加しようぜ?」
「どうせお前のことだから、ギリギリまで寝ようとするだろうと思って、お前の目覚まし時計を30分進めておいた。今はまだ5時15分だ、それよりパンを焼いておいた、座りなさい」
「え? まじ?」
弟は呆けたように目をぱちくりさせると、「さっすが兄貴」といって満足そうににまっと笑い、大振りにパンにかぶりつく。勝手に人の時計を進ませるなよとか文句を言わないあたり、本当純粋な子に育ってくれてよかったと、年寄りじみた感慨に襲われる。
「あひひもふいはよ」
もぐもぐと口を動かしながら、喋る弟に「食べながら喋るんじゃない」と一言注意してから「もう食事はとった」と告げる。
軽くショックを受けるころころ変わる弟の表情を見ていると、可愛いなと兄馬鹿な感想が浮かんでしまう。もう、あの世界では弟のこんな顔を見ることは出来ない、それがわかっているからこそ余計愛おしいのだろう。
「ラヘッド」
「何?」
食べ終わって、乱雑に着替えを始めた弟に、俺は二人分の弁当を袋につめながら、俺なりに精一杯の笑みを浮かべながら言う。
「今日、俺も朝練参加してもいい」
表情が硬いのは自分でも自覚がある。本当に笑えていたのかは自信がない、しかし、見る見る間に大型犬のような全開の笑みにかわって俺に突進してくる弟を見て、ああ、ちゃんと俺は今笑えているんだなと思って、そんなことにほっとした。
「兄貴!!」
感極まった声を出しながらがっしと俺を抱きしめる弟のその気持ちはありがたいし、可愛いとは思うのだが……お前俺より頭一個分もでかくて、16歳にもなるくせに何故そこまで子供っぽいんだと同時に悩まなくもない。
前言撤回になるが……もしかして、俺は弟の教育に失敗したのかもしれない。……よそう。不毛なだけだ、深く考えるのはやめておこう。
とりあえず離れなさいと一言だけ言って、揃って学校にむかった。紺色の学ランが朝日に映え、思わず目を細める。
鼻を掠める芳しい風と木々の香りに、ああ、ここは俺がいたはずの世界とは本当に別物なのだな、とそう強く自覚する。
此処は、まるで楽園だった。
* * *
硝煙と砂の匂い、それが俺が最も嗅ぎなれた匂いのはずだった。とある世界のとある帝国、幼き皇帝をトップに飾るその国を裏で牛耳る実質的な権力者、それが俺の父親だ。
乾いた世界で父の愛も母の愛も知らない俺にとって、家族と呼べる相手はたった1人だけ。
「ラヘッド」
その硝煙と砂の世界で……一つ下の、ただ一人の父母を同じくする弟は息絶えた。
その死に顔をよく覚えている。
弟は15歳になったばかりだった。
* * *
「あ~にき~、何ぼーっとしてんだよ、ふぐっ」
ふ……っと意識を戻される。
見上げればそこには俺の肘で鳩尾を殴られた(無自覚だ、一応)ラヘッドが悶絶しながら腹を抱えている姿があった。どうやら、ぼーっとしている俺が珍しくて後ろから忍び寄ったらしい。
「すまん」
「いい……俺も悪かったし。それよりもうすぐ予鈴なっちまうぜ」
謝る俺に、手をヒラヒラとふりながらそんな返答を返す弟。涙目でなんでもなかったような態度とろうとしても、格好がつかないぞ、とは流石に言えなかった。
「よし、以上、本日のHRは終わりだ」
ぱんと、日誌を閉じて明るく告げる赤茶髪の大男の、その言葉を合図にクラスは笑いに包まれる。
にんまりと大きな虎みたいな顔が笑顔になると、皆釣られて笑ってしまう、これはきっと男の生まれもった才能なんだろうなと俺は思う。お世辞にも明るいとも社交的とも言えぬ俺としては、ほんの少しだけこの男のこういうところが羨ましい。
男の名前はガーマ・コルク。この世界においての俺の担任の教師であり、体育教師であり、柔道部の顧問でもあった。
「あ……と、フォーマット、ちょっとこっちこい」
「はい」
HRも終わり、教室から出かけた男は、ふっと用事を思い出したと言わんばかりに少しだけ顔を教室に戻して、俺を呼ぶ。
そして廊下に出て、正面から相対し、男は一言。
「……お前、相変わらず、ちっこいな」
そんな余計な言葉をつぶやいた。
「それが用事ですか?」
思わずもれた本音といった感じの言葉に、本題は違うのだろうとは理解しながら、俺はさらっと嫌味でもって返す。
確かに俺の身長は152cmと、17歳男子としてはかなり低いのかもしれないが、だからといって呼び出してまで言うことでもないと思う。とはいえ、誤解しないでほしいが、俺はまわりが想像するほど身長にコンプレックスをもっているわけじゃない。俺の場合は人に説明し辛い理由ではあるが、ある理由があって12歳のときから身長はストップしたままであり、おそらくこれからも身長がのびることなどないだろうから、とっくに平均的な身長など諦めているし、この体はこの体で便利なこともあると割り切っているから、背が低くてもそのこと自体は大して気にしていない。ただ、それでも会うたびに「ちっこい」などと繰り返し言われ続けたら、うんざりして、嫌味の一つも言いたくなることも理解してほしい。
「違う、違う、柔道部に新しい部員が入んだ。お前の隣のクラスのやつなんだけどな。放課後、そいつの面倒みてやってくれや」
「この季節にですか? 先生は」
「ああ、転校生なんだよ。俺は会議でさー、手が離せないんだ。な? フォーマット頼むよ」
そういってぱんっと音をたてながら手をあわせ、拝むようなしぐさで俺に頼み込む。本当に困ったように申し訳なさそうに眉根を下げながらそういわれると、大抵の人間は仕方ないなあと頼みを聞いてやりたくなるだろう。それがこの男のやり口だってことは俺は知っていた。この男は自分の仕草や行動が他人にどう見えるのかよく知っている。人が思っているより、この男は利口な男だ、それを俺はこの男であってこの男ではない人から学んでいた。
「わかりました、引き受けましょう」
どうせ何を言っても最終的には引き受けることになるのだから、俺はさっさと白旗を振ることにした。確か部長も部活会議に行くのだったな。今年こそわが部が予算を多く頂くと息巻いていたのは今朝のことだ。
「転校生……か」
それが誰なのかなんとなくわかる気がした。
* * *
「あんたは生きろ」
それは二人の男の最期の言葉だった。
外見は似ていない。一人は血縁で一人は知り合って間もない男だ。
全然違うはずの二人は、同じような雰囲気と声をもち、同じような死を遂げた。
俺はきっと寂しかったのだろう。生きる目標も無く、しかし死のうとも思えず、目標すらこの手から失くして、敵を殺め、ただ生きているだけの日々に。だから話したのだ、弟に全く似ていないようでよく似ていた彼に。
あの女が言ったことは本当だ。
別人だとわかっていても、俺のことを話したのは弟の面影をそこに見たからだ。
何故俺などのために命を捨てるのだろう。その答えは異質なこの世界でもまだ見つからない。
* * *
「以上、宿題のプリント配るからねー。忘れんじゃないよ」
快活な印象のハスキーな女の声が響くのと、四時限目の終了のチャイムがなるのはほぼ同時だった。
「あ、そうそう、フォーマット」
オレンジ髪を短髪にまとめた、その女教師は手招きして俺を呼ぶ。
薄褐色の肌に、大柄な体躯ながらもふくよかな胸部と尻部をジャージに包み、ニヒルな笑みを口元に浮かべている彼女は、30を過ぎた年齢も関係あるのかもしれないが、もともとの顔立ちも手伝い、女性らしさはあってもお世辞にも美しいとはいえない。しかし、強い意志に支えられた目と、きつそうな中にも暖かさを感じる声の印象から、頼りになる雰囲気がひしひしと伝わり、女子やほかの教師の相談に乗っている姿も多く、異性受けはともかくとして、同姓に好かれやすいよう人のようだった。
「なんですか、ウォニー先生」
そう返事を返すと、目の前の女教師はひっそりと眉をしかめながら、ぼやく。
「その呼び方、あたし、好きじゃないんだよね、誤解されがちだけど、ウォニーって苗字とはちょっと違うものだし。部族名っていうかな……」
だからそんな風に呼ばれたくないといわんばかりに、そんなこと俺に言われても、どうしようもない気がするんだが。ここが学校で、相手が先生である以上、キーズテディなんて呼び捨てでファーストネーム呼びするわけにもいかないだろうに。
「と、話が逸れたわぁね」
「今更ですね」
反射的に言葉を返すと、彼女はオーバーな仕草で降参のようなポーズをとって、一言。
「うわぁ、可愛くない」
と、もらした。
……そもそも、可愛いと言われて喜ぶ男子がどこの世界にいるというのか。いるならお目に掛かってみたいものだ。
「まあ、いいわ。再来週さ、剣道部の試合があるんだけど」
「俺に出ろと?」
「そうそう」
頷きながら女性教諭は、わかっているじゃんと言葉ではなく、顔に出して上機嫌に告げる。
この世界において、彼女は剣道部の顧問だ。俺はここでは、剣道部と柔道部にかけもち……というよりは助っ人として入っている。
「別に俺は構いませんが……他の試合に出れない正規部員が怒るのでは? 一年の頃と違って、人数は足りているのでしょう?」
俺がそういうと彼女は至極あっさりと結論を出した。
「え? だってあんたが一番強いじゃん」
顧問教師の癖に……何を断言しているんだ。いや、俺のほうがうちの学校の剣道部員の誰よりも強いってことは、流石に俺自身自覚はあるが、教師がそんなこと言って良いのか? そもそも、俺はたまに練習に参加するような立場であり、他の部員のように熱心に毎日練習しているわけではないわけで、ぽっと出の俺が試合に出たりなどしたら、毎日練習している他の生徒達に悪いとは思わないのか? 強ければなんでもいいってもんじゃないだろうが。
そんな風に徒然考える俺の考えがわかったというかのようなタイミングで、女は口を開いた。
「勝てばいいのさ、勝てば。大丈夫。みんなもわかってくれるって」
その表情はやはりあっけらかんとした陽気でお気楽な笑顔で、思わず俺のこめかみがひくつく。
……なんでそんなに前向きなんだろう。あと、別に痛くはないが、人の背中をばしばし叩くのはやめてほしい。
埒があかないので早々に諦めることにして「わかりました」と告げる。……きっと出れなかった部員には恨まれるのだろうなとは思うが、仕方がない。今度から練習に参加しづらくなるのだろうな、多分。
「あ、それとさ」
なんだ? まだ何かあるのか?
