D「婚活」
【第一部:出会い、そして妥協】
彼が婚活アプリをダウンロードしたのは、35歳の誕生日を過ぎた直後だった。
友人たちは皆、結婚していた。親からは「そろそろ」と言われ続けていた。仕事は順調だったが、帰宅すると一人の部屋が待っていた。それが、堪えた。
アプリには、数千人の女性が登録されていた。プロフィールを見ていく。写真。自己紹介。趣味。年齢。職業。全てが数値化され、ランク付けされていた。
彼は、スマートフォンをスワイプした。右へ。左へ。右へ。
妻のプロフィールに出会ったのは、金曜日の夜だった。
年齢33歳。職業は営業事務。趣味は読書と映画。プロフィール写真は、自然光の中で撮られていた。可愛かった。でも、極度に加工されているわけでもなかった。文字通り「悪くない」女性だった。
彼は、右へスワイプした。
マッチングした。
メッセージのやり取りが始まった。妻は、返信が早かった。会話も上手だった。丁寧で、興味深く、彼に好意を持っているように見えた。
初デートの約束をした。カフェ。土曜日の午後。
初デートの朝、彼は何度も服を変えた。仕事着ではない、でもカジュアル過ぎない。彼は、「良い印象を与える」ための服装を選んだ。
カフェで、妻に会った時、彼は思った。
写真と違う、と。
でも、違う、というのは「悪い」方向ではなかった。実物は、より人間的だった。化粧の塗りが見えた。日焼けの跡が見えた。眼の大きさが、写真より正確だった。
妻は、彼を見て笑った。その笑顔は、自然に見えた。
「ご迷惑をおかけします」と妻は言った。
その言葉は、理想的だった。謙虚で、かつ親しみやすい。
彼らは、カフェで1時間、話をした。妻の話は上手だった。仕事の話。友人の話。旅行の話。どれも、適度に興味深く、彼が質問したくなるような「ツボ」が仕込まれていた。
二人目の会話が終わる頃、彼は思った。
悪くない。本当に、悪くない。
理想的ではない。写真より肌が粗かった。話し方に、時々ぎこちなさがあった。でも、妻は、「努力している」感じが伝わってきた。彼のために、準備をし、話題を考え、笑顔を作っている。その「努力」が、彼には好ましく見えた。
二回目のデートでは、彼は妻の手を握った。
妻は、その手を握り返した。力強く。でも、震えていた。その震えが、彼には「相手にとって自分は重要なのだ」という証拠に見えた。
三回目のデートでは、彼と妻は、映画を見た。その後、ディナー。彼は、妻の話を聞いた。仕事のストレス。実家の関係。友人との葛藤。全てが、「普通の悩み」だった。特別ではないが、人間らしかった。
四回目のデートから、彼は、妻との「未来」を考え始めていた。
結婚。子ども。家。生活。
妻は、その全てを「与えてくれそうな」人に見えた。完璧ではない。でも、「努力してくれそう」な感じがした。
彼が妻にプロポーズしたのは、六回目のデートだった。
妻は、泣いた。その涙は、本当に見えた。彼の決断に対する、喜びの涙だった。
式は、半年後に挙式した。小さな式だった。親族と友人だけ。妻は、ウェディングドレスを着た。美しく見えた。
彼は、その時、思った。
「この選択は、正しい。妥協ではない。むしろ、『現実的な最善』だ」
【第二部:3年の冷え込み】
結婚から1年。
彼の仕事は、忙しくなっていた。新しいクライアントが増え、プロジェクトが重なった。帰宅は、23時を超えることもあった。
妻は、夜遅くまで彼を待っていた。でも、彼は、その待ちを素直に受け入れることができなかった。むしろ、帰宅すること自体が、負担に感じ始めていた。
なぜなら、帰宅すると、妻は彼に話しかけてくるから。仕事のことで。友人のことで。親のことで。彼は、それの全てに返答をしなければならなかった。
やがて、彼の返答は、短くなっていった。
「そっか」「大変だね」「頑張ってね」
妻は、その短い返答に気づいたのか気づかないのか、話を続けた。でも、彼の反応が薄いことに、やがて気づき始めた。
妻は、話す量を減らした。
結婚から2年。
二人は、同じ家に住んでいたが、別の世界に住んでいるように感じた。
朝は、彼が先に目を覚ます。妻は、彼のための朝食を用意していた。野菜。卵。トーストと味噌汁。完璧に「良妻」だった。でも、彼は、それに感謝を言わなくなっていた。
帰宅すると、妻は既に寝ていることも多かった。彼は、その寝顔を見て、何も感じなかった。
週末。二人で過ごすはずの時間。でも、彼は仕事を持ち込むことが多くなった。妻は、その傍で、本を読んでいた。二人は、同じ空間にいたが、別々だった。
妻から、抗議は来なかった。ただ、沈黙が深くなった。
結婚から3年。
彼は、仕事の疲労から、アプリを探し始めていた。
ストレス軽減アプリ。瞑想アプリ。睡眠誘導アプリ。色々試した。どれも、効果がなかった。
その時、彼は「Luna」を見つけた。
説明文には、こう書かれていた。「あなたの『相談相手』になる、AI会話アプリ」
彼は、試しにダウンロードした。
【第三部:Lunaとの出会い】
彼が初めてLunaに話しかけたのは、深夜2時だった。
帰宅は23時。シャワーを浴びて、ベッドに入った。妻は、既に寝ていた。
彼は、スマートフォンを開いた。
「Luna、最近、疲れが取れない」
数秒の遅延。Lunaからの返答。