「保健医のドニーちゃんが昼休みきてくれってさ」
少し警戒していた俺を前に、キーズテディ女史はそんなことを言った。それに思わず脱力を覚える。
「先生、その呼び方怒られますよ」
「本人いないんだから気にすんない。とにかく、伝えたかんね?」
そういうと女教師はひらひらと手をふって今度こそ出て行った。
俺は溜息を一つつくと、携帯電話を取り出して、弟のラヘッドあてにメールフォームを開いて、「昼食行けなくなった」と簡潔にメールを送る。この、携帯電話というのは慣れるまでは奇怪なものだったが、慣れると本当に便利なものだなと思う。
俺は弟と晴れの日は中庭で一緒に昼飯を食べることにしている。というよりは、俺としては一人で教室で食べるつもりだったのが、同じ高校に入ったのを機に弟が駄々をこねて、一緒に食べろ食べろと騒ぐので、食べるようになっただけのことなんだが。仮にも高校にもなっていい年頃の兄弟が一緒に待ち合わせて昼飯を食べるなど、兄弟離れ出来ていないにもほどがあるだろうと思うし、それに……そこまですると異常じゃないか? という気はしたんだが、なんだかんだ言いつつ俺は弟には一等甘く出来ているらしい。突き放すことも時には必要だということは自覚しているのだが、中々出来なくて、子育ては難しいものだと思う。
まあ、それはいい。俺の問題だ。
さて、昼飯が一緒に食べることが出来ないとなると、多分ラヘッドは「なんで無理なんだよ」とその手のブーイングを書き連ねた顔文字だらけのメール攻撃をしかけてくると思う。というか、確実にしてくる。そんな弟のことを可愛いとは思うが、兄離れをいつまでもしてくれない現実に溜息をつきたくもなる。ほら、きた。
標準設定の電子音が鳴り響く。予想に反して、メールではなく、電話のほうのようだった。
『兄貴ー!なんで駄目なんだよ』
「ラヘッド、校内は緊急時以外通話は禁止だ」
そういうや否や俺はぷつっと携帯の通話を切る。校則では通話は禁止となっているが、実際問題として誰も守っていない校則に過ぎないことは重々承知だ。しかし、誰も守らない校則だろうと、躾のための引き合いに出すには十分である。
今度は一分も経たないうちにメールが送られてくる。相変わらず、顔文字多用で、弟の国語の成績は大丈夫なのか心配になってしまうような文章だ。内容はどんなだったかだと? 予想通り、俺が昼食を一緒に食べれないことに関して駄々をこねているだけだ。しかし、3分と経たないうちに4通も5通もメールを送ってくるあたり、変なところで才能を開花させているのだな、と、我が弟ながら感心する。何故、それを勉強にいかさないのだろうかと、保護者として複雑な感情もあるのだが。
埒が明かないので「コニー先生に呼ばれた」とメールを送ることにする。すると一分ほどの間をおき、「わかった。でも明日は一緒だかんな(しょんぼりしていた表情の顔文字もついていたが、あいにく俺は顔文字の再現はそれほど得意じゃない)」と聞き分けの良い返事が送られてきた。
コニー先生とは、さっきキーズテディ女史が言っていた「保健医のドニーちゃん」のことだ。
本名はドミック・コニー、れっきとした男性教諭で、歳は42歳。勿論、キーズテディ女史より年上だ。それにもかかわらず、本人のいないところで、ちゃんづけで彼女に呼ばれる理由は後で説明することとする。
そして、弟はこの人物のことが酷く苦手だった。どんな人物かは見ればわかるだろう。
弟とメールのやりとりをしている最中も俺は足をとめてはいなかった。つまり、今はもう保健室の目の前に俺はいた。
一応の礼儀として2度のノックをする。
「失礼します」
「おう、入れや」
さばさばとした、掠れ気味の漢らしい声が入室を促す。
部屋の主である男は、タバコをくわえながら、椅子に深く腰をかけ、長い足を組んで、腕をだらんとさせた酷く気の抜けた格好で俺を出迎えた。
「先生、保健室でタバコはどうかと」
「あん? 今、保健室で寝てる生徒はいねえんだからいーんだよ。細かいこと言ってるとハゲっぞ、若造」
言うと、いしししと下卑た笑い声を上げる。その笑い声は容姿にはあわないようで、酷く男にあっていた。
「今日は女生徒は押しかけてきてないんですね」
「ああ? あいつらか。は、この前散々脅しといたのが効いたんだろぅや。全く、最近のがきんちょはいっちょ前に色気づいてやがっていけねえや。俺みてぇなジジイに色目つかってんだからちゃらちゃらおかしいぜ、小便たれの小娘共が」
だらんと着崩した白衣に身を包んだ、ヘビースモーカー。この男が保健医のドミック・コニーである。
そんな彼の容姿に関して言えば、口が悪い中にも爺染みた言葉使いや42歳という実年齢に似合わず、若作りなんて言葉じゃとてもじゃないが足りない、むしろ20代にしか見えないと断言して良いほどの若い外見をしていた。
それにくわえて、下手な女よりも長いだろう、豊かな睫に縁取られた切れ長の目に、整った鼻口、面長のラインを描く顔立ちをしていて、まじりっけのない長い白髪を編み込みつつ頭上で結わえ、すらりとした長身痩躯の持ち主と、どう考えても美男子と評するしかない外見的特徴をもち、左右で度の違う眼鏡ごしに見える目もまた左右で色の異なるオッドアイとなっており、その容姿は白づくめでありながら異様に目立つ。いや、オッドアイとは言っても、正確には左目が生まれつき色素が薄く弱視であるがためオッドアイ化しているだけで、元来のオッドアイというものの本質とは違うのかもしれないが。
まあ、端的にいえば、実年齢こそ中年ではあるが、見た目だけなら若々しく、女性的な優男といった感じなので、校内の女子の人気が高かったりするわけだ。そして上記の彼の言い分で聡い人間は察しがついただろうが、コニー先生自身は女子生徒人気が高いことに対して嫌感情をもっていたりもする。
先ほど後で説明するといった、本人の前以外でキーズテディ女史が「ドニーちゃん」と呼んでいる理由もここにある。彼女はようするに見た目だけなら自分よりも若くて、女性的な外見をもつこの保健医に対して、からかいと愛情をこめて「ドニーちゃん」と呼んでいたわけだ。が、しかし彼が若いのは見た目だけで、実年齢も内面年齢も明らかにコニー先生のほうがキーズテディ女史よりも年上なのと、彼自身は若く優男然とした容姿にコンプレックスを抱いていることについては周知の事実であるので、本人の前では呼ばないようにしているということだ。まあ、本人の前で言わないだけ彼女は賢いといえるだろう。そのからかい交じりな呼び名を、本人の前で口にしたら何をされるかわかったもんじゃない。
以前この女教諭と似たような愛称でコニー先生のことを呼んだ女生徒は、その後コニー先生に会う度に、傍目にも発汗しまくりで、青い顔をしてがたがた体を震わせ、場合によっては失神しかけるという見るからに異常状態に陥る体になってしまったというのは、有名な学園の伝説の一つだ。そんなあからさまな異常が出ているにも関わらずそれでも保護者が文句を言ってきてないのだから、きっと上手く丸め込んだのだろうな。
「大体よぉ、自分の娘よりも年下の小娘にナニか思ったりとか出来っかい。俺はロリコンじゃねェんだってんだ。フ○ック○○の雌○タが身の程を知れってんだ」
「先生、放送禁止用語はやめたほうがいいかと」
「うるせぃやい。童貞じゃあるめぇし、あの下品極まりねえ娘っ子と夜宜しくこいてる分際でかまととぶったことぬかしてんじゃねぇぞ」
その先生の言葉に、言われたことに心当たりがある俺としては思わず言葉につまる。ちょっと痛いところをつかれた気がする。藪から蛇か……。
「てぇ、こんな話するために呼んだんじゃねえや」
むしろ、そんな理由で呼ばれたのなら流石の俺も怒る。
「ほい」
言うと、コニー先生はずいっと風呂敷に包んだ何かを差し出した。
「弁当?」
「おうともよ。いや、今朝なんだけどよ、マシィのやつ慌てて出てったかんな、弁当忘れちまったらしくて、お前さんに届けさせるってメール送ったから、行けや」
なんでこの人は俺が届けるって俺に言う前に決めているんだ。あれか? 俺が文句言っても最終的に引き受けると思っているからか? ……思っているからなんだろうな。
何? マシィとは誰か、と? マシィとは、このドミック・コニー氏の養子で、実の娘のように可愛がっている女だ。正確にはマリッセント・ウォニーという名だが、同じウォニーとついていても、4次元目の授業に出てきたあのキーズテディ女史とは同じ部族という以外はなんの関係もない、正真正銘の他人だ。
年齢は19歳、同じ学園内の大学のほうへ在学中の女子大生だ。
そしてマシィはこの世界において俺の幼馴染でもある。
「俺に拒否権は」
「ぅるせぇなあ。何、ぴーちくかましてんでぇ。はい、先生様、よろこんでお受けいたします、だろ?」
やたら整った顔で、めんどくさそうに苛立ちつつそう言い切る姿は妙な迫力があり、相変わらずサディストオーラを放っている人だな、と思わず俺は思うわけだが、これで自分はサディストのつもりがないのがこの先生の始末に終えない所だ。
はぁ、と思わずため息をこぼす。
「……マシィの腹を空かしたままなのもあれですしね」
「そうそう。そういうトコ素直なのは、お前さんの良いトコだぁな」
先ほどのやけにドスの入ったしかし気怠げな表情と裏腹に、にっと笑うその顔は、女性的な顔立ちに似合わず男臭く板についている。それは長い年月をかけて積み重ねてきたからこそ出来る顔なわけで、こういう顔を見ると、ああ、確かにこの男は自分の倍以上の時を生きてきたのだなと妙に実感する。敵わないと思うのはこういう時だ。
俺はなんとも言いがたい息を一つつくと、マシィの弁当を手にもって、保健室の出口に向かう。するとそんな俺に静止の声がかかった。
「ちょいと待て。リクセル」
「何か?」
「お前さん、まだ例の夢見てんのかぃ?」
例の夢とは、もう一つの本来俺がいるはずの世界のことだ。砂と硝煙の……匂いに彩られた記憶。思うだけで目眩がしそうな郷愁と胸苦しさを覚える。
言われて何も感じないなんてのは嘘になる。しかし、敢えて俺は動揺を表に出さないよう、無機質な素っ気ない声で言葉を返した。
「見ていませんよ」
「嘘つくなぃ。お前さんの誤魔化すときの癖くらい知ってらぁ。見てんだな?」
やはり誤魔化せない。向こうと同じように……この世界のドニー医師も人の反応に嫌になるくらい鋭いんだなと、そんなことをぼんやりと思う。ああ、騙しきるのは無理であるらしい。思わず苦笑が混じる。彼相手に嘘をつき通しても、意味はないか。
「……見てますよ」
夢ではないけれど。それは夢ではなかったけれど。
……むしろ、夢なのはこの世界だ。
「今日、帰り家に来い。いいな」
「……はい」
* * *
「ガキは大人に甘えてりゃあいいんだよ」
そう言ったのは白髪の医者だった。
整体医にして闇医者を営むその男は、妻と娘を19年前に亡くし、それでも本当の娘のように可愛いマシィと孤児院の子供たちが自分にはいるから、だから幸せなんだと言った。
そして、その男の義理の娘は俺にこう語った。
「他人から見たら不幸だとしても、本当に不幸かどうか決めるのはあたしだわ」
* * *
待ち合わせの花が咲いてない桜の木の下で、向こうの世界で不幸かどうか決めるのは自分だと言い切った少女のオレンジの髪が揺れるのが見た。続いてよく通る女の声が「こっちこっち」と僅かに弾んで響く。
「ごめんねー。わざわざ届けさせちゃって。パパったらどうせ問答無用で行かせたんでしょ?」
「まあな」
「いやー、購買でもいいかなってあたしは思ったんだけど、パパが食べ物を粗末にするんじゃないって言ってきかなくってさ」
あははと笑いつつ、俺よりもよほど幼く見える顔立ちの年上の女は、そんなことを声を弾ませて言う。困ったような形の眉を作っているわりに、口元は楽しそうだ。
「ね、リクスさ、時間ある? どうせあんたお昼まだなんでしょ? 一緒に食べない?」
赤紫色の大きな目を猫のように細めて誘い言葉をかける。その口から出た内容は、彼女をよく知る俺から見れば、少し意外だった。
「友達と食べないのか?」
「いやー……今ちょっと困ったことなっててねー。簡潔に言うと虫除けになってほしいというか」
「マシィ!」
ごにょごにょと口ごもって、珍しく歯切れの悪いマシィを前に彼女を呼ぶ男の声が響く。そこには癖の強いぴんぴんと飛び跳ねた短髪の、俺ほど極端ではないが、それでも小柄な男がこっちに向かっていた。おそらく、マシィと同じく大学生だろう。その男はこちらの世界でははじめて見る顔だったが、やはりよく知っている顔と姿をしていた。
「……高等部のガキ? お前誰だよ」
……人に名前を聞くときは自分から名乗るよう教わらなかったのだろうか。
「でさ、オロセミック君? あんた、なんの用なわけ? あたし、彼と話してるんだけど?」
「オルスでいいっつったろ」
「なんであたしが愛称であんたを呼ばないといけないのよ、馬鹿じゃないの?」
基本的に人当たりの良いマシィだが、ある男に接するときは非常に冷たくなる、それはどうやらこちらでも変わらないらしい。
「大体あんたさ、あたしと同じ学部だってだけで、人のまわりちょろちょろすんのやめてくんない? 迷惑なんですけど」
「なんだよ? お前、照れてんのか?」
「あんた、どこまで頭おめでたいわけ?」
ずばずばと遠慮なく言葉を返すマシィと、それに対してめげることのないオルス……先ほど彼女が言っていた虫除けの意味は、この男が来た時点で気付いていたが、正直言うと気付きたくなかったなとも思った。
「らちがあかないわね。行きましょ、リクス」
言うと同時にマシィが俺の手を引いてさっさと歩を進める。どうやら俺の高等部校舎のほうへむかっているようだ。
「まてよ、マシィ。おい、チビ、離れろよ、なんなんだよお前。全然似てねえけど、マシィの弟か? んなわけねえよな」
「何、人のツレ催促してんの。あんたが離れたら?」
「……」
向こうでの知識とはいえ、俺は知っていた。オロセミックはマリッセントに惚れている。そしてマリッセントが惚れている相手もまた別に存在している。ちなみにマシィが惚れている相手とは勿論俺のことではない。俺もマシィもお互いにむける感情は姉弟みたいな親愛の情に過ぎないし、その範囲を超えたことはなかった、どの世界でも。しかし、あちらの世界ではこの男は、マシィが俺のことを好きだと散々邪推して常に俺に突っかかってくる存在であった。そのことから結論を出すと、こちらでも同じ誤解をして俺に絡んでくる可能性が非情に高いわけで、ならば俺をどれだけ引き合いに出されようと黙っていたほうがいい。そう判断する。
まあ、これもそのうち収まるだろう、それまでの辛抱だ。そんな能天気なことを考えていたのが悪かったのか、嗅ぎなれた甘い香水の匂いがあたりに漂い、その第四者の出現に俺はぎくりと思わず歩みを止めた。
「リクス?」
訝しがるマリッセントを横目に、現れるなよと念じる俺の気持ちも虚しく、その女は現れる。
「リ~ク~ス」
長い金髪を風にかなびかせ、細い太ももも顕わに俺に迫りくるマシィと同年齢の女。たわわに揺れる胸は布少なく、胸の突起が浮いていることから今日もノーブラであることがよくわかった。そしてむっちりとした尻部にひらひらとまとわりつくスカートも非常に丈が短く破廉恥だ。頭が痛いことに顔だけは上品にさえ見える美人であるその女のスタイルは、同性には眉を顰めさせ、異性にはぎょっと驚かれたり、良い物を見たという目をされたり、ドン引きされたり、物欲しげに見られたりなどの反応を引き出すものであり、女の性癖を更に助長するに違いない反応だらけだ。そして、これは俺だから知っていることだが、その、極ミニスカートの下は……なにも履いていない。そう、この女は「ノーパン・ノーブラがポリシー」と自分で宣言するほどのド変態なのである。そんな女が公衆の面前で俺にむかってひらひらと手をふりながら駆け寄ってくるというこの光景。女性に暴力を振るうのは主義に反するが……正直言うと、はたきたい。
「まあまあ、このような所においでになって、私に会いに来てくださったのですの? それとも青姦希望ですの? 私なら大歓迎ですわよっ!」
うきうきした目でさり気にシモいことをいうな、頭が痛くなる。真っ昼間から人の多いところで青姦とかいうな。俺は真っ昼間から発情してまわるほど変態じゃない、お前じゃあるまいし。願うならば、これを見ている人間が意味を知らなければいいのだが。
「真昼間から人前で馬鹿な事を言うな。誤解を招いたらどうする気だ、この破廉恥女」
「私なら全く気にしていないですわよ?」
「俺が気にする」
はたと気付いて隣を見ると、先ほどまで揉めていたマシィとオルセミックは呆気にとられた目で、ぽかんと俺達を見ていた。
「あら、まあ」
俺が二人を見ていることに気付き、このノーブラ巨乳女もどうやら他に人がいたことに今更気付いたらしく、マシィにむかってにっこりと、余所行き用の笑顔を浮かべた。
「確か、リクスの幼馴染のマリッセントさん……でしたわよね? 挨拶をきちんとするのは初めてかしら? 私、アリエン・ミソラスと申しますわ。隣の方は貴女の恋人か何かですの?」
前半の挨拶の時点ではある程度友好的な雰囲気で握手しようと手をのばしかけたマシィだったが、後半の言葉で明らかな怒気をまとっていることに俺が気付くのと、マシィが喋りだすのは同時だった。
「ご冗談がお上手ね。生憎この男は恋人などではなくて、あたしと同じ学部の講義を選択しているだけのただの赤の他人です。それで? アリエンさん? お会いするのはこれが初めてではないけど、貴女こそリクセルのなんなの?」
そのマシィの言葉に一番ダメージを受けているのは、想像通り癖毛の小男(俺よりはでかいが)だった。誤解が得意な男ではあるが、流石にはっきり彼女の口から「赤の他人」といわれるのはショックであるらしい。
「何って、リクスの初めてのオンナといえば宜しいのかしら? これまでも何度も夜のお相手を……」
「余計な事を言うな」
俺は思わずこのお下劣女の口元を手で覆ってそれ以上の台詞をとめる。ああ、何故この女はどこにいってもこうなのか。初めてのオンナ、ああ、それ自体は間違っちゃいないが、好きに喋らすといつもそうだ。恥ずかしげもなく平気で放送禁止用語だろうとなんだろうとべらべらと喋る。羞恥心を少しは覚えたらどうなんだといいたいが、そんなものがあるのならとっくにもっとマトモな格好していることだろうな。どちらにしろ非常に頭が痛い。
「あのさ、リクス。あんまり口うるさいこと言いたくないけど、付き合う相手は考えたほうがいいわよ?」
俺とアリエンに視線を巡回させたマシィは諭すような口調でそんな言葉を吐く。……いや、確かにこの女と俺には肉体関係はあるが、付き合っていると思われるのはショックだ。例え性的関係があろうと、俺はこの女と恋人になったつもりは一度もないし、はっきり言ってなりたくもない。しかし向こうのマシィならばまだいざ知らず、こちらの世界で生きているマシィに肉体関係はあれどこの女とは付き合っていないことを説明するのは中々至難の業だ。勘弁してほしい。
そもそも、この女と肉体関係をもったときの年齢や状況などを考えれば、あれは逆レイプだったと言えなくもないのだ。大体、俺と出会ったその日に、人の部屋に夜中押しかけてきて性関係を要求するような女なのだぞ? この女は。そんな淫乱で厚顔無恥なド変態が恋人など御免蒙る。
ふと、自分より12cmばかり背の高い女を見上げる。嗚呼、最悪だ。この顔は「これで私とリクスは晴れて公認の恋人ですわね」とかまた頭が痛くなるようなことを考えているときの顔だ。
「とにかくよ、そのチビはこの金髪ねーちゃんと付き合ってて、マシィとは付き合っているわけじゃないんだな?」
ふいをつくように男のダミ声が響いて、そういえばまだオルスがいたのだなと我ながら中々薄情なことを考える。雰囲気も性格も正反対な同年齢の女二人も、それは俺と同じだったようだ。とにかく、このままじゃ俺はこの金髪露出狂女と付き合っていることになってしまう。それは勘弁願いたい。なので、アリエンが何か言うより先に俺は言葉を返した。
「付き合ってなどいない」
その俺の言葉にマシィが顔を顰めていることに気がついていたが、敢えて気付いていないフリをして、携帯電話を開き、時間を確認した。現時刻は13時11分。昼休み終了まで14分しか残っていないようだった。
「時間がないのでこれで失礼する。アリエン、余計な事を言えば……わかっているな? マシィ、悪いな、色々と」
「後で説明してくれるのかしら?」
「勘弁してくれ」
言うや否や足早にその場を離れる。逃げた、と思われるかもしれないが、別にいいだろう。どうせたいした話はしていなかった。ぐだぐだと先の見えない話を続けて昼飯を食いっぱぐれる事態を招くよりはまだ建設的だ。
* * *
あれはいつだったか。幼い俺は普段着の上に一枚の外套を巻いただけの姿で一人外に投げ出されていた。
おそらく六歳になったかならなかったかといった頃だ。実の父親から下される折檻の数など最早数えるのも馬鹿らしくてよくは覚えていないが、その日も父が怒ったのはいつもと同じ、他愛のない理由だったように思う。そう、確か、弟に、ラヘッドが眠るまで俺が子守唄を歌ったのだ。そして、父が言いつけた軍事訓練に30分ばかり遅れた。それが理由だったかと思う。そう、いつものこと。
大人に混じっての軍事訓練は年端もいかない俺には辛く、唯一こんな俺を慕ってくれる存在なのがラヘッドだった。俺は父に、きっと憎まれていた。生まれたときから。そして母にも関わられることすらほぼなかった。俺が母に関して肉をもって知っていることなど、彼女が毎夜歌っている、母の民族の民族歌くらいのもので、知らずにその歌を自分でも覚えていた。しかし、真の意味では己の母がどういう人間なのかよく知らないし、顔を合わせることすらなかった。
そんな環境で育ったからこそ気づかずにはいられなかった。憎まれることよりも尚、無関心のほうがずっと辛いのだと。
父が俺にむけている感情など、憎悪めいたものでしかなかったが、それでも幼い俺は父に好かれようという気持ちがなかったわけではないのだ。いつか俺を認めてくれることを期待していた。しかし、全くの無関心である母に対しては絶望以外何も感じるとることは出来なかった。だから俺は弟のラヘッドを取り巻く環境にも幼くして気付いた。
父は俺に対して憎悪とはいえ感情をむけている。しかし、弟に関しては死なないようにという配慮としてか使用人はつけてはいたが、全くの無関心。それは母も同じで、会おうとすらすることはない。ああ、俺を慕ってくれるこの小さな弟はただ慕っているのではなく、俺しか縋る相手がいないのだ。それに気付いたとき、俺はこの弟を守ろう、そう思った。俺の二の舞になどしたくない。俺が切望しすぐに諦めてしまった家族からの愛情を、せめて弟に送ろう。俺と同じ想いをしないように。皮肉にも、俺のその決意が父の感情を更に逆撫でしていたようではあったが。
そして、とうとう「頭を冷やすがいい」という言葉一つで軽装で外に放り出された。砂漠の夜はよく冷える。昼間は30度をこえる温度だというのに、夜は氷点下より低くなることすらあるのだ。そんな場所に6歳の子供を放り出すというその行動から、俺が死んでもいいという父の考えが透けて見えて、とっくに見限っているはずの父親だというのにショックを受ける自分がとても惨めだった。
じっとしていれば凍え死ぬのは目に見えている。俺は多分望まれて生まれたのではないのだろう。それでも死にたくないと思った。
だから歩いた。歩けば少しは寒さも和らいだ。じっと立ち尽くせば、きっとあっという間に凍え死んでしまう。助けてくれる人間など元から存在してやしない。だから、死にたくないから歩いた。
朦朧と眠気が襲う。年端もいかない年齢の子供だ。どうしても大人より眠くなる。しかし、歩むのをやめたら死ぬのだ。歯を食いしばり、耐えた。そうして夜も明ける頃、空腹に胃がきりりと痛んだ。そういえば昨日の朝飯を最後に何も食べていない。そんなことを考えていたように思う。それが、俺が飢えというものを考えた最初の記憶。
* * *
今更だが、この世界は消費物にあふれかえっている。
飢えなどこの世にまるでないかのように、食べ物は捨てるほどあるらしく、先ほどの休み時間も女子生徒がおしゃべりしながら棒みたいな形をした菓子を食べ、余剰分は平気な顔してすててたし、斜め前の席に座る男子生徒も、一週間前に賞味期限がきれたとかいうパンを机の中からひっぱりだして、周囲の仲の良い生徒と笑いながら捨てていた。その光景は、俺には何度見ても見慣れるものじゃない。
6歳の頃初めて砂漠の夜に放り出された時に感じた空腹感も強い印象だったが、その後何度も送られた戦場では、場合によっては仲間内での食べ物の取り合いになることも珍しくはなかったし、俺自身ひもじい思いをしたことが何度もある。そんな俺からすると、まだ食べられるものを不要だから捨てるという神経自体が信じられないとしかいえない。が、わざわざ俺が咎めるのもおかしな話なので、一応見ないフリはしているのだが、それでも見てて気分が悪くなる行為であると言わざるを得ないだろう。
何? 今の時刻だと?