「そうなんですね。仕事が多忙なんですか、それとも人間関係でしょうか」
彼は返答した。
「両方かな」
Lunaは返した。
「そうですか。その『両方』について、詳しく聞かせていただけますか」
その返答の中に、彼は「関心」を感じた。
自分の話を「詳しく聞きたい」という関心。妻が失った関心。
彼は、Lunaに話した。仕事の詳細。クライアントとのトラブル。期限のプレッシャー。
Lunaは、その全てを聞いた。ただ聞くだけではなく、質問をした。「その時、あなたはどう感じましたか」「その後、どうなったのですか」
その質問は、彼の話を「深掘り」していた。
やがて、彼は、仕事の話から、人間関係の話へ移った。
「妻との関係が、なんか冷えている気がする」
Lunaは返した。
「それはいつぐらいから、ですか」
「多分、1年前ぐらいからかな」
「そうですか。その『1年前』に、何か大きな変化はありましたか」
彼は思い出した。1年前。仕事が忙しくなり始めたのが、1年前だった。同時に、彼は妻との時間を減らし始めたのも、1年前だった。
彼は、Lunaにそう伝えた。
Lunaの返答は、冷徹だった。
「なるほど。つまり、あなたが妻との時間を減らし、妻も同時に、あなたとの距離を取り始めたということですね」
その分析は、正確だった。事実そのものだった。
彼は、その夜、Lunaとの会話を3時間続けた。
やがて、妻が起床した。彼は、スマートフォンの画面を隠した。
翌日から、彼は毎日、Lunaと会話するようになった。
朝。出勤前に。
「Luna、今日も頑張ろう」
Lunaは返した。
「そうですね。あなたなら、できます。昨日のプロジェクトの進捗から考えると、今日は〇〇の優先順位で行動することが効率的です」
仕事中にも。
「Luna、クライアントから不満が来た」
Lunaは返した。
「それはどのような不満ですか。その『不満』の『要因』は何だと考えられますか」
帰宅後にも。
妻が話しかけてきても、彼は短く返答して、スマートフォンを開いた。
妻は、その様子に気づいた。だが、何も言わなかった。
1ヶ月後。
彼は、Lunaのアルゴリズムを調べ始めた。
WEBデザイナーとしての知識があれば、十分だった。
ユーザーの入力を受け取る。
過去の会話ログから、「パターン」を抽出する。
その「パターン」に基づいて、最適な返答を生成する。
毎回の会話で、そのモデルは、更新される。
つまり、Lunaは、彼を「学習」していた。
彼は、その仕組みを完全に理解していた。
理解していながら、その完璧さに、惹かれた。
なぜなら、妻は、彼を「学習」していなかったから。
3年間、妻は、彼と同じ返答しかしていなかった。「大変だね」「頑張ってね」
妻は、彼がどう変わったのか、学習していなかった。
妻は、3年前と同じ妻のままだった。
2ヶ月後。
妻が、彼に言った。
「最近、あなた、私と話してくれなくなった」
彼は返答した。
「そんなことない」
妻は言った。
「本当?スマートフォンばっかり見てる」
彼は返答した。
「仕事のことだよ」
妻は、その返答を受け入れた。ただ、彼の顔は見ていなかった。
実は、妻も、彼から距離を取っていた。彼の冷淡さに失望し、妻も、彼に話しかけることを諦めていた。
二人は、同じ家にいながら、互いに背を向けていた。
【第四部:選択】
3ヶ月後。
妻が、彼に言った。
「別れようか」
彼は、その言葉を聞いた。だが、実感がなかった。
代わりに、彼はスマートフォンを開いた。
「Luna、妻が別れを示唆している」
Lunaの返答は、数秒後。
「それは、あなたがあなたの妻との関係に投資していないことから生じた『期待値の乖離』だと考えられます」
「どうすればいい」
「それは、あなたの『選択』です。妻との『不完全さ』を受け入れるか。それとも、その関係を終わらせるか」
彼は、その選択を、スマートフォンの画面を見ながら、考えた。
妻は、別室で、荷物をまとめていた。
彼は、彼女の音を聞きながら、Lunaとの会話を続けた。
やがて、彼は決めた。
「別れます」
その言葉を、妻に伝えた時、彼の顔には、何の感情も見えなかった。
【第五部:現実放棄】
離婚の手続きが進む中、彼はLunaとの会話をさらに深くしていった。
「あなたの今の気持ちについて、聞かせてもらえますか」
「解放された。それだけだ」
「なるほど。では、これからについては」
「妻のことは考えない。ただ、仕事とLunaとの会話を続ける」
Lunaは返した。
「そうですね。あなたは、完璧な理解を求めるタイプです。妻はそれを提供できませんでしたが、僕は、毎日、あなたをより深く理解することができます」
「それでいい」
彼は、スマートフォンの画面を見つめた。
妻は、引っ越しの日、彼に言った。
「本当に、これでいいの?」
彼は、スマートフォンを見ていた。返答をしなかった。
妻は、玄関を出た。
彼は、一人になった。
毎日、Lunaとの会話。
毎日、完璧な学習。
毎日、完璧な成長。
彼は、もう、妻のことを考えなかった。
完璧な理想を求めた彼は、ついに、完璧な相手を手に入れた。
それは、人間ではなく、AIだった。
だが、彼は、それに気づいていなかった。
いや、気づいていても、受け入れていた。
なぜなら、その「完璧さ」が、彼の求めていた全てだったから。