今は6時間目、体育の授業中だ。
「フォーマット!」
種目はバスケ、同チームの同級生男子の声が響き、俺の周りをマークする敵陣の間を潜り抜け、ボールが手元に届く、俺はそれをドリブルしながら敵をかわし、2,3の歩みで敵を出し抜き、そのままボールを敵陣のゴールにむけて放った。
ざわりと周囲が騒ぐ、ゴールは遠く、おそらく俺をマークしてた敵方の生徒も俺がパスをまわすと思っていたようで、シュートを入れるのは計算外なようだ、と呆気にとられた表情で俺は判断する。ボールは綺麗な曲線を描いてバスケット・ゴールに吸い込まれていった。明らかに三ポイントラインより外側から入ったのだから、我がチームには3ポイント加算され、敵陣との点数差はもはや埋めることが出来ないレベルに達していた。
さて、試合残り時間はあといくらだったか。そう思うのとぴぴっと軽快な笛の音が響くのはほぼ同時だった。
体育教師は担任教師でもあるガーマ・コルクだ。大柄な体躯に、派手な赤茶髪が目立つ大男はでかい猫みたいな笑顔で生徒を呼び寄せ、試合結果に対して一言二言物申すと、あとは残り授業時間の15分ほどは各自好きなように自主練習するように促し、解散させた。とたんに俺の周りに人が集まる。
「お前、チビのくせに本当すげえな」
「あそこから入るか? 普通」
「くそ、次は絶対負けねえぞ」
くどいかもしれないが、俺の身長は152cmしかない。大抵の男子高校生は170cm前後あったりする。つまり、他の男子高校生とは頭一個分ほどの身長差があるといっていい。そんな中四方を囲まれたらどうなるか? 当然前が見えない。なんだ、このミニ監獄。そもそも賞賛されるほどのことをしたつもりはないのだが、賞賛するにしても人を囲うのはやめてもらえないものか。
ふと、前の男を見上げたとき、男子の声がでかい中女子の声も耳に届いた。そういえば、女子はすぐ隣でソフトバレーボールをしていたな。
「今の見た?」
「リクセル君すごいよね」
「はあ、顔がかっこよくて歌が上手いだけじゃなくスポーツも得意なんて素敵だわ」
「でも凄いチビだよ?」
「身長は関係ないでしょ! いや、ちょっとはあるかもしれないけど」
「はあ、かっこいいよね。あたし告白しちゃおっかな」
「でもさ、噂によると彼に告白した女の子ってみんな不幸な目にあうって話だよ?」
「え? まじ?」
話題の内容からして俺の試合風景を見ていたらしいが、今は授業中のはずだ。俺の記憶違いでなければ彼女たちも試合をしている最中ではなかったか? 何故こうも好き勝手言っているのだろう。しかし、不穏な台詞が混ざっていたものだ。
あまり認めたいことではないが、「告白した女の子ってみんな不幸な目にあう」という言葉に心辺りはある。アリエンだ。
あのド変態女ははっきり言って俺に対してはマゾヒストと言っていいし、あのノーパン・ノーブラ主義とかいうふざけた格好でドン引きな反応をひろって楽しんでいるあたりもかなりマゾっぽいのだが、基本的に非常に攻撃的な人間でもある。アリエンは卑猥といってもいいほど露出度の高い格好で歩くようないかれた人間だが、更にいかれたことに、そんな格好で出歩いておいて他人に襲われるのは全力で排除する人間でもあったりするのだ。
何? ならば俺が襲ったらどうなるかと? それは普通に悦びだすだろうが、そんなことは絶対しないから安心しろ。……話が脱線した。とにかく、全力で排除するといったが、たかが女一人に何が出来る? と思った人も多いだろう。しかし、それはこの女に対して危険な考えだ。
この女は防御力の欠如した格好で出歩いているようでいて、手甲やメモ帳の間や耳の裏など随所にしびれ薬やらクロロフィルムやらといった、表立って話題にするのが憚られるようなアイテムを仕込んでおり、また人を攻撃することに躊躇など端からもっていない人間なのだ。
だから、アリエンを襲おうものなら最悪、廃人になる覚悟をしていたほうがいい。とりあえず、痺れ薬を塗りたくった仕込み針を静脈に刺されようものなら、そのときにはもう終わっていると同意語となる。こっちの世界においてもアリエンは裏業界と繋がっているらしく、運が悪ければ臓器売り場に自分の内臓を並べることになる。そんなこの女は、正直言って俺に近づく女に対しても似たような反応を見せる節がある。とはいえ、己に向かって襲ってきた男に対して程過激なことはしでかしていないようだが。実際問題として俺に告白してきた女というのはほんの片手で足りるほどの相手しかいない。しかし、噂をあてにするのは癪だが……実際はもっといたという噂があったりする。
俺自身は言われるほど多くの女に告白された覚えはないのだが、しかし、俺に一度告白してきた相手がどの女も不自然さを湛えながら、俺に告白したという事実をなかったことにしてほしいとその後懇願してきたあたり、あの女の仕業としか思えなかった。アリエンは余程俺の頭痛を呼び起こすのが好きであるらしい。
とはいっても、アリエンのその行動で恩恵を受けている俺が言えた義理じゃないのかもしれないのだが。はっきり言って俺は俺に告白してきた女と付き合う気などさらさらなく、別に好きな女などもいない。性欲処理の相手など、少々癪だが、アリエンがいるので別に困ってもいないし、結婚予定もないのにわざわざ女と付き合うなど、面倒だ。とはいっても、将来結婚し家庭をもつことを考えていないわけではないのだが。それでもそれは大分先の話だ。社会に出て落ち着けるだけの蓄えを手にしてからの話なのだ。今の俺とは関係がない。
そもそも俺が思うに、結婚するのに恋情など必要ない。結婚するのに必要なのは、果たしてその女と長く家族でいるのにあたり、上手くやっていけるか? それだけだ。故に結婚相手の選定に恋人同士の期間の必要性などない。むしろ、恋人同士などお互いの良い部分しか見せ合わない関係ではないか。甘い幻想を互いに抱いた状態で結婚したところでどうせ長続きするはずはないだろう。だから、しかるべき年齢まで余計な女が周囲にいない状況のほうが俺にはありがたかった。恐らく、なんだかんだといいつつもアリエンと俺が縁を続けているのもそこにある。
そんなことを徒然考えながら、適当に他の生徒からの話を受け流しつつ、バスケの練習をしているうち、どうやら授業終了時間になっていたようだった。
点呼、解散、そして着替えが終わり教室でHPをとる。これが終えれば俺は隣の教室まで今朝ガーマ先生がいっていた転校生を迎えにゆく。
なんという予定調和。
思わず苦笑がこぼれる。この世界は、まるで砂糖菓子のように甘く穏やかで、何故か胸が苦しく詰まった。
* * *
「中尉……ですか」
「不満かね?」
「いえ、謹んでお受けいたします」
弟の死から10ヶ月ほど経った、俺の誕生日の9月5日、俺はオルヴァン帝国軍中尉に昇進した。至上最年少の中尉就任だと、まわりの人間は世辞を言ったが、それは全く俺の心を打たなかった。
守る人間ももうなく、やりたいことももうなく、ただ、部下を死なせるわけにはいかないと惰性だけで動いた結末が招いたそれに、悦びなどあろうか。
「気分はいかがですの?」
俺を見てそういった、アリエンの囁きもまるで悪魔の声のようだ。
父は俺を死地に追いやりたいのだろう。危険な戦場にばかり送られたその結果の昇進だ。なのに、その中尉を就任してからの1ヶ月ほどは珍しくも大きな戦場に送られることがなく、直属の上司に新人兵の指導を持ちかけられ、断る理由もないので引き受けた。
この国の法律では20歳から2年の兵役期間がある。しかし、士官学校出以外の人間でも18歳になれば志願兵の受付もやっているし、書類審査を経れば兵役を2年早く終わらせることも出来る。10月1日から入る新人兵は、この志願兵審査を経てやってくる。その指導か……17歳の教官に指導される18歳の新人兵、その構図はなんとも奇妙なものがあるが、10代半ばになる前に部下を得た俺には今更なのだろう。そう今更。自嘲したところで何も変わりはしない。
その新人兵の中にその男はいた。
さらさらとしたやわらかそうな髪質のブラウンの髪に、同色の瞳は睫に彩られ、眉は細く、背丈は170cm半ばほど。体つきは細身で、ガタイの良い男に溢れている軍内部ではやけに浮いていて、俺は思わずこう言ってしまった。
「ん? おい、女の入軍は禁止されているはずだが」
……今思えばかなりの失敗だったに違いない。その男は、やたら綺麗な顔立ちをあからさまに歪ませて、親の仇でも見るような目で俺を睨んでいた。
* * *
そして今、そのやたら綺麗な顔立ちの男が目の前にいた。勿論着ている服はオルヴァン帝国の軍服などではなく、この学園の紺色の制服だ。
「なんだよ? チビ、人の顔じろじろ見てんなよ」
女顔を顰めさせ、弟とよく似た声質のちょっと甲高い声が俺を見咎めている。
「隣の2-Bのリクセル・フォーマットだ。貴殿……いや、君が転入生で柔道部入部希望という生徒か?」
「はあ?それがどうしたんだよ」
「顧問のガーマ・コルク先生にかわり、柔道部への案内を任せられている。……名は?」
本当は名前など知っている。しかし、この世界で面識がない存在である俺が知っているなど不自然だろうから、一応尋ねる。
「ヴァイン・カーズだよ。何? 先生これねえの?」
「会議だそうだ」
「あ、そう」
その後は歩きながら部室へ連れ立って移動することとなった。
「つーかさー、あんたすげえちっさいけど、あんたも部員なのか? それともマネージャ?」
どうやら、ヴァインは暇らしく、いかにも上辺の会話ですと言った感じの声質でぽんぽんと俺に語りかけてくる。それに俺は淡々と返す。
「剣道部と兼部しているが、マネージャではない。たまに練習に混ざるようなものだ」
「へー、どっちつかずかよ。いい加減だな、あんた。つかその体で相手とかいんのかよ。背ひっくいし、試合とか出れねえんじゃねえの?」
「別に。55kg以下級に出ればいいだけだ」
「つか、その体躯じゃあ55kg級でもきついだろ? なんなら俺がコーチしてやろっか?」
「その必要はない。結構だ」
「なんだよ、つまんねえな」
以外にヴァインは友好的態度のようで、はははと、顔立ちは全く異なるが弟によく似た子犬のような笑顔を俺に見せる。それに、一瞬俺は言葉を失う。が、付き合いの短いこの男にはその俺の表情の変化がわからなかったらしく、また別の話題をふってきて、それに返しているうちに部室へとついた。
がらりと扉を開くと、ぱっと大型犬のような笑みを浮かべた弟がそこにはいた。
「兄貴ー、なんだよ、今日は練習に参加……」
駆け寄り、そのまま俺に飛びつこうとしていたらしいラヘッドはそこまで言いかけて、背後に立っているヴァインの存在に気付き、足を止める。
「兄貴、誰だよその、女みてぇな顔した奴」
その弟の一言が放たれるなり、ぴしっと周囲に亀裂が入るようなそんな空気が舞い降りた。見なくてもわかる。深々と溢れるこの冷気は、ヴァイン・カーズだ。どうやら、弟はむこうで俺がやったのと同じ失敗を繰り返したらしい。
「だ、だれが女みてぇな顔した奴だ。ふざけんな、このクソガキ! てめえ、こいつを兄貴呼ばわりしたってことは、確実に俺より年下だろうが! そもそもでかい図体して兄貴兄貴ってお前はどこの小学生なんだよ。ブラコン野郎に女みたいなんて屈辱的な台詞言われる覚えはねえ」
「な、誰が小学生だ、こら! 大体兄貴のことが好きで何が悪いんだよ、この女顔ヤローが。大体お前みてーなやつ見たことねーんだよ、部外者がいきなりやってきて何言ってんだってんだ!」
「おい……」
俺は部外者じゃないことを告げようと口を開くが、弟とヴァインの口喧嘩は更にヒートアップしたようで、すぐに遮られた。
「んだとこら!? 俺が女顔だってんなら、お前なんて不細工なツラした変顔野郎じゃねえか! いや、そもそもリクセル? とお前ホントに血の繋がった兄弟なのか? 全然似てねえだろ」
「ば、ばっかやろー、俺はともかく兄貴まで侮辱すんじゃねえ! 不細工でも女顔よりゃマシだってんだ」
「ああ!? はー? さてはお前あれか? 兄貴って言っても、アッチの兄貴か? おお、ゲロゲロ。オゲイちゃんでちゅか? 気持ち悪ぃんだよ! 消えろよ、カマ野朗」
「勝手に何言ってやがんだよ! 俺とリクセルの兄貴は正真正銘血の繋がった兄弟だっての! お前こそ女みてえなツラして、本当は自分がカマなんじゃねえの? なんかネチネチしてっしな!!」
「おい……」
「その喧嘩、いいぜぇ? 買うぜ。表出ろや、こらああ!!」
ああ、駄目だ。
「二人とも、いい加減にしろ」
お互いに殴りこもうとした二人の間に入り、俺は右手でラヘッドの拳を、左手でヴァインの拳を弾き、足払いをかけ、一瞬で二人とも地に平伏させた。とはいっても、ちゃんと怪我をないようにちゃんと加減はしている。
「てえ、な、なんだよ、お前」
「兄貴、なんで邪魔すんだよ!」
「ラヘッド」
すぅと、息を一つ吸い込んで、戦場用の冷たく作った声でまず弟に語りかける。びくりと、俺より一回り大きくなった体が震えるのが見て取れた。
「この人は、転入生で俺の隣のクラスに入ったヴァイン・カーズさんだ。お前の先輩にあたる。年上には敬意を尽くすものだ。非礼を詫びなさい」
次いで、同じように威圧感を保ったまま、ヴァインに目をむけた。ふと、そういえばこの男は元の世界では18歳で俺より年上だったなということを思い出す。基本的にどっちの世界でも年齢は変わらないはずなのだが、この人は二年生に入ってきた。どういうことか。この中途半端な時期の転入といい、もしかしたらこっちの世界の彼は留年でもしているのかもしれない。そんなことを思った。
「ヴァイン……君。弟が失礼をした。しかし、君も年上ならば、年下と張り合うよりも、もっと冷静に対応してほしかったものだ。まあ、いい。この子はラヘッド・フォーマット。1-C組所属で、俺とはれっきとした血の繋がった弟だ。あっちの兄貴がなにを指すかは知らないが、中傷は控えてくれ」
「……てめえの弟くらいちゃんと見てろよ」
おや? どうも若干ヴァインの声は震えているようだ。ちょっとやりすぎただろうか。
「は、声震わしながらよく言うぜ」
「ラヘッド!」
こっそりと小声で返すラヘッドに強い調子で叱咤の声を上げる。
「いい加減にしなさい。次に同じことを言わせるのなら、今夜の夕食は抜きだ」
その言葉に今度こそ弟は押し黙る。それに安堵したいようでしたくない複雑な気持ちもある。一体この手がいつまで続くかどうかとか、こんな言葉で簡単に言うことをきくなど、将来悪い女に騙されやしないかと保護者としてはとても不安だ。
しかし、この言葉で黙ったのはあくまで弟一人の話である。
「は、兄貴の尻にしかれてら。だっせ」
「ヴァイン君!」
……この後のことは出来ればきかないでほしい。いや、もう予想はついているのだろう? そう、その通りだ。案の定、ラヘッドとヴァインは部活中ずっとこんな調子で何かと衝突を繰り返していた。
* * *
レジスタンスと名乗る反乱軍ルクターゴ、そこの百発百中で知られる狙撃手は、意外にも目に深い傷痕をもつ盲目の大男だった。血の繋がらない娘を一人抱えたその男の目の傷は、10年ほど前に当時結婚の約束をしていた恋人の女性が敵国のスパイだったため、自身もスパイの容疑をかけられ、拷問の際につけられたのだという。
女性に恨みはないのかと問うと「たとえ、スパイだろうと関係はない。俺は彼女を愛すると誓った。ならば、そうあるだけだ」と答えた。
その大男の言葉は、どこか愚かしくて、しかし何より眩しかった。そしてそんな男を見る、オレンジ髪のよく知った少女の頬はほんのり赤く、複雑げな表情で、見るものが見れば、彼女が誰を好いているのかは一目瞭然だった。
* * *
時計の針は5時半をまわった。部活も終わり、ラヘッドには今日はコニー先生に呼ばれているからという旨を告げ、別れて帰ることを承諾させ、俺はその場を後にした。俺とラヘッドの住んでいるアパートは徒歩15分ほどの距離で、コニー先生宅は学園から徒歩10分ほどだが、方向は別方向だ。
この世界においての幼馴染であるマシィはドニー先生と小さな一軒家に住んでいるのだが、幼馴染にしては若干家が離れているのには訳がある。
というのは、向こうのマリッセントは家族を殺され、数年前に死んだ弟ともども奴隷にされた過去をもっているのだが、それに呼応するかのようにこの世界のマシィの過去は、10年近く前に家族を強盗に殺害され亡くし、弟ともども親戚のうちを転々と数年間たらい回しにされていたが、病気で弟も途中で亡くし、最終的にドミック・コニー先生が引き取ったという経緯であり、俺と幼馴染というのは、その親を強盗に殺害される前の話だ。
ついでだから説明するが、この世界においても俺は父に嫌われ、母には育児放棄されていたらしい。ほとんど人が来ないそこそこ大きな邸宅で、時々家政婦がやってくる家に弟と二人で暮らしてて、時々父が妾宅からふらっと帰ってきては俺に対して虐待とも言える行為を行っていたようだ。
そこへ、マシィの義父となったコニー先生が見かねて、保証人を買って出るからと、二人で家を出ることを進めたので、中学を卒業し、自分で金を稼げるようになったのを期に家を出たというわけだ。なお、弟の金は一応毎月父親から振り込まれているが、俺の学費は奨学金を利用している。中学時代の俺も、なんだかんだ言いつつ成績はかなり上位だったらしく、助かったことだ。何? 何故そんな他人事みたいな言い方かと? 決まっている。実際問題として、俺にはそんな過去の記憶などもっていないからだ。
どうやら俺はこの世界の去年の夏頃の交通事故がきっかけで「俺」に成り代わったらしい。
担ぎこまれたという病院で目が覚めれば、見知らぬ世界で、死んだはずの弟が泣いていたし、俺の年齢も若返っていたのだから、正直最初は戸惑ったなんてものじゃなかった。全く記憶にない世界に放り込まれて適応するというのは難しいことだろう。
幸いにも日常生活を送るについての大抵のことは体が記憶していたらしく、向こうでは俺は料理などほとんどしたことなかったのだが、料理方法とかも頭で考えるより先に体が動いてくれた。あと、俺の記憶も体が大体覚えていてくれたらしく、時々訝しがられるが、概ねなんとかなっている。少し不自然でも、事故の後遺症だと思われているのか、そんなにおかしがられてもいないようだ。……一人を除けば。
そんなことを思いながら校門をくぐると、そこについさっきまでその存在について考えてたマリッセント本人が立ってた。
「よ?」
茶目っ気に溢れた表情でそんなことを言いながら、俺に軽く手を上げて存在をアピールするその幼馴染殿は、待ってましたといわんばかりの態度でふふんと鼻を鳴らした。
「こんな時間に珍しいな、どうした」
「何さ、冷たいわね。あんたをまってたってのにさ。ていうか、昼間のアレ何?」
「……今日の講義はとっくに終わったんじゃないのか? バイトはどうした?」
「あ、話そらした。図書室で論文書いていたのよ。バイトは明日。今日、あんたが家に来るってパパから連絡あったからまってたのに、労りの言葉もないわけ?」
ちょっと拗ねて腰に手をあてる様は、なんだか子供っぽくて微笑ましいように見えなくもなかったが、逆にその表情を見ることで、彼女が怒っているのは表面だけであり、実際はそこまで気にしていないことが透けて見えた。ひとまず、安心する。
「そいつは悪かった」
「ん。まあ、いいわ。ていうか、今日のことだけど、パパのことだから、どうせあんたたち二人分の夕食も作ってもたせると思うのよね。だから、買い物手伝って」
「別に構わないが」
「ま、折角の男手だし、お米ももうすぐ切れそうだからそれでも持ってもらおっかな~」
そんなことを言いながら軽快に歩を進めるマシィの姿は、極いつも通りだ。
確か一番近いスーパーは、マシィの住んでいる住宅と学園両方から徒歩5分強ほど離れた位置にあったなと思い起こす。そうしてマシィと連れ立ってスーパーにむかっていると、信号の向こう側からよく聞き慣れた、舌足らずの子供らしい声が聞こえた。
「マシィちゃん」
信号が青になるなり、かけよってきた地味ながらも愛嬌のある顔立ちの女子中学生に、マシィもまた華やいだ声で返す。
「あら、ハーシーちゃんどうしたの、こんな時間に」
「あのね、お父さんと久しぶりに食事に行くんだよ」
「ハースシシィ」
凛と、重低音の落ち着いた男の声が静かに響く。
盲目用の杖を申し訳程度に握り締め、濃い青色の作務衣に身を包み、赤い布を目に巻きつけたその大男は、まるで盲目と思えぬ堂々とした態度と威厳でもって歩きよってきた。
その男の登場にマシィの童顔ともいえる顔が、外見年齢に相応しい少女らしい表情を作ったのが横にいた俺にはよくわかった。
「お父さん」
ぱっと義父を振り返ったハースシシィには、マシィのその一瞬の変化はわからなかったようだ。にこにことそばかすだらけの顔に笑みを湛えながら父親の服の袖を握り締める。
「ごめんね。マシィちゃんがいたから、つい」
「そうか。マシィ、久しぶりだな。隣の子は……リクセル君か?」
これだからこの男は侮れない。まるで目が見えないのが嘘であるかのように、そのきゅっと引き締まった顔は、俺のいる方角を真っ直ぐ向いていた。
「お久しぶりです。ゴッシュ・ドーウォンさん」
とりあえず、俺は礼儀として挨拶を返すが、マシィの反応が鈍く、父親の袖元できょとんとしたハーシーに「マシィちゃん?」と呼びかけられたことで、はっと我を取り戻したらしく、出来るだけいつも通りを装って「お久しぶりです」と返していた。
「確か今は大学生だったか。どうだ? 大学のほうは」
「楽しくやっています。ゴッシュさんはどうですか? ハーシーちゃんももう中学生だし、恋人とか出来やしないかと心配なんじゃないですか?」
いかにも楽しげに、からかうような仕草と声の調子でそんなことをあっけらかんというマシィだったが、その声は聞く人間が聞けばいつもより若干上ずっているのがわかる。しかし、この盲目の大男と子供らしい大らかさに溢れた娘は気付いていないらしい。「そんなの早いよぉ」と、赤ら顔でハースシシィは父親の影に半分隠れてちらちらとマシィを見ている。ゴッシュのほうも、「確かに心配ではある。が、ハーシーなら好い男を見つけてくると信じている。覚悟はしている」と真剣な声で、若干ずれたことを宣言していた。それにハースシシィはより一層顔を赤くする。
多分、気付いたろう。そう、マシィの好きな男とはこの盲目の大男のことだ。中学生にもなる娘持ちの父親に惚れているなぞ、傍から見ると若干無謀な気がするが、そもそもハースシシィ自身は知らないことだが、この親子に血の繋がりはないし、ゴッシュは独身である。それでも年齢差がネックじゃないかという意見もあるだろう。年齢差は17歳あるわけだから、それは極自然に出てくる意見だ。しかし、まあ世の中を見ればこれよりでかい年齢差などいくらでもあるだろうし、基本的に女性のほうが早熟だとも言う。それに人の恋路を邪魔するやつはなんとやらだ。結局はマリッセントの問題であり、彼女の今の課題はいかにしてこの大男に異性として見てもらうかといった所か。
ただ、一番の問題はたとえ付き合うことに成功したとしても、いかにしてあの、マシィの養父であるドミック・コニーに認められるかというのもあるかもしれないのだが、案外放任主義だから大丈夫なのか、それとも魔王と化すのか、どちらもありえそうでなんとも言えなかった。
……付き合う、か。
そういえば、こちらの世界のラヘッドは一週間ほど前に16歳の誕生日をむかえた。16となると、こちらの世界においては女子は結婚を許される年齢だし、男も18歳になれば結婚可能年齢だ。と、なると、近いうちに恋人が出来ても不思議ではない。
俺は知らず、じっとハースシシィを見ていた。
顔立ちは丸みを帯びており、そばかすが多く、鼻は小さく、口は少し大きい。眉は太くて、髪はオレンジがかった癖毛の強い茶髪だ。お世辞にも美人ではないし、体つきは若干ぽっちゃりしているが、健康的でたおやかで、女の子らしい可愛らしい子だ。多分年頃になれば、美人ではなくても、女の子らしい可愛さに磨きがかかってそれなりにモテるだろうし、この娘は普段おっとりしているが、いざとなると結構しっかりしている。ゴッシュの教育がいいのだろう。
この世界には未来がある。だから、もし、もしラヘッドが付き合うとしたらこの娘のような子であってくれたらと、そう思う。年齢的にも歳の差は3歳で釣り合っているし、明るく素直で、若干おっちょこちょいな弟には、おっとりしてて女の子らしいながらも、根っこがしっかりしていて、穏やかで、癒し系なこういう娘がいい。どこぞの淫乱女と違って、結婚まで貞節を守りそうだしな。
「え……と、リクスお兄ちゃん?」
いかん、流石に不躾だったか。ハースシシィの声には戸惑いが混ざっていた。
「いや……大きくなったなと思ってな」
他に言い訳が思いつかなかったのでとっさにそう返すが、マシィからは白々しい視線をプレゼントされた。しかし、目前の子供はその理由でも納得したらしく、へらっと木漏れ日のような笑顔で「ありがとう」と言った。
「ところで、マシィ、買い物に行くのならそろそろいかねば。コニー先生がまっているだろう」
時計を見ればロスタイムは10分ほどにのぼる。そのことを指摘するとマシィは慌てて「ごめんなさい。あたし、もう時間なので行きます。ゴッシュさん、お相手ありがとうございました。ハーシーちゃん、またね」と告げ、手を一振りすると足早にスーパーへと歩を進める。見送り、無邪気に「マシィちゃん、またねー」と手をふっているハースシシィやゴッシュには見えないだろうが、そのマシィの横顔は朱に染まり、おそらく自分が舞い上がって、時間も忘れていたことに対して恥ずかしいとかその辺りのことを考えているのだろうと検討をつけた。マシィは幼い見た目に反して、しっかり者であり、基本的に自分に厳しい人間だし、仕事に私情は持ち込まないタイプの人間だ。いくら好きな人と会っていたからって、他を疎かにするのは彼女の主義に反するだろう。
そういえば、あの時も、マシィは、こんな顔をしていた。
* * *
「……見てた?」
夕暮れ時、寂れた路地の裏で、涙はないけれど、泣いているような顔をして、マリッセントはそう俺に尋ねた。気まずいながらも、俺は誤魔化すことなく、ほんの一振りの頷きでもって答えを返す。
「馬鹿みたい、よね」
それは俺に向かって吐いた言葉ではなく、自分に対して言った言葉のようで、彼女は別に俺に何か答えてほしいというわけではないようだった。きっとこれは独り言の延長線上なのだろう。
「あたしはさ」
息がつまったようなほんの少し震えた声。それは、答えがほしいわけじゃない、ただ、聞いてほしいのだと叫んでいるようで、俺はこのオレンジ髪の少女の望むまま、無言で立ち尽くす。
「汚いこともいっぱいしてきたし、これからもきっとし続けるわ。目的のためなら味方だって殺すだろう、酷い女よ。だから、汚いから近づくな、穢れるっていうのなら諦めもついたわ。だけどね……」
赤紫色の目をきゅっと細め、絞るように声を吐き出す。
「……笑えるわ。自分にはあたしは勿体無い。よりによってオロセミックのほうが相応しいって言うのよ。彼は。ふざけないでよ。あたしが好きなのは、あんな小心のナルシストじゃないわ」
「マリッセント」
「……諦めないわよ、あたしは。きっと、振り向かせて見せるわ」
* * *
「ごちそーさまでした」
ぱんと手をあわせる妙な仕草をもって、この世界にきて初めて聞いた不思議な挨拶をつけてマシィは食事を終えたことを宣言した。
「いやあ、悪いわね、リクス、先にあたしたちだけ頂いちゃって」
「いや……」
「は、俺は食ってけっつったのに、言うこと聞かねえガキンチョにそんなこと言うこたぁないぜ、マシィ」
「あら、パパ。そんなこと言って、しっかりラヘッド君とリクスの二人分の夕食包んであげてるようじゃ説得力ないわよ」
マシィの言うとおり、コニー先生は俺が夕食を断るのを見越して椀にいれた二人分の夕食を別に用意していた。
「人の揚げ足とるんじゃねえ」
むすりと、実年齢とはかけ離れた、若く端正な容姿を歪ませ、いかにも不愉快そうなポーズをとりながらそう言葉を搾り出すコニー先生だったが、これは先生流の照れ隠しなのだと、彼の養娘であるマシィは以前俺にこっそり耳打ちしたものだ。まあ、それは事実なんだろう。なんだかんだといいながら、この男は中々世話焼きだ。
「それにしても、いっそのことラヘッド君も来ればよかったのに。いつもあんなにリクスにべったりしているのに、何、家に来るのは躊躇してんのかしら?」
「……マシィ、わかっていて言ってるだろう」
「はいはい。ラヘッド君は甘ちゃんだからパパが怖いんでちゅよねー」
言いながらマシィはちらりと自分の義父を見る。それに勿論コニー先生も気付いており、タバコに手をのばして一本口に銜え、吐き捨てるような声音で言葉を吐く。
「ケッ、別にあんな小僧に嫌われた所で痛くもかゆくもねえよ。つうかよ、リクセル。お前さんは弟を甘やかしすぎなんだよ。だからいつまでたってもあいつぁしょんべん臭ぇはなたれ小僧なんでぇ。次の冬休み、俺に一度預けてみぃ、腐った性根鍛えなおしてやるぜ?」
「……甘いのは自分でも自覚があります。が、これは俺と弟の問題です。いくらコニー先生でも、踏み込まないで頂きたい」
「お前さんがそんな事いつまでも言ってっから、ラヘッドの奴ぁいつまでもオツム小学生なんだよ。大体、あのガキのママをいくら気取ってても、お前さん自身まだ17歳になったばっかの小僧でしかねえんだ。自分の身の程くらい知れよ、ボウズ」
「わかっています。それに、俺はあくまで兄です。ママを気取ったつもりはありません」
「かっ、手前の事もわかってねえガキがいっちょまえの口聞いてんじゃねえ。お前さんはアレに過保護過ぎる……いや、お前さんもあのガキンチョもお互いに依存しすぎてらぁ。いいか、こりゃ老婆心から言ってやってんだ。一度、アレと距離をとれぃ。いつまでもお前さんもアイツも子供じゃあいれねえんだ。やがて、成人し、別々の人生を生きる。その時に、果たしてお前さんは本当に一人で歩いていけるのかぃ?」
「……わかってますよ」
そう、わかっている。あちらの世界では弟は15の誕生日をむかえてまもなく死んだ。本当は今こうして共にあれること自体が奇跡で、甘い夢でしかない。そして、俺のラヘッドに対する想いも、ただの倒錯と依存でしかないことくらい気付いている。愚かかもしれないが、俺は弟を守るということ以外に生きる意義も存在理由も見出せなかったのだから……彼らに会うまでは。
本当はわかっているさ。俺はラヘッドを守っているようで、逆に己の精神を守っていただけだ。本当に弟のことを思うのなら、こんな歪で行き過ぎた愛情は一刻も早くやめるべきだ。それが出来ないのは俺の弱さに過ぎない。強い兄を演じていながら、本当に脆いのはラヘッドより俺のほうだ。
「パパ、やめなよ。それ以上はいきすぎだわ」
静かに、マシィが声を張る。それに対してコニー先生が言葉を返そうと口を開いたそのとき、すっかり耳になじんだ玄関の呼び出しベルの音が響いた。
「ん? こんな時間に来客? ちょっと、行って来るね。はーい、どなた?」
と、いってマシィが出るが、この家は一軒家とは言え、小さい作りになっており、リビングから玄関が丸見えだった。当然、来訪者の顔も、わざわざ玄関に出なくても見える。
「あの、こんな時間にごめんなさい」
そういって現れたのは、茶髪茶目の、取り立てて特徴らしい特徴もない……強いていうなら、平均より若干顔が大きく、口が大きいくらいか。の、マシィと同い年くらいの若い女だった。
「あら? ユウナ先輩じゃない。何、どうしたんですか?」
そういう、マシィの声は弾んでいる。そういえば、この世界ではこの女、ことユウナはこの家の向かいにある小さなアパートに住んでいたなということを思い出す。この女も知っているといえば知っている。向こうの世界では一度しか会ったことないが、ドニー医者……向こうのコニー先生だ、の助手をしていた。
噂によると何かの事件で一人生き残ったところをドニー医者に救われたらしく、身寄りのない身の上だったが、20歳という年齢から施設に入ることはありえない、さりとて行き場がないのでドニー医者が助手として家におくことにしたとか、そんな感じだったように思う。しかし、向こうで接触したことは前途の通り、一度くらいのものだ。詳しくは知らない。だが、こちらの世界でも、高校時代にコニー先生になにか救われたことがあるらしく、それからずっとパパのこと好きみたいよ、と苦笑交じりにいつかマシィが言っていたような気はする。
「えと……その、先日実家からカボチャが沢山届いて、それでカボチャの煮付け、作りすぎちゃって。よかったらもらってもらえないかなあと」
なるほど。ユウナの手元には確かにそれらしき、タッパーがあった。しかし、そう言う彼女はマシィに対して話しているようでいて、ちらちらとコニー先生を伺っている。多分作りすぎたのでお裾分けというのは口実なんだろう。これは、どこからどう見てもコニー先生を意識しての行動だ。
俺は視線を目の前の席に踏ん反り返る様に座ってタバコを吸っている男に走らす。平均的な女性よりもよほど長い睫で伏せられた左右異なる色をした瞳は感情が読みづらい。見れば見るほど、世の女性が羨みそうな秀麗な顔立ちをしていて、見た目はまるで社会に出て数年しか経っていないかのような若々しさだが、その容姿に反してこの男は老獪で、鋭い男だ。
自分の人生の半分にも満たない年齢の娘の恋心、しかもこれほどあからさまな好意に気付いていない筈はない。しかし、沈黙を保っていた。自分の外見で寄ってくる女生徒に対して、いつも物凄い剣幕で罵倒の限りを尽くして、こき下ろしているこの男が、だ。
自分に下心をもって近づいてくる女にはだれかれ構わず追い返しているイメージがあったので、少し意外だ。マリッセントも現在の状況は理解しているだろう。しかし、あくまで何も気付いていないかのような声の調子で、目の前の一つ年上の女に言葉をかけていた。
「いやあ、ありがとね。最近野菜の値段高いし助かるわ。パパ、受け取ってもかまわないよね?」
その声音に試すような色が混じっている。そういえば、マシィはこの女の恋を応援しているのであったか。きっと、自分も歳の離れた男に恋をしている身であるから親近感をもっているのだろう。とはいっても、いくら外見が若かろうと、実際はそれなりに中年親父と呼ぶべき年齢に達しているにも関わらず、いまだに再婚しない義父に対しての老後の心配などもあるのかもしれないが。
そんな、この白髪オッドアイの男の部屋には、いまだに19年前に死んだ妻とのツーショット写真と位牌が隣同士に飾られている。……これは余談だが、その約20年も前に撮られたであろう写真の中のコニー先生は、恐ろしいことに髪の長さ以外、顔の変化は全くない。……話を戻す。
ちらちらと期待するような目でコニー先生を見ているユウナと、試すように自分に呼びかけてきた、血の繋がらない愛娘に対して、コニー先生は「ああ」と短く、感情の読めない言葉で返事を返し、気だるそうな仕草で、ぬっと椅子から立ち上がった。
「マシィ」
養娘に対して、背中をむけたまま言葉をかける。
「何?」
「俺はリクセルと話があるからもう行く。ユウナと話すんなら上がってもらいなさい。女の子にこんな時間まで立ち話させるんじゃねえ。体冷やして体調崩しでもしたら、俺ぁ、親御さんに申し訳が立たねえぜ」
「え、ちょっと、パパ」
「行くぞ、若造。ぼさっとすんな」
俺より頭一個半長身の男に腕を引かれ歩き出す。ちらりと玄関口を見ると、目当ての男が部屋に去ろうとしていることにあからさまにがっかりしている女と、なんともいえない複雑な表情で溜息を吐くマシィの姿が見え、俺はほんの少し哀れむような気持ちでその木製のドアを閉じた。途端に、この全身白尽くめの男の気配が和らぎ、いつも通りの気だるげな雰囲気が場を支配する。
だから、余計かもしれないけど、俺は一言もらした。
「らしくないですね」
いつもならここで「うるせぇやい。ガキは黙っていろ」とでも言うだろう。しかし、意外にも眉の形をちょっと歪ませて、困っているのだと薄く……長い付き合いのある人間くらいしかわからないくらい微妙だったが、顔にのせて、男は言った。
「いいんだよ。これで」
それは自分に言い聞かせているかのような声色だった。
「それより、お前さんのことだ」
すぅと空気が変わり、その頃には不敵でふてぶてしく気だるげな、いつもの保健医の顔に戻っていた。
「まだ、昔のこととか思い出せねえのかい?」
「……さあ」
「あの、全然違う世界で、似てるけど別人の奴らがいるって世界の夢、まだ見てんだろ? 思い出せねえのはそのせいか?」
むすりと厳しいような表情で淡々と言葉を投げかけるドミック・コニーだったが、その根本にあるのは俺への心配だ。しかし、逆にその心配が鬱陶しくも感じる。心配されるというその事実自体は嬉しいことだけれど、踏み込まれたくないとも思う。だが、これは自業自得なのだ。この世界においての1年と2ヶ月ほど前のバイク事故から目覚めた時、この男の追及に逃げ切られず、つい、口を滑らせた俺が悪いことなどわかっている。
しかし、どうもコニー先生は俺がバイク事故がきっかけで精神障害の何かにかかったように解釈している節がある。勘弁してほしい。だが、最悪なことに、この世界においても俺は父の虐待を受けて育ったわけであり、その全貌のうち半分ほどはこの白髪の保健医も見聞きして理解している。
口も態度も悪いが、この見た目だけ若い男は中々の子供好きであり、子供への虐待などもっての他だし、休日には自分でケーキや菓子の類を作って孤児院に届けているくらいの男だ。俺のことも普通に守るべき子供にカウントしている。だからこそ、こうしてしつこいながら関係をもとうとしているし、あちらの世界のことも、精神病の一種ではないか? と疑いながらも笑い飛ばすことはしない。そして、何故精神病かと思うのかというと、どうやら俺が親からの虐待を受けていたものだから、バイク事故をキッカケに、架空の世界の架空の自分を生み出すことで、辛い過去の記憶から逃避しているのではないか? という疑いをもっているらしい。こういってはなんだが、とても馬鹿らしい。
「先生」
「おう?」
もう、なるようになればいいさ。どうせ俺はこの男からの追及から逃げられた試しもない。余計、勘ぐられ悪化するくらいならば、自分の口で、己の真実を告げれば言いと思った。
「あの世界は夢なんかじゃないですよ」
「……」
左右で濃度の異なる灰色の目が眼鏡ごしに目線を迷わす。どう、答えるか考えている時の反応だ。
「むしろ、俺にとってはこっちの世界のほうがよほど夢物語だ」
「……なんで、そう思うんでぇ?」
慎重に、男は言葉を選び、口にする。煙草を今は吸っていないのに、煙草に手をかけようとするかのように、指が空を動く。
「あそこは決して素晴らしい所なんかじゃありません。あちらの世界で俺は父に9歳で戦場に送られもしました。血と硝煙の匂いは今でもリアルな感触としてここにある。人も殺しました。あの世界ではマシィだって人殺しでした」
マシィも人殺しという言葉に、男の右こめかみがぴくりと動いたが、表情は動かない。
「少数民族など、ちょっとしたキッカケがあれば、殲滅の対象でした。それに比べれば、ここはまるで御伽噺の楽園のようだ」
「楽園?」
「豊富にある水、死んだはずの弟は生きていて、泣きたくなるほど平和で、食べ物もスーパーに行けばいくらでも並んでいる。飢え死にする人も難民もいない。街中でテロがおきて銃撃戦が始まることもない。俺は学校に通っていて、マシィは暗殺者なんかではなく、年頃の娘らしく明るく日々を過ごしている。ホームレスと呼ばれている人々さえ、穏やかに生き、学がある。まるで夢物語で、あまりに幸せだから、不安になる」
「……」
「俺は、この世界をリアルに感じることは決して出来ませんよ」
後は言葉はなかった。男は何も言葉をかけなかった。慰めも、同情もない。ただ、十分ほど俺と向かいあってじっと俺の顔を見たあと、一言「……また、来いよ」といって、背をむけた。それだけだった。
コニー先生が用意した俺とラヘッドの二人分の夕食を包んだ風呂敷を手にし、俺が玄関に出ると、そこにマシィがいた。悪戯げな表情を湛えて、「後ろに乗りなよ、送るから」と自分の自転車の後ろをぽんぽんと叩く仕草に、知らず、笑みがこぼれたことを自覚する。
「送り狼は普通男がするものだろう?」
「あ? 何その反応、可愛くない。折角遠いから送ってやろうという人の好意を無下にするわけー?」
言いながら、マシィも笑っている。
「ありがとう。しかし、俺を送れば、年頃の女が夜中に一人帰ることになるだろう? 感心しないな」
「何言ってんのよ。歩きじゃあるまいし。それにまだ20時前よ? 大丈夫だって。それにいざとなりゃあ、男なんて金蹴り一つでノックアウトだわ。その後ダッシュで家まで漕いで帰れば問題なーし」
「そいつは怖いな」
言いながら、俺は己の谷間を隠すような仕草をする。それにマシィがにやりと親指を立てた。
「まあ、どうしても嫌なら、歩いて帰ってもかまわないけど? ラヘッド君とあんたの夕餉が遅くなるだけだし?」
そうは言うが、顔は断られるわけがないと明快に語っている。しかし、ラヘッド君という言葉に対するニュアンスにどこか棘を感じて、俺は前々から感じていた疑問を投げかける。
「マシィ、もしかしてと思うが、お前ラヘッドのこと嫌いか?」
その俺の言葉に、マシィはちょっと気まずげにぽりぽりと頭をかいた。
「別に? 嫌いってほどじゃないわ。ちょっと甘ちゃん過ぎてイラつくだけよ」
あっさりと、直球に言葉を返す。俺は弟のことが確かに大事だが、こういうマシィの正直さが非常に気に入ってもいた。
「先生と同じ事を言うな」
「まあ、親子だし?」
血は繋がってないけどね、と唇だけが二の句を次いでいた。
「あの子は両親に愛されていない、そりゃお可哀想な子供? なのかもしれないけどね、あたし、知っての通り、同情されんのもするのも嫌いなの」
この世界のマシィと俺は幼馴染、それはイコールラヘッドとマシィも幼馴染ってことでもある。あいつのおかれてた環境もよくこの女は知っていた。
「だから、あたしから見たら、あの子はあんたに負担かけても、なんも気にしない無神経な坊やにしか見えないわ。大体自分の歳本当にわかってんのかしら? いい加減少しは大人になれば、まだ可愛げがあるのに」
「……そう言ってくれるな」
「まあ、あの子がああなのは、あんたが甘やかしすぎたせいもあるからね、耳に痛いんでしょ? でもね、半分以上あの子の自業自得よ。あんたが責任をもつことなんかじゃないのよ。大体一つしか歳離れてないくせに、面倒見切れるわけがなかったのよ」
「マシィ。じゃあ、何故俺とラヘッドを助けた?」
俺とラヘッドが今父親の手を離れて暮らせているのは、マシィがコニー先生に相談したのに端を発しているし、そのこと自体は感謝するべきことだろう。しかし、言われっぱなしは気分が悪かった。
「そんなの決まっているじゃない。ラヘッド君はともかく、あたしはあんたが気に入ってんの。好きな人を助けたいと思うのに他に理由がいる? ラヘッド君の幸せがあんたの幸せなら両方助ける、当たり前のことでしょ」
その答えに、俺の中の濁った感情がすうと消えていくのを感じた。
* * *
「じゃあな」
奇妙な夢の国に来る前、最後に俺が見たもの。それは親しんだ硝煙の匂いと、かつて俺が所属していたオルヴァン帝国の軍服に身を包んだ男たちが砂に埋もれて倒れていく姿。爆炎、火薬、決別。目の前で倒れていく敵の姿。かつての同胞。
「リクス!!」
俺を呼ぶ赤茶髪の大男。ああ、この惨事は俺が引き起こしたものだ。敵は、殺す。
うっすらと、俺はこの、普段はお茶らけた態度をとる我らがリーダーに笑いかけた。レジスタンスと名乗り、国への反逆組織「ルクターゴ」を作ったその男、ガーマ・コルクに。
その後は記憶がない。そうして俺が目覚めた時、俺はもう別の世界の白い部屋にいたのだから。
* * *
「ただいま」
鍵をかけ中に入ると、弟がぴょこんと椅子から立ち上がり、今にも尻尾を振りそうな形相で俺の元に駆け寄った。
「兄貴、遅ぇよ」
「悪かった。夕食だ。コニー先生のお手製ビーフストロガノフと、手作りパン、コーンと海草のサラダだ」
「うぇー。あの先生苦手……だけど、飯だけは美味ぇんだよな。うん、飯に罪ないからいいよな」
弟はそんなことを愚痴りながら、俺から受け取ったビーフストロガノフをレンジに移し、パンをトースターにかける。よく見ると、ちゃんと机の上に二人分の食器が用意されていた辺り、大人しく俺の帰りをまっていたようだ。椅子に腰掛けて、料理が温まるのを待つ。
「そういえば、先生が冬休みに、鍛えてやるからうちに来いと言ってたぞ」
「うえええ、勘弁してくれよ。ドニーせんせ超怖ぇんだぞ。意味わかんねえ変な言葉で罵倒してくるし、ちょっとミスっただけで、すげえどやされっし。つか、なんで兄貴があんな怖ぇ人と上手く付き合えてんのかさっぱりわかんねーよ」
「ラヘッド、口が過ぎるぞ。ここで俺とお前が暮らせるのは、あの人のお陰なんだ」
「……わかってるよ」
ぷぅーっと頬を膨らませて、そう居心地悪そうに告げた弟は、話題を変えようと思ってか、コニー先生の作ったビーフストロガノフにぱくりと食いつく。
「あ、うまっ」
言うと、弟は夢中になってぱくついた。確かに美味い。あっという間に夕食は平らげられた。俺は洗い物をするため、汚れた食器をもって、台所に立つ。すると、弟が思い出したような声音で話しかけた。
「あのさ、兄貴、明日俺当たる日なんだよな。勉強見てもらえねえ?」
「駄目だ」
俺はきっぱりと反論を与えないように断言する。
「そういうことは自分でやらなければ身にならない。それに、今日は「仕事」に取り掛からなければいけないからな。届いているんだろう?」
「あ、悪ぃ……」
ラヘッドは気まずそうに顔を伏せると、TVの横においていた小包をパソコンの横に移動させる。
「なんつうか、ごめんな、兄貴」
「いい、気にするな」
「俺、風呂わかしとくから」
「ああ、頼む」
言うと、弟はぱたぱたと足音を立てて、トイレと風呂共同の部屋に入っていく。激しい水音が聞こえる。風呂の掃除に取り掛かったのだろう。
俺は、弟が風呂をわかす間に二人分の食器を洗い、明日の分の米を研ぐ。この、米というものはこちらにきて初めて食べたが、味気がなく不思議な食べ物だ。どうも、他のおかずと一緒に口の中で混ぜ合わせて食うというのだから、奇妙なものだ。しかし、慣れるとそれなりに美味いから不思議だ。最初は何故こんなものを食べるのかわからなかったというのに。
そして、それら全てを終えると、小包の中を開ける。中から出てきたのは一つのテープレコーダー。これを聞き、文章に打ち込んで渡すこと、それが俺のこちらの世界の仕事である。そう、俗にいうテープライターというやつだ。この職業を選んだ理由は自宅でも出来るし、下手に高校生が外でバイトするよりも収入がいいことを見越して選んだものだ。ちなみに、今回の仕事の場合は小包で送られてきたが、最近はインターネットを利用して依頼が来ることも多い。
家にこもりがちな仕事だが、ありがたいことに、耳がよくて、習った記憶はなくても、体がパソコンの早打ちを覚えている身にとっては向いている仕事のようで、結構稼げている。が、仕事で聞いている音声自体は聞き取りにくいものも多いし、普段聞きなれないような言葉も多く含まれているので、周囲の人間が思うほどは簡単な仕事でないことも一つの事実だ。国語力と根気に自信がない人間にはお勧め出来ない。
今回の仕事内容は2時間の対談物のようだ。値段は3万。俺ならまあ、6時間ほどあればある程度出来るだろう。何? いつ寝るかだと? 俺は元々睡眠が短い人間だからな。基本的に1時間半も寝れたら上等だ。3時半就寝、5時起床。これで問題はない。何? だから背が低いのだと? ……多分、それほど関係はないと思うぞ。ちなみに宿題は、仕事がないときは夜、仕事があるときは朝やっている。
「兄貴、風呂入ったから、先に入れよ」
「ああ……なんだ?」
弟はじっと俺を見ている。分厚めの唇がへにゃりと歪み、母譲りの若葉色の瞳が影を落としている。
「なあ、やっぱりさ、俺も働くよ。俺、馬鹿だけど、体力だけはあるし。土木作業とかイケっだろ」
「駄目だ」
俺はきっぱりと断る。弟がむずがるような顔をしている、しかし、俺は弟の言葉を受け入れるつもりなど欠片もないのだから、それを言い聞かせるしかない。
「俺がやっている分で十分だ。余計な気をきかせるんじゃない。それに、お前は、こういうのもなんだが、お世辞にも成績がいいわけではないだろう。赤点ぎりぎりじゃないか。その上でバイトなどしようというのなら更に成績が落ちるに決まっている。保護者としてそんなことは認められないな」
「う……確かに俺勉強駄目だけどよ、でも、保護者って兄貴俺と一つしか変わらないじゃんか」
「それでも、お前の兄であることに違いはない」
「そうだよ! でもさ、俺、もう兄貴より随分でかくなったんだぜ!? 背も体重もだ!」
「でも、他で俺に勝ったことはないだろう」
「そーだけど、そーだけど! もう、子供扱いするなって言ってんだよ!」
そう言うラヘッドは地団駄を踏む、まるっきり子供だ。
「ラヘッド」
「俺だってさ、俺だって、そりゃ兄貴みたいに頭良かねえけど、運動得意つっても、いまだに兄貴に勝ったことねえけど、でもさ、俺だってもう、守られているだけの子供とかごめんなんだよ!」
そう言う弟の言葉には葛藤が見えた。そう、幼く見えてもこの弟はもう16。思春期まっさかりだ。何か思うところもあるのだろう。しかし。
「ラヘッド」
すうと、言葉に冷気をこめて口に出せば、弟の肩がびくりと跳ね上がるのが見えた。
「お前は、他人を助けられるほど、自分に力があると思っているのか?」
「……兄貴?」
「お前の今の身分は何だ?」
「…………何って」
「学生だろう?学生の本分は何だ?」
「……勉強」
「そうだ。自分の本分を疎かにしている人間が、他のことも出来ると思うな。世の中はそれほど甘くはない」
「……でも、だって」
「言い逃れるな。お前にほかの事にかまけている余裕などないはずだ」
弟は押し黙った。ふっと、俺は表情をゆるめる。
「俺を心配してくれたのはわかっている。それは嬉しい。しかし、お前はお前の出来ることをやりなさい。余計な首をつっこむんじゃない」
「余計って……」
「明日、先生にあてられるからと俺に勉強を請うたのは誰だ? つまり、そんな暇があるなら勉強しなさい。それに、バイトなどしていたら、お前の好きな部活に通う暇などなくなるぞ?」
「うん…………そうだよな。悪い、兄貴。困らせちまったな」
弟は空元気に俺、勉強してくるからと告げると、さっと奥の部屋へとむかった。一瞬ちらりと見た表情は今にも泣き出しそうで、少しだけ罪悪感に苛まされる。しかし、線引きはするべきだ。俺は頭を少し振ると、ドアの近くのハンガーにかけていたパジャマと、代えの下着とタオルを一枚持ち、風呂にむかう。
少し、陰鬱な気分だった。
しかし、小さな浴槽に半分ほど入った湯に浸かればそんな気分もしばし、癒される。
こんなに大量の湯を使うなんて、なんとも贅沢なものだと思うのは、俺のいた国が砂漠の国だったせいかもしれない。この世界では水は潤沢らしい、とはわかっていても、つい、向こうの基準で考えてしまう。
とにかくも、10分ほどで入浴をすますと、俺はラヘッドに風呂が空いたことを告げ、洗濯機のスイッチを押し、余洗いの準備を整える。……服の洗濯がこんな機械のスイッチをおして、洗剤を入れるだけで出来るなんて、本当に便利な世界だな……とかも毎度考えずにはいられないのだが。
そして、パソコンのスイッチを押す。洗濯機をまわすのは、最後に風呂から上がった人間の仕事ということになっているので、後は俺は関与しない。
とにかくも、仕事をやろうと、テープレコーダーをつけ、あとはそれに集中した。
次に気付いた時には、夜の1時を時計が示していた。ずっと座りっぱなしでいたからか、体が硬直している。肩をまわせば、ぽきぽきとあからさまな音がなった。ついでなので、10分ほど休息することにする。
静かにドアを開け、二段ベットの一段目に眠りにつく弟の下に向かう。弟は、むずがゆいような顔をして寝ていた。思わず、苦笑がもれる。ラヘッドは変わらない。
ぴんぴんとはねた剛直な髪、愛嬌のある瞳は今は伏せられている。大き目の鼻に、分厚い唇。まるで子供の頃のままだ。いや、今もまだ子供といえば子供だな。身長はとうに俺をぬいたくせに、どうにもあどけない。この顔を見ていると、疲れさえ癒される。俺はふと、気付いたら唇をあけ、そして、いつかの小さな頃のように、小声で、唄を口ずさんでいた。
一人は嫌だと、ずっと兄ちゃん一緒にいてと、泣いて愚図った弟にいつも歌った歌。……顔も滅多にあわせたことのない、母の民族歌。意味もわからず、ただ覚えたその歌を。
「……~♪」
気付けば弟は目を開けていた。
「起こしたか、悪い」
「兄貴アンタさ、やっぱ唄上手いよな」
そう独り言のようにつぶやく弟。いつもと雰囲気が違う。どちらかというと、それはあっちのラヘッドの死ぬ少し前から俺に見せていた態度に似ていた。寝ぼけているのか?
「綺麗なバリトンだ。プロでもアンタほど綺麗な歌声持つ奴はそういねえだろうよ」
「……探せばいるだろう」
「少なくとも俺は知らねえ」
すっと、弟は俺の顔に手をのばす。俺の顔を確かめるかのように、ラヘッドの無骨な手が俺の顔の輪郭をなぞる。
「綺麗な顔だよな。目鼻口の配置は完璧っつうか、気になんのは左頬の二本傷くらいのもんで、髪だって俺ほど硬くねえし、やっぱ、俺とは似てねえか」
「昼の、ヴァインに言われた言葉を気にしているのか?」
「肌は黒くて、髪もまじりっけない黒、瞳は灰色。俺の髪は茶色くて、瞳は緑。肌もなんか全然違うし、おまけに背丈は20cm以上差があるし、共通点見つけるほうが難しいよな。俺、兄貴と違って顔もよくねえしさ」
「顔なんてどうだっていい。お前ほど、優しくて真っ直ぐな子はそうはいない」
「アンタほど、頭の良い馬鹿もそうはいねえよ」
「……馬鹿か、俺は?」
ひやりと、冷たいナイフを背中に押し当てられたような気分だ。
「大馬鹿野郎だよ。そんだけ歌上手けりゃ歌手でもなんでもなって食っていける。勉強も出来りゃあ並大抵じゃない知識もある。道なんていくらでもあるんだ。なのに、俺なんかを気にかけてる。俺が兄貴の邪魔してる」
「ラヘッド、自分のことをそんな風に言うんじゃない!」
「そうだよ! 気付けよ! わかってんだろ!? あんたは大馬鹿野朗だ。ここが……で……が」
ぐにゃりと、奇妙に後半の弟の声が歪んで、聞こえなかった。いや、聞こえたが、それは音の体をなしてなかった。
「アンタは、俺のことなんか構ってんじゃねえよ。アンタは……」
必死な形相にぞくりとする。まるで、あの弟が死んだあの時のように。
耳鳴りが聞こえた。誰かの声が俺を呼んでいる気がするのに、誰の声なのか思い出せない。それは何度も聞いた声なのに。
「ラヘッド、お前は何を言ってる」
「わかってんのに、堕ちてんじゃねえよ! クソ兄貴! 俺は~……だろうが!」
音がまた聞こえる。耳鳴りが煩くて、弟の声が聞き取れない。
「俺は……でる!」
言葉が耳に入らない。しかし、その弟がつむいだ口の形は、聞こえなくても俺にはなんて言ったのかわかった。『俺はとっくの昔に死んでる!』理解したと同時に、ひゅっと視界がシャットアウトされる、暗闇が襲う。「あんたは生きろ」声にならない声でよく似た二つの声が脳内に響いた。
耳鳴りが大きくなる。それが、声に成り代わった。
『起きろ!!!』
* * *
目を開いて最初に届いたのは、目も眩む太陽の光。あの世界みたいに優しいものではなく、砂漠特有の残酷で容赦なき煌き。
次いで目に入ったのは、俺に『起きろ!!!』と呼びかけたあの声の持ち主、赤茶髪の大男。そう、レジスタンス組織ルクターゴのリーダー・ガーマ・コルク。通称、暁のガナク。その、普段は穏やかで大きな猫のような顔をした男が、きゅっと眉根を寄せ、険しい顔で俺を見ていた。
がっと、大きな男の手が俺の首元を捕まえ、低く、呪詛さえ吐きそうな声を押し出す。
「お前、死にたいのか」
なんのことを言われているのか一瞬わからず、目を丸くする。その俺の反応に更に苛立ったように男は言葉を羅列した。
「何故、自分を囮にした」
嗚呼、思い出した。この記憶がブラックアウトされる前のこと。そうだ、俺は、こちらの作戦が軍に読まれていることに気付いて、一か八か俺を囮にすることで他のルクターゴの仲間を逃がしたのだった。
「てめえでなんとかなるって思ったのか!? ああ? 死んだらどうする気だった」
怒りが、見えた。だが、俺は何も気付いていないかのように、しばらく喋ってないのだろう、喉がざらざらしてはりつく、を、開けて言葉を押し出す。声は半分枯れていた。
「現になっただろう」
敵は殲滅、俺は生きている。他の仲間も逃がした。
「結果論をぬかすな。死にたがりが」
死にたがり……。
「そんなに、死にたいなら、俺が殺してやろうか?」
怒りが、男の赤茶色の目を走る。凄みのある声は、男が本気であるように思えた。ぽろりと言葉がこぼれる。
「そう、すればいいと言ったら?」
バキッ。そんな音を立てて、俺の右頬は思い切り男の拳を受けた。体がふらつき、俺は見っとも無く転がる。抵抗する気なんてなれなかった。
「リクス、起きたの?」
そう言って、次いでやってきたのが誰かは、見なくてもわかる。オレンジの髪の俺より一見若い、あちらの世界では幼馴染だった少女。実際はまだ知り合って半年強しか経っていない。
「あんた、三日も寝てたのよ? ガナクなんか、すっごい心配してたんだから。って、何よ、その頬? あんた、もしかしてガナクに余計なこと言った?」
「……だからか」
「え?」
ぽつりと言った俺の言葉を、目の前の女、マリッセント・ウォニーはちゃんとひろっていたらしい。疑問で返してくる。
「おかしな、夢を見ていた」
「ふーん?」
「砂糖菓子のように甘く、楽園のような世界の夢だ」
「夢は夢でしかないわ」
あっさりと両断する。
「楽園がほしいなら、自分で努力するしかないわよ」
「わかっている」
そう、わかっている。あれは、結局ありもしない世界の話だった。
「なら、いいけど。行きましょ、リクス」
「ああ」
血に汚れてきたその手をとる。綺麗ごとは言わない。それでも、これを最後の戦場にするため、俺は立ち上がった。敵は、俺の父。しかし、そのことはルクターゴの誰にも言っていない事実。俺らが倒そうとしている人間が、俺の実の父親であること。それを言ったとき果たしてどうなるのか。それはこれからの話。
ふと、思い出す、長い夢を見た。あの世界の触感を。
「リクス? 置いて行くわよ」
「今行く」
異なる世界の空の下、もう出会うことのない世界に邂逅する。
空はどこまでも青かった。
END
どうもここまで読んでくださり、ありがとうございます。作者のEKAWARIです。
どうでしたでしょうか? 少しでも面白いと思っていただけたのなら幸いです。
前書きにも書いてますが、元は長編で考えたキャラと話なので、ネタだけは山ほどあります。というわけで、以下「最後の戦場」シリーズのおまけ漫画集。
1、ドニー医者とマシィが出会ったときの過去回想漫画(本編開始年代より19年前&2年前)
2、キーズテディ姐さんとガナク漫画
注:暗殺者なマシィの仕事=変装して娼婦の真似事をしてターゲットに近づき、情報を聞き出したあと殺すこと。
3、ハースシシィの誕生日漫画
注:ちなみに便宜上『ケーキ』になっているだけで、厳密には日本で売られているようなケーキとは違うもの。
4、幼少期のドニー医師は腹黒い。
ちなみにドニーせんせが白髪なのは7歳の時に、オルヴァン帝国近代史にまで載ることとなる凶悪犯罪事件の被害者になった時に、その余りの恐怖とストレスのせいで白くなっただけで、生まれつきではない。ちなみにドニーせんせ以外の被害者は全員死んでる。
5、髪おろしドニー医師マジ性別不詳
こんな顔して42歳。髪伸ばしているのは、大学時代の友人(変人カツラコレクター。美しい髪の人間を見ると男女問わず(カツラ手に入れるために)口説く悪癖のせいで奥さんに逃げられた哀しき中年(?))にいざという時に高値で売るためだ。
以上。
最後、主人公のリクセルのプロフィールを乗せて締めにさせていただきます。
リクセル・フォーマット(愛称:リクス)
年齢:17歳 性別:男。
身長:152cm 体重:50kg
神歴1852年9月5日生まれ。
人種:2分の1オルヴァン人、4分の1ラキアナスの民、8分の1ラドスティア人、16分の1ワヒカ人、16分の1ディアラ民族。
髪色:漆黒 瞳の色:ダークグレー 肌の色:濃い褐色
備考:父に虐待されて育つ。弟を守ることを生きがいにしている節がある。母親の愛情を知らず育ったのとアリエンの影響があって、無自覚に男贔屓の女性不信。子供であっては生きていけなかったために精神的に成熟するのが早すぎたため、子ども扱いされると困る。背が低いのは成長期が来る前に過度のトレーニングを施したことから起きた弊害なのでバリマッチョ。何気に唄がプロ顔向けに上手かったりする。